こわい、でも受け入れられたい
弟の自死に寄せて 心の整理①
あいつは元々、心のうちを見せようとしない人間だった。それは事実である。
私もそういう傾向が自分にあることはわかっているから、きっとあいつも似たような理由だったのではないかと考えている。何もできない自分に価値はなくて、そのうちどうせ裏切られるのだから、初めから信用しない方が良い。価値がない自分で基本的に他の人には、価値があるように、または可哀想に見えるように嘘で加工した自分を見せていて、そのせいで余計に本当の自分を他人に見せられなくなる。失望されるのが怖くて。ハードルを上げたのは自分なのに。まあ、最初から生身の自分だったなら受け入れられたかというと、それも自信がないのだが。本当は、他の人はそれほど私の価値になんて関心はないと気がついているけれど、確立されてしまった自分を安心させるための習慣は捨てられなくて、嘘を重ねるたびに間違ったことをしているという感覚がまた自己肯定感を蝕んで、やっぱり自分はハリボテがないと社会に存在を許されないと感じる。甘えだと言われればそれまでだけれど、私には、私たちには、人間関係で失敗しても逃げ込める場所などない。私たちにとって、両親は決して安心できる居場所などではない。弟には緩い連帯感を感じてはいたものの、家庭においては、ある意味両親の愛を競い合う敵でもあり、完全に心許せる存在ではなかった。ならば、今いる周りの人たちを失ってしまったら、私はどうすればいいの。価値を証明し続けることだけが両親の歓心を買い続ける唯一の手段であった私たちは、その方法しか知らないというのに、大きくなってから幼少期に確立された方法を変えて挫折したとき、誰が許してくれるというのだろう。自分がおかしいと気がついた時にはすでに大きな失敗が許される年頃は過ぎてしまっていて、その上失敗を避け続けてきたために失敗への耐性が異常に低い自覚がある私は、いまだにこの悪癖を治せずにいる。これも甘え。それもわかっている。もしかすると、私があいつに心のうちを打ち明けることがあったなら、何か違ったのかもしれないと今でも少し自惚れている。
それでも自分をわかってくれる人を狂おしいほどに求めているから、許してくれるかもしれない人を見つけると、この人なら、と勝手に期待して自分の醜い中身をちょっと晒してみたりして、それを受け入れてくれたなら、どんどん勝手に期待して、気がつけば依存状態が完成している。
あいつが残した彼女とのやりとりは、私の心をそのまま写し出したかのようで、同じ家で育った人間が同じような葛藤を抱えている可能性に思い至らなかった自分に驚いた。
性格悪いからさ〜、メンヘラだからさ〜、とちょっと勇気を出して打ってみたジャブが受け入れられてしまうと、その人が突然特別になる。この人ならわかってくれるかも、と思ってさらに自己開示してみると、また受け入れられてしまって、俄然特別感が増す。こんなことを繰り返すうちに、すっかり依存し切ってしまって、嫌われたくないと言う気持ちと、この人なら受け入れてくれるはずと言う期待が自分の中で勝手に喧嘩を始めるのである。救いようがない。