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比島の小龍  東洋初の世界王者 パンチョ・ビリャ(1901-1925)

作者: 滝 城太郎
掲載日:2025/12/03

ビリャはフライ級でも小柄な部類だったため、現在ならミニマム級からスタートし、バンタムくらいまでは軽く制覇していたに違いない。しかも彼の時代は、途上国出身の有色人種、アメリカ人から見れば植民地の被支配民族に対して公平なジャッジは期待できなかったはずだから、21世紀であれば敗北はゼロだったかもしれない。だからこそ、ヴィリャは20世紀のアンケート調査ではフライ級歴代1位に選ばれることもあったのだ。まさにアジア人の誇りである。

 東洋初のボクシング世界チャンピオンにしてフィリピンの国民的英雄である。

 フィリピンはヴィリャの他にも、東洋初の重量級世界王者セフェリノ・ガルシア(ミドル級)や、東洋初の三階級制覇者マニー・パッキャオ(最終的には六階級制覇)といったボクシング史に名を残すボクサーを輩出していることからわかるように、古くからアジアにおけるボクシング先進国だった。

 ヴィリャが活躍した時代、日本は大正時代で、ようやく本邦初の本格的ボクシングジムが開設されたばかりだった。それに引き換えフィリピンは、オーストラリアと並んで東洋・オセアニア圏では最大のボクシングマーケットになっていた。というのも、当時のフィリピンはボクシングの本場アメリカの植民地であり、ボクシングを通じた交流も盛んだったからである。

 おかげで黎明期のわが国のボクシング界は、フィリピンから来日したボクサーから間接的に本場のテクニックを学ぶことが出来たわけだが、レベルの差はいかんともしがたく、白井義男が日本初の世界チャンピオンになるのは、ヴィリャより三十年以上も後のことだった。

 それだけにヴィリャは日本ボクシング界にとっても神格化された存在だったが、実は一九二五年三月、アメリカ遠征の途中で横浜に立ち寄り、スパーリングを披露したことがあるのだ。

 一五五センチの小兵ながら、これがフライ級かと思わせるほど筋骨隆々とした上半身から繰り出されるハードパンチといい、なめらかなフットワークといい、全ての動作がこれまでに来日した選手とは全くの別物だった。

 そういう意味では、現役世界チャンピオンとして初めて来日を果たしたヴィリャは、世界のレベルを日本人に直接伝えたという点において、わが国のボクシング界にとって黒船来航に匹敵する影響を与えたと言っても過言ではないだろう。

 

 パンチョ・ヴィリャことフランシスコ・ギリエドはフィリピンのイロイロ州ネグロス島に生まれた。

 生後六ヶ月で牛飼いをしていた父親が蒸発したため、幼少時より、母の働くアシェンダの農場で、山羊の飼育の手伝いをしていた。ボクシングに興味を持つようになったのは、イロイロ島に渡って街頭の靴磨きをしていた頃で、その時知り合いになったローカルボクサーから、スパーリングなどの手ほどきを受けている。

 その後、太平洋テクス・リカード社のプロモーター、フランク・チャーチルに才能を見出され、マニラのボクシングジム、オリンピック・クラブで本格的にボクシングを始めた。

 一九一九年一月に十七歳でプロデビューした当初は、マネージャーのパキート・ヴィリャの名前を借りて、パキート・ギリエドのリングネームで戦っていたが、渡米を機に、メキシコ独立運動の英雄パンチョ・ヴィリャの名をそのまま拝借することになった。

 チャーチルの目論見通り、回転の速い連打とスピードを武器に自分より上背のある相手をも翻弄してしまうヴィリャのボクシングはたちまち話題になり、試合のたびに試合場には溢れんばかりの観客が詰めかけた。

 デビューから破竹の三十四連勝と向かうところ敵なしのヴィリャは、反則負けで連勝が途絶えた後も再び勝ち続け、一九二一年には弱冠二十歳で東洋バンタム級チャンピオンの座に就いている。

 そんな順風満帆のヴィリャのボクシング人生に最初の試練が訪れる。

 東洋チャンピオンになった翌年、当時交際していた女性に振られたのが原因でモチベーションが下がり、引退を匂わせたままネグロス島に帰ってしまったのである。この時は、ヴィリャの無限の可能性を惜しんだ関係者の説得で事なきを得たが、血気盛んなファイトぶりとは裏腹に、案外ナイーブな一面もあった。


 一九二二年五月、チャーチルのボスにあたるニューヨークの大物プロモーター、テクス・リカードから招聘を受けたヴィリャはついにアメリカの土を踏んだ。ここまで四十九勝一敗、唯一の黒星も反則負けという抜群の戦績を誇るヴィリャは、大々的な宣伝効果もあってファンの注目度も高く、記念すべき渡米第一戦にはその勇名にふさわしい相手が選ばれた。

 対戦相手の名はエイブ・ゴールドステイン。ニューヨークのゲットー生まれのユダヤ人で、二年後には世界バンタム級の王座を射止める実力派ボクサーである。この強敵を撃破して一気に世界挑戦への道を切り開きたいヴィリャだったが、ゴールドステインのディフェンスには全く付け入る隙がなく、十二ラウンド中、十一ラウンドを失う完敗だった。

 幸いKO決着以外は無判定の取り決めがあったため、黒星こそ付かなかったが、技術的な格差はいかんともしがたいものがあった。それでもヴィリャの株が大きく下がることがなかったのは、ジャック・デンプシーばりのクラウチングスタイルからの速い連打が観客受けしたからで、『小型デンプシー』の愛称で呼ばれるようになったヴィリャには、その後も著名選手からの対戦オファーが相次いだ。

 渡米から四ヶ月後のジョニー・バッフ戦はヴィリャの出世試合となった。

前世界バンタム級チャンピオンにして米国フライ級タイトル保持者でもあるバッフは、同級歴代十傑に入る名王者ピート・ハーマンに勝ったこともある大物食いのファイターで、あのゴールドステインもわずか二ラウンドでナックアウトされている。

 進境著しいヴィリャは、二ヶ月前まで世界チャンピオンだったバッフを終始圧倒。十一ラウンドに三度ものダウンを奪い、十二ラウンドにストップ勝ちすると、十一月のゴールドステイン戦でも十五ラウンド判定で借りを返し、いよいよ世界チャンピオン、ジミー・ワイルドとの対戦話が巷の話題に上るまでになった。

 翌年、三月一日に行われたフランキー・ジェナロ戦はそんな彼にとっての二度目の試練となった。

 一九二〇年のアントワープオリンピックの金メダリストであるジェナロは、フライ級屈指の技巧派で、ヴィリャは過去二度の対戦でいずれも苦戦を強いられていた(一敗一無判定)だけに、世界タイトル挑戦のためにも絶対に落とせない試合だったが、結果はスプリットでジェナロに上がった。

 ところが、この試合を観戦していたファンの多くはヴィリャの勝利と見ていたため、この判定をめぐって大きな騒動が持ち上がる。

 著名ボクシング評論家のハイプ・イゴーが「恐るべき判定。ジェナロの勝利は全くの“略奪”である」とジャッジを非難したのをはじめ、新聞各紙もこぞってヴィリャの勝利を支持したのだ。

 中には「我々アメリカ人はヴィリャの試合を見る資格がない」と暗にアメリカ社会にはびこる人種的偏見に自省を促すような論調のものもあった。第二戦も際どい判定だったことが伏線になっていたにせよ、有色人種に対する不当判定が日常茶飯事だった時代に、これだけファンやマスコミから擁護を受けるのは異例と言ってもいいほどだった。

 子飼いのフィリッピーノが次期世界チャンピオン候補と互角に戦ったことで、機が熟したことを悟ったプロモーターのリカードは、ウェールズの片田舎で隠遁生活を送っていた半ば引退同然のジミー・ワイルドを口説きにかかった。


 初代世界フライ級チャンピオンのジミー・ワイルドは、一九一六年二月に同級王座に就いて以来、一度もタイトルを明け渡すことなくその座を守り続けること七年になる三十一歳のオールドタイマー。

 今日のライトフライ級にも満たない軽量ながら一三二勝二敗(九十九KO)というずば抜けた戦績が物語る通り、“マイティ・アトム(そのまま訳すと鉄腕アトムだ!)”の異名はだてではなかった。

 一九一九年に初めてアメリカのリングに立った時も大好評だっただけに、軽量級屈指のハードパンチャー同士の対戦は興行的な成功は間違いなしだった。問題は、ワイルドが体調不良のまま出場した御前試合でピート・ハーマン(世界バンタム級チャンピオン)にTKO負けを喫して以来、二年間も試合から遠ざかっていることだった。

 しかし、リカードが提示したドルの魅力には勝てず、ワイルドは周囲の反対を押し切って再びアメリカのリングに立つことになった。

 一九二三年六月十三日、ニューヨーク・ポログラウンドで行われた世界フライ級タイトルマッチは後味の悪いものとなった。二ラウンド終了のゴングと同時にガードを下げたワイルドの顎をヴィリャのパンチが直撃すると、チャンピオンはそのまま昏倒し、セコンドからコーナーまで引きずられていった。

 ワイルド贔屓が大半を占める二万三千の観衆からは怒号が湧き起こり、ヴィリャは泣いて謝罪したが、ワイルドが朦朧としながらも立ち上がったためファイト続行となった。

 結局、七ラウンドでKOされたワイルドは昏睡状態のまま病院に担ぎ込まれたが、気を取り戻した後も三ラウンド以降の事は全く記憶になかったという。全快までに数ヶ月を要するダメージを負ったワイルドはヴィリャ戦を最後に潔く引退に踏み切った。

 世界タイトル戦こそ歯切れの悪い内容だったが、その後、二度の防衛を果たすかたわら、キッド・ウィリアムズ、バド・テイラーといった新旧のバンタム級チャンピオンともグローブを交えたヴィリャは、一階級上でも十分に通用することを証明した。

 中でも光るのは『ブロンドの恐怖』と恐れられるテイラーと三度顔を合わせ、一勝二無判定(ニュースペーパーデシジョンでは一勝一敗)と勝ち越していることであろう。

 身長差が十三センチもあり世界タイトルを握るまでに二人を死に至らしめた殺人パンチャーに打ち勝ったことで自信を深めたヴィリャは、宿敵フランキー・ジェナロとタイトルを賭けて激突することになった。

 ところが一九二四年九月四日に決定した世界戦は、前日に突如ジェナロ側の都合で二十三日に延期になったと思いきや、今度はヴィリャの三角筋の炎症が原因でキャンセルとなってしまった。度重なるトラブルに頭に来たコミッショナーから出場停止処分を課されたヴィリャは、これを機会にフィリピンへの久々の里帰りを思い立ち、期せずして祖国に錦を飾ることになった。

 国民的英雄としてマニラで大歓迎を受けたヴィリャは得意満面で、どこへ行っても気前よく金をばらまいた。一九二四年度の年収が六万四千ドル、今やノンタイトルでも一万ドル以上という重量級チャンピオンクラスのファイトマネーを稼ぐヴィリャだったが、いささか気前が良すぎたようで、さすがに懐が寂しくなってきた。そこで筋肉痛が癒えるまで試合を厳禁されている身にもかかわらず、ノンタイトル戦と三度目の防衛戦をマニラで挙行した。

 故国での試合に連勝し、さらに人気が高まったものの、勝手に試合を行ったことがチャーチルの逆鱗に触れ、ヴィリャは即刻アメリカに呼び戻され、ジミー・マクラーニンとの試合に臨むことになった。

 この頃、虫歯を患っていたヴィリャは試合直前になって痛みに耐え切れなくなり、事もあろうに当日の朝に抜歯を行った。

 出血が多いため、医師からは試合を止められたが、チャーチルがそれを認めてくれなかったため、人の良いヴィリャはおたふく風邪のように頬を腫らしたままリングに上がることになった。そしてそれが命取りとなったのだ。


 十六歳でリングデビューしたマクラーニンは、わずか一年半の間に二十二連勝して全米のアイドルになった十七歳の新星で、愛称は『ベビーフェイス』。ヴィリャ戦の直前にバド・テイラーに連勝をストップされているが、後にどんどん階級を上げ、三冠王バーニー・ロスを破って世界ウェルター級チャンピオンになっているほどの実力の持ち主である。

 ハンディにもめげずヴィリャは終始優位に戦ったが、試合会場がマクラーニンの地元ということもあって、判定は十七歳の少年の手に挙がった。うなだれたままリングを去るヴィリャの後姿に、真の勝者は誰であるかわかっている多くの観客は惜しみない拍手を送ったが、それがヴィリャへの手向けの拍手になろうとはこの時はチャーチルばかりか本人ですら想像がつかなかったに違いない。

 チャーチルはこの試合の後にもスケジュールを組んでいたが、六日にマクラーニンのパンチを受けて悪化した他の三本の虫歯も抜き、術後の経過が思わしくないのを見て試合はキャンセル。とりあえずヴィリャの回復を待ってからと思ったのも束の間、虫歯の膿が血管に入って敗血症を起こし、十五日には帰らぬ人となった。待望の第一子が誕生した翌日のことだった。

 フィリピンの英雄、パンチョ・ヴィリャの遺体がサンフランシスコ港から船でマニラに運び込まれたのは八月八日のことである。彼の葬儀には全島から十万人が参列し、二十四歳の若すぎる死を悼んだ。


 後年、ヴィリャの妻が、夫の死についてマフィアの陰謀説を唱えたことがある。それは、マクラーニンの敗北に賭けていたマフィアが大損したため、ヴィリャに致死量の麻酔を注射したというものだが、当時のヴィリャの背後にはテクス・リカードという全米を牛耳る大プロモーターがいたことを考えると、にわかに信じ難い。

 ヴィリャの若さと人気と実力を考えれば、あと二~三年は一試合で数万ドル単位の興行収益を上げることは可能なだけに、金の卵を産む鶏をむざむざ殺す道理はないし、闇社会にも顔が利くリカードにたてつくこと自体考えられない。

 ヴィリャはニュースペーパーデシジョンによるゴールドステイン戦の敗北を除けば、明らかに負けたという試合が一度もないまま世を去ったため、実力は未知数のままである。

生涯戦績 77勝4敗(22KO)4分 

生涯戦績はニュースペーパーデシジョンを含めて90勝8敗(22KO)4分としているものもあるが、一般的にはこちらは参考記録とみなされている。

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