III
「その代わり私になら月賦よ。七円だなんて……煙草も切らしちゃってるくらいだから」
と言いながら袂を裏返すと、袖裏の紅羽二重がちらつく。瞼を重たげにして懐をのぞき込む様子は少女のように無邪気だったが、空箱をぐいっとねじってポイっと放り棄てたさまはあられもない。
「喜代公、お前持ってるだろう。差し上げなや」
老人にそう言われて、若者の一人が、腹掛けのポケットから取りだした煙草を紙箱ごと手渡す。
「よかったら」
「あらまあ、端っこだけ口を切ってるけど、金平糖みたいに振り出せばいいの? ねえ、喜代公」と言いながら女は、花に囲まれたくだんの百日紅の腰かけに悠然と腰を下ろした。
「やっぱり月賦で買うんだとおっしゃる」と、もう一人の若者が言う。
「おまけに名前まで覚えてくださる」
喜代公こと喜代吉も苦笑いするばかり。
「覚えますとも、月賦の払いは忘れても。……ねえ、おじいさん、本当に借りるのよ」と、煙草の灰をトンと落とすと、真顔になったその様子からして、冗談で言ったつもりはないのである。
「ええ、ええ。牡丹一輪が七円。金縁眼鏡のばばあが『買い手はないでしょうね』などと水を差したところを、ズバリと買ってくださった。ものは気合いだ。なにね、タダでもいいんですが、それじゃああんたもご承知くださるまい。……じつはね、一枝二分でもいい代物だが、態度も言いようも釋に障ったから、倍の値段をふっかけた。それがあんた、一円などと訛ったから、七円だと乗っけてみせた。ここらが町内の軍師といわれる由縁でさ」
「お父さん、あんまりだわ。私、聞いててヒヤヒヤしてた」と格子の内から、娘のお光が白い顔をのぞかせる。
「祭りの一件の腹いせってなもんよ。ねえ、あんた」
と、そこで老人は、美人の煙草からキセルに火を吸いつけて、
「一年おきの例祭の、去年は陰祭の番で見送りだった。で、今年の夏はいよいよ本祭。そこであんた、町内で提灯を揃えようってぇんで、若い衆があの屋敷にかけあった。で、いくらだと思う、二分にもならない寄付金を『お上に申し上げた上で沙汰を致す』なんて言いやがる。ね、どう思いなさる。執事だかなんだか知らねえが『お上に』などと遠神恵賜の祝詞みたいなことのたまいやがった末に『お耳に入れること相成らず』だと。町内これで歯が抜けた。いや、歯抜けといってもわしのこっちゃない。提灯ふたつぶん真っ暗ってこった。景気悪いやねぇ、ね、あんた。御神輿はしまいこんだが、わしの腹の虫はしまいきれねえ。まあその実、大人しくはしていやすがね。
まだそれだけじゃありませんや。手前どもにも出入りをしている植木屋がね。あの屋敷に雇われたが、おやつの時間に茶も出さねえ。その言い草をお聞きなせえ。『英吉利では午後の二時に菓子やコーヒーを飲食いたしません』とね。どう思いなさる。だったら倫敦じゃあ牡丹一輪七百ドルだ、七円取られようが文句は言えめえでがしょ。はは、ははは」
「まあ」と肩からすべりそうになった襟を、たおやかな身ごなしで羽織紐を引いて引きよせながら、我を忘れて老人の話に聞き入っていた美人だったが、そのときハッと胸に手を当てた。
「あら、誰? 私の名を呼んでいる」
何事かと老人も、きょとんとしてあらぬ方をさぐり、眉毛をヒクヒク上下させる。傍らの若者二人も、不審顔で辺りを見回した。――なるほど「おわか、わか」とおかしな声がするのである。
「誰かしら? ちょっと、喜代公でしょ」
「いよっ、こいつ、もうこの女の名を呼ぶとは」
いじられて喜代吉は、首を縮めてペコリとお辞儀して、
「すっかり名前を覚えてくださったのは有り難い幸せでございますが、そもそも私はまだ、貴女のお名前を存じませんので」
「とするとなんだろう、あの声は?」
若者二人は、枝を切ったり束ねたりの手を止めると、ふと顔を見合わせた。
「そうよ、わかよ。どうせ月賦をお願いするんだから、ここで覚えてくださいな。姓は錦木、名は和歌子……幼名は鶴女と申せしが、なんてそれはウソ。和歌の方、和歌の前、和歌子、馬鹿子……あらあら、こんなに売りこんでばかりだと、行商の売り声みたいね」
などと言っては、ひとりでクスクス笑う。うつむいて、あご先を襟元に埋めた姿は、不思議なほどに品がいい。雪のような項からちらりとのぞく緋色の肌襦袢が、まいらせそろと恋文に紅筆で記した筆あとのようで艶めかしい。
見とれた老人は、頭を振って気を取り直すと、
「冗談じゃねえ、さっきのは、ありゃなんだったんだい?」
「あら、与四郎よ、お父さん」とお光が言った。
「なに? 与四郎か?」
「地下の花蔵で、またミミズクをからかってるんだわ」
「ああ、そういうことか」
「花蔵だ!」と若者たちが声をそろえる。
「あいつめ、いつの間にか使いから帰って来たかと思や、こっそり花蔵にもぐり込みやがって。どうするか見てろ、あの野郎」
老人は腰に下げた手ぬぐいをねじって禿頭に鉢巻をすると、足をすべらせかけた床の葉屑をかきのけながら、ひょこひょこと花蔵の入り口に向かう。
またもや外の雨脚が強まった。店内の草花に、地下室の入り口に、サッと影が差す。その暗がりに向かって老人が、
「与四、与四郎、やい与四郎!」
と怒鳴りつけても返事はなく、代わりに地下からは、おかしな声でとなえる呪文めいたことばが聞こえてきた。
「いろはにほへと、アイウエオ、いろはにほへと、アイウエオ」
暗い地下からせり上がってきたのは、猫のような黄色い目玉が二つ、続いて猿のような二つの眼。……いやこれは、扁平なツラにひしゃげた鼻で、髪をペタッと横撫でにした小僧が、千代能がいただく桶の底ぬけて、と如大禅尼の錦絵よろしく、一羽のミミズクを入れた金網の籠を頭のてっぺんにかかげながら、梯子段を上ってきたのである。
こいつこそは、近隣で評判のいたずら小僧。電信柱と相撲を取るわ、ポストの上で逆立ちするわ、舞台に見立てた黒板塀の前で見得を切るわ、ものまねをやるわ、浪花節を唸るわ、ラッパを吹くわ。なかでも得意なのが自転車で、馬の鐙を操るかのようにペダルをガシッととらえると、風車のように走りだす。花政老が大好きな講談のネタをかじって、馬術の名人、曲垣平九郎を名乗ると、はいヨーッと戦の雄叫びを放ち、それ人馬一体だと前のめりに疾走する。速いのはいいが、客先に着いたころには花束に枝しか残っていない。菊も椿も棒切れになる。
自転車からポンと転げ落ちて、道ばたの溝でしょんぼりしていることもある。まるで舞台の遠景にぽつんと置かれた子役の奴といった姿。ふと立ち上がって、まさか身投げでもと思いきや、半纏を着た曲垣先生はとたんに元気を取り戻すと、「そんな手つきじゃ金魚の餌のぼうふらも掬えねえ、貝杓子を貸せったらよ」と小さな子からひったくって、天水桶に浮かべた虫除けのみかんの皮をかき回す。
こいつが花蔵のなかからスポンと飛びだすと、腰の弱った老人が捉まえられるものではない。しゃがみこんでいるところからピョンと飛びあがって、店番をしているお光の前に、頭にのっけたミミズクの籠を獅子冠のように振りかざすと、またもや飛んで、
「ほっほー!」と鳴き真似をする。
「きゃー」
驚いたお光は、緋色の手柄をなびかせ、真っ白な踵をパタパタさせながら薄暗い奥へ逃げこんだ。
「まあその、ミミズクってのは目玉を光らせてるだけで、昼間はまるっきり見えてませんからね。目が見えないと頭の回転も悪くなる。だから暗い蔵のなかで目をキラキラさせてるところで、いろはからことばを教えてるんです。いろはにほへとちりぬるを……」
与四郎は、今度は美人に向けて、こんなことを話し始める。
その美人、和歌子のほうも物好きな心をくすぐられたのか、小僧をかばうかのように立ち上がった。花政老としては、かたちだけでも一発お見舞いしておこうかと振り上げていた腕のやり場がない。しなびた拳骨をほどいて、額の生え際あたりをごしごしとこすりながら、あきれ顔になった。
「鳥というものはですね、私の考えじゃあくちばしを開けて声を出すものでしょう」と目をすえて、昂奮に顔を赤くしながら和歌子に話しかけた与四郎は、今度はきょろりと花政老に目をやって、
「ね? おじいさん、そうでしょう?」
「な、なにを言いやがる」
「だからですよ、『わァかァ』って、手始めに大きな口を開くことばを覚えさせようと思いましてね。わァかァ……」
どういうつもりか、きっぱりとそんなことを言う。
「やってみてよ、もう一度、ね」
「えへへ、そう言われてみると、ちょっと恥ずかしいや」と籠を揺らして、坊主のような一分刈りの後ろ頭をぽりぽり掻く。
「こいつめ、いっちょ前に恥ずかしいだと。お客様の前だと張り倒すわけにもいかねえ」
そう言いながらも老人は、与四郎の頭を撫でてやりそうな手つきをしている。そうして皺だらけの手で、今度は口もとに浮かべた苦笑いを隠しながら、
「まああんた、お聞きになって下さいよ。このミミズクを貰ってきてからってもの、与四の野郎は日がな一日はりついていやがってね。とんでもねえことに、絶対にしゃべるだろうって、つきっきりでいろはにほへとを教えてます。オウムや九官鳥じゃああるめえし、ミミズクがいろはを覚えてたまるもんですかい。なのにこいつめ、夢中になりすぎてのぼせ気味でね。どうやらミミズクに取り憑かれたらしいんで。ごらんなさい顔つきを。二つならんだところはこいつとミミズク、瓜二つでしょう。冗談じゃねえ。なあ喜代公、こいつら顔つきがだんだんと似てくるじゃねえか」
「ほんとですね、おじいさん。どんぐり目玉といい、おでこといい、そら、そんなこと言ってるうちに、唇をとがらせてるところまで」
与四郎は出し抜けに、一本足でひょいっと飛んで叫んだ。
「ほッほう!」
「いやっ」と和歌子は少女のような悲鳴を上げて、ふわりと優美に身を避けた。裾先が揺らめき、絞り染めの模様に散らした緋色が、暗い店のなかにまで雨を誘うかのよう。素足の白い臑足にちらちらと緋色の映えるさまが凄艶である。
敷き散らされた花びらや葉くずを羽織の裾が引きずるのもかまわず、今度は和歌子が床にしゃがみこむと、先刻の牡丹が新しい持ち主となった彼女に優しく色を添える。後ろに束ねた髪をハラハラと鬢にこぼしながら、蓑虫が化けたようなミミズクをのぞき込み、晴れやかに目を輝かせている。
「おじいさん、こんなものをどこで捕まえたの?」
美人であろうが小僧であろうが人の気配が近づけば、胸の体羽を揺すり、尾羽を振って、顔をぷうっといっぱいにふくらませる。まるで鳥類におけるフグである。今もまた、無礼なことばを耳聡く聞きとがめると、「こんなものとはなんだ」と、毒ヒレをふるう魚のように、カシッと止まり木をつかみ直す。
「川越の方ですよ」
「え、川越の?」と和歌子は聞き返した。
「なあ、喜代公」
「ええ、入間のいなかです」
「埼玉だわね」
「武州埼玉県入間郡、伊草村だっけかな。花の買い付けであちこちを回っている者がね、百姓家で生け捕りにしたというこいつを、栗といっしょに貰ってきたんでございまさね」
と花政は、鋏をチョキチョキ空鳴りさせて、ついでに白菊の虫食い葉を切り落とした。