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IX

「いったい、ほんとのことかね。槙ヶ原家の御沙汰(めいれい)で、錦木さんに立ち退きを食らわせたっていうのは。どうなんです、越中(えっちゅう)さん」

 越中屋長助は、酒屋(あの時雨の夕に、河童が錦木の宿から徳利をさげていった酒屋である)の主人で、同番地の管理人(おおや)も務めている。ある晩の夕食時を過ぎたころ、杖はつかぬが後ろ手を組んで のこのこ、やっこらさと、その酒屋の軒下にかかった燕の巣の下をくぐって入ってきたのは、ほどよく酔いの回った花政老だった。印半纏(しるしばんてん)服装(みなり)だとはいえ、表通りに構えた店の大隠居である。

 かたや越中屋長助は、めくら縞の鯉口(こいぐち)シャツに、浅黄木綿の三幅前掛(みはばまえかけ)を巻いた服装(いでたち)である。マッチを擦ってもくしゃみをしそうに目をクシャクシャさせて働いているが、とにかく律儀なことにかけては定評がある。五、六人の若者や小僧を使って、酒、醤油を量り売りしていても、客が来れば、へい、いらっしゃいと、自ら飛びだす気骨者だ。今も、夜だというのに帳場格子の内にこもる様子はなく、おったて尻で客の出入りを見張っていた。

 やってきた花政老を目にすると、あわてて飛びあがって、まずはこちらへと、帳場のほうに招こうとした。けれども花政は上がりもしないで、酒樽の上にどっかりと腰を下ろしてあぐらをかく。さながら、神社の随身門の矢大臣といったところ。そうしてみると腰が曲がっているとは見えず、洞ヶ峠の床几に座って天下の日和を見る筒井順慶といった面構(つらがま)えである。ぱっくり口を開けて唇をひと舐めしたから、自らの利き酒で四斗樽のひとつやふたつ注文かと思いきや、そうではなかった。

 出し抜けの問いではあったが、返事に差し支えることではない。それでも、低い声で口を濁しながら、

「ええ、その、立ち退きなどと申しましては穏やかではありませんが、地主の槙ヶ原様のほうに、少々余儀なき事情がございますので」

「事情もなしに出て行けなんて言えるはずもないやね。どうせ家賃を滞納してるってなことだろう」と言った老人の首には、財布の紐がゆるりと掛かっている。

「まずは家賃のこともございます。しかしそれについては、お屋敷のほうで一時的にお立て替えされても構わない、その上で相当の引っ越し料を出してやろうとまでおっしゃるんでございましてね、はい」

「たしか、このあたりの貸家は、槙ヶ原の所有ではないのでがしたね。越中さんは管理人(おおや)さんだが、なぜ槙ヶ原の話を?」

「へい、未熟者ながら務めさせていただいております。借家は持ち主が違いますが、地所はすべて槙ヶ原様のもの、と申した次第でして」

「地主だとしても、別の家主に宛てて、借家人の家賃を立て替えて、引っ越し料まで出すもんですか。これがほかの大金持ちなら、陽気の加減で気まぐれを起こす、なんてこともしなさるかもしれない。だがね、越中さんの前だから言うんだが、町内に火事がありゃ、消防士が水をかけずに火を(あお)って差しあげようというほどケチで嫌われたお屋敷が、家賃、引っ越し料まで出そうってのは、どういうわけなんだかな」

「それがね、ご隠居さん。容易ならぬ事情でして」

「はて、事情とは?」

「ただいま槙ヶ原様がお住まいになるお屋敷は、たしか一昨年あたりご新築になりましたもので、根岸にある旧邸は、今では別宅になっております。その元のお屋敷から、子爵様がお人形をおつれになり……いや、子爵様ご同様にお人形が居を移されました。ご先祖代々、中興の城の御天守にお()え申したという、一体のお人形でございます」

「はあ、木偶(でく)がひとつだと?」

 それを聞いた越中屋長助は顔をしかめると、

「いえいえ、槙ヶ原様ご先祖代々の御霊(みたま)とも申すほど、大切なお人形で。白菊様と申します」

「ははあ、白菊だと……名前からして、こりゃ(めす)だね」

「とんでもない。へへへ、ご隠居ときたらご冗談ばかり。雄雌(おすめす)などと軽口がすぎますことで。……そもそもがそのお人形のことは、お家の秘密でございましてな。お屋敷のご家来衆の皆様でも、めったにお姿は拝めません。ゆえに男体(なんたい)女体(にょたい)かを存じたものはないのだそうです。と申しますのが、先ほどは『白菊様』と申し上げましたが、お屋敷では、子爵様、若殿様、その他の家令(かれい)家扶(かふ)の男の方々はそのお人形を『雲井様』と申されます。奥方様やお姫様(ひいさま)、お小間使い方などすべての女の方々は『白菊様、白菊様』とおっしゃる(おきて)になっておりまして、同じお人形でもおよび申し上げかたがふたつございますくらいで、御本体がどうかなどはよくわかりません。なにしろ、徳川家、豊臣家、足利家などではありません、源平(げんぺい)藤橘(とうきつ)が栄えたころの、あの藤原時代から伝わるお姿だとの噂をうかがいます。本館とは別に奥殿を建て、お人払いをしてお据え申してらっしゃるそうで。

 ただし、秘仏を守るお前立(まえだち)として、白菊様にかしずく若衆人形がいらっしゃいまして、こちらは皆様も知っておられます。お出入りの町人が拝めるものではありませんが、お客様、ご家来衆のどなたもご存じで。ええ、前髪立ちで眉のきりりとした、涼やかな目が美しい、それはそれは凜々(りり)しい、『霧之助殿』と申すお人形です。(くろ)羽二重(はぶたえ)の紋付に萌黄(もえぎ)滝縞(たきじま)(はかま)をしめ、その脇差しと申すのが、少しばかり変わったご趣向で、黄金(こがね)づくりの小太刀(こだち)だそうでございましてな」

 花政老はあぐらの上にした片臑(かたすね)を落として、腕を組むと、

「はて、こいつはチと高価(たか)そうだね」

勿体(もったい)もないことばかりおっしゃって、へへっ。この霧之助殿とても、お小間使いごときが手で触れることも相成りません。夏冬の時節のお召し替えも、ご本尊同様に、なんでもお屋敷総領のお姫様がお手ずから脱がせ召せおさせ申すのが、御代々の(さだ)めだそうで。もっとも姫様がいらっしゃらなければ、奥方様のお役目となることは、申すまでもございません。

 それがあなた、これがためには、大鉱山の持ち主で、北海道の王と申すお方にお嫁入りされたお姫様が海を渡って、雛と菊の節句ごとに、わざわざはるばるとお屋敷にお立ち戻りになると、お装束をお(あらた)めになりますほどでして。そのみぎりにはお姫様は、髪を下ろして白無垢(しろむく)、緋色のお下襲(したがさ)ねという清らかでお美しい姿になられて。やはり別室で、お人払いの上でなさるそうでございます。夏冬のお召し替え、これが御代々で一度でも等閑(なおざり)になりましょうものなら、たちまち白菊様のご機嫌が損じて、お屋敷には長患(ながわずら)いどころか、火難、盗難、険難、水難が納まらぬことになりますそうで、事も容易ではございません。……すでに先頃、この九月にも、お姫様がお立ち戻りになられ、そのお儀式が相済みましたばかりなのでございましてな」

 花政老は天井を仰いで目をつぶると、

「費用は、婿持ちでしょうな」

「はあ……」とだしぬけに言われた越中屋は、意味を解しかねている。

「いやね、槙ヶ原のことだ。長女が北海道とを往復する旅費なんぞは、どうせ婿のほうにおんぶでしょうね」

「はあ、そのあたりはなんとも存じ上げませんが。なにしろ、事も容易なりませぬ次第で。もっとも御縁組み以前からこの儀は、堅いご契約と承っておりますよ、はい」

「先祖からの御霊だと言ってるようだが、ご大家の先祖が木偶ってこともないだろう。それを家の掟にして守ってることには感心するが。もっともさ、火難、盗難、水難、険難で脅かされてなきゃ、白無垢をひきずっても畳が減るなどと言いだしかねないお家ではあるがね。……まあ、それはよしとして、お話はなるほどと思うが、越中さん、その話がなんだって美人の立ち退きに関わりあいがあるんでがすか?」

「そこでございますよ、ご隠居。お屋敷様の姫様が御婚礼のみぎりに、そうした御約束がございましたのと同様に、お屋敷様がこの地所をお貸し下さりますときにも、堅く申し渡された儀がございました。借家の家主へのご内意として、建てた家のなかには、一人(いちにん)欠片(かけら)たりとも盲人を住まわせてくれるな、ということでございます」

「盲人を……なぜだ?」

 と、花政は腕組みをしたまま、前屈みで頭を乗りだす。

「一人欠片たりとも……っていっても、按摩(あんま)欠片(かけら)なんてのは、ついぞ見かけたことがねえがな。ははは」

 越長も苦笑いした。

「へへへ。とは申しましたが、男の按摩は構いません。瞽女(ごぜ)がいけません。その白菊様が金輪際、女の盲人をお嫌いあそばすのだそうでございまして」

「たいそうなわがままだね。とはいっても、色がらみの瞽女さんは私も御免だ。朝顔日記の宿屋の段であるだろう。大井川のほとりで、見えない目で空を仰いだ瞽女がハッタと倒れるところなんざ、お前さん、牡蠣の剥き身がどろりといった愁嘆場で、見てるだけでも怖気(おぞけ)が走る。が、それはともかく、女の盲人がどうしたっていうんだね」

「それが、御屋敷様ではですね、ご隠居。どうしたことでございますか、いやな、御気色の悪いことばかり続いているのだそうです。あそこにトーマスという、有り難いことに内閣大臣方から下賜されましたところの、その……」

「知ってまさ。南瓜(かぼちゃ)、いや南瓜(かぼちゃ)じゃねえ南瓜(とうなす)だ、トンマだね。このあたりでいやあ、背高のっぽの魚屋の定みたいな奴だ」

 店の若者たちがどっと笑った。

 越中屋長助はくしゃくしゃの目をなおもしかめて、彼らをにらみつけると、

「さてご隠居。彼岸の中日の夜中のことです。時刻は一時頃、御門を(たた)いた電報配達夫が悲鳴をあげてぶっ倒れましたので、門番の爺やがびっくりして出てみますと、その大黒犬が土塀の屋根に乗っかって、流れ星を見ながらあくびをしていましたそうで。屋根に犬が上がりますと家の(いしずえ)がぐらつくと申すくらい、よくない兆しといいます。さらにはネズミが井戸に落ちて釣瓶で上がりますし、未熟な柿がぽたぽたと(へた)を離れて落ちます。時節外れのナメクジが湧いて御床の間を()ったり、御台所の屋根に草が生えて大きな蛾が飛んだり、お求めになった魚の目玉が抜けていたり、お玄関の(ひさし)でカラスが鳴いていたり。それはそれは忌まわしくて、いやなことばかり。いずれも前例があり、御屋敷の御記録にも残っておりますことで、それらはみな、雲井様御不興のお祟りなのでございます。しかしどう調べても、御家来衆に手抜かり、落ち度は見あたらず、お上のお申し付けを守って務めております。もしや、と八方を探しますと、なんとご隠居、地所内どころか、なんとすぐそばの井戸端の琵琶の木の陰に、錦木でございますな、その、奥さんでございますか、お嬢さんか、お師匠さん、姉さんかと、なんとも得体の知れない、あなたのおっしゃる美人が住んでおります。聞きただしますと、不思議なことに、御屋敷で不審がはじまりました彼岸の入りごろから眼病を患っているとか申すことで」

 結局のところ、彼らは知りはしなかったのである。和歌子が雑司ヶ谷からの戻りしな、河童に背負わせて帰った曼珠沙華(ひがんばな)を、人に問われて、冥途を照らす松明だと言った、悲しきその心の(うち)を。


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