XVI
「僕は失礼しよう」
「おや、帰るのかい」
「もちろんです」
「なぜ?」
「そこまで聞かされて、そんなものまで見せられりゃ、もううんざりだ。いやしくも僕は男だ。いつかの行列のことだって、理由を知れば、そんなことだと。僕はミミズクに頭を蹴られたのと同じだ。ば、ばかにしてやがる」
「ふふん」
和歌子は一笑して、
「妬いてるのかい、この人は。おやおや可笑しいね。男が嫉妬を妬くのは、女がふしだらでいるよりも世の中の笑いものだよ。みっともないわね」
「どうせみっともよくはないんだ」
「そうとも、みっともよくありませんとも。髪は長いし、顎は長いし、日は短し、靴下は破れているし、ね。そうさ、あのときミミズクを担ぎ上げていたからこそ、どういうわけだか私という恋人ができたんでしょう。でも恋人というのは亭主じゃないんだよ。いいかい。あんたは、こんな可愛らしいことを言っていた。
『僕は半分は苦学生なので、手に職もない、働き口もない、君の手助けにはなれないから、こんなことは言えた義理じゃないと思う。それでも心の内を察してほしいんだ。……そりゃ僕のほかにも、愛人だか恋人だかはいるんだろうけど、せめて自分の目に見えるところにだけは、だれも近づけないでくれ』
言うことがしおらしいから気に入って、他の男を近づけないなんて、しなくてもいい我慢をしてきたのさ。でもごらんな、近ごろのうちの暮らしぶりを。おかげでお姫様がその日暮らしさ。私が勝手に道楽でやってたことだから、あんたのせいだとは言わない。だけども冗談にも嫉妬してるなんて言えた義理ではないじゃないか。あんたを嫌ってるわけではないから、これ以上理屈は言いません。だけど男の嫉妬はみっともないからおよしなさいね」
「すまない。でもあんまりだ。僕は嫉妬などしません。しませんが、帰ります。帰って、ミミズクの絵を描くんだ」
「ああ、結構なことですね。ご自分のためにも、親御さん、ご兄弟、世の中のためにもお帰りなさるほうが結構です。……あの女のためにならないから身を引くんだ、なんて自分に言い聞かせていればいいのよ。それが駆け引きというものでしょう」
「駆け引きだと! 駆け引きとはなんだ!」
「じゃあ、ほんとに腹を立ててお帰んなさい」
と言うと、巻きタバコを吸いつけて、
「さあ」と、指先でつまんで、吸い口を男の唇に挿した。
「いや、とにかく帰るから」
和歌子は色っぽくにっこりとして、
「ほほほ、だったら、くわえ煙草で露地を歩いてお出かけなさいな。だれも止めたりしないから」
そう言われると、煙草をもらいっぱなしで去る気にもなれず、敏夫は腰を浮かせたまま、
「じゃあ、これを飲んで帰る」
と言った勢いで、コップに残った冷や酒とタバコをちゃんぽんに、吸っては飲み吸っては飲みする。――そんな姿も、与四郎がいれば見せはしなかっただろう。あの石頭の大ミミズクは、先ほどの嘴合わせの一件で宙に舞いあがり、露地を横飛びに飛び去っていた。
「あとは独り言よ。聞こうと聞くまいと、タバコ一本の間」
和歌子は投げかけた手を額に当てた。
「ああ、あのとき博士はちょっと妬いてたわね。――私が舌を食い切った人を抱いていたとき。でも、それからの記憶がない。母屋の座敷で意識が戻って、泣いてる人、塞ぎこむ人、考えている人、うつむく人、黙った人やらに見送られてその家を出ました。博士もやっぱり黙りだった。白山様の前まで戻ったとき、そうだとふっと気がついて、
『ああ、牡丹を取ってこよう』
『よせ、そんなもの』
『いや、よさない』
博士が止めたのが悔しくって、駆けだして、羽織の袖に抱いて帰ると、嫌な顔をして睨んだから、もう一度すねた。
『私はこの、人間の通る道を帰るのは嫌です。牛車が怖いから』って、そのときは、一台の影も見えなかったけど、
『いいえ、往ったものはきっと復ってくる。途中でまた出くわすに違いないの』と、そう言ったのよ。すると博士がね、
『どこを歩く』
『ここを歩くわ』
でね、駒下駄を脱ぐと足袋だけになって、石垣から、裾が濡れるのも気にせずに小川に入ったの。流れの速いところを滝を登るような勢いで澄まして渡っていると、博士を乗せた俥が矢のように去っていったんです。それを見送りながら進んでいるうちに、水が深くなったところで私は倒れました。
けっきょくひと晩、伊草村のご厄介よ。あくる日、帰らないというのを返そうとするし、送りたいという展さんの葬式を送らせてくれないから、私は駕籠に乗せられて、大勢に取りまかれながら棺桶と並んで行くことになった。途中で道を分かれて、川越に帰ったんです。
すぐに離縁を申し渡されたのは、言うまでもない。自分の家からも勘当されました。絶縁っていうの。というのがね、義理の兄の代になっていましたから。
ちょっと、惚れなおしてはいけないわよ。これでも私、伯爵のご落胤なの」
と言った。不思議にこの女には、品が備わっている。
「母さんは新橋の芸者でね、よせばいいのに、若いからなんにも知らずに、その伯爵の世話になって、私ができたと思いなさい。まだお腹にいたときよ。つい気を抜いたんだかなんだかで、もう四ヶ月になったと伯爵様に申し上げた。と、どうでしょう。伯爵が間髪入れず、もうその晩に内緒で待合の女房を呼んで『あの女には秘密で客帳を見せろ』と言ったってさ。子どもが宿った月日で調べようっていうんだわ。他の客と照らし合わせて、伯爵様御自らで帳簿合わせ。赤子の出入り帳なんて地獄のお裁きでも調べないでしょうに。女将も江戸っ子だから釋に障って、母さんにこっそり教えたんでしょう。母さんは青くなって、それっきり伯爵とは縁を切りました。私を産んでからも世話にならずに意地を立て通したけど、苦労をし抜いたから二十七歳で若死にということになった。臨終のときに気が折れて、九つになっていた私をお屋敷の言うとおりに引き取らせたってわけなんです。急ごしらえのお姫様。面倒くさい。母さんがある時期移り住んでいた柳橋での暮らしが忘れられないで、何度逃げだそうとしたかしれないの、窮屈でね。どうせ、待合の帳面に紅で印をつけられたお姫様なんだもの。
ロシアでは、呑気に暮らしていたわ。命は危なかったけどもさ。
でもね、はじめに満州に渡るのに、博多から汽船へ通うボートに乗ったときのことよ。うららかな小春日和に、光る魚がキラキラと船べりを泳いでいたの。その魚を捕まえたくって。そしたら『タビさえありゃ捕れるけど』と言った人がいたの。それで私、両方の足袋を脱いで『二つあるから、これでたくさん捕って』と言ったら、笑われたわ。あとでわかったんだけど、その人は対馬の人だったの。対馬じゃ魚を捕るタモ網のことをタビって言うらしいわね。
ちょっとお姫様らしい話でしょ。ただし足袋だけにちょっと下世話な」
「和歌子さん」
「はあ……おやおや改まって」
「あなたにとって私は、まるで今の話の足袋のようなものですね」
「あら、なにか身に染みたのかしら」
「考えなきゃならないんだ」
「惚れてるって言いたいんでしょう。そんな難しい、謎ときみたいなこと言わなくても。足駄を履いて首ったけ、ズブズブに惚れてるって言えばいいだけよ」
「いや、洒落を言おうとしてるんじゃない」
「まじめだね。酔いが冷めて……ああ、薄ら寒い。ねえ敏さん、暖まることしようか」
「いや、帰ります。帰ってミミズクの絵を描きます」
「そう。でもね、改めて私の身の上話を聞いて同情なんてものをしてさ、お金を稼いで私をどうにかして下さろうなんて考えてるなら、およしなさいよ。どうせはじめからあなたは玩具なんですもの。怒っちゃいけないよ。珊瑚もダイヤモンドも、いってみれば玩具だもの。ミミズクの籠を頭にかぶってみせるだけでも、それが私の目に立派な彫刻か絵に見えれば、あなたは立派な玩具を作る芸術家だわ。それとも、悔しいとか、妬けるとか思ってるのなら、そんな考えはおよしなさい。私に執着しても後悔するだけだから」
「なにを後悔するっていうんだ」
「未練が出て、闇夜にこのあたりをうろついて、私が、あの白い寝間着で、裾と手に紅い火がちらつくところを垣間見しようものなら、後悔するから、さ」
敏夫は蒼くなって、まさにそうなるであろう未来を予期しながら、しかしどうすることもできないという苦悶の色をみなぎらせた。しかし、さすがに男気を出して、勢いよく立ち上がる。
「失礼」
「じゃあ、さようなら。思わせぶりにお見送りしましょう。両花道からの退場といったところ」
格子戸を出る男のあとから、和歌子は縁を降りて木戸へ出た。そのときなぜか、床の間の脇に立てかけられていたあの楊弓を手に取っていた。
花政の暗躍もあっていまは立ち消えの状態だが、庭の木戸には、立ち退きを強請された名残として貸家札が貼られたままである。張り札の流儀に倣って斜めに貼られたその札の「かしや」の字は、和歌子がその傍らにたたずめば、別れの文をしめくくって「かしく」と書かれたようにも見えた。
羽目板を踏んだ敏夫の足がふと止まったのは、白昼であるにもかかわらず、蝋燭の灯りに浮かんだ和歌子の姿が頭をよぎったからだった。白衣の裾の緋縮緬から、白い脛足がちらつく……。
そのとき、通りを騎乗で闊歩する、××師団に所属する盛装姿の騎兵少尉の姿が見えた。狭い露地から見た馬は山のように視界を圧する。的は大きい。まさに射ごろだ。
軽く弓を引いた和歌子が、フッと射る。白羽の矢がパッと馬を射た。馬は棹立ちになっていななき、拍車の音が鳴り響いた。みごとに乗り鎮めた少尉が、ひらりと馬を下りる。とっさに革手綱を高く取ると、威風を放って露地をにらむ。
「だれだ」
「なにをする」と、敏夫も我がことのように言った。
和歌子は楊弓を小脇に抱えて、
「羊の代わりに七面鳥を食べるの。……クリスマスが近いから」
早くも翌日のこと。花政の店へ、剣を鳴らしてその少尉が入ってきた。嬉しそうに花を見ながら、
「牡丹を……」




