XVIII
三の橋あたりにある、なんとかいう大きな寺の鐘撞き堂と槐の大木との間に死んだようになって倒れていた和歌子は、寺男に気付けされ、介抱されたのち、家に帰った。左のふくらはぎに鎌にかけられたような傷があり、徒歩では帰れなかった。
境木が自殺したことを聞いた夜、三升以上の酒(ウォッカで慣らした酒量は多い)をあおって、ぶらぶらと家を出て、どこを歩いたのかも知れず、倒れて怪我をしたのだろう。人に話しても、地下の出来事は夢だと言われる。だが不思議なことに一寸法師はそれっきり行方不明になった。トンマは狂犬として警察に捕獲された。
どっと寝込んでしまった。和歌子は起きられなかった。しかし鳥目は治った。花政の隠居が、財布を首に掛けて駆けまわり、医者だ、薬だと面倒を見てくれたのである。
「霧の助さま、霧の助さま」
熱に浮かされた和歌子は、もの狂おしく呼び続けた。
ようやく人心地がついてから、花政が、霧の助の名を呼んだ理由を尋ね、話を聞いた。――生命にかけても霧の助の人形が見たい。和歌子は初めて恋を知った。
世故に長けた花政老は、和歌子の思いの深さを知ると大きく頷き、死んだ長女に婿を取るのだと騒ぎながら、和歌子を人形に会わせようと、さまざまに手を尽くした。越中屋長助にも、頭を下げたわけではないがご機嫌を取ってみたものの、こればかりは実現できそうにない。
「霧の助さま、霧の助さま」
和歌子は正気に戻っても、うわごとのように言い続けた。
「おじいさん、たいへんだ」
ある夜、与四郎が目の色を変えて飛んで帰ってきた。
「和歌子さんが、白装束で、杖にすがって槙ヶ原の屋敷へ行って、みんなに酷いめにあわされています」
これを聞いた老人は、節句まえの忙しさにもかかわらず、花ばさみを放り出して、
「さあ野郎ども、霞町は火事だと思え。ついてこい、花屋政右衛門、娘の追善に暴れるんだ」
鳶が使う手鍵を杖がわりにして、ひょっこり立ち上がった。
「与四郎、こんなときこそ役にたつ。自転車の荷台に乗せろ」
老人が駆けつけたとき、和歌子は槙ヶ原家の古井戸の覆い板の上に、うつ伏せに倒されていた。
子爵夫人は、家扶、家従、執事らに取りまかれ、枇杷の根方に据えた床几に腰を下ろしている。書生と車夫が和歌子に、釣瓶を逆さまにして水を浴びせているところだった。
花政が手鍵を握った。
「こいつら、俺の娘になにをしている」
槙ヶ原側はこう答えた。だれの娘だと知ったことではない。見せることなどできない当御殿の霧の助様を、どうあっても拝みたいと申している。旅行中の子爵に代わって、奥方が応接間で面会し、ならば当方の思い通りになるか、汚らわしい身体を清めるがいいかと訊けば、望むところだと言うから、水をかけているのだ。疑うのなら当人に聞け、と言うのだ。
突っ伏せられ、押さえつけられながら、和歌子は青白い顔でにっこりとして言った。
「おじいさん、許して。この人たちのしたいようにさせてください」
それを聞いた奥方は、したり顔で命じる。
「それ、背中ばかりじゃいけません。腹のほうもお洗い」
「えい、着物も汚いぞ」
と、書生が黒髪をひっつかんで、和歌子の身体を吊り上げるように引き起こした。あまりの痛みに脚を縮めると、宙に吊られたようになった。
「なんでもない。霧之助さまに逢えるのならば……」
例の少尉もまた、花政以前に駆けつけていた。しかし彼にも、この状況をどうすればいいのかわからなかった。
そのまま仰向けに引き倒された和歌子には、雪に紅葉を散らすかのように、井戸水が浴びせられた。
みどりしたたる黒髪は濡れまつわり、裳裾からは白い脚が長く伸びている。
「どうぞ、霧之助さまに……」
「いいえ、まだ続けて家風に従わなければなりません。子爵家は倹約を旨とします。だれか、糠味噌をしゃくってきて、この女に食べさせなさい。入れ物は、犬の餌を入れるものでいい」
花政は総入れ歯を噛み砕いた。だが、少尉でさえ剣を抜く手をこらえている以上、老人になにができるだろうか。
「これも家風です」
お屋敷の車夫が、鮑貝に盛った糠味噌を和歌子の頬に突きつけた。和歌子がじっと見つめるそれを、子爵夫人が足を上げて、足袋の先でぐいっと口に押しつけた。
花政は、少尉の手を押さえている。
「恋人と家庭を持つには、お漬物が大事ですって。ああ、美味しい」
和歌子が言うと、子爵夫人は手を払った。
「明日、出直して来なさい」
キッと顔を上げた和歌子が、
「それも御家風ですか」
「家風です」
「なにを言うの……」
と、すっくと立ち上がる。しかし病後の疲れと足の痛みによろめいた。そのときである。
「ここだ、旦那、お抜きなせえ!」
「よし」
長剣の鞘を払って、キラリとかざしたのは、師団屈指の暴れん坊である。
「松平竜介、さあ、斬りまくるぞ」
土足で御殿へ踏みこんで、霧の助を奪うと抱いて出た。潔く、自分の女の恋人を、である。
黒小袖、前髪姿の霧の助をひしと抱きしめたとき、見よ、和歌子の姿は、肌も衣も寒月のように輝いた。
美しい指先がさわるなり、鞘を抜け出た黄金の太刀を逆手に構え、薄紅に乳房を波うたせ、恋に燃える牡丹を散らすかのように、水の中でも燃えさかる火の心臓の真ん中へ。
了。
「付録」と題した補注と、別稿の解釈篇「なぞとき『幻の絵馬』」があります。




