決意
「私が……?」
「この閉塞的、危機的状況にこそニンジャの力が必要なのだ」
お待ちになって、と夫人が語気を強める。
「私は母として、娘に危険なことはさせたくはありません。そんな女を1人捕まえるだけなら、兵士や騎士に頼めば済むではありませんか」
「御母上、暗殺者はその兵士や騎士が厳重に警備しているなか、堂々と殺しに来たのです。それはつまり警備の指揮を取る者にも既にトウカの手が及んでいる可能性があるということ」
「……そんな。なら、あなた、私たちの領地で警備に当たる兵たちを集めれば」
「エマ、それはあまりにも規模が違いすぎる。今の話が確かなら、相手は兵士や騎士団の一部を掌握しているのかもしれんのだぞ」
「で、では、そう、懇意になさっている辺境伯に事情を伝え、兵をお借りしたらいかがです?」
辺境伯は国境に広大な領地を持ち、多大な兵力を持つことを許されている。
決して、無能だからと田舎に飛ばされた爵位持ちなどではない。
「遠方の領地まで早馬でも片道3日、すぐ頼みに応じて兵を出してくれたとしても到着は今から1週間後だ。コンスタンツの話からして、その間に疑惑追及の名目で、我々を捕らえようとするものが城から来るだろう。それにだ、敵対国と内通しているかのような疑惑を持たれているなか、陛下のお許しも得ずに兵を動かしているなどと知れたら、弁明のしようがなくなってしまう」
夫人は口をへの字に結んだ。
彼女とて公爵夫人として社交界を生き抜いてきた身、この界隈の道理が分からないわけではない。
だが、それだけ娘が心配なのだ。
「……事情は飲み込みます。でも娘は、コンスタンツは心優しい子。それだけのことをやり遂げる強い意思があるかどうか」
夫人が目配せした彼女の顔には、不安の色が浮かんでいた。
(命を助けてもらったとは言え、成り行きでニンジャの力を得てしまった。そんな私に、国を救うことなんて……)
「コンスタンツよ、守護霊として語ろう。この事態に対応できるのはニンジャの力を持つおぬしだけなのだ。当然、不安はあろう。だが手遅れになれば国は勿論のこと、リシャールという王子も2度とお前の前には戻ってこぬのだ」
「……リシャール様」
噛み締めるように彼の名を呼んだコンスタンツは、重い沈黙の中でしばらく逡巡し、
「差し迫った事態であることは理解しています。サイゾウ様のおっしゃることは尤もなのでしょう。ですが、少しで構いませんので、気持ちを整理する時間をください」
「うむ。守護霊である俺にできることは、より良い未来へと導くことのみ。決めるのはおぬしだ」
「……コンスタンツ、とりあえずお湯をお使いなさい。いつまでもそんな格好では可哀想」
夫人の言う通り、未だ返り血を吸ったドレスのままなのだ。
迷いのある彼女が1人の時間を作れるよう、気を遣ってくれたのだろう。
まずは身を清めるべく、コンスタンツはバスタブのある部屋へと向かった。
魔法の給湯器により、入浴の準備はすぐに整った。
各属性の魔力を含む魔法石を用いた道具は、現代でいう家電のような性能を持ち、これの登場は日常生活にエポックメイキングを起こした。
血で重くなった衣服を脱ぎ、髪を結うと、ハーブが浮かべられたお湯に浸かった。
胸に手を添えると、初めに突き殺された際の傷はもう跡形もなくなっていた。
(これがニンジャ回復力。この力を生かせば、あの方をお救いできるのかしら)
「リシャール様……」
彼女は彼の名を呟きながら顎まで浸かる。
コンスタンツはリシャールのことが本当に好きだった。
陽の光を思わせる金髪、強い信念を宿した瞳、凛々しくも穏やかな顔立ち、落ち着いた声。
最初に好きになったのは、優しさと慈しみに満ちた、あの眼差しかもしれない。
互いに惹かれ合った2人は、誰に公言するでもなく、密やかな交際を続けていた。
交際といっても一般人のそれとは違い、コンスタンツは公爵令嬢、リシャールは次期国王という立場がある。
手を握るくらいは許されるとしても、抱き合ったり、ましてや口付けなど認められるはずもなく。
2人は日々、ささやかに愛を育んでいた。
その想いがより強く、明確になったのはある暖かな日の午後。
学園内の森にあるベンチで談笑していたコンスタンツは、連日の生徒会での会議と、集中力を過度に使う魔法の実習が続き、若干疲れていた。
心地よい木漏れ日とそよ風が呼び寄せた睡魔によって、隣に王子がいるというのに、あろうことかうつらうつらと居眠りを始めてしまった。
「コンスタンツ……?」
眠ってしまった彼女をしばし眺めていたリシャールだったが、顔を近付けると、伸びやかな指でコンスタンツの垂れた前髪を端に寄せる。
そして──彼女の頬にそっと唇を当てた。
「!? リシャール様」
ハッとしたコンスタンツの目の前に、赤面し、たじろぐリシャールの姿があった。
「す、すまない、静かに目をつむる君の寝顔があまりにも愛おしくて、つい」
少しくらい尊大に振る舞ってもおかしくはないのに、彼は王族でありながらとても純真で謙虚だった。
無防備なところに口付けされたことを、コンスタンツはマナー違反だとは思わなかった。逆に彼が素直に自分を求めてくれたことが嬉しかった。
尊敬すべき人や好ましい人物は何人も見てきたが、コンスタンツにとってリシャールは少し違った。
一緒にいるというだけで高揚感が生まれ、胸の奥の重苦しさにも似た切なさは、彼女が持ちうる尊い感情の中で何よりも特別だった。
吸い込まれそうな、深い色を湛えたその瞳で見つめられるたび、コンスタンツはときめきを覚え、胸中のほのかな想いが熱を帯びるのを感じた。
その熱が身を焦がすほどになった頃だろうか。
彼女はリシャールから真摯な求婚を受けた。
本当に幸せだと涙が自然にこぼれてくるのだと。
コンスタンツは頬を伝う暖かさに、それを知った。
それから、ずっと心待ちにしていたのだ。
パーティーで公に婚約を発表できることを。
しかし──。
あんなことがなければ。今頃、その願いが叶い、幸福の真っ只中にいただろうに。
それを悪逆非道なトウカの企みで、大勢の前で両親と共に辱しめられ、婚約者を奪われ、暗殺者まで差し向けられたのだ。
私利私欲のために他人の幸せを理不尽に蹂躙する。
それは時代と場合を問わない、許しがたい悪だ。
強大な敵を討ち果たし、国を救う。
そんな伝説の英雄のような視野はとても持てない。
だが。
奪われた婚約者を救いだす。
それならコンスタンツは己が命を賭けられる気がした。
心の中で処理しきれない悲しみと絶望が、燃え盛る怒りに代わり、それが揺るぎない決意へと昇華する。
「トウカ、許すまじ……!」