I
原文 https://web.archive.org/web/20211119181337/http://web-box.jp/schutz/pdf/mbr4ema.pdf
[登場人物・動物・人形](○印は主要なもの)
○錦木和歌子 本作のヒロイン
○花政 政右衛門。花屋「花政」のご隠居。花政老
花政の息子 長男として花政の店を引き継いでいると思われる
○喜代吉=喜代公 花政で働く若者のひとり
○お光 花政の娘 (原文の第一章でのみ「お糸」と誤記されている)
お久 花政の長男の嫁
○与四郎 花屋で働く小僧
○ミミズク 花政から和歌子に貰われる
槇ヶ原子爵 界隈の有力者(原文では槇原表記が混在している)
○槇ヶ原夫人 子爵夫人
槇ヶ原家使用人 小間使い、料理人、書生、車夫など
範子 お姫様。北海道の鉱山主に嫁いだ槇ヶ原家の長女
近藤友英 槇ヶ原家の執事
○トーマス 内閣大臣から槇ヶ原家に下賜された犬。狂犬
ユダヤ人一家 シベリアの薬局店主、魔女と噂されるその妻、美しい娘
孫田屋六兵衛 通称孫六。質屋の主人
○二宮佐兵衛 質屋孫田屋の中手代
芸人風の年増 電車内で一寸法師をつれていた
○一寸法師 侏儒。河童。和歌子からはお河童と呼ばれる
陸軍中尉の令夫人 和歌子の隣人
官吏の令嬢 和歌子の隣人
銀行員のご新造 和歌子の隣人
百年堂のおばあさん 和歌子の隣人
湯屋の女房 表通りにある銭湯の美人の女房
魚屋の定 のっぽ。花政からトーマスと似た容姿をからかわれる
○境木敏夫 溜池に下宿する長髪の美術生
○越中屋長助 酒屋越長の主人で一帯の貸家の差配(管理人)
越長の使用人たち 若い衆たちと小僧
○久松市 女たらしの按摩
○白菊様 槇ヶ原家代々の御霊を宿したお人形
○霧之助殿 白菊様を守護するお小姓の人形
医学博士 和歌子の元夫
○吉岡展 和歌子に恋焦がれた美術生
○松平竜介 和歌子に馬を射られた騎兵少尉
三毛猫 頭の割れた牡三毛
駒 上の三毛猫に殺された牝猫
薄紫にかすむ桜並木に、明るみのある空から時雨がサッと降りかかる。
電車のなかからはご多分に漏れず男たちが、そればかりか容姿服飾のライバルたる女たちでさえ、あの艶やかな服装で雨具もなしに降りるのかと、背をかがめながら窓に張りつくまでして見送った女がいた。
麻布の高台にある、とある停留所に停まった電車から、乱れ掛けした糸束のように降りしきる雨のなかへ、蓮っ葉に降り立った女にためらいはなかった。中背で痩せているから二十一、二に見えるけれど、色気のある目もとからして二十四、五といったところだろう。
納戸の地色に紺と藍を引き、細く紅糸が混じった矢鱈縞という小袖。友禅染の長襦袢は、水色の地に浅黄と薄萌黄と緋色を配した海松輪絞りがパッと目立って、不知火が燃えるよう。
紫紺に銀糸の飾り縫いが波打ち、その海に浮かべたかのような深紅の枝珊瑚を散らした半襟に飾られた顔かたちもまた、凄みのある美しさである。そんな格好をした女が、帶を隠した黒縮緬の紋付の羽織の袖を胸もとに合わせ、なで肩をすぼめながら、後先も見ずにスッと雨のなかへ出た。
踏み段にひらりと降りると、低く黒雲の垂れた大通りには、裾からのぞいた海松輪と半襟の枝珊瑚が、明滅する残り火のように赤くちらつく。路面を白く乱す雨脚もこの女の肩に降りかかれば、美しい蓑をまとうかのようだった。
蓑は斜めに、時雨は縦に、と小粋な唄に乗るかのようにすらすらと通りを横切り、道ばたの桜並木をくぐろうとしたときである。紅を灯す女の影に誘われたのか、桜の葉から音をたてて雫が垂れると、水滴はその緋色をパッと艶やかに染めなおした。
「あっ、冷たい」
雨に濡れるのも悪くない。雪の日は寒ければこそ、というのと同じ。そう思えば納得できるのか、できないのか。ああ、じれったい。そんな様子で、すらりと白いうなじをトンと軽くたたきながら、五間間口の大店を構え、ここ麻布では名を知られた大きな花屋に入った。と、そのとき。
「あっ、冷たい」
軒端から滴る雨だれに、というよりも、店頭にうずだかく束にした小ぶりの白菊や黄菊、ぼかし模様の山茶花の露の冷気に打たれたといったふうである。ならば避けて通ればいいものを、わざと花にも葉にも触れて、彼女自身も身をなびかせながら歩み入る女の、花の露に濡れた襟の白さは、はかなく消えてしまいそうな秋の蝶のようだった。
浅黄蘗に桔梗をあしらい、花政と染め抜いた印半纏を着た三人の若者のうち、一人はこの店の息子であり、忙しげに立ち働く彼らの真ん中には老人の姿があった。同じ半纏をまといながらも、きちんと折り目がついてはいるが、年季の入った襟がしなびて見える。昨年迎えた喜寿の祝いには、菊慈童の活人形を店に飾り、近隣を樽酒の大盤振る舞いで賑わした禿頭のご隠居で、腰は弓なりに曲がってはいるが、気は凧を引く糸のようにブンと張っている。
店内には乱れ咲きのダリアが渦巻き、黄や赤や白の薔薇、ヒヤシンス、チューリップ、濃い緑のアスパラガス、箱根草など、酔ってしまいそうな花香の霧がプンと立ちこめ、大口の注文の花束づくりに大わらわといったところ。外は土砂降りの雨でも、浮世離れしたこの百花繚乱のさまはどうだと商売柄の威勢を張り、声をそろえて、いらっしゃい! など浴びせてこようものである。
けれども聞こえてきたのはご隠居の、
「へい、おいでなさい」
という、刈萱の葉をひねったような、しわがれ声ばかりだった。
くだんの美女は花束に縁取られた明るい顔をちょっとうつむき加減にして、
「こんにちは」
「へい、おいでなさい。なにか、ちょっとしたものでも、なにか……」
若者たちに声をかけようとしながら、小刻みに首を上下して、葉影から横目でじろじろと、薔薇の大輪に見入るように美人の顔をのぞく。屈み腰の老人は、六本ならんだ木もないのに六本木としゃれた麻布には麻布七不思議などが流行る前から住みつく古亀であるが、その甲羅をして占ってみても、この客ばかりは不可解である。どこぞの姫君のようでもあり、玄人女のようでもあり、おっとりしたようであり、蓮っ葉のようでもある。触れれば消えそうで、殺しても死にそうにない、粋なつくりが艶めかしく、色っぽくて、すっきりして。あるときは高島田に髪を結い、それが丸髷、銀杏返し、女優髪に変わり、今日は櫛巻き髪でいるそのさまを、いつものように葉隠れしたコオロギのような黒い目でうかがいながら、
「おい、なにか、奥様が、いや、お嬢様がいらっしゃった。なにか、お目にかけないか」
言われて若者たちは、花棚、花瓶、花手桶を求めて左右に散った。
「いいのよ」
と、美女はにっこりしながら彼らを制して、
「私が勝手に見たほうが手っ取り早いわよ、ねえ、おじいさん」
「はあ」
「冷たいわねえ」とつぶやきながら、白い細指で後れ毛に触れる。しっとりとした櫛巻き髪の漆黒がしたたるかのようだ。
前のめりになった老人は、握りこぶしを膝について両腕をシャキッと突っ張ると、あごを上げてどのあたりかと、女の顔から天上へと視線を向けながら、ペロリと舌で唇を舐めた。
「天井から雨漏りですかね」
若鮎が水を切るようにスッと手首を上げた女は、禿頭を斜めに打つまねをして、
「いやだわおじいさん、皮肉を言ってみたの。女が一人、にわか雨に降られて、傘も持たずに花屋に駆けこんだのよ。冷たいと言ったら濡れてるってことでしょ。傘を借りたいくらい、わかってくれそうなものじゃない」
「へっへい」と応じて、見上げた首を戻すと、床に着くかと思えるように揉み手をしながら、
「へっへい」
「あら……」
女もさすがに目が早かった。ちょうどそのとき、視線の先にある障子戸の格子の陰から、蛇の目傘の柄をこちらに向けて立ったのは、お光というこの店の看板娘。結綿島田に結った髪を緋鹿子の手柄で飾り、それと共地の襟をつけ、友禅染めの前掛けをかけた色白の娘である。
「まあ」
「へっへい」
老人は、黄薔薇一輪の香をフンと嗅いだ。
「花屋政右衛門、誰だと思し召す。あなたが電車を降りなさったときから、ちゃんとわかってたってもんで。へっへい」
「いやだ、フクロウがしゃっくりするみたいだわ」
若者たちが思わず吹き出すと、むっつり黙っていた息子も笑い、娘もうつむいて口に袖をあてている。
「なんてことおっしゃいます」
「でもねえ、私、おみそれしました」
「どうです、花屋政右衛門、池の坊三斎流の入道、商人の鑑ってなもんで。へっへい」
おっと調子に乗ったかと、咳払いを一つ。
「エヘン、江戸っ子なもんでねえ」