XV
「土橋を渡って、羽織袴でふたりの男が連れだってね。鳥居前からもう帽子を脱いでいたわ。拝殿前の階の下にきて、若いほうの人がうやうやしく礼をすると、もうひとりの老人のほうはね、差していた扇を膝に置くと、土下座をしたじゃないの。
博士と私が立っていたから、急いで神馬のお堂の脇にどいてくださってね。ああ、ほんとうに神様を拝むのなら、このくらい気持ちをこめて拝まなきゃって、なんだか私、身に染みて、胸に迫ってきた。
そうしたら、大変なことになったの。神様の次にそのふたりは、博士にお辞儀をしたの。まあ、どうしたらいいんだろう、と私は思った。
『あなた様は××博士でいらっしゃいましょう。本日この白山様へご参詣のことは、町から伝え承って存じております』
村の代表が顔をそろえて途中からお出迎えをしたかったけど、ふたりきりで産神様へ来たのに、お騒がせをしてはよくないから控えたのだと、若いほうの人が言うの。若いったって三十六、七さ。老人のほうはそのお父さんなのよ。でね、『弟が』、『次男が』と、ふたりで家族のことを話しはじめました。
東京の美術学校を中退した弟が病気をしている。その診察を頼みたいと。
そのとき、わかったの。小川の小菊も、御手洗の牡丹も、私たちが来るのを知って心ばかりのもてなしに、裏庭で育てていた花を摘んであしらったのだと。でもそれは、自分たちがやったわけではない、病人の弟がやったことだ、って言うのよ。こんなにかしこまって医師を迎えようっていうほどの病人が、どうしてあんなに花を置けたんだろうって思いましたけど。なるほど、話を聞いてわかりました。口がきけなくなった、それも成人してからなんだって。そのために学校も中退したんだ、って言うの。
でもね、おそろしく頑固で、強情で、いくら勧めても、自分から医師に診てもらおうとしないし、それどころか薬を飲まない。それでも親として兄として放ってもおけないし、それが二年、三年と続くと、どうしていいかわからなくなっていた。こうして思いがけなくも、この片田舎に博士がおいでになったのは、まことに神仏のお引き合わせであろうと思う、どうか手前どもへお立ち寄りくださって、診察していただきたいと、そりゃもう気の毒なほど、手をついて頼んだのよ。
迷うことなんてない、すぐに行ってあげるだろうと思うと、博士は断りました」
「断りましたか」
それを聞いた敏夫も意外に思ったようだ。
「ええ、断りましたよ。
『私は内科医だからわかりません』
考えたわね。でも実際、先生は咽喉科じゃないんですからね。悪いようには言いたくありません。医師の責任というものを考えれば、むしろ断るほうが当然です。まだ歳は若いけれど、まじめな学者なんですからね。相手がお百姓だから、なんて思ったんじゃありません。それは私にもわかったけれど、ここは奥さんの出番でしょう。
わからないまでも診てさえあげれば、親御さん、ご兄弟の気休めにもなりますし、と人情に絡めながら、医者嫌いの病人だといっても、相手を赤ん坊だと思えば済むことだし、あなた、ぜひ。
なんてふうに言いながら、新妻の私が、生意気に艶のいい円髷姿で意気込んで、藤色鹿の子かなにかの髪飾りが見えるくらいに頭を下げてお願いしたから、博士は黙って頷いたわ。牝鶏の鬨とか何とか忘れたけど、女がでしゃばるなということよね、でも旦那が板倉内膳正みたいに、かたくなに名誉の死を選ぼうって人でもないかぎり、女がちょっと余計な口を挟んでもしかるべき場面でしょう。ほほほ、しかるべきだなんて、なに言ってるのかしらね」
笑って、すこし息継ぎをして、
「ご専門のお仕事道具が二つ、三つ入ってる革鞄がありました。車夫が持とうというのを、奥さんがわざわざ自分で抱えて博士のお供をしました。すこし難しく言えばね、そのお道具で大学の専攻分野を強調して、ちょっと威光を示してみせようなんて思ったのよ。博士の主張を曲げてお願いしたから、これ以上気分を悪くさせまいと、せいぜいご機嫌を取ろうなんて気で……医師の家庭の良妻を演じてみたの。
病人がいる家の屋根が見えてきました。俥を使うほどでもありません。あの小川の流れのある道からは逸れたから、水はあってもそこから先に小菊と水仙は流していないのだけれど、もとの流れの水の影のように、ずっと向こうの雲にまで花の色が映ってるような気がしたわ。空が澄みきって、秩父の山々、武甲山、笠山が、ぼおっと紫に霞んでいました。
それから家のなかに入ると、下男、下女がバラバラと大勢で出迎えたのよ。大百姓の家だったようね。ひとまずご休息をと言ったけど、博士は急ぐから早く診ましょう、そのほうが好都合だと、すぐに病室……じゃなくて「張出し」って言っていたわ、その弟だという男がいるところへ行ったの。男はそこに引きこもって、母屋にもめったに顔を出さないんだってさ。口もきけない意地っ張りのつむじ曲がりで、陰気に引っこんでいるばかりなんだろうって思ってたの。
――ところが驚いたわ。大変どころじゃない。口もきけない意地っ張りのつむじ曲がりなんて程度じゃなかった。あの水に花の道しるべを置いたのがこの人だって聞いてなければ、かなりのお転婆な私でも逃げだしてしまうところだった。
なにがあったんだって聞きたいところですよね、敏夫さん。
なるほど張出しって呼ぶのがふさわしい部屋だった。畳百畳くらいの広さで、床は板張りで、四方を囲ってがらんとした、そうね、なんのことはない、椅子も机も取り払った学校の教室みたいな部屋なの。そこが四方八方、ミミズクの絵で埋まっていて……」
境木も与四郎も、目を見張った。
「ミミズクの天、ミミズクの地、ミミズクの城だったわ。これでだれがあの絵馬を描いたのかもわかりました」
そう言った和歌子の瞳は、秩父の山の向こうに見たのだという、曇りなく透きとおった空を思わせるより、なおも澄みわたった。
「ばさりばさりと飛んでいる姿が、絵から抜けだしたんじゃないかと思うのがいる。本物のミミズクが交じっていたとしても、どれが本物だかわからない。なかにはね、描き損ねたんでしょうが、折ったり、引き裂いたり、細かくちぎったりして、大きな目が一つ、耳の尖った顔の欠片、片翼だけになった紙切れが、床に散り散りになっていて、かえってそんなものにこそ、なにかが取り憑いて、むくむくと動き出しそうでね。おまけにあたりは森林でしょ。天井のガラス張りの明かり取りからは、枯れ葉ばかりの木の枝が網のように広がっているのが見えていて、なんだか魔にさらわれたなにかがそこにうごめいているようで、足がわなわなしてきました。
その部屋の向こう側に、お風呂屋さんの番台みたいにこしらえた机が置いてあって、床から一段高くなったその机に向かって、薄汚れた服装をして、髪をピンと逆立てて、度の強い近視眼鏡を光らせて、鉛筆を引っつかんだまま座っている人がいました。客が来たのかと緊張して居住まいを正したんだけど、怒り肩で背が高いから、むっくりと立ち上がったみたいに見えたのよ。それが、病人の次男だったの。敏さん」
「…………」
「あなたと学校は違うけれど、やっぱり美術の学生だったの。ちょっとご紹介いたしましょう」
と、貧乏徳利から手酌で注いで、
「吉岡展……展は展覧会の展の字よ」
「僕は落第をしてる身だ」
そう言うと、ぐいっとコップを手前に引いたので、和歌子が注いでいた酒が縁からこぼれ滴った。
和歌子は澄まし顔で徳利を立てると、
「あんな学校に行きたがるのは、お見合い結婚でもしたいからさ。そのかわり恋人は作れない」
と、片頬を頬杖でささえて敏夫の顔を見た。
敏夫は「飲むぞ!」と、なかば苦って、なかば笑う。そして膝にこぼれた酒をハンカチで拭いた。
「親御さんとお兄さんが、ただただ黙ってお辞儀をするのよ。そのとき博士がね、怖がる私の手を引いて、患者の前につかつかと歩み出た。ミミズクの憑きものがついた唖の狂人かと思ってたから、いきなり両袖を羽ばたいて天井にでも舞いあがるのかと見ていたら、ちゃんと謹んで立派な挨拶をしました。鉛筆を剣のように片膝に突っ立ててね。
それで、おとなしく診察を受けるのよ。博士は明かり窓を開けさせて、丁寧に身体を観改めて、それからまばたきもしないで咽喉を診ました。そして粛然とした態度でこう言ったの。
『治る。いますぐに治してあげます。私の言うとおりにしなさい』
すこし体を後ろに引いて、博士がね、
『私の声にお続きなさい』と言ったら、男は頷いたんです。
『い』と博士が呼びかける。男は黙っている。『ろ』と博士が叫ぶ。男は黙っている。『は』と博士が言う。男は黙っている。……」
与四郎は聞きながら、ごくごくと喉を鳴らした。
「いろはにほへとちりぬるを、までを一つずつ言っても声が出なかったその男がね、ちりぬるをの次に『わ、か』と博士が言ったかと思うと、『わー、かー』と、咽喉から声が出ました。私は博士を神だと思った。拝みたくなったんです。
『わーかー』と、もう一度博士が言う。
『わーかー』と、男が言ったかと思うと、
『和歌子さん』
その声で続けて、男が私のことを呼んだの。ミミズクがものを言ったのかと思ったわ。私は思わず、ブルブルと震えた。
『和歌子さん、あなたは私をご存じないでしょう。私はよく知っております。……私は恋をしていました。ご結婚をなさったと知って、ああ、もう終わりだ、男として生まれて、恋人の名を口にできなくなるなら、一生、末世、金輪際、断じて声を出す必要はない……そのときから決して口をきかなくなったんです。運命とは不思議なものですね。死を前にして、ご主人の前であなたの名を呼ぶことになったのですから』
そして彼は、博士に言った。
『ご診察を感謝します。……だが、あなたは敵だ。道を清めて花を捧げたのは、あなたを歓迎したのではない。奥さん……和歌子さん、もう一度あなたの名を呼ばせて下さい……和歌子さん』
『はい』とわれ知らず返事をすると、男の顔色がサッと変わり、目をつぶった。あれ、唇から血が……舌を噛んだの。忘れもしない、木枯らしが枝からサッとさらって吹きこんだ銀杏の葉といっしょに、絵が飛んだことを。天井の窓まで飛んで舞い落ちたのが、大きなミミズク……」
思わず和歌子は盆に散らした銀杏の葉を取って唇にあてると、噛みしめた。わずかにこぼれた白い歯が、お歯黒を染めたかのように見えた。それが不思議に初々しく、瞳は涼しく、心の影はみじんもなく、血潮の流れは霞を描くようで、女として比べる者がいようとは思えぬほどの美しさであった。
「ねえ、仰向けになって、苦しそうに吹き上げた彼の血が、舞い落ちてきたミミズクの絵にサッとかかったとき、私は『ああ、死んじゃいけない』って身体をなげうって抱きついた。そのうち彼は冷たくなって……」
和歌子は、目の前の盆に横たわったミミズクの嘴を見つめながら泣いていたが、ふと顔を振り仰がせると、色っぽい微笑みを浮かべた。
「与四公、嘴を合わせようよ」
いきなり小僧を横抱きにすると、そのまま抱きしめて転がった。この大きな石頭のミミズク、体重五十三. 六二五キログラムである。




