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II

 そのときだった。宝石の燦爛(さんらん)と輝く指輪をはめた手が、横合いから差し出される。若作りした四十六、七の貴婦人の姿がそこにあった。

「それは私が借ります。もう一本、この下女にも」

 と、そちらを顎で示す。痩せて頬骨の張った顔を真っ白に塗って金縁の眼鏡をちらつかせ、お決まりの庇髪(ひさしがみ)を結ってはいるが、生え際の腰が弱ってつぶれ気味だ。女の眉の理想は鳳眉(ほうび)というが、てらてらと光った額の下にベッタリ引かれた眉墨は、それとは似ても似つかない。

 銀泥(ぎんでい)の雲に鸞鳥(らんちょう)の刺繍がほどこされた、むやみに生地のいい紫紺の縮緬(ちりめん)のコートを無造作にはおり、どういう好みなのやら萌黄色のなめし革の爪革がかかった低歯の吾妻下駄を合わせている。かたわらの小間使いらしき女もまた、太った赤ら顔を同じように白く塗った庇髪で、畳んだベージュの日傘を銘仙(めいせん)の羽織の袖にうやうやしく抱えている。彼女らは、同じ電車に乗ってきた客ではない。美人よりも先に、ふんぞりかえって花屋に入店すると、先刻から黙ったまま棚を見回していたところだった。

「私は、あそこの横町の角屋敷からだが。知っておるだろうね。(まき)(はら)です」

 その名を聞けば、知らずとは言えまい。鍼や按摩の笛ではないが、音に聞こえた子爵家の、そして内証豊かではあるが吝嗇(りんしょく)なことでも知られる、槙ヶ原家の令夫人であらせられる。

「借ります」とすまし顔で、御自ら傘を受けとった。

 その権式と威光を前にして、結綿を結った平民風情の娘なんぞが逆らえるはずもない。

「もう一本。下女にも」

 そう言われたお光の、とっさに浮かんだ戸惑いの表情を目に留めると、

「ああ、すぐ家来どもに持たせて返します」と、有無を言わせない。

「今日はちょっと、慈善事業の会合があって赤十字社へ出向きましてねえ。乗り物を使うまでもないと思ったが、にわか雨が裏目に出て、困っておった折でした。この店は当家へ直接出入りさせてはおらぬが、うちの子爵様がよくご存じで吹聴(ふいちょう)遊ばすゆえに、皇族をはじめほうぼうの立派な方々から注文が来ると聞いております。よい店ですね。……ああ、知っておりますよね、槙ヶ原です」

 やがてお光が持ってきたもう一本の蛇の目傘は、小間使いに受けとらせる。その間、長々と御言葉を承っていたのは花政老人だった。この老人、花政入道月三斎ときたら、先ほどからの仕事の手を休めて、百日紅(さるすべり)の根の自然木(じねんぼく)の腰かけにどっかと腰を下ろすと、前のめりの腰にぶら下げた両提げの煙草入れを、床を擦るほどブラブラと尻尾のように片手で揺らしながら聞いていたが、そのうち飲み冷ましの渋茶といっしょに転がっていたマッチを擦ると、名品村田もどきの銀ギセルですぱすぱと煙草を吸いだした。人一倍に長い顔をくしゃっとつぶして、上からのたまう令夫人を黙ってじろりと見上げるその姿に、夫人としてもことさら威を振りかざしでもしなければ、どうやら間が悪かったようである。

「それでは」

 と威厳を正し、肩を張って辞した主従には、お光が会釈するのみで、老人はだんまりを押し通している。それどころか、ぐっと前のめりにもたれ込んで頭を低くした姿勢から首を反らしてにらみ上げている。なにやら含むところがありそうで、ただでは済まさないとでも言いたげである。さすがの子爵夫人も不気味なこの姿に、戸惑いを隠せなかった。

 かたわらには素知らぬ顔をした美女が、黒縮緬の羽織の袖を投げやりに後ろに()ねて、だらけた風情で懐手をして立っている。まるで、せっかくの三ヶ月を雲に隠されてしまった柳のように、薄ら寒くてつまらないといった風情である。公爵夫人は老人からも、じろりと目を遣ったこの美女からも視線をそらして、赤い実がたわわに実った梅もどきがふさふさと突っ込まれた大ぶりな素焼きの花瓶から、隣りあった花桶に冷たく輝く、薄色の牡丹に目を留めた。

(むろ)()きですの?」

「冬牡丹でございます」

 花影からのぞく息子が、めずらしく口を利いた。

 躊躇(ちゅうちょ)もせずに夫人が抜き取った牡丹の葉には、指にはまった太い金の指輪が、毒虫めいた光を放つ。

「これ一本、おいくらですの?」

「一円」と、不意に頭をもたげた老人が、亀がジタバタするみたいに腰を振りながら、ひょこひょこと出てきて言った。

一円(えつえん)?」と驚いて、夫人はコートの胸をのけぞらせる。いちえんをえつえんなどと言う夫人の訛りに乗じて、老人はここぞとばかり、

「ええ、七円(へつえん)でございますよ」

「ううん……」

七円(ななえん)でございます、はい」

高価(たか)いねえ」と、牡丹を両手で持って回し見する。

「はい、産地は甲州諏訪でございましてな。はい、その地の特産、諏訪(すわ)法性(ほっしょう)という銘柄でございます。霜月の一輪咲きですよ、奥方様。簑作(みのさく)と申します花作りの名人が、丹精こめてお作りしました。今は半開きですが、床の間でいっぱいに開きますと、奥方様、(しべ)の部分がカッとこんなふうに……」

 と、皺だらけの大きな両手の指を、ざわざわと震わせてみせる。

「あたかも狐火のごとく燃えるという無類の逸品でございます、はい。この商売をやっておりましても、めったに入手できぬ代物でして。七円ならばお値打ちでございますよ」

 子爵夫人は牡丹をポイと花桶に戻すと、そこで威厳を整えながら、

「のちほど、あらためて家来どもに買い求めさせる」と、顎先で小間使いを従えて、くだんの蛇の目傘をさしながら店の外に出た。

「ちなみに奥方様」

「なにか?」

「お使いを下さいます以前に、ほかのお客様がお求めになれば、その方へ譲りしますが、お差し支えはございませんね、はい。そこのところをちょっと承っておきませんと、はい」

「いいですよ。ですが、買い手はまあ、いないでしょうね。フフッ」

 と片頬で笑うと、小間使いの顔を見る。

 まさにそのときだった。

「おじいさん、私にちょうだい」と、いきなり美女が牡丹を手に取った。花政より先に頷いたのは、パッと薫った牡丹の花びらである。

 さすがに顔を赤くした子爵夫人は、濃い眉を動かしながらじろりと(にら)んだが、とたんに小間使いを睨みなおして、

「こら、日傘に泥がつく」

 と叱ったまま、ものも言わずにツンとする。

「豆腐うーぃ」

 と出会い頭に、桜並木で濡れた豆腐売りの荷車が、出し抜けにすれ違う。

「あら」と、奥方の日傘をかばって、小間使いがひょいっと飛びのく。

「豆腐うーぃ」


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