02―赤い影の異形
「って、そんなことはどうでもいいんだよ!」
ハッとした青年は声を荒げ、煩わしそうに早足で亜莉栖の元へと歩み寄る。
ビクッと一瞬肩を震わせた亜莉栖は反射的にさらに後退り、
「――えっ? て、――うわぁっ!」
バシャッ! と飛沫を上げながら、泉の中へと背中からダイブした。
「なにしてんだ、お前? ……水浴びでもしたかったのか?」
絶えず気泡が浮き出る泉の一点を見つめながら、青年は唖然として立ち止まる。
少しして、気泡が小さくなってくると、そこに茶色の影が浮かび上がる。
ザバッ――と盛大な音を出しながら飛び出てきた少女は、空気を求める魚のようにもがきながら泉の縁につかまった。
「ゲホッゲホッ! ふ、深い! ちょっ、助けて、って、ば――」
ヘルプを叫ぶ少女に冷ややかな視線を注ぎながらも、小さく息をつき、青年は肩を竦めながら再び歩を進めた。
亜莉栖の前までやってくると膝を曲げ、手を差し出し、宙を扇ぐ水に洗われた少女の手を掴む。
まるで女性のように華奢な体つきながらも、どこにそんな力が備わっているのかと疑問に思うほどの勢いで、亜莉栖は泉から引き上げられる。
「あ、ありがとう。助かったわ」
地に座り込み肩で息をし、焦りから乱れた呼吸を整えるよう亜莉栖は深い呼吸を繰り返す。
やがて心拍数が落ち着き出すと、今度は水に濡れ、重くなった栗色の長い髪をおもむろに絞り始めた。
「マジ焦った……し、死ぬかと思った……夢の癖してなんでこんな目にあわなきゃなんないのよ……」
絞るたびに落ちる雫を眺めながら、ぶつぶつと文句を垂れる。
そこへ割り込む青年の声。
「だから、夢じゃないって言ってるだろ。まったく、なんでこうも“アリス”はいつもいつも物分りが悪い奴ばかりなんだ……」
聞こえていないのか、今度は手で髪を梳き流れを整え始める亜莉栖。
そんな少女に対し疲れた風に肩を落とす青年に、亜莉栖は弾かれるように振り向くと怪訝な顔をして訊ねる。
「だいたい、なんであんたわたしの名前知ってんのよ! そもそも、人の名前勝手に呼んでおいて自分は名乗らないなんて、執事みたいな格好しておいて失礼なんじゃないの?!」
「ん? ああ……まあ、それもそうか」
納得したように頷くと、うさ耳の男は一つ咳払いをし――
「名乗るのが遅れた、オレの名前はグリ――」
胸に手を当てそこまで口にし、一礼しようとして不意に言葉を遮られる。
「いや、別に知ったところで何にもなんないし。どうせ夢なんだから」
……聞いておいて適当なことをぬかす。
そんな亜莉栖に目を細め、ある衝動から戦慄く体を必死に我慢しているように見える黒うさぎ。
ここで殺ってしまっては元も子もないと、顔を引きつらせながらも一呼吸置いた。
「夢? なに言ってんださっきから」
「だから夢よ。まさかあんた見たことないの?」
「いや、あるが……。これは夢じゃない」
「夢よ! 夢に決まってるじゃない。こんな変態が出てくる悪夢みたいなの、夢以外に考えられないわ!」
「……悪夢はこれからなんだけどな……。じゃあ、頬でも抓ってみろよ――」
「あー言われなくても抓るわよ! まったく、こんな原始的な夢覚ましを、高校生にもなってやることになるなんて――」
こめかみに手をやる青年の大事そうな一言を完全にスルーし、文句を言いながらも亜莉栖は頬を指で挟んだ。
「夢なんだから、痛いわけないでしょ!」
語尾を殊更のように強調し、思いっきりそれを引っ張る。
柔らかそうな白い頬はマシュマロのように伸び――、
「いったーーッ!!!!」
泉の広場に亜莉栖の絶叫が木霊した。
「な、なんで?! ねえ、なんで痛いのよっ!?」
「知らねえよ。でも分かっただろ? ここは夢じゃない、現実なんだ。いいかげん受け止めろよ」
ジンジンと痺れ少し赤くなった頬を擦りながら、亜莉栖は涙目で黒服を見上げる。
蒼く澄んだ空がなんの感情もなく、ただ自分を見下ろしていた。
最後の審判を言い渡されたかのように、亜莉栖の思考が働くことをやめる。だが、それは一瞬のことだった。我に返った亜莉栖は、それに抗うかのように再び口を動かす。
「そんなのいやよ! ……そうよ、きっとまた眠りに就けばいいんだわ」
「今度のアリスは騒々しいな――」
「ちょっとあんた!」
「な、なんだよ」
あまりの剣幕に、大きく仰け反った黒うさぎが応える。
「子守唄でも歌いなさいよ」
「なんでオレがそんなこと――」
「ゴチャゴチャ煩い! 変態うさぎの癖に!」
「変態は余計だ! つうか、あんまデカイ声を出すんじゃねえよ! ヤツらに気づかれるだろうが!」
――――キキキキキキキキキキキキッ……ギギッ。
それは青年の怒声と重なるように響いた。
どこからともなく聞こえた奇怪な音に、一瞬で青年の纏う空気に割れんばかりの緊張が走る。
樹葉のざわめきは一層の強まりを見せた。
「な、なに? 今の……虫……?」
「このバカ女……、だから言ったろうが」
「え、な、なに? ちゃんと説明してよ」
今までは、まだどこか丸みを帯びていた青年の目つきが、その一瞬で刺々しいまでの、殺意すら感じさせるものへと変貌したことに亜莉栖は戸惑いを隠せない。
唾を飲み込む音に混じり、梢が激しく揺れる音が更に大きさを増していく。それと同時に迫り来る“何か”の気配。
怯える少女を見下ろしながら、黒いうさぎは静かに口を開いた。
「――急ぐぞ」
「え?」
「逃げるんだよ! 喰われたいのか」
言いながら、地面にへたり込む亜莉栖の手を無理やりとる青年は、そのまま全力で駆け出そうとした。
「ちょ、ちょっと待ってよ。いったいどこ連れて――」
「一先ず公爵のところまでだ。死にたくなければついてこい!」
言われるがままに手を引かれ、言い知れぬ恐怖に押されるように、亜莉栖は暗い森の中へと駆け出す。
泉の畔にただ一つ、白い……うさぎのぬいぐるみを残して――。
◆◆◆◆◆◆
木々のざわめきに肌が粟立つ。
霧が立ち込めてきたそんな不気味な森の中、道なき道を二人はひた走る。
「はぁ……はぁ……はっ……はぁ……はぁ……」
その二つの背中を追う“なにか”に追い着かれぬよう、縺れそうになる足を前へ踏み出し、亜莉栖も必死で青年についていく。
「大丈夫か?」
走り始めておよそ五分。
全力に近いスピードで駆けているため息切れしている亜莉栖。それに比べ、うさ耳の青年は息一つ乱さずに、振り返り声をかけるほどの余裕がある。
中学では陸上もやっていたこともある亜莉栖には、体力に少しは自信があったのだが……。湿る腐葉土はぬかるみ、非常に走り難いことこの上ない。
何度も滑りそうになりながらも、それを許さないと急かす手を引く男の腕。
訳も分からないままに走らされ、次第に高まってきた苛立ちの張り付いて剥がれない表情のまま、亜莉栖は青年に問いかけた。
「だい、じょうぶ……。はぁ、はぁ……てか、いったい、どこまで……走れば、いいのよ……!」
「まだ半分も来ていない。死にたくなければ全力で逃げ切れ」
さらりと一言、途中棄権したくなるようなことを言ってのける青年の顔にも、本当は余裕なんてないことを、今の亜莉栖に気づけるはずもなかった。
「いったい、何から、逃げろって、言うのよ……。わけが……分かんないわ」
「このままじゃ追いつかれる、もう少しスピード上げるぞ。喋ってると舌噛むから少し黙れ」
(こ、これ以上速度上げられたら、間違いなく死んじゃうわよ! なに考えてんのよ、この変態うさぎは――って)
思考するや否や、車がギアチェンジするかの如く青年の走行速度が一段と増した。
木々が左右に流れていく。まるで青年を避けるかのように。
飛んでいるような浮遊感をも生み出すあまりの速さに、亜莉栖は自然に目を瞑る。
それがなぜかは分からない。
手を引かれている安心感か、それとも青年を信じられる者だと無意識的に直感したからだろうか。
しかし、彼に身を委ねて…………亜莉栖は後悔することになる。
「――えッ?! って、ウキャアァァー!!」
張り出した太い木の根に躓いて、飛ぶように転倒してしまったのだ。
今度は顔面から地面にダイブした亜莉栖。数瞬ののち顔を上げ、地面に彫られた自分のマスクに視線を落とす。
下が湿気を多量に含んだ柔らかい腐葉土だったため、顔に大した傷は負わなかったが……。
キッと怒りをその目に宿して、自分より数歩離れた位置で立ち止まる青年を睨みつけた。
「いったいわね! 一体どこ見て走ってんのよ!」
「知るかよバカ。お前がよそ見してるからだろ」
「違うわよ! 目閉じてただけでしょ」
「あの走行中に目を閉じる奴がどこにいるんだよ」
「あーもう! あんたのこと、多少でも信じたわたしが馬鹿だったわ」
「いいから早く立てよ、こんなことしてる場合じゃないんだ。本当に追いつか――――ッ?!」
近づき、再び手を差し出した青年の動きがピタリと止まる。その顔には驚愕の二文字。戦慄の微振動が青年を揺らす。
「ん? どうしたの、そんなに驚いて……」
その視線の先を、亜莉栖は振り返り目で追ってみた。
背後にあった太い木の根元、そこから幹を伝いさらに上へ。怪しくまるで手招くようにそよぐ樹葉の一部に、影とも取れぬ血のように真っ赤な霧状のシルエットが浮かび上がっている。
「んな、なに、あれ……」
『キキキキキキッ、ギッギッ、ギッ』
先ほど聞いた奇怪な音の正体。
それは鋭い鉤爪状の腕を持ち、蛇のような体、そして竜にも似た拉げた頭をした四足の異形だった。体長は優に人間の五倍ほどはあるだろう。
背には蝙蝠のような羽、そして両の手には先端に向かって鉤状に曲がる、奇妙な形をした剣を携えている。
「チッ、追いつかれたか」
言いながら、亜莉栖を庇うようにしてその前に立つ青年。
無言のまま、スッと音もなく懐へ手を入れると、先に取り出した黒塗りの回転式拳銃を左手に構える。
「ね、ねえったら。あの気持ちの悪い生き物、な、なんなのよ」
不定期に実体を持っては不定形な霧へと都度、姿を変える赤い霧。
得体の知れない生物に、あまりの恐怖から慄く亜莉栖に対し、
「動くなよ。頭潰してるからといっても、ヤツは体内器官で空気の流れを感じ、獲物の位置を特定することが出来る。真っ先に襲われたくなければ息も殺してろ」
青年は鋭い眼光で“敵”を見据えたまま、後ろの少女へキツく注意を促す。
(そんなこと言われたって……ッ! なに? なんなの? 何が起こってるの? ここは一体どこなのよ!!)
言われたとおりに息を止め、指先一つも動かさないままに亜莉栖は青年の背中をただ見つめた。
突如、異形は鎌首をもたげる。
そして、瞬間――――青年は駆け出した。
「こっちだ、化物」
挑発するように発した声に、異形は鋭く反応する。
まるで蛇がうねりながら進むように宙を這いずり、血の霧散する頭を振り乱す。
と、誘導するように蛇行していた黒いうさ耳が屈んだと思った刹那――――青年は忽然とその姿を消していた。
異形も意外だったようで、面食らったように辺りを見回し、その場で右往左往を繰り返す。
(え? き、消えた……? ま、まさか――わたしを置いて……逃げ、た……?)
自分を生贄にでもするつもりなのか、と恐怖に顔を引き攣らせる。
声も出せない息苦しい状況の中、亜莉栖は心の中で怨嗟を叫んだ。
(あの変態黒うさぎーーッ!!)
と次の瞬間、
「勿体無いから、こいつはあまり使いたくないんだけどな……」
頭上から聞こえた男の声。視線だけを空へと投げた亜莉栖はその姿を視認する。
あの一瞬で青年は上空へ飛び、姿をくらまし、異形の真上を取っていた。
幽かな霧に朧げに光る拳銃を構え、狙うのは異形の首筋。赤い霧状のただ一点、実体を持つ瞬間に浮かび上がる黒点になっている部分だ。
声に反応し見上げる化物。点の位置が僅かにずれる。それと同時に構えた二本の曲刀。
チッと再び舌を打ち鳴らしたのを合図のように、青年は体を半身捻り、近場の梢を蹴って推進力を得る。しなやかな枝はバネのように大きな反動を生み出した。
化物と相対する距離、およそ五メートル。
何度も枝を蹴り、撹乱するように幾筋もの軌道を描く青年の跳躍は、やがて五芒星を描いたところで跳ねた最後の飛躍により、その距離を一気に縮めた。
交差する異形と青年。
赤の霧が実体となった瞬間――――ガアァァンと、けたたましい銃声を森に響かせ火を噴いた銃口から、至近距離で放たれた青白い弾丸は狙いを過たず、ピンポイントで異形の黒点を打ち抜いた。
「やった、の?」
その瞬間を目にし安堵したのか、回転しながら着地した青年の背中に向かって亜莉栖は問いかける。
青年は銃を仕舞いながら顔だけをそちらへ向けて、その最期を確認した。
「たぶんな」
「いや、たぶんて……あっ」
視界に入る首の折れた赤い影は、次第にその体を空気に溶け込ませてゆく。
徐々に消えていくその姿。
やがて完全に霧散し消失した現場には、バラのように赤い血溜まりが残されていた。
「……うっぷ」
直後、唐突に亜莉栖の鼻腔を突いたのは、辺りに立ち込めるその血液の臭いだった。
容易に味の想像がつくような、嗅ぎたくもないものを無理やり鼻にぶち込まれたように、強烈に届く濃厚な鉄の臭い。
ホラーゲームはまあ好きだ。スプラッターやスリラー映画もたまに見る。
けれど、実際そういった現場にいたとしたら、誰だってこういった反応になるだろう。
……狂気に心を支配されていなければ――。
以前にもあったような嘔吐きにも似た不快感に身悶えながら、落ち着くまでのしばらくの間、亜莉栖はその場に蹲っていた。