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つぶやき  作者: 回夜彩芽
3/5

ずるい

ずっと、弟が羨ましかった。

私の方が努力してるのに。私の方が優秀なのに。どうしてあいつばっかり。

どうしてあいつのお願いは聞くのに、私のは聞いてくれないの?どうしてあいつは自由なのに、私はこんなに縛られてるの?

こんなに頑張ってるのに、どうして?

ずるい、ずるい、ずるい。ずっと、そう思っていた。


昔は、主体的で明るい少女だったはずだ。

幼稚園の頃から片手では数えきれないほど掛け持ちしていた習い事は、英会話を除けば皆私が望んで習い始めたものだと母に聞いているし、毎日のように友人と遊びに行っていたように思う。小学校低学年の頃には、毎年学級委員を務め、人前に立つのもそれほど嫌いではなかったはずだ。


高学年になる頃には、人目を酷く気にするようになっていたように思う。


心当たりといえば、常に成果を評価され、時に人と比較され続けていたことだが、本当にそれが原因であるかどうかは定かではない。また97点なの?本当に一歩足りない女ね。この子は縄跳びもできなくて…〇〇ちゃん、申し訳ないけど教えてやってくれる?〇〇ちゃんは成績全部◎だったそうよ、あんたは◯ばっかりだったのにね。今でも一字一句違わず思い出せる言葉は他にもたくさんある。その時の情景まで脳裏に刻まれていて、ふとした瞬間に意識をよぎることもある。


いつしかできない自分を見せることが怖くなって、できないと思われるのが怖くなって、できるはずのことでも何でも、人前で何かをすること自体が怖くなっていた。

人前に立てば手も声も震え、顔には血が上ってのぼせたように真っ赤になるようになった。


それでも児童会役員に毎年立候補しては選出されていたが、父との約束がなければ、立候補しようなどとは到底思わなかったであろう。

周りの人間に問われるたびに冗談混じりに理由として挙げていた、役員に立候補したら千円、当選したら1万円、という約束。しかし当時の私は必要なものは両親に言えば大抵買ってもらえ、友人と遊びに行くにもその都度小遣いをもらっていた身。家族へのプレゼント以外で自分のお金に手をつけることなどなく、お年玉で十分間に合っていた私は、これらのお金に手をつけることなく大学生になった。

今思えば、金銭的な価値以上に、役員に立候補して選ばれれば、もれなく父に自分を見てもらえる、認めてもらえるという事実が魅力的に見えていたのだと思う。金銭的な報酬、数字という形ではっきりと自分の価値を示してもらえる、見ることができる。私はこの感覚に取り憑かれてさえいたと言える。


数字で評価してもらえるのは、勉強も然りであった。いつからかお手軽に自分の価値証明をしてくれるものとして、私の拠り所となっていた。そのうち勉強にも金銭的インセンティブが設定されるようになり、何かの資格を取れば何円、模試を受ければ偏差値60以上で500円、65で1000円、70で1万円、75で5万円、80で10万円。お金がもらえるから、スリルが気持ちいいからなど嘯きながら、私はおそらく両親に自分を見てもらうために、存在価値を示し続けるために受けられる模試があれば手当たり次第に受け続けていた。

高校も学年が上がるにつれて、模試の回数も増えてくる。月に2つ、3つと受け始めるようになり、流石に追いつかなくなってきたのか、塾代を模試のご褒美で稼ぐように言われるようになった。当時はそれには全く不満はなかった。弟が受験生になるまでは。


学校の勉強が割合得意だった私と違って、弟は頭はいいものの、勉強は苦痛なようで、中学に上がった頃から苦労するようになっていた。中学は母のサポートを受けて、なんとか学年の上位で卒業できたものの、高校生になってからは授業について行くのがやっとで、高二になる時には赤点を取らないことの方が珍しくなった。それでも父は男の子だからという理由で弟には絶対に大学に行かせると言い張り、弟が合格できる可能性があるあらゆる大学を母に調べさせ、金を出して弟を塾に通わせた。私が受験生の時には、最上位校の受験しか認められなかった上、第一志望に不合格となり、私立トップ校に進学すると決めた時にも、浪人するようにと嫌味を言うばかりであったというのに。確かに、私は勉強が得意だった。それでも、勉強が心の底から好きだったわけではなく、苦痛に思いながらも努力してきただけだったのに、苦痛から逃れてサボった弟が甘やかされているのが許せなかった。どうして。私の時にはキリがつくまで3分夜ご飯を遅らせて欲しいと言っただけで激怒して席を立ったくせに、あいつの時はあいつが部屋から出てくるまで10分でも15分でも何も言わずに待ってるの。それどころか、やっと部屋から出てきたあいつに、勉強してて偉いね?ふざけないでよ。


受験が終わって、進学先が決まってからも、私の苛立ちはおさまらなかった。父はしきりに希望のところに行けなくてかわいそうだったね、と言っていて、家を探す時にも、私にはワンルームの家賃相場が6万円前後の地域で4万円しか出さないと言い放ち、持って行く家具も軽バン一台に家族と一緒に載せても収まる程度しか許さなかったにも関わらず、弟には家も家具も自由にさせていた。さらに私を苛立たせたのは、弟が父から受け取っていたご褒美である。学習アプリの継続について100万円を越えるご褒美を、ノートパソコン代を引かれたとはいえ受け取っており、余裕がなかったのだろうと塾代としてご褒美を返上することに無理矢理納得していた私の神経を盛大に逆撫でした。


不満に思っていたことは他にもある。母の干渉とそれに対する父の態度である。


母は過干渉気味で、私にプライベートや自由など存在しなかった。自分の部屋はあっても、母は勝手に出入りしていたし、ノックをすることさえもなかった。高校生の時の門限は5時で、塾帰りはおろか、学校帰りも迎えにくる徹底ぶりであった。大学に上がって一人暮らしをするようになっても、門限は11時。携帯についたGPSで居場所を確認して、門限が過ぎても外にいることがあればすぐに電話がなった。母は弟に対しても同じような態度で接していたが、弟が中学に入った頃から、過度な干渉を諌めるようになった。結果、弟はプライベートを確保し、夜の11時ごろまで帰ってこないこともあった。弟が大学に上がって私と二人暮らしをするようになってからも、母は時折私たちの家にやってきた。その時には当然のように私の部屋に滞在し、弟は自分の部屋に閉じこもって普段通りの生活を謳歌している。異性親だから仕方ない?だからって私の自由が制限される理由にはならないはずだ。常に監視されている感覚に、2週間の母の来訪が終わる頃には私の精神は限界を迎え、2人が寝静まった夜中にリビングで1人で毎日泣いていた。それは父が一緒に来ている時でも同じで、母は私の部屋、父はリビングに滞在する。それを当たり前のように受け入れている自分以外を前に、私は口を噤むしかなかった。


どうして私だけ?あいつばっかりずるい。常に心の端に巣食う感情は、今でも捨てられないままだ。

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