VII
「お前より俺の方が驚くってもんだ。たかが五町離れたとこへの使いに出てから、もうかれこれ四時間になろうってえんだ」
花政老は夜になると、奥の六畳で楽隠居である。ねんねこにくるまり、お膳を前に、銚釐の燗酒をたらふく味わう。肴は黄肌の中脂。時雨が降るからちりにけりと、ちり鍋も用意はさせたが、今は老後の楽しみだと、手製の嘗物を味わう最中である。
「悪戯でも、なまけるにも、ものには限度ってものがある。馬鹿もお前ぐらいになると、呆れが宙返りをしてヘソがくすぐってえ、てなもんだ。な、たとえばこれだ」
と与四郎に見せつけるように、紅白の水引がかかった進物を、火鉢のそばへ突きだした。あたかも曾我対面の工藤館で、胸高な熨斗目柄を着た小林朝比奈が床几に腰かけているといった見てくれの、仰々しい代物である。
「ざっと葉書ほどはあろう、この大きな名札を拝め。子爵槙ヶ原家執事、近藤友秀だと。ああ、誠に勿体ねえ。花政風情に、紋付羽織り御袴姿で御上使だ。先刻奥方様に御用立て申し上げた唐傘の御返礼だと。
で、中身はなんだったと思う? 藁半紙九枚。九枚、九枚と言っても同じことよ。半死半生という洒落かと笑ったが、九枚とくりゃ九死一生だ。
ものには限度ってものがある。呆れが宙返りするったあこのことだ。金襴銀襴のきらびやかなるところの御袱紗に包まれて、白木の台までついている。袱紗と台は下さるんじゃねえ。切腹すれば腹切刀だってお返しするのだ、返さずに刀の血を舐めたってなあ大星由良之助だけだと思え、とでも言いたげじゃねえか。
おまけにこの下されものを取り次いだうちのお光ときたら、俺が燗銚釐へ手をかけたところに、目を伏せて摺り足で『父どん、父どん』なんて言いながらこれを持ち出してくるじゃねえか。そんな長いものに巻かれる了簡でいやがるようじゃ、あいつも不出来な江戸っ子だ」
そうまくしたてると、息子の嫁のお久といっしょに、台所で次に出す酒の肴をキビキビと準備しているお光のほうを、口を大きく開けながら透かし見して、
「な、ロクな婿は迎えめえ、俺あこの歳だからなんの未練もねえ、こうなると口より手が先に出るってもんよ。水を浴びせるより火をつけるほうが疾えのよ……ものには限度ってものがある」と、小声で言った。
とはいいながらも、老人は小言の口よりも銚釐酒の酔いのほうが回っている。
「与四公よ、よくもてめえ、店に入るところを天秤棒で向こうずねをブチ折られずに済んだもんだな」
それこそ花政老が、のたまったとおりの事態だった。
使いに出たまま、いつまでたっても帰ってこない与四郎を懲らしめようと、手ぐすね引いて待ちかまえた喜代吉が、高箒を握りながら、夕荷で届いた、菊を積んだ花車の陰にかくれていた。はじめは天秤棒を握っていたのだが、「怪我をさせるからやめてよ、ほんとに……」というお光の思いやりもあって、高箒に変わったのである。和歌子を送って店を出てから三時間強。とっぷり日が暮れたころになって、横町の門に与四郎が唸る浪花節が聞こえてきた。
「……降りくる雪に赤合羽、赤垣源蔵武重が……」(この赤穂義士の名は「武重」ではなくて「重賢」であるが、小僧が言ったとおりにそのまま記しておこう)
「ほッほう」
店先に姿を現した小僧は、一本足でヒョイっと飛んで、耳もとに両手をかざしてミミズクのまね。
「この野郎!」
喜代吉の高箒が、後手に回って空を切った。店の敷居を飛びこえた与四郎は、いきなり奥の敷居の前で逆立ちしながらお辞儀する。まったく手のつけられない次第なのだった。
「な、言ったとおりだ。だが少しばかり痛い目をみさせても、根性の直る野郎じゃねえ。一番は断食だ。晩飯を抜いてお仕置きをしようと思やあ、天ぷらそばを四杯ご馳走になってきたなんて言いやがる。食わせも食わせた。食いも食った。天の道理はあるのかと言いてえや。――お光坊や、お銚子のお代わりだ」
「姉さん、いいのかねえ」
兄嫁のお久に、お光が小声で訴えている。
「お父っあん、そんなに飲んでいいの?」
花政がまた、あんぐりと口を開けて、
「天の道理はあるのかねえ。黙ってもってきな。酒だと思っちゃいけねえ、与四公にお説教する仏前に供えるんだと思え。大和尚しかも禅坊主が如意でもって説法をくらわせるほどに偉いんだ」
と台所に向けた大きな声を、今度はひそめて、
「で、なにか、あの美人が裸になったのか?」
首を振りながら与四郎に尋ねた。
「へい。うちのお光さんのような美人の、あの緋縮緬の人が……」
「そんなお世辞はどうでもいい。で、なにか、質屋の使いに着物を渡したと」
「へい。『そっくり持っといで!』と言って、胸も、お乳も丸見えになって。白薔薇の花束みたいなんです」
と与四郎は、むきだしになった膝小僧を隠して座り直すと、気を保つように胸をなでる。
「あのお姫様のようなのがなあ」
「だもんですから、質屋が驚いたんで。へい、私も驚きました」
「俺だって驚かい……光坊や、酒が遅いよ」と台所に声をかけ、火鉢の縁を雁首でゴツンと叩く。
「私だって、驚くわよ」
与四郎が膝をもじもじとずらしているところへ、お光が来て銚釐を掛けた。
「まだまだ、それで終わりじゃございませんので。衣服を脱ぎますとね、おじいさん、そのままいきなり、そこに敷いてた掻巻のなかへ、肩まですっぽりもぐったんです。私はお嬢さんだと思ってましたが、あの錦木さんは奥さんなんでございましょう」
花政老は目をパチパチさせた。
「なんだ、お酌はいいから、台所に戻りな」
「ちょっと、いったいなんの話をしてるの、お父っあん」
「小言だ。小言を盗み聞きすると耳がおっ立つぞ」
「いやだわ、ミミズクじゃあるまいし」
「そうでなくても、目がくっついて眠くなる。いつものことさな」
「しらないわ。そんなこと言うんなら漬物を刻んでやんないから」
「そら、そこで口が尖る。受け口で張り出してるならまあ美人もいるだろうが、お前のは尖ってるんだ」
「しらない」と、お光はトンと立ち去った。
「話を元に戻そうじゃないか。……一条戻橋の合方が大薩摩を掻き鳴らすって山場だ。で、どうなったんだ、与四公」
「あの人……奥さんが、あの、なんでございます、『おお、寒い』と言って、掻巻に入ったんで。そこから男の人が驚いて、むっくり起きあがったんです、はい」
「どんな野郎だい」
「野郎ですか、なんですか、髪の毛がモジャモジャと長い、鼻の高い人なんです」
「髪の毛がモジャモジャ長い、鼻が高いと。ふん、あの女にとは、どういうことやら。……いずれにせよ、変わった男ではある」と、酔いの勢いも醒めた、老いぼれた声で言う。
「奥さんが掻巻をひっかぶったから、その人がむっくり出てきて、卓袱台の上に髪をパラリとさせて、あの、頬杖をついたもんですから、その質屋の使いがびっくりして。……座敷の入り口で、奥さんが上下脱いだ着物を……」
与四郎は、しきりに畳をなでながら、
「あの、こうやって、着物を袖だたみに畳みかけてたんですが、それを長襦袢ごと引っ抱えて、風呂敷にも包まないで、格子戸から駆けだしました。……私は、木戸から庭に入って、ミミズクの籠を持って、縁側のところから見てました。へい、質屋は露地の羽目板にぶつかりそうになりながら逃げてったんです」
「与四公、そこだ! なっ。商売人たるもの、ぼんやりものを見てるんじゃねえぞ。話に出た河童小僧なり、美人の裸なり、この世の出来事とは思われねえ。不意に出くわしてみろ、この俺だって火消しの纏に火がついたよりも目を回すってもんだ。それなのに、衣類一式を抱えて逃げだしたってのは偉い。講釈でいえば、臣として四方に使して君命を辱めず。いかなるときも使命を忘れちゃならねえってことよ。そういう若者が、将来は出世をする。やがて帳場を預けられようというものだ。お前なんぞは真似もできねえだろう。ああ、さすがは飯倉の交差点に角屋敷を構えた質屋の元締め、御大家だ。いい奉公人がいなさるのお」
そう言って花政労が小刻みに震えたのは、酔ったときの癖である。独り合点でぶるぶると頷くから、若い女がいやいやをするしぐさに見える。……花政入道かく語りき。質屋の二宮佐兵衛よ、ここに花政という君の理解者がいることを知るがいい。……などと悦に入る老人の様子を、与四郎はチラリと見上げると、顔をうつむかせながら笑いをこらえて、
「ですが、あの、なんですか、利息をもっていくのを忘れて駆けだしたんですって」
「なに! 質屋が利息とはどういうことだ?」
「七ヶ月分の貸料を取り忘れたんだそうで。『ああ助かった』って奥さんが、素肌で掻巻にくるまったまま、くるっと起きあがったんですよ」
「ああ、天の道理はあるのかねえ」と顔ごと目を背けると、花政は入道めいた霜眉で煤を払わんばかりに天井をふり仰ぐと、すっかり落胆した顔つきになった。
「そして、あはははって、男の人も笑うんです」
「天狗笑いというやつだな。怖ろしい。バケモノ屋敷だ。御維新以前はこのへんの山の手には悪い旗本や御家人がいて、いきなり驚かせるようなことをやっちゃあ町人を困らせたもんよ。そういった屋敷には、えてして開かずの間というものがある。――バケモノついでにその河童小僧はどうしてたんだい」
「火の気がないもんですから、奥さんの言いつけで台所の隅にしゃがみこんで、七輪を揺すって、あの、曼珠沙華の枯れた軸を焚きつけにして、マッチで古新聞を燃やしてたんです」
「なに、その樽柿みたいな面の小僧が、台所の隅で、七輪で、燃やしたとな。そのうち青い火が、めらめらと起こりかねねえ。ああ、むかしは川施餓鬼のあとの大川にそんな亡霊があらわれて、筏乗りが腰を抜かしたもんよなあ……」
くぼんだ頬をさらにくぼませ、雨戸を閉ざした縁側のほうの障子を眺めながら、
「まだ止まねえ。雨は降る。いよいよもってだだごとじゃねえ。そこでお前、天ぷらそばを食ったのか。天狗に化かされて食ったものなら、いずれミミズに変わるんだろう」とまた年寄り臭いことを言いながら、ちり鍋の汁を、コクッと一口。
「この鍋の具だって鯛でもなし、鰒でもなし、魴鮄だ。与四公よ、天の道理はあるのかねえ」
「いえいえ、貝や魴鮄じゃありません。天ぷらはエビでございました」
花政は苦笑いして、
「天の道理はあるのかねえ。わかったよ。四杯とは、食らいも食らった。が、よくもおごってくれたもんだ」
「ええ、そのおごりなんですけど、奥さん、お金がないんです。私がそのときミミズクにやってた餌でさえ牛肉だっていうのに。で、錦木さんが、『こう四つ、顔をそろえてみてもねえ……』って」
「四つと……待ちな、河童を入れてと、お前もその面のうちの一つってことだな」
「へい、一つです」
「威張ってやがる。天の道理も通らねえや、困ったもんだ」と今度は嘗物を舐める。
「そのうち奥さんが『ちょっと財布をお出し』って、その男の人の袂から引っ張りだして見てたんですが、『まあ、入れ物だけ紅革で、中身はなんだい、電車賃がやっとだねえ』って。ガチャリと縁側に投げだして、『小僧さん、お使いのお駄賃。その財布だよ。中身はお約束した月賦だよ』、そう言って、あの……」
と膝頭をなでて、腰を浮かすと、前掛けのどんぶりに手を突っ込んだ。
「待ちな待ちな。そんなものをここに出してドロンと木の葉にでもなったら、驚いた鼠が天井から煤を落とす。……どうだ、錦木さんは牡丹を活けたか」
さすがは商売人。使命を忘れず。
「それは、あの、手水鉢に突っこみました」
「やっ、とりあえずとはいえ、まあそんな扱いか。そのくせ金回りがいいと、香水を注いだ牛乳で行水をする。そういう女が、唐天竺にいたそうだな。お光が最近、活動写真の口上で聞いたと言った。提婆達多のお妾だ」
と言うと、ツマといっしょに黄肌をツルリと口に入れた。