09―黒いうさぎの話
マティからナイフを手渡された亜莉栖は、特にこれと言った話を聞く間もなく、即厄介払いされた。
少女曰く、「グローブのメンテするから邪魔」だそうだ。
そして今、亜莉栖はグリムの部屋へと続く廊下をメイド長と二人、歩いている。
「そういえば、わたしまだあなたの名前知らないんだけど」
亜莉栖は隣を歩く黒髪を後ろで束ねた、整った顔立ちの女性を見た。身長は亜莉栖より少し高めなため、少々見上げる形となっている。
「名前が気になるのですかっ!?」
メイド長は嬉々とした顔をし、光の速さで振り向いた。
まじまじと覗き込んでくる顔を見返し、またなにかされるのでは、と身の危険を空気感で感じ取った亜莉栖は一瞬たじろぐ。
若干メイド長の肌が紅潮しているのは気のせいだろうか。
「いや、だってこれからお世話になるのに名前で呼ばないなんて、そんなのいけないと思って」
「アリス様はお優しいんですね……。私など一介のメイド。『長』なんて役職についてはいますが、貴女様や城の住人には頭も上がらない雑用のようなものなのです。あ、でも公爵は除きます。“あれ”は私の『敵』ですから」
「え、なにがあったの?」
「要するに、アリス様を勝手に盗撮する変態は、私の恋敵と言うわけです……。あんなに便利な写真機を独り占めするなんて! そりゃあアリス様の写真を撮りたい気持ちは解らなくはないですが、私も撮りたいのですっ!! 一人で陰に隠れて撮って、陰に隠れて一人でハァハァするなんて……なんて羨ましい……」
「あ、そぅ……」
最後は戒めてもらえると思っていた亜莉栖の思考は、当然のように見事に裏切られる。
メイド長の呼吸はどんどん荒くなり、音だけ聞いているとまるで如何わしい事でもしているような雰囲気さえある。
このままでは押し倒されると思った亜莉栖はとにかく声を上げた。
「だ、だから、あなたの名前は――」
「アリス様……」
「聞いちゃいね~~~」
惚けた様子でずいずいと迫りくるメイド長の顔を片手で押し返しながら、ふと亜莉栖は前方に視線を向けた。するとそこは行き止まりになっており、一つの扉が設けられていた。扉にはスペードの紋章に重なるように、鎌とうさぎ耳の柄が彫刻されている。
「ねぇ、ここグリムの部屋なんじゃない?」
「アリス様…………えっ?」
亜莉栖の言葉に我に返ったメイド長は、瞬時に身なりを整えた。
「オホン! そのようですね」
一つ咳払いをしたメイド長は、おもむろに扉の前に立ち、そして部屋の主に入室の許可を取るべく、コンコン――――と扉をノックする。
「なんだ」
「グリム様、アリス様をお連れ致しました」
「ああ、入ってくれ」
「失礼致します」
扉を開け、丁寧に一礼してから中へ入ると、メイド長は静かに脇へとはける。
今の今までのだらしのない表情から一変し、貞淑な淑女のような面持ちと雰囲気で自身を着飾る彼女の変わり身の早さに、亜莉栖はひたすら関心し切っているようだ。見事に開いた口が塞がらない。
するとそんな亜莉栖を怪訝な眼差しで見つめるグリムが突然声をかけてきた。
「なにしてる、さっさと入れ」
「え、あ、あぁそうね」
チラッチラッとメイド長を横目で見ながら、亜莉栖は部屋の中ほどに立っているグリムの前へと歩いていく。
「ロザンヌ、席を外してくれるか……」
グリムはメイド長の名を呼んで、退出するよう促した。
亜莉栖は彼女の名前を思わぬところで知れて、頷きとともにそれを記憶する。
「畏まりました」
とロザンヌは少し名残惜しそうに亜莉栖を一瞥すると、静かに部屋を出ていった。
後姿を見送った後、グリムはうさぎ耳を触りながら亜莉栖へと声をかける。
「適当に腰掛けてろ。いま茶でも出してやる」
部屋の奥へと歩いていくグリムの姿が消えた後、亜莉栖は周囲を見渡した。
高そうな調度品の数々はまるで貴族の屋敷のようで、壁にはレリーフにも見える大きな油絵が飾られている。天蓋つきのクイーンサイズのベッドが一際目立ち、脇に設置されたチェストに置かれたランプが淡い暖色を灯す。
周囲をぐるりと一通り見渡した亜莉栖は、中央のラウンドテーブルに着くと、ある一点、気になった部分を注意深く観察した。
それは室内の絵画のちょうど反対に位置していて、額縁に囲まれた大きな窪みだった。一本の棒のような線が伸び、その先で左右に伸びる、左先端に向かうほど長く鋭くなるシルエット。
「鎌……?」
亜莉栖が呟いたちょうどその時、グリムが消えた方向から扉の閉まる音がした。
トレイにティーセットを乗せてやってくる黒うさぎは、亜莉栖の座る椅子までやってくると、まるでウェイターのように手際よく、けれどそれらには備わっていないような一切の無駄のない美しい動きでそれらを並べる。
そしてカップを手に持つと、高い位置から紅茶を注ぎいれた。
「ほら」
呆ける亜莉栖の視線が気になるのか、グリムは視線をそらしながらぶっきら棒にカップを差し出す。
「あ、ありがとう」
礼を述べてからティーカップを受け取ると、亜莉栖はさっそく口をつけた。
「……おいしい……。これ、ホントにあんたが淹れたの?」
「失礼な女だな。部屋にいる時くらいは自分で淹れないと、オレは気がすまない性質なんでね」
言いつつ自分のカップに紅茶を注ぎ、グリムは亜莉栖の対面に座する。
そんな彼から視線を外し、亜莉栖は再び壁の窪みを見やった。
「あれって鎌よね?」
「ん? ああ、あれが気になるのか。だが残念だな、今はそんな話をするためにわざわざお前を呼んだんじゃない」
「そういえば話があるって言ってたわね……」
「……なんだ?」
カップに口をつけながら、訝しむようなジト目で自分を睨む亜莉栖にグリムが訊ねると、
「ぷ、ぷろぽーずとかはナシだからね! 心の準備とか出来てないし」
頬をほんのり赤く染めるアリスは目線を流すと、黒うさぎは呆れたように首を傾げる。
「お前なに言ってんだ。……まぁいい。そんなことより、マティから武器は受け取ったのか?」
「そんなことてッ?! この無駄に大きいナイフでしょ」
めくるめく展開を予想しほんの少しだけ期待していたのか、それが期待外れだったことに亜莉栖は落胆の色を隠せない。ムスッとした顔をして太もものベルトに差しておいた大型のナイフを取り外すと、それをテーブルに置いた。
ゴトッ、と質感の伝わる鈍い音が部屋に響くと、グリムは口を開く。
「そいつはヤツらに対抗出来るように特殊加工が施された専用ナイフだ。ジャバウォックの影のみならず、トランプ兵にも対処出来る」
「トランプ兵もいるんだ」
「不思議の国なんだ、当たり前だろ」
「……それが当たり前なのかどうかは別としても、不思議の国なんだから当然よね」
「そういうことだ」
もっともらしく頷くと、グリムは香りを楽しんだ後に紅茶を啜る。
自分がいなければ、まるで深窓のご令嬢の優雅なティータイムだ、と亜莉栖は生唾を飲み込んで心の中で呟いた。目は閉じられているが、カップ越しに覗く目元だけ見ていれば誰もが女性と見間違うだろう。
ただでさえ、グリムは中性的な顔立ちをしているのだ。まつげは長く、目つきは悪いが瞳は大きく、柳眉は整い鼻筋も通っている。ぽてっとした唇はやわらかさが音で伝わりそうなほどに瑞々しく、綺麗な薄桃色をしている。醸し出す雰囲気とフェロモンから、麗人とはまさに彼のためにあるような言葉だと、亜莉栖は心の中で何度も頷いた。
見蕩れる亜莉栖の視線に気づいたのか、黒うさぎはカップをテーブルに戻し、急に真剣な顔をする。
「オレはお前と二人で茶が飲みたかったわけじゃない。話しというのは……、どうした?」
「そういえば、あんたはこの国で生まれたの?」
唐突な亜莉栖の質問に、グリムは呆れたように息を吐く。
「はぁ、なんだ、そんなことが気になるのか」
「だって、みんな何も教えてくれないから……」
「残念だがそんなことはさほど重要じゃない。それより、お前はどうするんだ」
「どうするって?」
「この国でやつらと戦えるのかってことさ」
今度は黒うさぎから亜莉栖に訊ねた。しかし亜莉栖はつまらない質問だ、と言わんばかりに首を振ると当たり前のように答える。
「そんなの、やりたくはないけどやらなきゃやられるんだし、こんな訳の分かんないところで死ぬよりは足掻いて抗ってから死にたいわ。まあ、死にたいわけじゃないけどね。脱出出来る可能性がゼロじゃないんなら、戦うしかないんじゃない? それとも、他に方法があるわけ?」
「オレは情報屋じゃないからな、それはなんとも言えない。……その意思と心構えは賞賛に値するが、本当にいいのか?」
「? なんか含みを持たせてない? もったいぶらずに言いなさいよ」
歯切れの悪い物言いに、亜莉栖は少々苛立ちを覚える。
不安げな顔をしながらも、けれどグリムは努めて冷静に返答をした。
「ヴォーパルの資格は狂気だとマティから聞いたな。はっきり言ってやると、恐らくだが、お前はこの世界で正気を失うことになる」
「ヴォーパルの剣を手に入れたら、わたしがわたしじゃなくなるってこと?」
「所詮憶測に過ぎないが、だが手にする資格がそれである以上一定の狂気レベルは必要になるだろう。ただでさえ、『アリス』はこの世界で狂気に陥りやすい。今までも血の気に中てられただけで発狂するアリスがいたわけだ。今は大丈夫でも、いずれお前もそうなる可能性がないわけじゃない」
「なるほどねー。で、あんたはわたしを心配してくれてるわけ?」
不安を瞳に宿すグリムを真っ直ぐに見つめ返すと、亜莉栖は真顔で問いかける。
今まで見せたことの無いあまりに真剣な表情に、黒うさぎはどぎまぎし両手で耳を折ると視線を外した。
「……当たり前、だろ。だが勘違いするなよ、オレはこの世界が平和になる可能性を秘めてるからお前が必要で心配なだけだ。それ以上でも以下でもない」
「素直じゃないなぁ。ま、以下じゃないだけ嬉しいけどさ」
横目で亜莉栖の様子を窺うグリムの頬はほんのり赤く色づいていた。
「話って、もしかしてそれだけ?」
「それだけって……大事なことだろ」
「まあそうなんだけど。じゃあ、もう出ていってもいいの?」
亜莉栖は少し悪戯に微笑みグリムに訊ねた。すると黒いウサギの耳はぴょこんと直立し、あわてた様子でグリムは振り向く。
「なに?」
なかなか欲しい物が決まらない子供のような顔をして戸惑う黒うさぎに、亜莉栖は、どうしたいの? と年上ぶった余裕のある表情で問いかける。
けれど内心、その反応が可笑しすぎて、思いっきり吹き出しそうになるくらいの笑いを噛み殺すのに必死だ。
やがて自然に頬は綻んでいき、ニヤニヤが止まらなくなってきた亜莉栖はついに笑い出した。
「ぷっ、あははははっ! おっかし~」
「なっ、なにがだッ!?」
「だってホントーに困った顔してるんだもん! ふふふ、お腹痛い」
涙目を拭いながら、亜莉栖は呼吸を整えた。
「ほんと、素直じゃないわね。しょうがないから、少しだけ居てあげるわよ」
「あ……。まあ、居たいって言うんなら居てもいいけどな……」
そう言って恥ずかしそうに立ち上がると、グリムは空になったティーセットをトレイに乗せて立ち上がる。そして亜莉栖に背を向けると、一人奥の部屋へと消えていった。
なにやら音がしていたかと思うと急に静かになる。
しばらくしてティーセット片手にグリムが戻ってくると、再び二人だけの静かな、でも笑い声と憎まれ口の絶えないお茶会が続けられたのだった。