012―チェシャ猫の戯言
「遅いぞ、アリス! 日が暮れたら面倒だろ」
「ごめんごめん」
小さな腕で腕組し、亜莉栖を見上げながら怒り顔でマティは言った。それに対し、まだ昼すぎたばかりだから、と大して反省してないような軽い調子で、亜莉栖は遅れたことを詫びる。
隣に立つグリムも肩をすくめると、待ちくたびれた様子で小さく息を吐いた。
「ナイフは装備……してるな」
視線を下げながら、グリムは納得したように頷く。
亜莉栖の背中側。ゴシックドレスに巻かれた黒い腰ベルトには、大振りのナイフが鞘ごと取り付けられている。左右の太ももには、これまた小さなダガーが装備されていた。
「もう準備はいいのか?」
「うん、大丈夫だけど」
「……けど、なんだ?」
グリムが問うと、亜莉栖は少し俯きがちに呟いた。
「外出たら、また襲われるかもしれないんだよね」
いつもの威勢はどこへやら。
するとそれを見上げていたマティは、瞬時にグローブを巨大化させると、カキョカキョと奇怪な音をさせながら開閉を繰り返す。
「それはそうだろ、お前はアリスなんだから、ヤツらに襲われるのは至極当然のことなのさ。でも安心しろ、頼りないグリムの他に今回はウチもいるんだ。アリスには指一本触れさせないぞ」
励ましの言葉に亜莉栖は小さく頷いた。
すると一人張り切るマティの言葉を心外と思ったのか、グリムも続いて声を上げる。
「誰が頼りないだ誰が。今までろくにアリスの護衛もしたことないくせに、何を偉そうに。それに、アリスの内六人を殺したのはお前だろうが」
「それは殺した奴らが聞き分けのない小生意気な小娘ばかりだったからだろ、ウチのせいじゃないもん」
少女は仕方がないといった風に唇を尖らせ、子供のように可愛らしく拗ねて見せた。
黒うさぎは耳を垂れながら盛大なため息。
「はぁ~、かわいこぶったってダメだ。というか全く可愛くないからな、むしろ不気味だ」
「なんだとっ!?」
城のエントランスで口論を続けるグリムとマティ。そんな二人を見かねたのか、亜莉栖は二人の間に割って入った。
「はーいはい、仲がいいのは分かったから、喧嘩はその辺でやめとかない? 日が暮れるとやっかいなんでしょ?」
「仲はよくない、がそれも一理ある。ならそろそろ行こうか」
一つため息を落としたグリムはマティにも視線を送る。すると少女は不機嫌そうに、ふんっと鼻を鳴らすと、渋々といった様子で首肯した。
了解を得た黒うさぎは二人に背中を向け、先導して鉄扉の前へ。スペードの紋様が描かれた扉に手をかざすと、ゴゴゴッと鈍い音を発しながら扉が両開く。三人が扉を抜けると、扉は再び独りでにその口を閉じた。
チェスボードのように造園された長い庭を右に左に見ながら歩く。そうして門扉までやってくると、グリムは振り返り注意を促した。
「門を出たらヤツらの気配に気を配れ、特に背後と頭上だ。まだ昼間だが、前みたいに出くわすことも少なくない」
「お昼はジャバウォックの影はあまり活発じゃないんだっけ?」
「そうだ、ヤツらは主に夜行性。暗い森の中ならありえるが、昼間やつらに遭遇する率はそこまで高くはない。けど、油断するなよ」
言いながら黒うさぎは、門扉の頭上に構えるガーゴイルの瞳を見つめた。するとガーゴイル像の瞳が赤く光りだし、その翼が広がると同時に開門する。
「アリス」
「ん、なに?」
グリムに続き一歩踏み出そうとしたところで背後から声がかかったと思ったら、亜莉栖はスカートの裾を引っ張られていることに気づいた。
振り返るとマティが帽子のつばを上げ、爛々とした瞳で見上げていた。
「黒か……」
「ッ!? いや、見ないでくれると、助かるんだけど……」
瞬時に下着の色を言われたのだと気づいた亜莉栖は、仄かに頬を赤らめながらスカートを押し下げた。
衣装デザインがデザインなだけに常に危うい状態に置かれているのだ。これしかないと鼻息荒くロザンヌに強く言われていながらも、彼女の常ならぬ態度に不信も積もるが、それを適度に崩しつつ妥協するしかないと、半ば亜莉栖も諦めているところだった。
「ま、そんなことより」
「私の下着はそんなことなの?」
「うん」
「だったら何で指摘したし……」
マティの即答に亜莉栖はなぜかうな垂れる。カラカラと無邪気に笑いながらも、少女は先の言葉を続けた。
「そんなことより、アリスはトランプにだけ気をつけてればいいからな。ウチがお前の後ろをガッチガチに固めてやるから!」
まかせろ、と意気込むマティに亜莉栖は微妙な表情を浮かべる。
ん? と見上げる無垢な少女。亜莉栖の渋面の意味を図りかねているようだ。
「どうしたんだ?」
「なんか、語弊のある言い方で……いや、なんでもないわ、先を急ぎましょ」
「んー?」
不思議そうに小首を傾げる少女を後目に、亜莉栖はすでに十数メートル先を行くグリムの後ろへいそいそと付いていく。
一人思考したまま立ち尽くし取り残された少女。二人の背中が離れた場所にあることに気づくと、ハッとして声を上げた。
「あ、待てー!!」
そうして三人は、薄暗い奇怪樹の森へと足を踏み入れていった。
◆◇◆◆◆◆
顔面の浮き彫りを施されたような樹木の林立する森を、歩くこと数十分。
まったくエンカウントしないことを疑問に思いながらも、亜莉栖は青年と少女に挟まれながらひた歩く。
「ジャバウォック、出てこないね」
「なんだ、お前はそんなに戦いたいのか?」
グリムの言葉に、亜莉栖は首を横に振って否定する。
「そんなわけないじゃない。ただ、こうも静かだと逆に不気味だなって」
樹葉の天蓋を仰ぎ見ながら、亜莉栖は不安をこぼした。
そんな亜莉栖の背後を守るマティも、どこか挙動不審げに見回しては、周囲の様子に気を配る。
しかし何の気配も察知することが出来ず、亜莉栖にいいところを見せられないことに不満を感じ、つまらなさそうにむくれ顔をした。
「どうしたのマティ?」
「ん、なんでもない」
ガチャガチャガチャガチャと、不機嫌そうに機械のグローブを閉じたり開いたり、それを何度も繰り返す。
するとやがて一向は三叉路に突き当たった。脇に立てられた案内板にはそれぞれの方向に何があるのかが記されている。
グリムは特に標識を見ることもなく、左の道へ体を向けるとすたすたと歩いていく。少し右寄りに後ろで結ばれた髪が、地を踏みしめるたびに揺れ動く。
そんな彼の背を追いかけ、亜莉栖はなにも言わずに付いて歩いた。すれ違いざまにちらりと見やった標識には、「この先、クローバーの国」と下手くそな文字で殴り書かれていた。
「もうすぐで着くの、クローバーの国?」
「ああ、というかもう国境は越えてる、三叉路を左へ入って五メートル、そこが国境だ」
「ずいぶんアバウトね」
「まあ、不思議の国だからな。いちいちツッコミ入れてたら身が持たないぞ」
呆れたように肩をすくめる黒うさぎ。そんな彼に亜莉栖は疑問を口にした。
「さっきの三叉路って、他の道を行くとどこへ繋がってるの」
「一つは迷いの森、まだ入らなくていい場所だ。迷いたいならいつでも迷え、オレは責任取らないからな。その先は迷わず行ければダイヤへの近道。そしてもう一つの道は黒の公爵夫人の館だ」
グリムの言葉に亜莉栖は耳を疑った。
え? と驚いた顔をして、恐る恐ると言った風に口を開いた。
「あの変態エロ公爵に奥さんがいるの!?」
「そりゃいるさ、つうかそんなに意外か?」
あたりまえでしょ……と、亜莉栖は開いた口が塞がらない様子。
見た目は渋い中年の小父様然としていながら、ふたを開けばアリスを間違った方向で溺愛している危険なオヤジ。そんな公爵に奥さんがいるなんて、亜莉栖には露ほども信じられなかった。
「まあ、夫人も変わり者だけど、お前にしたら公爵よりはまだマシか。あの人はたまに癇癪が強いだけだから……」
「いやそれも迷惑な話しだと思うけど……。でもなんで黒の城に一緒に住んでないわけ」
すると先ほどまでグローブをいじって遊んでいたマティが、亜莉栖の背後で声を上げた。
「公爵は夫人に捨てられたんだよ。あいつのアリスに対する妄執を見てれば、なんとなく想像つくだろ?」
「なるほどねー、ちょっと同情しちゃうかも……」
別れ話を切り出されることもなく、館から叩き出されたんだろう。
普段は平静を装っている大人しい夫人も、夫の自堕落さ加減だけはどうにもならないらしい。癇癪を起こした夫人に、有無を言わさず投げ捨てられた哀れな公爵。そんな修羅場の状況とみすぼらしい姿を勝手に想像し、亜莉栖は同情の言葉を口にしたのだった。
『ふふっ、楽しそうだねーアリス』
そんな亜莉栖の小汚い妄想を一瞬でかき消したのは、不意に聞こえた透き通るような美声だった。どこまでもクリアに聞こえ、けれどどことなく危うさを孕んだ声音。
「「ッ!?」」
亜莉栖を挟んでいた二人が、思わぬ敵の登場に瞬時に身構える。
グリムは二挺の拳銃を胸ポケットと、腰ベルトから提げたホルスターからそれぞれ引き抜き油断なく構え、マティはグローブの大きさを最大化させた。
「えっ、なに、なんなの?」
「馬鹿、お前もナイフを抜け」
黒うさぎに小突かれ、亜莉栖も渋々といった様子で腿のベルトから細身のダガーを引き抜いた。
『あらら、そんなに警戒しなくてもいいのに』
周囲を見渡すも、いまだ敵の位置が捕捉出来ない。楽しげな笑い声だけがざわつく森の中を行き交っている。
するとグリムは気づいたようにハッと顔を上げた。つられて亜莉栖もその目線の先を追う。
まるでタイミングを計ったように、数メートル頭上の木々のある一点、太い枝の上に薄ぼんやりとしたシルエットが浮かび上がってきた。それは徐々に形作られ、枝の上でお座りのポーズをとっていた。
「あっ」
と亜莉栖が声を上げた。
声に反応するように耳が動く。黒いうさぎ耳ではない。獣のような、ピンと尖った猫の耳。
「やぁアリス、はじめましてだね。うん、今回のアリスは可愛いなー、君がここへ来てからずっと、ずっと会いたかったんだよ」
頬を少し赤く染めながら、少年は腰から伸びた金色の長ーい尻尾を垂直に立てている。
嬉々としてにやつく笑みからは、さほど嫌な感じはしない。
頭の猫耳、そして尻尾を確認した亜莉栖は確信したように頷くと、視線の先の少年を指差しながら言った。
「もしかして、あれがチェシャ猫?」
その表情はどこか嬉しそうで……。
それを見ていたグリムは不機嫌そうに鼻を鳴らした。
「ふん、そうだよ。でもなんで嬉しそうなんだ、アイツは敵だぞ」
「だって美少年じゃない、それに可愛いし、人懐っこそう」
改めて見たチェシャ猫の姿。
見た目の年齢なら亜莉栖とそう離れていないだろう、十四、五歳といったところだろうか。亜莉栖よりは年下に見える。
青色をした瞳は大きくくりくりとしており、人を疑うことを知らないような純粋さを湛えている。好奇心旺盛そうに弓なりに弧を描く口元は、挿絵に見るチェシャを自然と想起させた。
さらさらで綺麗なブロンドの髪にふわふわの耳と尻尾。着込んだ礼服はグリムのそれに似てはいるが、ネクタイやらカフスにところどころ猫のシンボルが見て取れる。
マティと並べればペアのアンティークドールかと見間違うほど、その肌はきめ細やかで陶磁器のように白かった。
にっ、と八重歯、というか牙をむき出しにして笑うと、耳をピコピコ動かしながらチェシャは顔をなでる。
恥ずかしげに行う動作がまた妙に可愛らしく猫らしい。
「馬鹿、アイツを喜ばせてどうする。あんな下種を煽てるんじゃない」
敵愾心を露にして言い放ったグリムの言葉に、亜莉栖とチェシャが揃って振り返る。
片方はむっとして、もう片方はひどく耳を垂れて。
「そんな言い方ないんじゃない? あんな可愛らしい子に……。自分が無愛想で根暗で堅物だからって、妬んでるんじゃないでしょうね?」
「ばっか! 違うよ……」
「そうだよ、黒うさぎ。僕は悲しいよ、寂しいよ。君にそんなことを言われるなんて……。僕と君の仲じゃないか、ねえ?」
露骨に涙目になりながら、まるで懇願するようにグリムを見つめるチェシャ猫。
可愛い……と頬を赤く染める亜莉栖の真横で、グリムはなぜか身震いしていた。
怖気を振り払うようにキッとチェシャを睨みつけると、それを見たチェシャはにぃと厭らしい微笑を口元に浮かべる。
「えっ!?」
一瞬目を疑った亜莉栖だったが、それは瞬きの刹那でもとの顔に戻っていた。
「ところで何のようだ、女王の腰巾着」
「ああ、マティもいたのかい? ちっちゃくて気がつかなかったよ、帽子とグローブが歩いてるのかと思ってた、ごめんね」
そう謝りながらぺろりと舌を出すチェシャ猫に、マティはいきなり憤慨する。
「誰がちっちゃいだ! 訂正して詫びろグローブを舐め上げて綺麗にしろこのやろう!!」
「ごめんて言ってるじゃないか、相変わらず可愛いなーマティはちっちゃくて。好みじゃないけど、すっごく可愛いと思うよ」
「キィーー!! またちっちゃいって言ったな!」
「ごめんごめん、でもその怒りの勢いに任せてまたアリスを殺さないでねー。遺体の回収するのめんどくさいんだから、それに体も血塗れになるし……」
体のにおいを嗅ぐ仕草をしたかと思うと、ケラケラと小馬鹿にしたように嗤いだし、チェシャは二人に板挟みにされている亜莉栖へと目を向けた。
機械のグローブで地面を思いっきり殴りつけながら、マティはその言葉に反論を返す。
「殺すわけないだろ! お前も知っての通り、今回のアリスは今までとは違う」
「そうだねー、ゲームがまともに成り立ちそうな逸材だね、耐性持ちなんて。ヴォーパルに辿り着けるかもしれないんだからね。女王にそのことを報告したら凄く喜んでたよ。首の刈り甲斐があるってさ。そりゃあもう狂喜乱舞で、何人トランプ兵が惨殺されたか……」
チェシャはわざとらしくまた泣き真似をしてみせ、次の瞬間にはにたにたと笑う。
命を軽視しすぎている、チェシャも女王も。やはり狂ってるんだ、と亜莉栖は思う。
ここにいればいずれそうなるかもしれない、自分だけはそんなことがないよう常に気をつけようと、話を聞いていて亜莉栖は心に誓った。
「ようやくアリスとまともに遊べるんだ。なんだか、それだけで嬉しいな、僕は」
今度は子供のような無邪気な笑顔。するとチェシャは遠き日を見るように遙を見つめ、思い出を語り出した。
「最初のアリスは少女でね。そう、ちょうどマティくらいの大きさだった。いっぱいお話したんだよ。初めて会ったのは、公爵夫人の館だったなぁ。まだ平和だった頃のワンダーランド、君らが知らない世界さ」
チェシャは言いながらグリムとマティを交互に見やる。
二人が揃って鼻を鳴らすと、その反応を楽しむように尻尾を小さく振った。
「懐かしいなぁ、アリス。今どうしてるんだろう。と言っても、もう死んじゃってるだろうから、今さら会えるわけもないんだけどね。あっちの世界に帰っちゃったばかりに、老いも寿命も迎えてしまうんだよ、哀しいね」
チェシャは泣き真似することなく、今回はくすくすと笑っているだけだった。
食べちゃえばよかったのかな……。そう呟いたチェシャの顔は、妙に厭らしく獣じみていた。
それからややあって――――、
「あ、それじゃ倫理的にも道徳的にも不味いことになっちゃうな。ねえ、黒うさぎ?」
その言葉の裏には亜莉栖の知らない闇がある。
横目で見やるマティの視線に気づいたのか、グリムは毅然とした態度で聞き流す。
その体が少し震えていることに、亜莉栖は気づく由もなかった。
「ま、今日はただ挨拶しに来ただけだしね。そろそろ僕はこの辺でお邪魔するよ」
「あれ、帰っちゃうの?」
「うん、近々またすぐに遊びに来るよ、今度はたぶん、ちゃんと敵としてね」
「だったらヴォーパルの剣の在処を教えていってよ、チェシャも平和な方がいいでしょ?」
今にも消えかけている体のチェシャへ、亜莉栖は臆面もなく問いかけた。
平和な時代を懐かしむ少年に、少しでも昔を思う心があればこそ、その言葉の意味を理解してくれるものだと思って。
けれど少年は困り顔をし、小さく息を吐いた次にはにやりと口元を歪めた。
「今でもある意味平和だと思うけどね……アリスが来なければ、の話しだけど。まあ、教えてもいいけど、それは君次第かな?」
「見返りでしょ、グリムからチェシャの性格、少しだけなら聞いたから」
「そうかいそうかい、それなら話が早いけど……っておっと、なにやらこわ~い視線を感じるよ? 射殺されない内に僕は退散することにしよう」
亜莉栖が振り向くと、そこには今までにないくらいの殺気の篭った瞳をチェシャへ向けるグリムの姿があった。二挺の拳銃の銃口は、静かにチェシャの方へと向けられていた。
フフフフッ――と森に響き渡る不気味な笑い声。そこへ続くように聞こえた言葉……
「あぁちなみに、君らの地下アジトには安心して進むといいよ、今はこの森にトランプ兵は放たれていないから。影たちもいないよ。あ、僕の言葉を信じるか信じないかは自由だけどね」
再び亜莉栖が目を向けた木の枝には、すでにチェシャの姿はなかった。そこにはただ、挿絵のような猫のニタニタ顔だけが残像のように浮かび上がっていた。