第1話 出来損ない
昔のことは、よく覚えている。
エルディオール家は、うるさいくらいに賑やかな家だった。
朝になると廊下を走る足音がして、誰かが怒鳴って、誰かが笑う。僕が転べば、兄たちは笑いながらも手を引いてくれたし、食卓では父がくだらない冗談を言って、母が呆れたように笑っていた。
「アルス、今日は何をした?」
そう聞かれるのが好きだった。
上手く話せなくても、言葉が詰まっても、みんな待ってくれた。ちゃんと聞いてくれた。僕はその時間が当たり前だと思っていた。
――ずっと、こんな日々が続くのだと。
変わったのは、ある冬の日だ。
帝国から視察団が来ると知らされた朝、父と母の顔がいつもと違っていた。笑顔がなく、声も低かった。
「アルスは今日は部屋にいなさい」
理由は教えてくれなかった。ただ、逆らえない雰囲気だけがあった。
それでも、偶然は起きる。
僕は部屋にいられなくなって、廊下をうろついていた。扉の隙間から見えた書類に、視察団の人が首を傾げているのが見えた。
「この税の再配分……誰が考えた?」
父が答える前に、僕は口を開いてしまった。
「僕が考えました!」
言い終わる前に、視線が集まった。
視察団の一人が、僕を見た。まるで物を見るみたいな目だった。
「……ほう。何歳だ?」
「七歳です」
その人は、少し笑った。
「面白いな。非常に」
その瞬間、父が前に出た。
「子供の戯言です」
声は硬くて、低かった。母は僕の肩を引き寄せて、「こら、変なこと言わないの」と、無理に笑った。
それ以上、その話は続かなかった。
でも、あの日を境に、家は少しずつ変わっていった。
父は冗談を言わなくなった。母は、僕を抱きしめる時間が減った。兄たちは優しかったけれど、どこか距離があった。
あんなに優しかった使用人達も必要最低限の会話しかしてくれなかった
「アルス、お前は余計なことをするな」
その言葉を、何度も聞くようになった。
褒められなくなった。期待されなくなった。代わりに、沈黙が増えた。
僕には理由が分からなかった。
何か悪いことをしたのだろうか。あの日、余計なことを言ったからだろうか。
分からないから、考え続けた。
そして、答えが出ないまま、現在に至る。
訓練場で、僕は板を抱えて立っている。
兄たちの動きを見ていると、自然と気づくことがある。ここで踏み込めばいい、とか。別のやり方の方が速い、とか。
昔と同じだ。
でも、今は言わない。
言うと、空気が変わるから。
「記録だけでいい」
父はそう言った。短く、それ以上の言葉はなかった。
夕食の席でも同じだった。
兄たちの成果が語られて、僕の名前は出ない。クラウス兄さんが何か言いかけて、黙る。ユリウス兄さんは視線を落とす。ヴィルヘルム兄さんは、最初から何も言わない。
誰も怒っていないのに、誰も笑っていない。
――ああ、僕は出来損ないなんだ。
そう思うようになったのは、いつからだろう。
期待されないのは、役に立っていないからだ。褒められないのは、足りないからだ。
だから、もっと頑張らないといけない。
夜、自室で窓を開けると、冷たい空気が入ってくる。遠くで街灯が揺れている。
「……明日は、もっとちゃんとしよう」
誰に聞かせるでもなく、そう呟く。
廊下で足音が止まる気配がする。扉の前。けれど、叩かれない。声もかからない。
ただ、誰かがいる気配だけが残る。
僕は布団に潜り、目を閉じた。
昔みたいに笑える日は、また来るだろうか。
その答えを、僕はまだ知らない。




