V
質屋の手代は驚いた。かつて、こんなに肝をつぶしたことはない。露地を駆けだし、離れたところで番傘を構えて、身を立て直した。時雨の暮れ方とはいえ、まだ日中の明るさが残っていたからこそ逃げだせたともいえる。夜であったら、その場で気絶していただろう。
「お留守なのかな。ごめんくださいまし」
錦木の家を訪れた佐兵衛は、玄関口から声をかけると、とりあえず格子戸を開けてみた。案の定、下駄がない。平屋で奥行きの浅い室内は、冷えきって火の気も絶えている。その名にし負う、いかにも篤実な佐兵衛であるから、丁寧に腰をかがめて江市屋格子の引き戸をくぐって出た。ずかずかと敵城の門内に踏みこんだはいいが、寂寞とした様子が不気味に思えただけだった。あたかも三笠が原の闘いで、策略を秘めた武田の軍勢が浜松城の城門をうかがう恰好で外から眺めると、あらためて表戸に向けてもう一度、
「ごめんくださいまし、ごめんください」
むろん返事はない。
じつはそのとき、境木敏夫という美術家の青年が、佐兵衛よりも先に留守宅に入って、和歌子の帰りを待っていた。官設公募の美術展には落選したものの、某中学校は卒業済みで、長髪で色白、薄髭を生やした秀才青年である。待ちくたびれて、縁側つきの奥の六畳のまんなかで、塗りの剥げた一閑張の卓子台の向こう側に身を隠したかたちだ。和歌子が使っている薄手の寝具を引きかぶって、長身だから紺足袋の足が突き出ているのだが、顔はすっぽり埋ずめている。ビロードの襟のおしろいと、枕に染みた鬢付油の残り香に、寝具は薄けていようとも、体はカッと火照る。遊郭の引け時を過ぎたころ、馴染みの女郎からすっぽかされたと、ようやく悟る夜のように、覆い隠した視界ばかりか、心のなかまで真っ暗だった。庭の山茶花が艶よく咲いた軒先を、時雨の雨滴がつたってしたたる音さえも、今度こそはと思い詰めた女の上草履の音が、隣室に消えていった夜のよう。待ちくたびれて、ふて寝を決めこんだ身からすれば、玄関先に聞こえた男の声は、劉備玄徳であろうと時の内閣大臣であろうと嬉しくない。ましてや米屋の集金、薪屋、そうでなければ憎むべき恋敵かもしれないとなると、この家の事情を知る彼としては、ここは寝てやり過ごすのが一番の知略くらいのことは心得ている。質屋の使いの佐兵衛ごときに返事をする新参武者ではなかった。
一方の佐兵衛は、まだ表戸の前にひょろりと立っていた。雨は冷たいし、店から遠い霞町あたりまで、また出直すのもおっくうだと、手持ち無沙汰にあたりを見回すと、家の裏口につながる木戸が目に留まる。さすがにあの錦木の宿だと思えば、粗末な柱も扉も鏡台かと色めいては見える。とはいえ木戸には熟しすぎたヘチマがひとつぶらりと下がり、朝顔の交じった葉が枯れかかって、雑草にまとわりついていた。そのなかにわずか一輪、夕暮れ近い寒空の下で、薄浅黄色の朝顔が、遅咲きに開花しているのも哀れである。ちょうどヘチマを顔に見立てれば、枯れ葉は着物で、その朝顔は胸もとに輝く飾り鋲にも似たただひとつの宝玉かと思える。艶めかしくも妖しき魔法使いによって骸骨にされた露西亜の貴族が、教会堂の屋根にさらされたかのようだ。あるいは見立てを変えれば、胸に真珠を秘めた美術家が、和歌子の色香に迷ってミイラになり、恋い焦がれる魂が屋根を伝って、そこにただようかのようにも見える。
二宮信者の佐兵衛ゆえ、その種の想像をたくましくしたわけではないが、ありきたりの好奇心から、無粋ものらしく開いてこその風情ともなる傘をわざわざ畳み、石神様の石棒めいた太い棒を油紙でこしらえたといった体で、ご丁寧にも両手で持ち直すと、佐野の馬威しで脅かされる馬の間抜けづらにも見える例のヘチマの鼻先あたりを、まっすぐに腕をのばしてトンと突き上げてみる。
それが合図であったかのようだ。
「はくしょん……」
鬼瓦が蝙蝠を吸ったかのようなヘンテコなくしゃみが聞こえると、途端にすぐそばの物置の戸が開いて、妖精がひょいと現れた。
こんなときこそ、魔は日常に紛れこむ。夜なら失神しただろうほど佐兵衛が驚いたというのは、まさにこのことだった。
またその物置というのが、これも木のない六本木で気の知れない麻布七不思議にも数えられようという代物。先述の木戸と、その向かいにある裏口の格子戸との間を縦につないだ羽目板にみかん箱を重ねて打ちつけてこしらえた、小屋とも呼べぬものである。まるで「千手観音拝んでおくれ」と、アイヌ出身の巡礼が背中に背負った逗子を見せるように、ぐるりと回ったその家が、そんなものを拝ませた感がある。庭に空場所がないため、先住者が苦し紛れにこしらえたものであろう。しかしそれを物置と呼べるのは、入れるガラクタがあってのこと。今の借主になってからは、炭俵に桟俵、あとはほとんど紙屑が突っこまれているだけで、鼠の巣だか犬小屋だかわからない。
辻堂から妖怪が飛びだす怪談のお決まりよろしく、傘をトンと突いてくしゃみを合図に、物置のなかから現れたのは何だったのか。(あの槙ヶ原子爵家で飼われている、わけあって町内迷惑な洋犬の背よりも低く)その身は三尺にも満たない一寸法師であった。水かきがついていそうな小さな足に、だぶだぶと突きでた腹はガマガエルのよう。獣のような顔肌に、もやしのひげ根のような頭髪が伸びて耳をふさぎ、頭はげっそりと、額が小さく、頬だけが下膨れして黄色く浮腫み、唇からえぐれた小じわが耳たぶのあたりまで達しているため、まるで口が裂けているかのようで、眉間に深い皺が刻まれているから老人のようでもあるし、子供のようにも見えた。血走った眼は赤く、眉はない。瞼から両頬にかけて、テラテラと赤肌が剥けたようで、そこにギザギザの筋が入ってジトジトと粘りを帯び、腐った西瓜にそっくりなところを、またおあつらえ向きに頭の皿が禿げている。
……描ききれない。どれほどことばを連ねても、こいつの姿は写せない。近いところでは荒川に、遠くでは印旛沼にいてくれそうなものだが、近ごろでは影をひそめて、辞書を引いても想像上の動物などとされているのもけしからない、二文字で書ける怪物。そう、河童である。ただしこいつは、なまなましくそこに生きている人間だ。
裾がびしょびしょに濡れ、ちぎれかけた長袖がだらりと下がった棒縞の綿入れを着て、はだけた胸もとから青ざめた肌がのぞいている。汚れて綿の飛びだした赤い腰紐を腰高に巻いているのだが、その一端は輪のかたちに結ばれて、それが尻のあたりにぶら下がっている。大きなヘチマを横ぐわえにしてかじりながら、時は大正、世界における大都会、東京麻布霞町にある錦木の宿の物置から、恐れ多くも天にまします基督に、楽屋からの仕掛けでバタリと戸を開けさせたかのように登場すると、蚯蚓色をした小さな手で、くだんのヘチマをかじりつつ、よだれと鼻水をダラダラと流し、ジットリ濡れたほっぺたまで裂けたかのようなあの口をカッと開くと、白い反歯が見えただけ。声を発することなく、その侏儒はニヤリとして顔を見た。
顔を見られたのは、十五年の奉公を勤めあげ、質屋として独立する夢をいだいた、二宮信者の佐兵衛である。
「あっ」
と両手で握った番傘の柄をあごにあてて、反らせた胸を板のように硬直させた佐兵衛に、赤面のお河童は鳥のような赤い指で露地口を指すと、
「ううッ、ううッ」と声を発しながら、ダラダラとよだれを垂らした。
駆けださずにはいられまい。姓は二宮、名は佐兵衛。
――ところで、おかしなことを言うものだと、筆者を詰る向きもあろう。ヘチマが食えるものかと。お答えしよう。妖精だから食えるのだと言い訳するつもりはない。薩摩の二宮尊徳の崇拝者たちは、たとえ大名であっても、七五三を祝うにあたって、ヘチマのすまし汁で賓客をもてなすのである。そんな彼らの言説を聞き入れるなら、冬瓜の葛かけのような病人食でも食べるのか。なに? 芝エビくらいは入れたい? 生臭いぞ。
さて、あまりのことに駆けだした佐兵衛は、番傘を握って後ずさりしつつ、通りから露地の奥をのぞきこんだ。一寸法師は雨のなかで朦朧としながらも実在している。油絵で描いたように、あきらかに正体をとどめて、おまけに花政老のように前屈みに腰をかがめながら、赤い指で、行け、とまた指さしている。その指で操られたかのように、佐兵衛は朦朧としながら踵を返した。目を向けた町中に彼が目にしたのは、与四郎小僧のさしかざす傘にも映えた、あざやかに友禅をさばき、艶やかな羽織の黒に揚羽蝶の紋を浮かせながら、はやそこにさしかかった牡丹の影であった。
「質草だ。あれを剥ぎ取るのだ」と、一生懸命に念じながら駆け寄りつつ、たどりついた四つ角に立つ紅殻塗りの郵便ポストに目が留まり、こんな確かなものはないと、生きた人間の血の通う世界の証としてすがろうとしたのだが、そのポストですら、魔道への入り口を示す榜示杭のように思えたのである。
なんたることか。そこにいたのはミミズクを背負ったミミズク小僧である。
佐兵衛はまたもや不意打ちを食らって、ぼおっとなった。
それでも、しっかりしなさい、二宮氏。こんなことでへこたれる男ではないはずだ。
「おや、おはよう」
晩方なのにそう言って、和歌子がにっこりとした。
「来たね、彦ちゃん。おい、彦六」
佐兵衛はきょとんとして、相手の顔を見た。が、艶めかしい人の声を聞き、ようやく人心地がついた思いで、
「えへへ、孫六の手代の佐兵衛ですよ、彦六ではありませんですよ」
「生意気言うでないよ、あの世のあがり口の奪衣婆の孫みたいな孫六のお使いだから彦六と言ったまで、ありがたく思いな、「ひこ」呼びで十分、さながら奪衣婆の孫の子だから曾孫がお似合い、ホントなら曾孫・玄孫ときてお前は細螺だあね。来てみろ、細螺はじきにして弾いてやるから」と啖呵を切ると、和歌子はすまして露地に入っていった。
その後ろ姿を追いかけながら、佐兵衛は家の入り口で立ち止まって、一寸法師がいはしないかと、おっかなびっくり透かし見をする。
和歌子は門口でその細面をふり向かせると、眉と瞼を上げてくっきりと目を見開き、
「おいで」
と色っぽく言うと、もう一度にっこりとした。と、かたわらの一寸法師にふと目を遣ると、
「おや、バナナを食べてるのかい。お河童、なかなかのハイカラだねえ」
「ううッ、ううッ」と一寸法師は、ふたたび佐兵衛を指さす。
入りかけた佐兵衛は、また後ずさりをした。
「あいつが留守に来たってんだろう、わかったよ、ありがとう。寂しかったろう。その代わりにね、お友だちを連れてきたよ」
さすがの与四郎も、これには怖れをなしたようだ。一本足で飛んで近づく勇気もなく、羽目板に張りついてズルズルと後ずさる。
その背中でミミズクが、籠の金網をトンと叩いた。来るんじゃなかった。連れてきた友だちというのは、このミミズクのことだった。
さては河童は、和歌子が飼っている妖精らしい。