表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/7

1

 (よど)んだ低い雲から、鬱陶(うっとう)しい雨がしとしと(こぼ)れてくる。それでも紫陽花(あじさい)は色鮮やかに咲き誇りながらしっとりと濡れ、花弁から(したた)り落ちた水滴が色を移したように輝きながら、ゆっくりと落ちて行った。薄く生えたあたしの短い白い毛も、ぴったりと肌に張り付いて、体を冷やしていく。

「ちゃっぷい」

 思わず口から出た言葉は、寄り添っていたお兄ちゃんの(くしゃみ)で搔き消された。後ろにいた弟が、足元に敷いている毛布の端を口で咥えて、お兄ちゃんの方に引き寄せてくれた。人通りもない、紫陽花の下に置いてきぼりを食らって、どの位経っただろうか。茶色の段ボールも湿って冷たい。

「ママー、ママー」

 弟が必死に叫んだ。つられてお兄ちゃんも、ママを呼ぶ。呼んでも叫んでも聞こえるのは、しとしとと降る雨の音だけだった。冷たい段ボールに手を掛けて顔を出してみると、硬そうな灰色の地面に水溜(みずたまり)りが在った。雨が水面に沢山の弧を描いていて、綺麗だった。暫く眺めていると、遠くから黒い人影が近づいてきた。灰色の傘を斜めに差した、黒スーツ姿の男だった。鼻歌を歌いながら、軽い足取りの男の革靴が水溜りを踏んだ。水溜りは華奢な音を立て、弧が水面を幾重にも寄って重なって面白かった。

「ママー」

 お兄ちゃんが、また叫んだ。男の人は、あたし達を見つけて駆け寄ってきた。

「捨て猫か。雨なのにな、可哀そうに」

 男は、あたし達を見て辛そうな顔をした。

「ママー」

 お兄ちゃんが、叫ぶ

「ごめんな、俺の家は飼えないんだよ」

 そう言って、手に持っていた灰色の傘を斜めに被せてくれた。

「これで、勘弁して。良い人に貰ってもらいな」

 男があたしの濡れた頭を撫でてくれた。男の手は大きくて暖かくて、とても気持ちが()かった。男の手があたしの頭から離れ、傘の向きを少しだけ直してくれた。

「ありがとう」

 少し照れながらあたしが小声で言うと、じゃあな、と言って男は、寂しそうに立ち去って行った。傘のお陰でもう濡れることは無かったが、段ボールも毛布も体も冷たかった。

「おにいちゃん、てがちゅめたい」

「こっちによこして」

 お兄ちゃんがコロンと横向きに寝転がってくれた。お兄ちゃんのお腹に両手を差し入れると、とても暖かく、トクントクンと鼓動が伝わってきた。

「いいなー、ぼくも」

 弟も両手を突き出してくる。あたしが横向きにコロンと倒れると、弟は両手をあたしのお腹に遠慮なく押し付けてきた。濡れた頭が鬱陶しいけど暖かく、このまま寝そうになった。暫くうつらうつらとしていると、しとしとと降る雨の音がしなくなり、カアと何かの音が聞こえた。耳を澄ましてみるとバサバサと音がして、その音は小さくなって聞こえなくなった。遠くでカアカアと聞こえた。何の音かなと思っていると、コツコツと音が近づいてきて、弟がむくりと起き上がった。

「ねえ、猫だよ」

 声がして、弟の体がひょいと持ち上がった。

「はなして」

 弟が叫びながら、体をくねらせている。吃驚(びっくり)して飛び起きると、女が弟を抱きかかえた。

「なにするの」

 あたしは大きく叫んで、お兄ちゃんを起こそうとした。すると、お兄ちゃんは咳込んで少し(うな)った。

「ねえ、猫だよ」

「あ?要らねえよ」

「捨て猫だよ、可愛いよこの子、貰っていい?」

「仕方ねえな。一匹だけだよ、後は無理だ」

 抱きかかえられた弟が、こっちを見てナーと鳴いた。何て言ったか解らなかったが、気持ちよさそうに笑っている弟を見て、あたしもナーと鳴いてみた。

「行くぞ」

「あん、待って。よしよし、良い子ですねえ」

 嬉しそうな笑顔の女は、弟をあやしながら小走りで男を追い掛けて行った。

「おにいちゃん、おとうとが」

 お兄ちゃんは激しく咳き込んで、苦しそうだった。お兄ちゃんの頭を舐めてあげると、とても熱かった。

「おにいちゃん、すごくあちゅいよ」

 お兄ちゃんが言葉にならない声を出して、苦しそうにナーと鳴いた。

「ねえ、まって。おにいちゃんがくるしそう」

 段ボールに手を掛け、頭を出して叫んだが、女と弟の姿はもう無く、水溜りが静かに空の色だけを移していた。

「だれか、ねえ、たしゅけて」

 叫んだが、何も聞こえなかった。見上げてみても、傘の上に紫陽花が咲き誇り、低い雲が横に流れていくのがわかった。

「ねえ、だれか」

 声を振り絞って叫んだ。遠くでカアと聞こえた。紫陽花がゆらりと揺れ、傘がカタカタと音を立て、あたしの短い毛を風が撫でて行った。

「たしゅけて」

 それでも声が続く限り叫び続けた。振り返ると、お兄ちゃんの様子がぐったりしているのが見えた。嚏が出て鼻水が垂れそうになる。それでも叫んだ。

「たしゅけて」

「あ、傘だ」

 突然、横から声が聞こえた。見ると、黄色い帽子を被った女の子が覗き込んできた。

「お母さん、猫が傘をかぶってる」

 女の子が後ろを振り返りながら言った。

「あら、可愛い。白猫ね、まだ小さいじゃない」

 長い髪を一つに束ねた女が、女の子の後ろから顔を出した。

「あら、もう一匹いるわ」

 お母さんと呼ばれた女の手が、お兄ちゃんの体に触れた。

「熱い。これは、大変」

「病院に連れて行こうよ、ねえ、お母さん」

 女の子は、お母さんの袖を握って揺さぶった。そうねと言って、お母さんが段ボールを抱えてくれた。あたしの体はぐらりと揺れ、女の子が灰色のあの傘を閉じてあたしを支えてくれた。

「病院ってなに?」

 声に出して聞いてみたが、か細い声しか出せなかった。お兄ちゃんの息が荒く弱くなっていて、あたしは支えてくれた女の子を見る事しか出来なかった。女の子は、心配そうに覗き込みながら、あたしを毛布に寝かせてくれた。

「毛布が冷たい」

「車に毛布があるから、走って取ってきて」

「わかった」

 段ボールを抱えたまま、お母さんが歩き出した。あたしを寝かせてくれた女の子は、力強い足音を鳴らしながら遠くへと消えて行った。

「行くわよ、箱から出ないでね。大丈夫だからね」

 お母さんがそう言って、歩き出した。段ボールから顔を出すと、紫陽花が風に揺れながら、だんだん小さくなって行くのが見えた。

「お母さん、毛布」

 黄色い帽子を被っていた女の子が、毛布を振り回して走ってきた。お母さんの足音が止まると、軽い毛布がふわりとあたしの体を覆った。

「そっちの子も、毛布に包んで。濡れた毛布は横に寄せて」

 女の子の手がお兄ちゃんの体を優しく掴んで持ち上げ、毛布に包んでくれた。

「いいよ」

「行くわよ」

 段ボールが少し揺れると、お母さんと女の子の急ぐ足音が聞こえてきた。あたしの体も少し揺れたが、渇いた毛布が心地よくて、叫んで良かったと心から想えた。毛布の向こうにお兄ちゃんの顔が見えた。少し苦しそうな表情をしていて、規則的な弱い息遣いと、二人の急ぐ足音が重なって不安になった。毛布から顔を出して外を見ると、横に流れていた低い雲から一筋の陽が射しているのが見え、とても暖かそうに思えた。前方に大きな四角い赤色の物体が見え、女の子がその側面に手をかけると、硬い音が聞こえたの同時に横に開いて、中には窓があった。女の子が物体に入り、手渡しで段ボールごとあたしとお兄ちゃんを物体の中の椅子の上に置いてくれた。

「車を出すわよ」

 お母さんの一声で、あたしたちが乗り込んだ車と呼ばれた物体は音も無く動き、窓の外の景色が横に流れて行った。

「どこにいくの?」

 か細い声であたしは女の子に聞いた。女の子はあたしを見て「大丈夫よ、すぐ着くからね」と言って頭を撫でてくれた。女の子の手は小さいけれど暖かかくて頼りがいがあった。舐めてあげると、くすぐったいと言って女の子が笑った。

「確か川沿いの3丁目に、病院があったよね」

「そうね、其処(そこ)しか想い出さないわ。少し急ぐわよ」

 車が密集した家々の間を抜けると大きな水溜りが見えてきた。灰色の雲の間から光が幾重にも射し大きな弧を描いて薄らと虹が見えた。

「揺れるわよ」

 お母さんの声が聞こえると、女の子の手があたしとお兄ちゃんを支えてくれた。あたしの体がぐらりと揺れると、窓の外の景色が動かなくなった。お母さんが車を降りて、あたしとお兄ちゃんを段ボールごと抱えてくれて、女の子は白い建物のガラスのドアを開けてくれた。中に入ると、空気がとても暖かく感じてほっとした。

「すみません、子猫を拾ったんですが、見て貰えますか?」

 カウンターの向こうで女が、先生、と言って後ろを振り返った。ガラスの窓の近くに椅子があり、男の人が座っていた。その横には、茶色いけむくじゃらの大きなのが居て、ハアハアと息遣いが荒く、突然ワンと吠えた。お兄ちゃんの体がびくりと反応して、あたしも身を固めると、静かにしてと男の人が茶色のに向かって言った。そしてカウンター越しにお母さんの手から、段ボールごとあたし達は女の手に渡った。

「すぐ診ます、こちらでお待ちください」

 お母さんと女の子の顔が見えなくなると、お兄ちゃんが大きな手で掴まれて、居なくなってしまった。

「おにいちゃん、おにいちゃん」

 いくら叫んでも、お兄ちゃんは戻ってこなかった。寂しくなって渇いた毛布に顔を埋めようとした瞬間、あたしも大きな手で掴まれてしまった。

「なにしゅるの、はなして」

 ジタバタと、手と足を動かして抵抗した。

「ごめんね。ここに居てね」

 優しい女の声が聞こえると、平らな台の上にあたしは置かれた。四つん這いになって、少し怒っていると、突然尻尾を上に持ち上げられ、お尻の穴に何かが刺さった。吃驚して身を硬くすると、背中を撫でられた。ピピッと音が聞こえるとお知りに刺さっている物がなくなって、ほっとした。そして柔らかく毛足の長い毛布に包まれ、体をゴシゴシと擦られた。

「濡れた体を乾かしましょうね」

 優しい声でそう聞こえると、ふわりと風があたしの体を覆った。あたしの短い毛が少しずつ渇き、暖かさに眠気を覚えた。

「この子は大丈夫ね、元気、元気」

 毛布に包まれながら、元気という言葉に安心して毛布に顔を埋めた。お兄ちゃんは大丈夫だろうかと思ったが、柔らかく暖かい毛布にママのぬくもりを思い出し、そしてそのまま誘われるように、心地よい眠りに落ちて行った。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ