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第一話 角のない鬼

 その日、芦野あしのみつるは胸を触られていた。

 新学期が始まってまだ数日。春の午後の少し傾いた、穏やかな日差しが差し込んでいる。

 そんな中、彼は胸を触られていた。

 相手は、今日満が出会った少年、海原かいばらしょう

 浹は訝し気な表情で、満の胸をまさぐっている。

本当マジだ……」

 浹が呟く。

「だから、そう言ってるじゃん」

 満は、困惑と不機嫌が入り混じった返答をした。

 ゆっくりと、浹は満の胸から手を離す。その表情は、まるで妖怪でも目撃したかのように、引き攣っていた。

 数秒の沈黙。

 その後、浹は膝から崩れ落ちた。


――


 彼と出会った日、芦野満は酷く不安に駆られていた。

 新年度が始まってまだ数日、本来ならば新しい環境に心をときめかせている頃だ。

しかし、今日に至るまでの数日間に起きたとある出来事が、彼の心を騒めかせていた。

特に、事の発端と思われるある夜の出来事は、満の脳裏に強烈に焼き付いている。今でも目を閉じると、その時目にした「不気味な手」が思い起こされた。

「ね、ねえ、ちょっといい?」

 彼に声をかけられたのは、午前中で終わった学校からの帰り道。

 知らない人に突然声を掛けられた時、満は基本的に無視をすることにしている。田舎とはいえ、何かと物騒なことが多い昨今、赤の他人との関わりは極力警戒したほうがいい。

 しかしその時満に聞こえたのは、彼と同じ、中学生くらいの男子の声だった。もしかしたら同じ学校の生徒かもしれないと、満はその声に反応して立ち止まった。

 声の方向を振り返ると、そこには声の印象と同様、満と同じくらいの年の少年が立っている。

 満には見覚えのない少年だった。大人しい満とは違い、快活そうな雰囲気である。サッカー部辺りに所属していそうな子だ。

 少年は、やけに緊張した面持ちで、満を見つめている。

「……僕に何か用?」

 不信に思いながらも、満は尋ねた。

 少年の緊張が一層強くなったように見える。

「と、突然話しかけちゃってごめん。俺、最近この町に来た海原浹っていうんだ。それで、急な質問で申し訳ないんだけど、君、若しかして何日か前の夜、そこの磯の辺りに居なかった?」

 浹と名乗った少年の質問に、満は背筋を凍り付かせた。

 見ず知らずの少年が、自分が磯に居た事を知っている。あの夜の出来事、そこで目にした「不気味な手」の事を、彼は知っているのだろうか。

 その瞬間、満は踵を返してこの場から立ち去ろうか、と考えた。そして足を動かしかけて、逡巡する。

 目の前の少年、浹の様子が目に入った。質問をする彼の口調は、いたって普通のものだった。そして満が急に顔色を変えた今、彼は不思議そうな表情をしている。

 もしあの出来事を知っているのなら、こんな表情はしないのではないだろうか。

「た、確かに、三日前の夜、僕は磯に居た。けど、どうして君がそんな事を知ってるの?」

 すると浹は、申し訳なさそうに頬を掻いた。

「ごめん、突然そんな事聞かれたらびっくりするよね。実は俺、その日の夜に偶然磯の近くに行ってたんだ。そこで君を見かけたんだ」

「見かけたって、僕が何をしてる時?」

「ええと……。確か他に二人くらい友達が居て、磯に入ろうとしていたところだったかな」

 つまり、満があの「不気味な手」を目撃する少し前、彼は偶然磯の近くに居て、満を目撃していたらしい。

その後の出来事を知らないようだから、何かの用事で偶然通りがかった、といった感じだろうか。

満の中の緊張感が、ほんの少し落ち着いた。

「そうだったんだ。それで、どうして僕に話しかけたの?」

 至極全うな質問だ。

しかしそれを聞いた浹は、急に挙動がおかしくなった。

「それなんだけど、実は……」

 その先の言葉が中々出てこない。その、とか、ええと、と呟いて、俯いてしまった。

 用件があって声をかけた筈なのに、それを中々言い出せないのは、どういうことなのだろうか。

 満は思わず眉を顰める。

 少しの間、浹は俯いていた。そして漸く顔をあげたかと思うと、その表情はやけに緊張と決意を感じさせるものになっている。

「実は、俺……!」

 漸く出てきた言葉の続きは、次は物音によって中断されてしまった。

 ゴトリ、という重たい石を動かしたような鈍い音が、二人の耳に飛び込んできたのだ。

 その音は、満の後方、地面の辺りから聞こえてきた。

 刹那、満の背筋に再び冷たいものが伝う。ただの物音だが、本能的に何かを感じたのだ。

 一瞬で強張った身体を無理矢理動かし、満はゆっくりと振り返った。

 側溝の蓋が一つ外れ、開いた穴のすぐ傍に転がっていた。

側溝の中から、何かが蓋を押しのけたような転がり方だ。音の原因はこれらしい。

そして、側溝の蓋を押しのけた犯人は、開かれた側溝の中からその手を覗かせていた。

否、側溝の闇の中から不自然に長い腕のみが姿をみせ、地面に手をついていた。

やけに白く、光沢のあるその手は、満の記憶にあるものだ。

磯で目にした、「不気味な手」である。

手は蜘蛛の脚のように指を動かし、地面を這いまわっていた。どれだけ側溝から離れても、腕から先は闇の中である。

「何だ? あれ」

 手は浹にも見えているらしい。しかしそれが何かを知らない浹は、手を不思議そうに眺めていた。

 探している。満は手の動きを見た瞬間、そう感じた。地面を這いまわり、何かを探しているのだ。

 そして探しているものは……。

 満は手とは反対側に数歩後ずさり、その後踵を返して走りだそうとした。

 しかしその動きで、手は満に気付いたらしい。目にも留まらぬ速さで満に近づき、彼のくるぶしを掴んだ。

 満は転倒する。

 手はそのまま、満を引きずった。側溝の中に引き込もうとしている。

 引きずられる身体を止める術はなく、満は悲鳴を上げた。

 しかし次の瞬間、引きずられる満の身体が停止した。

 手は相変わらず人並外れた力で満を掴んでいるが、一体何があったのか。

 後ろを見ると、浹が腕を掴んでいた。満が引きずられないよう、必死の形相で腕を引っ張っている。

「大丈夫か!」

 満の視線に気が付いた浹は、彼を振り返って叫んだ。

 満は声こそ出なかったものの、何度も頷いてそれに応える。

 くるぶしを掴んでいる手を外せば、助かるかもしれない。そう考え、満はもがいた。

 しかし手は満のくるぶしに食い込んでいる。脚をばたつかせても、手で引き剥がそうとしても、離れることは無かった。

 その様子を見ていた浹は、何かを迷う表情を浮かべる。

 何を考えているのだろうか、と満が疑問に思った瞬間、浹は苦し気な表情になった。

「待ってろ、今助けるから……」

 苦渋の表情で浹が言った瞬間、突如として空中に黒いものが漂い始める。それは煙のようだが、煙とは異なる挙動をしていた。細い筋になったり、一か所で大きく纏まったりと、まるで水面に流した墨のような動きだ。

 黒い物体は、空中を漂って謎の腕にまとわりついた。そして次の瞬間、まるで細いロープのように、腕を締めあげた。

 千切れんばかりに締め付けられたことで、手の力が緩む。

 満は慌てて脚を動かし、手を振りほどいた。

 満の脚から離れた手は、側溝の闇に消えていく。諦めたようだ。

 暫くの間、満は地面に座り込んだまま、荒い呼吸を繰り返した。恐怖と混乱で、何も考えられなかったのである。

「その、怪我はないか……?」

 頭上から降ってきた声で、我に返った。

声の方向を見上げると、浹が心配そうに満を見つめている。

「なんとか……。助けてくれてありがとう」

 浹が差し出した手を掴み、立ち上がる満。

 彼が掛けた言葉に対し、浹は何故か慌てたような表情になった。

「い、いや、気にしないで。当然の事をしたまでだから……」

 満には違和感のある反応である。

 不審に思った瞬間、数秒前の光景が蘇ってきた。浹が満を助けようとした時、妙なものが現れた筈だ。

「そういえば、さっき変なものが浮かんでなかった? 黒い靄みたいな……」

 言いながら周囲を見回すが、それらしきものは何も残っていない。

 すると浹は、自虐を感じさせるような笑みを浮かべた。

「やっぱり印象に残っちゃうよね。あわよくば、どさくさに紛れてバレなければって思ってたんだけど……」

「どういうこと?」

「あれ、俺が出したものなんだ」

 そういって、浹は片手を満の前に差し出す。上に向けられた掌には、先ほど満が目にしたような、黒い靄が小さく立ち上っていた。

 説明を受けても、仔細を理解できない。

 満が困惑していると、それを察した浹が言葉を続ける。

「ええと、俺、なんというか……、そう、祈祷師とか、払い屋とか、そういう家の人間なんだ。だから、こういう靄を出して、それを使ってああいう妖怪を追い払うことができるんだ」

 俄には信じがたい説明だ。しかし満は、実際にこの靄が不気味な手を追い返すのを目撃している。その上、黒い靄を浹が出したところも確認した。信じる他ない。

「な、なるほど……」

 返答をした時、満の脳裏にある考えが浮かんだ。

 次の瞬間、満は浹の靄を出している手を掴んでいた。そして数歩、浹との距離を詰める。

「あの、折り入って相談があるんだけど……!」

 突然の満の勢いに、浹は少し気圧された様子。しかしすぐに立て直し、真剣な表情になった。

「さっきの奴についてだろ?」

 満は強く頷く。

 彼の力を借りれば、満が数日前から悩まされているものを、解決できるかもしれない。

 すると浹は、満を安心させるような笑みを浮かべた。

「いいぜ、君に付きまとってる妖怪は、俺が退治してやる」


――


 数日前の夜、満が岩礁に行ったのは、不本意だった。

 端的に言うと、素行が良くない同級生に絡まれ、無理矢理巻き込まれたのだ。

 その日、満はこれという目的もなく散歩をしていた。そして偶然、磯に向かう同級生三人組に遭遇したのだ。

 結局現在まで、彼らが磯で何をしようとしていたのか、満は知らされていない。

しかし彼らは、何か良からぬ事を企んでいたらしい。磯に向かうところを目撃した満を捕まえ、無理矢理同行を迫ったのだ。

恐らく無理矢理にでも同行させれば、長時間一緒に居て何もしなかった自分を共犯者にできると考えたのだろう。満は浹にそう語った。

そして磯に着き、彼らは何か探し物をし始めた。

それから更に数分が経過した時、事件が起きたのだ。

突然、不良グループの内の一人、赤崎という名の男子が、悲鳴を上げた。

満を含め、その場に居た全員が、彼に目線を向ける。

怯えた表情で皆のほうを振り向く赤崎の腕を、例の不気味な手が掴んでいたのだ。

 潮溜まりの暗い水面から伸びるそれを見て、皆も悲鳴を上げ、混乱した。

 そして何が起きたかもわからないまま、赤崎は潮溜まりの中に引き込まれていったのだ。

「……それで、その赤崎って子は行方知れず、とか?」

 満の説明を聞いていた浹が、口を挟む。

 二人は、付近の公園に移動していた。公園のベンチは近くに水場が無く、落ち着いて話せるため、都合が良かったのだ。

 満は、首を横に振った。

「確かに赤崎くんは、その後僕たちがいくら探しても見つからなかった。けど、次の日に磯の隅の岩陰に倒れてるのが見つかったんだ……」

 赤崎に何があったのか、大人達は当然困惑することになる。

 直前に一緒にいることが確認されていた不良グループは詰問された。

そして満はどさくさに紛れ、彼らとは一緒に居なかったことになる。

不良グループは口を揃え、自分達が見た不気味な手の事を話したようだが、信じて貰えてはいない様子だった。

そしてそのまま、今に至る。

区切りまで話すと、満は口を噤んだ。その顔には、やはり不安と恐怖が見て取れた。

浹は、ふむ、というような声を出して、少し考え込む。

「なるほど、大体の経緯はわかったよ。でもさ、赤崎って子が無事戻ったなら、君がそんなに怯える理由はないんじゃないか?」

「無事じゃなかったんだよ、多分」

 満は、浹の発言に被せるようにして答えた。

「というと?」

「赤崎くん、新学期に学校に来なかったんだ。先生は体調不良だって言ってた。それでも僕、どうしても気になって、始業式の日の午後に、赤崎くんの家へお見舞いに言ってみたんだ。そしたら……」

「どうだったんだ?」

 満の顔に、一層恐怖の色が強くなる。ベンチの縁を掴んでいた手に、ぎゅっと力がこもった。

「赤崎くんのお母さんが、今は他人に遭わせられる状態じゃないって言って、遭わせてくれなかったんだ。それでも折角だからって、赤崎くんからの伝言を聞かせてくれたんだけど……『あいつは全員食べる気だから気をつけろ』って……」

 その時の光景が、満の脳裏に蘇る。

憔悴した様子の赤崎の母。奇妙な伝言に困惑しつつも、見舞いに来た満に礼を告げ、丁寧に見送ってくれた。

そんな、良い母の声で告げられた伝言が、満には黴のように頭に張り付いて剥がれなかったのだ。

「僕も最初どういう意味かはっきりわからなかったけど、少し考えて、あの時見た手が僕達を狙ってるってことなんじゃないかって思ったんだ。そしたら……」

 先ほど脚を掴まれた時の感覚が蘇る。

「なるほどなあ」

 浹は何かを思案しながら、呟いた。

 そして、震える満の肩に、そっと手を置く。

「話を聞く限り、磯で何かの妖怪に目をつけられたのは間違いなさそうだ。このままじゃ、君だけでなく、他の皆もその赤崎って奴と同じ目に遭うと思う」

「やっぱり、そうだよね……」

 満の顔に差していた影が、より一層濃くなった。

 すると浹は立ち上がり、満の前に立つ。そして、満の両肩を掴んだ。

「大丈夫だって、俺が何とかするから」

 満は顔をあげ、浹の顔を見つめた。

 真剣な表情が、満の目にとても心強く映る。お蔭で、肩の震えは止まっていた。

「あ、ありがとう……」

 思わずお礼を言う。

 すると浹は、一瞬固まったかのように動きを止めた。

 そして何かに気付いたように、満から慌てて離れる。

「い、いや、気にしないで。困ってる人を助けるのは当たり前のことだから……」

 先ほどから時折挙動不審になるのが、満は少し引っかかった。が、とくに追求することでもないため、スルーする。

「そうそう……」

 挙動不審から復帰した浹。何かを思い出したかのように手を打った。

「どうしたの?」

「これからどうするかなんだけど……。正直、君を襲った妖怪について、まだ情報が足りない。だから情報収集をしたいんだけど、今手に入れられそうな情報と言えば、襲われた赤崎の容態についてだと思うんだ」

「確かにそうだけど……。赤崎君には会わせてくれなかったよ?」

「そう、そこが問題だよね。そこで一つ、いいアイディアがあるんだ。君にも手伝って欲しいんだけど、いいかい?」

 そのアイディアに、相当自信があるらしい。浹は、少し悪戯っぽい笑みを浮かべていた。

「ど、どんなアイディア?」

「それはな……」


――


「ほ、本当に大丈夫なの?」

 公園での作戦会議から数十分後、満と浹は赤崎の家のすぐ傍まで来ていた。

「大丈夫だって、俺に任せてくれ」

 浹の言葉を受けても、まだ不安そうな満。

 彼の腕には、ファイルに入れられた書類や、何冊かの本が抱えられていた。

 これは、浹の作戦に関係するものである。

 浹が考えた作戦というのは、こうだ。

 まず、満は学校で、赤崎が欠席中に配布された書類や、教科書を預かる。

 次にそれを持って赤崎の家へ向かい、玄関チャイムを鳴らして赤崎の母に書類を届ける。

 この時、なるべく会話を長引かせることで、赤崎の母を引き留めるのだ。

 そしてその隙に、浹は赤崎の家の裏に回る。

 赤崎は、二階にある彼の自室に居ると思われるので、例の黒い靄の能力を使い、窓から赤崎の自室に侵入するのだ。

 赤崎の容態を直接確認し、妖怪の正体を掴もうという作戦である。

 確かに、なるべく早く赤崎の容態を知るには、この方法しかない。

しかし満がどれだけ時間を稼げるかが、この作戦の肝になる。その点、プレッシャーで不安にならざるを得なかった。

すると浹は、満を安心させるように微笑みかける。

「大丈夫、もし時間が短くても、俺がなんとかカバーするから。一先ず俺が家の中に入るまで、引き留めてくれればオーケーだ」

 そう言われても、あまり自信を持てない満。

 しかし、妖怪を退けるためには、浹に助けてもらうしかない。

 浹の応援を受けつつ、満は赤崎の家の玄関へと向かった。


――


 満が玄関チャイムを鳴らし、赤崎の母が玄関先に出てきたのを確認した後、浹は行動を起こした。

 赤崎邸の裏に周り、事前に場所を確認していた、二階の窓を見上げる。

 窓のすぐ下には一階の屋根が突き出していた。

 それを確認すると、浹は黒い靄を周囲に発生させる。

 靄は空中を漂い、一階の屋根と地面との間に、梯子のような形で留まった。

 浹は靄に近づき、手足を掛ける。

 実体を持った靄は浹の体重をしっかりと支えた。

 素早く屋根の上に昇る浹。そして窓に近づくと、中を覗く。

 窓にはカーテンが掛けられていた。中は一切見えない。

 浹は再び靄を出すと、窓の端から室内へと侵入させた。靄は器用に鍵を外す。

 そっと窓を開け、身体を室内に滑り込ませた。

 室内は電気が消され、昼間なのに薄暗い。

 一瞬無人かのようにも思えたが、ベッドの中に確かに人の気配があった。

「誰……?」

 弱々しい声と共に、ベッド上の掛布団が動く。

 赤崎と思しき少年が、上体を起こした様子だ。

「赤崎だよな? 別に危害を加えるつもりはない。先日磯で起きたことについて、どうしても尋ねたいことがあるんだ」

 物音が出ないよう細心の注意を払い、かつ赤崎の警戒心を解くよう慎重に、浹は声をかける。

「芦野の知り合いだ。あんたの同級生の。芦野の事は知ってるだろ?」

 満の名前を出したことで、赤崎の警戒心が多少和らいだらしい。

「俺は何というか、妖怪退治みたいなことができる。もしあんたを襲った何かのせいで、あんたの身に何かが起きてるなら、なんとかできるかもしれない。だから……」

「それは本当か……?」

 浹の言葉を遮るようにして、赤崎が反応した。ベッドの中で身を前に乗り出した気配がする。

 浹は頷いてみせた。

「ああ。だけど、あんたを襲った妖怪について、まだ情報が足りないんだ。だから、あんたが襲われた時に何があったのか、詳しく教えて欲しい」

 すると赤崎は、ぽつりぽつりと磯に行った夜の出来事を話し始める。

 手に捕まり、潮溜まりに引き込まれた後のことは、赤崎自身もよく覚えていなかった。何者かに捕らえられたことと、皆を食おうとする何者かの意思だけが、彼の頭の中に残っていたのだ。

 気が付いた時、既に夜は明けており、赤崎は磯の岩陰に居た。

「……その時、俺は光を浴びられない身体になってたんだ」

 赤崎はそう言って、口を閉ざす。

 その発言に、浹は思わず身を乗り出した。

 すると赤崎は、掛布団から片腕を出し、そっと浹へと伸ばす。

 暗がりの中、浹は差し出された腕に目を凝らした。

 腕には、奇妙な痣が浮かんでいる。何本も束ねた糸を巻いたように、肩から手にかけて、灰色と茶色が混じったような色の筋があった。そして所々に、白い斑点が浮かんでいる。

 その模様は、浹の記憶にあるような気もするし、見たことが無いような気もする、奇妙なものだった。

「岩陰から移動しようとして日に当たったら、この痣が浮かんだんだ。その瞬間激痛で……。それに、実は体形も変わっちゃってるんだ」

 赤崎は、痣が浮かぶ腕を、もう片方の手で触る。骨ばっていて、不健康そうな腕だ。

「俺、これでもサッカー部なんだぜ。びっくりするくらい体重が減ってたし、何するにも息が切れるんだ。多分……あれに食われたんだろうな……」

 暗がりに浮かび上がる赤崎の姿は、腕だけでなく、全身痩せこけている。サッカー部というのは、俄には信じがたいような様相だ。

 しかし、その姿に浹が驚くことは無かった。

 赤崎の話を聞いている間に、犯人の目星がついたのだ。

 解決の糸口が掴めたことに対し、浹は思わず笑みを浮かべた。

妖怪の正体さえ判明すれば、対処を考えるのはそう難しいことではない。幸運なことに、今回は簡単な相手だ。

「俺が知ってるのは、これで全部だ。何か分かったか?」

 赤崎が心配そうに尋ねる。

 浹は自信たっぷりに頷いた。

「ああ、十分だ。俺に任せておけ、すぐに解決できる。とりあえず、今回はこの位で退散するよ。芦野が下であんたの母親を引き留めてくれてる。急がないと」

 そういって、入ってきた窓へと向かう。

「母さん、帰ってきてたのか?」

 浹の背に、そんな言葉が投げかけられた。

 少し妙な質問だったため、思わず立ち止まる。

「あんたの母さんなら、普通に家に居たぞ。芦野が玄関先で話して、引き留めてくれてるんだ」

 すると、赤崎が困惑した声を出した。

「俺の母さん、さっき買い物に行くって言って出ていったばっかりなんだけど……」


――


「芦野!」

 浹の声で、満の意識はぼんやりと蘇った。

 何が起きたのか、記憶がはっきりしない。浹と立てた作戦通り、赤崎の母親と話し始めたところまでで、記憶が途切れている。

 身体に上手く力が入らなかった。誰かにもたれ掛かり、辛うじて立っていられるようだ。

 その誰かが、満の身体に腕をまわしていた。自分の身体を支えているようにも、自分を逃すまいと締めあげているようにも感じられる。

 眼前の浹は、苦虫を嚙み潰したような、悔しそうな表情をしていた。


――


 満が表情から感じた通り、浹は腸が煮えるような悔しさと共に、それと対峙していた。

 満を抱きかかえているのは、一人の女だ。赤崎の母親とは完全に異なる容姿をしている。

 そこにいるのは、全身がぐっしょり濡れた、若い女だった。

 白に近いクリーム色のワンピースを纏っている。濡れて海藻のように纏まった長髪の隙間から、ギラギラとした眼光を浹に向けている。

 浹が一歩、距離を詰めようとした。

 すると女は、来るなと言わんばかりに満を拘束する腕に力を込める。

 女の術中に落ち、痩せこけた満が小さいうめき声をあげた。

「やっぱりお前だったか、栄螺鬼さざえおに

「さざえ……おに……?」

 満が弱々しい声を出す。

 栄螺鬼と呼ばれた女は、フンと鼻で笑った。

「流石に勘づくか……」

「当然だ。栄螺鬼は何年も生きながらえた栄螺の妖怪で、水の中を移動したり、女に化けたりして人に近づき、精気を吸う。そして精気を吸われた者を、呪いで日光を浴びられない身体にすると聞いていた。上に居る奴の話を聞いてすぐに分かった」

 長台詞の間も、浹は満と栄螺鬼へ意識を向け続ける。

 既に精気を吸われてしまった様子の満。

 そして栄螺鬼は、屋内の階段から降りてきた浹に、玄関で相対していた。

 つまり、栄螺鬼が数歩でも後ずされば、玄関の外、日光に満が晒されてしまうことになる。

 栄螺鬼は、ニイと口角をあげた。

「なら、何故私がこの吸い滓を抱いて、まだこの場に居るのか、それはわかるか?」

 挑発するような栄螺鬼の態度に対し、浹はあくまで警戒しつつも余裕、という態度を貫く。

「大方、俺の精気が狙いなんだろ?」

「その通りだ。こいつが惜しければ、暫く前、こいつを襲った時に見せた、貴様のその強大な力を私に寄越せ。貴様の精力の悉くを吸い尽くして、私は一族の悲願、角の再生を成し遂げるのだ」

 この町近海の栄螺鬼は、昔高僧が術をかけたことにより角が生えないのだという。浹の記憶にある伝説だった。

「なるほどな……」

「さあ早くその身を差し出せ。引き換えに、これまでに精気を吸った二人は解放しよう」

 勝ち誇ったような栄螺鬼の声。

 その声に対し、浹は少しの間黙った。

 栄螺鬼の表情に、苛立ちがのぞく。

 痺れを切らした栄螺鬼が、再び口を開こうとした時、

「芦野、俺がいいって言うまで目を閉じててくれ」

 と、脈絡のないことを、浹が言った。

 栄螺鬼にも、満にも、その言葉の意図は分からない。

 しかし満は、浹を信じて目を閉じた。

 満が目を閉じた瞬間、何細長いものが浹の背から飛び出し、栄螺鬼の首に巻き付く。

 あまりの早さに、栄螺鬼は完全に反応できなかった。

 栄螺鬼は、自身の首に巻き付いているものに視線を向ける。

 それは、茶と赤が混じったような色をしていた。ぬらぬらと光沢を放ち、一側面には白い円盤――吸盤――が不規則に並んでいる。

 巨大な蛸の脚だ。

「貴様……まさか……!」

 栄螺鬼の言葉を止めるように、蛸脚の締め付けが強くなる。

「俺がお前に言いたいことは二つある」

 静かに呟く浹の声は、冷静ながら激しい怒気も感じられるものだった。

 蛸脚は満もろとも、栄螺鬼を浹の傍へと引き寄せる。玄関から栄螺鬼が遠ざかった形だ。

「一つ、栄螺てめーおれに勝てるわけねぇだろ。そしてもう一つ」

 浹は背からもう一本蛸脚を出現させると、それを栄螺鬼の胴部に巻き付けた。代わりに首に巻き付いていた脚を外す。

 そして、浹は自分の手で栄螺鬼の首を掴んだ。その周囲に黒い靄が出現し、浹の手に纏わりつく。

 靄は、蛸の嘴、所謂烏鳶の形で実体化した。

「……俺が惚れたに手ぇ出してんじゃねえよ」

 ガチン、と鈍い音を立てて、嘴が閉じられた。

 喉を抉られた栄螺鬼は、悍ましい声を立てながら消滅していく。

 支えを失った満が、倒れそうになった。

 浹はそっとその身体に腕を回し、支える。

「大丈夫だったか?」

 精気が戻ったらしい満の顔を覗き込みながら、浹は尋ねた。同時に満の表情を見る。

 満は、今起きた出来事が信じられないというように、目を大きく見開いていた。

 目を閉じていろという、浹の指示は完遂されなかったようだ。

 その事を察した浹は、満を支えていない手を、思わず額に当てた。


――


「……とりあえず、聞きたいことがいくつかあるんだけど」

「……うん」

 回復した赤崎に、妖怪を退治したことを伝えるなど、いくつかの後処理をして、二人は赤崎邸を後にした。

 そして現在、二人は住宅街の静かな道を歩いている。

 満の斜め前を歩いている浹は、とても気まずそうな表情をしていた。

「俺がやったことについて、だろ?」

 その声には、溜息が混じっているように聞こえる。

 満は頷いた。

「目を閉じててって言われてたのに、ごめん。急に身体が動いて、びっくりしちゃって……」

「気にするな。昔から、こういうのは上手くいかないことが大半だから」

 数秒沈黙。

「それで、あれは何だったの? 蛸の脚みたいに見えたけど……。答えられればでいいんだけども」

 浹は目を伏せ、首を横に振る。答えられないわけではない、という意図らしい。

「俺、所謂妖怪なんだ。厳密に言うと、父さんが蛸の妖怪で、母さんが人のハーフ。だから、俺は人の姿にも、蛸の姿にもなることができる」

 語られるのは、突拍子もない生い立ち。しかし今の満は、浹の言葉ならば何でも信じるという心境だった。

「そうなんだ……。ハハ、なんだか、普通の人間の祈祷師に頼んだっていうのよりも、すごい人に助けてもらってたんだなあ」

「別に凄かない」

「でも、何でそれを隠してたの?」

 浹は、大きく溜息を吐いた。

「俺、これまでずっと父さんの所……海の中で暮らしてたんだ。でも、どうしても陸に出たくて、妖怪ってこをを誰にもバラさないって約束で、許可を貰ってたんだ。まさか、初日で破るとは思ってなかったけど……」

 つまり、浹は二度と陸に戻ってこれず、二度と満が彼に合うこともできないということだ。

 事情を聞き、満の胸により一層罪悪感がこみ上げる。

「本当にごめん……。取り返しのつかないことしちゃった……」

「別に気にするなって。正直、墨吐きを見せた時点で、父さん的にはアウトだったかもだし」

「墨吐き?」

 浹は手を持ち上げた。掌の上に黒い靄が立ち上る。

 靄は、祈祷師や払い屋の家系の力などではなく、蛸の妖怪が出す墨、ということだったようだ。

 満は納得する。

 一方の浹は、落ち込んでいる様子の満を安心させるように、笑いかけた。

「それに、陸に来た一番の目的は達成できそうだから、別に悔いはないよ」

「目的……」

 満の記憶に、思い当たるものがある。

 栄螺鬼との決着の際、浹は栄螺鬼が浹の彼女に手を出したというようなことを言っていた。

 例えば、海中で浹が付き合っている妖怪かなにかが、栄螺鬼に傷つけられ、その仕返しをしに来た、といったところだろうか。

 その予想を満が浹に話すと、浹は立ち止まった。

 数歩先に進んだところで、満も立ち止まる。

 振り返ると、浹が目を丸くして満を見つめていた。

「どうしたの?」

「いや、もしかして、気づかなかったの?」

「何が?」

 浹はゆっくりと手を持ち上げる。一本立てられた人差し指は、満の方向を向いていた。

「俺は君に告白する為に、陸に揚がってきたんだよ」

 二人の間に、長い沈黙が流れる。

 お互いがそれぞれの意味で、信じられないという表情をしていた。

「えーっと……」

 困惑しつつ、満が口を開く。

「つまり、栄螺鬼が手を出した女っていうのは、僕のこと?」

「そうだ。実は君のこと、磯で見かけるよりも前から、君が海辺に来る度に見かけてて、気になってたんだ……。もちろん、突然こんな事言われてびっくりするだろうけど、どうしても伝えたくて……」

「僕男だけど」

「……は?」

「男だって」

 数秒沈黙。

「……ええと、そんなに引かせちゃったかな……」

「嘘じゃないって」

 浹は暫くの間、完全に機能停止してしまった。

 再び動き出すと、満に数歩歩み寄る。

 そして満は、浹に胸を触られた。


――


「……大丈夫?」

 倒れた浹に、満は声をかける。

 少し待つと、浹はゆっくりと目を開いた。

 浹は満の顔を見るなり、大粒の涙を流し始める。

「だ、大丈夫……?」

 その様子を見て、流石の満も顔を引きつらせた。

 それからの浹の行動は、酷いものである。満に生まれて初めて、『こいつ面倒臭い』という感情を覚えさせるのに十分なものだった。

 泣きじゃくりつつ、いかに自分が満に片思いを募らせていたのかを語りつくしたのだ。

 そこには、人とのハーフである自分が、如何に彼女を作れなかったのかという、満には一切共感ができない愚痴も交えられていた。

それに同情を求めてくるのだから、満はいささか返答に困ることになる。

散々語り散らかし、漸く落ち着いた時、満はくたくたに疲れていた。恐らく、栄螺鬼に精気を吸われた時と同等の疲労感である。

そして満は、

「まあ、次はいいことあるって……」

 と、まるで気持ちが籠っていない言葉を浹にかけた。

 涙目の浹は、それに小さく頷く。

 その後二人は、海へと向かった。満はわざわざ海までついてくる必要はなかったのだが、あれだけ泣きじゃくられた後で、そこまで冷たくあしらうのは、流石に気が引けたのだ。

「色々あったけど、栄螺鬼については本当に助かったよ」

 波打ち際で、満は浹に言った。

 浹は微妙な表情で、満とは少し違う方向に目線を向ける。

「別に……。下心はあったけど、人助けは当然のことだと思ってる」

 そして、二人は簡単な別れを交わした。

 浹が海に潜ると、すぐに居場所が分からなくなる。

 普段と同じような浜が、満の視界いっぱいに広がっていた。

 傾いた陽の中、春の穏やかな風が吹いている。

 満は暫く海を眺めて、帰路についた。


――


 翌日の登校は、非常に晴れやかな気分だった。不安が取り除かれたことで、漸く新学期が始まったように感じられる。

 赤崎についても、学校に姿を見せていた。

 元々満とはあまり親交がなく、また少々素行が悪い点もそのままだったが、素直に無事でよかったと、満は思っている。

 そして朝のホームルームが始まり、担任が教室に現れた。

 そして担任教師は、

「今日はこのクラスに転校生が来ています」

 と、唐突に告げる。

 新学期すぐの転校生は意外だったため、満は少々面喰った。

 クラスメイトも同様のようで、教室中がざわつく。

 そんな騒めきの中、一人の少年が教室に入ってきた。

「海原浹君だ。皆、仲良くするように」

 満は、耳と目を疑う。

「海原浹です。よろしく!」

 しかし、いくら頬をつねっても、痛いだけだった。


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