7話「穏やかに過ぎてゆく時間」
ここ最近の暮らしは順調そのもの。ややこしい人に絡まれず、悪口を言われることもなく、理不尽に否定されることもない。穏やかな日々というのは心についた煤を払い落としてくれるかのよう。一つ、一つ、呼吸を重ねるだけでも穢れが落ちてゆくように感じられるほどである。
また、ベリッツォと関わることにも慣れてきた。
あれからも定期的に会ってお茶をしたり喋ったりしているが、彼と過ごす時間はいつもとても楽しいものなので、生活の潤いとなっている。
ベリッツォは否定的な言葉をかけてこない。言葉という刃を向けるようなことをしてくることはない。基本的に常にポジティブ。そして私を傷つけようとする発言を繰り返すこともない。
なので彼との時間は平和かつ快適。
だからこそ、また会いたい、と思える。
「ダリア、今度さ、良かったら海とか見に行かない?」
ある日のこと。
いつものようにお茶をしていたところそんなお誘い。
「え……う、海?」
「どうだろ」
「海なんてもうずっと見に行っていないわ」
生まれてから一度も見たことがないわけでないけれど、もうずっと海なんて見ていない気がする。
最後に海を眺めたのはいつだっただろう。
何年前といったような具体的な数字は思い出せない。けれどもその経験がずっと前であることだけは確かだ。最後に海を見た日、それはもう遠い過去。
「そういうの嫌い?」
「いえ……」
「何か言いたいことが?」
「ただ、いきなりだなって、そう思っていたの。急にどうしたのかなって」
するとベリッツォは愛嬌のある笑みを浮かべる。
「たまには外に出てみるのもって考えてさ」
彼は不満げな顔をせず素直に答えてくれた。
「いつもはあまりいろんなところへは行けないけど、たまには、って」
「そういうことだったのね」
「どうだろう? もちろんダリアが嫌なら無理にとは言わないし」
少しだけ考えて。
「お誘いありがとう」
答えを出した。
「いいわね、行ってみたい」
彼とであればきっとどこへ行っても楽しいと思うから、お出掛けというのも悪くはなさそうだ。
「良かった!」
ぱあっと晴れやかになる彼の面。
「じゃあ今度海を見に行こう」
「ええそうね」
緊張から解放された様子のベリッツォは「あー! 言ってみて良かったー!」と心をそのまま吐き出していた。
何も気にせず深く考えずさらりと誘ってきているのかと思っていたけれど、そうではなかったみたいだ。
「また日程とか決めよう」
「そうね」
ベリッツォは嬉しそうな表情のまま言葉を紡いでいる。
「都合の良い日とか聞かせてもらうかもしれないけど」
「もちろん。問題ないわよ。けど、貴方だって色々忙しいのでしょう? そちらの国のこともあるし。大丈夫なの?」
こんなに構ってもらって本当に良いのかな、なんて思う部分もあるけれど。
「問題なし!」
「なら良いのだけれど……無理だけはしないでちょうだいね」
ただ、こうして嬉しげな顔になっているベリッツォを目にしたら、私の方まで嬉しくなってくる。
いつも構ってもらっている。いつも気を遣ってもらっている。もうただの友人ではなくて、今では身分差もあって、それでも優しくしてもらっている状態。なのに私は彼に何も返せない、と、若干不安だった。でも、もしかしたら少しくらいは返せているのかな、なんて思ったら、ほんの少しだけだが心が軽くなってくる。彼が私に与えてくれているほどのものを返すことはできないとしても、だ。
ベリッツォと海を見に行く日が来た。
いつもより少し綺麗な紺色のワンピースを着てみた。
こんな風に楽しくおしゃれをするのは久々だ。
「その服いいな」
「ありがとう」
隣り合って歩き出す。
日射しは二人を祝福するように静かに地上へ降り注いでいる。
「ベリッツォって海が好きだったの?」
「あー、いや、まぁ」
「普通?」
「そんな感じだな」
「そう……でもそうだとしたらなおさら不思議だわ。海に意味なんてないのに誘ってくれたのね」
静けさの中に、二つの足音が響いている。
「たまにはどこか行けたらなって」
「ありがとう」
「迷惑だったらはっきり言ってほしい」
「分かったわ」
「これは迷惑じゃない?」
「ええ」
徐々に海が近づいてくる。
微かに耳に届く波の音が心地よい。
まるで私たちの時間特別感を高めてくれているかのように、波は規則正しい音を立てる。緩やかで、しかしながら力強い、そんな水の音。
「天気、悪くなくって良かったわね」
「確かに」
「暑すぎるのも寒すぎるのも疲れるものね」