歪み
例えば、一年後に死ぬと決めたなら。それ以降のことを何も考えなくていいのだとしたら。
それはどんなに素敵なことだろうと思う。悲しいことに、この仮定を置いて描く未来が、今までの人生で見てきた中で一番、輝いて見えるのである。
常に不安に駆られながら将来のための準備に人生を費やしてきた私には、短かろうと一瞬一瞬をそれ自体として楽しむことができるであろうこの選択肢が、どうにも輝いて見えて仕方がない。同時に、この感覚は深い絶望を私にもたらした。結局、私は臆病であるが故に、この瞬間を切り取って生きることも、自ら終わりを定めることもできずに、ずっとあるかも分からぬ先のために今を犠牲にし続けて、そのうち命が尽きるその瞬間に、無駄な努力と時間を惜しみつつ死んでいくのだろう。
この考えに思い至って思う。ああ、死ぬと決めてからの半年の間、あいつはきっと楽しかったのだろうな、と。もっと正確に言うのならば、決めた瞬間が一番気持ち良かったはずだ。
これまで重くのしかかっていた不安から完全に解放されて、生まれ変わったような感覚。未来が可能性に溢れて輝いて見える。終わりへの恐れと、この選択肢が自分にとって一番魅力的に見えるという事実にこっそり絶望し、後戻りできないという感覚にじりじりと身を焼かれつつも、終わりは即ち自分を縛る諸々とこの状況からの解放であると自分に言い聞かせて。とんでもないことをしているのだというスリルと、自分をこの状況に導く要因となった家族に対する密かな反抗のような、復讐のようなものに手を染めていると言う高揚感、そして、ほんの少しの罪悪感。
「せめてもの親孝行としてバイト代でバッグプレゼントしたー」
「ここまで散々迷惑かけたんだから最後に数百万借金残して死んでも親不孝度は変わんなくない?」
「今日は運転の練習したー 他の人乗せて運転するの緊張するけど、親は人間じゃないから大丈夫だった^ ^」
SNSに残されていた呟きの数々。
恨みつらみ、でも、それでも、捨てられない、捨てきれない、家族としての情。心の表面で常に陣取りゲームを繰り広げる、相反した二つの感情。
割り切れたなら、どれだけ良かっただろうか。それなのに、歪んだ精神の中に棲みついた暖かい思い出が期待させる。彼らなりに私たちを愛してくれているのはわかっていたから。いつか、いつか。普通の家族になれる日が来るのではないか。切り捨てることを躊躇わせる。私の行動は、この人たちを傷つけてしまうのではないか。
友人に話をすれば毒親だ、と言われる。
分かっている。「普通」の愛情を注いでもらえなかったことくらい。それでも好きなの。どうしようもなく好きなの。大事なの。この人たちに愛して欲しいの。大事って思って欲しいの。他の誰でも駄目なの。誰が何を言っても、私にとって、私たちにとって、唯一の両親なの。
そうは言っても、私の心の器は常に悲しみと苦しみと不安とを溶かし込んだ液体が並々と湛えられ、ちょっとしたことで大きく揺らいで水面を乱し、波は易々と器の端を超えて目尻からこぼれ落ちていく。それでも器を破壊するには至らないのだ。だから苦しい。それも分かっている。
あいつの残した呟きやメッセージの数々は、まるでそっくりそのまま私の心を写し出したようで、触れるたび強制的に自分の普段見ないようにしている歪みに向き合わされているような感覚に陥る。私とあいつは両親から異なる扱いを受けていたにも関わらず(もしかすると互いにそう思っていただけかもしれないが)、同じような歪みを抱えていることに驚き、戸惑い、もはや面白いと思いつつも私は、自分のことで精一杯で、最後までこのことに気がつけなかった自分の愚かさを呪っている。
そう、私は失ったのだ。血のつながった弟であり、本当の意味で置かれた状況を理解してくれ、共に戦える可能性があった唯一の同志、半身を。ずっと、共に背負っていくものだと思っていた。あいつのことを妬ましく思うことはあっても、それでも私は一人ではなかった。
隣の芝生の青さを羨む前に、心をぶつけられるだけの強さがあれば、あいつも「同じ」であるという可能性に思い至ることができる頭があれば、私たちはもしかすると今も二人で立っていられたのかもしれない。
そして私は気がついてしまった。今まで自分は恵まれている方だと思うことで思考に蓋をしてきたこの状況が、人を自死に導く可能性があるほどのものであることに。恵まれていると思うことで、ずっと遠ざけてきた選択肢がぐっと身近に引き寄せられた気がした。縋ってきた思い出が、急に頼りないものであるかのように感じられた。
そんなことを言いつつも、自らは恵まれているのにただ悲劇のヒロインぶっているだけなのではないかという不安も抱えている。自分の生きづらさと周囲の反応から、きっと普通の幸せな家庭ではないのであろうということには気がつきつつも、お金に不自由するどころか、たっぷりとお金をかけてもらった自覚がある上、身体的な虐待を受けていたわけでもないという事実が全面的に被害者面をすることを躊躇わせる。
私は本当に両親を非難する資格がある人間なのだろうか。もしかすると信じたくないという思いもあるのかもしれない。おそらく、いや、間違いなく、両親は彼らなりに私たちを愛してくれているという確信が、毒親という言葉と彼らを結びつけることに抵抗を感じさせる。両親が注いでくれた愛情を、当たり前のように、尊い、美しいものとして享受したいという思いが、歪められたという思いと私の中で醜くせめぎ合っている。もしかするとこの確信も実は私の願望に過ぎない間違ったものなのかもしれないが。