XVII
「お河童」
「うう、うう」
「真っ暗な道だね」
「うう」
「お前は私を引っ張って、どんなところへ、どこへ連れていくの。手水鉢に牡丹の花を活けてるところへかい?」
「ううッ、ううッ」
「そうじゃないの? そうね、どうせお前は私の気持ちなんて知らないんだから。そう、きっとあれだろう、昔話みたいに宝の瓶が埋まってるところだろう?」
「うう」
「そう、嬉しいねえ」
そう言って微笑んだものの、見えない目を閉じた和歌子の瞼は寂しげだった。
あれ以来和歌子は、蝋燭の灯りに照らした白衣を、何度も何度も縁先に見せては、その姿に魂を曳かれたような敏夫が露地の闇をさまようのを知りながら、木戸を堅く閉ざしたままだった。そのうちに彼が発狂して自殺したことを聞くと、和歌子はしたたかに酒をあおった。酩酊した彼女の袖をしきりに引っ張る一寸法師に導かれて、庭の木戸から物置の前、そして町中へと、なかば夢心地で歩いたことを覚えている。
どこへ行くのか、方角さえもわからない。ただただ一寸法師の導くままに、白衣の袖をまかせて歩いて行く。おぼろげな意識のなかで、この怪面異体の一寸法師に身をまかせた先には、なんらかの奇跡があるのではないかと考えていた。あわれなことに、そして、これほどの意地を張り通した女であっても、彼女が本当に求めていたのは、一枝の牡丹でも冗談めかした宝の瓶でもなく、一条の光であった。鳥目の病にかかったことを知り、やけを起こしたように曼珠沙華を摘んだ、雑司ヶ谷からの帰途に連れ帰った奇形児にこそ、彼女はそれを期待したのだ。
しんしんと霜が降りる風もない夜に裳裾をなびかせながら、一寸法師に袖をまかせて歩き続ける。
「トンマがいっしょなの?」
大きな犬が、袖摺れにひたひたと歩く気配がする。
「うう、うう」
「お前がトンマに乗っているのか、私が乗っているのか、どっちだかわからない」
やがて聞こえてきた物音に、和歌子は首をかしげる。
「牛が曳く車が通った気がしたけど。……汽車の音? 水の音なの?」
「いま、川をひとつ渡ったじゃ」
「あら、私は空を飛んでいるのかしら?」
浮いている、と思った次の瞬間、足は雲ではなく土を踏みつけた。それどころか踏むたびに、しだいに深く降りていく。泥の臭いと樹の香りがプンとした。
あまりにも深い場所に降りたようだ。
和歌子は、つま先立って裾を合わせた。
「お河童」
「うう」
「ここがどこだか、教えておくれ。……悔しいけれど、見えないから」
「ううッ、見えませぬか」
「わかっているだろう。こんな病身なんだ」
うつむいて探ろうとしたその白い手を、ねちゃりと滑りこんできた一寸法師の手が握った。
「もうすぐに見えるぞよ」
和歌子はその手を振り払いもせず、
「ああ」と嘆息する。
「それ、星が見える」
ハッと思うと、無数の星々がきらめいた。だがその星は、まるで地上の枝のように、土を抜いて蜘蛛の巣のように張りめぐらされた、むきだしの木の根に散った霜の輝きであった。和歌子は、横穴を穿った深い地の底にいたのである。
「あれに燈があるわい」
巨木の切り株をテーブルのように小高く据えた上に、カンテラのような燈火が点っている。正面の盛り土を椅子にして、こちら向きにヌッと腰をかけていたのは、子牛ほどの大きな黒犬、トンマのトーマスだった。トーマスめは、長面で垂れ耳の頭に、紅いトルコ帽をかぶっている。低く唸りながらチンチンをするように前足で差し招くと、
「わあ、わあ、わあ、わあ」と声をあげた。
和歌子は夢だと思った。そう思いながら、しかも心はたしかだった。
一寸法師に手を引かれるままに、つかつかと燈の前に進むと、
「ごろ、ごろ、ごろ、にい」
と鳴きながら、一匹の古猫が椅子の脇に腰を下ろした。和歌子はその猫に見覚えがあった。錦木の宿のあたりをのし歩いて、家々の屋根を汚す、頭の割れた野良の牡三毛である。この猫は、官吏の家で飼われていた駒という優しげな牝猫を狙っていたのだが、嫌われ続けた腹いせに、駒を、産んだばかりの子猫たちもろとも食い殺してしまった。その猫が、ひしゃげた青い山高帽をかぶって、うなりながら、爛々(らんらん)と光る眼で和歌子をにらみつけて迎えると、鋭い爪で顎鬚を掻きひねって、テーブルの上に置いた一冊の帳簿を片前足で示した。
和歌子はなおも信じていた。この奇妙な体験は、鳥目を癒やすための試練なのだろうと。雄三毛から示されるままにその帳簿を見た。
……そこには、花政のお光の名が、まっ先に記されていた。続いて兄嫁のお久、官吏の令嬢、銀行員の若い妻など、和歌子が名前を知っている近所の若い女の名がもれなく書かれていた。さらに槙ヶ原家の令嬢範子、その小間使いが三人、花政の店がある表通りの銭湯の、美人の女房の名前までもある。
銭湯の女房。
その名前の上に、赤と黒、汚れた黄色で、不思議な、意味をなさない点がいくつも打たれている。読み進めた和歌子が、錦木という自分の姓に視線を留めたとき、それまではトコトン、トコトン、トコトンと切り株のまわりを叩きながら、首に巻いた黄色いハンカチをひらめかせて跳ねていた一寸法師が、座ると背丈が足りないからと盛り土の椅子の上にひょいと立って、赤爛れした手の、ミミズのような指で和歌子の名を指さした。
「うう、今夜はお前の番だと思え」
「きゃー」
和歌子は、生まれて初めてというほどの悲鳴をあげて、土に躓いてよろめきながら、穴蔵の出口に向かう段に飛びついた。と、目の前に大牛の真っ黒な面が差しのぞき、モウとひと声鳴いたかと思うと、ドンと横たわって、腹で出口を塞いだ。
「母さん、母さん」
思わず亡き母に救いを求めて、中空にすがる手は左右につかみとられ、ねじ開かれた両脚とともに、打ちこんだ杭に縛りつけられた。
「許して、許して……」
「おのれ、忘れてはいないだろうな」
と言う声が聞こえたことからして、穴のなかにいたのは三頭だけではなかった。イタチやネズミがどろどろと群れた片隅から這いでてきたのは、色按摩の久松市だった。
「あの恨み、忘れまい、忘れまい」
あのとき折られた二本の指で、和歌子の両頬をかわるがわる、ピタピタと弾きながらあざ笑う。その冷たさ、不気味さ、忌まわしさが骨髄に染みて、みだれた黒髪がうごめいた。
その手が、和歌子の胸もとにもぐり込もうとする。とたんに一寸法師が横合いから躍りでて、按摩の顎を蹴飛ばした。
「さがれ、下郎。お前には俺の食い残しを授けるのじゃ」
和歌子は一寸法師に帯を解かれながら、伊草での吉岡展の最期を思いだした。彼は葬られたのである。陵辱された自分の亡骸が人目にさらされたときの屈辱、恥辱を思えば、舌を噛み切ることもできない。両眼を破れんばかりに見開くと、曼珠沙華の幻のような血潮がまなじりをサッと走った。
そのときだった。穴の上で、雷鳴かと思う音がした。ズシンと、大牛が倒れた響きである。と見ると、萌黄の袴に黒小袖の影が飛び降りてきた。その手に三日月のごとく輝くのは、きらりと振りひらめかせた小太刀だった。
たちまち視界が暗くなった。和歌子には見えない穴のなかで、
「ううッ」
まっ先に悲痛なうめきをあげたのは、一寸法師らしい。叫び声、うめき声、駆けまわる音、倒れる響きがそれに続く。
「やっ、やっ」
爽やかな、清しい気合いの声とともに、サッ、サッと太刀風が鳴る。
忍び寄った犬の牙が、和歌子の身体に触れた。
「あっ」
「畜生! 推参な」
ハッとただ一打ちすると、あとは死のごとき、墓のごとき寂寞が残る。
抱き起こされて、すがりついたとき、和歌子は見えない目で、男の髪の美しさと袖の香りを知った。
手を取られると全身の力が抜けて、男の肩らしきところに顔を伏せながら、嬉しさにすすり泣いた。
「ここまで。……もういい」
と、手を離すので、力なく崩れた自分の体をささえながら、男の袖にすがった。
「どなたですか、どなたですか」
「御隣家の……霧の助」




