絶望男爵バーチバル
戦闘は終わった。心躍るような剣戟も、猛る鬼馬の湯気も、すべて戦場に置いてきた。
で、撤退してみて気が付いたのだが、従者が居ない。仕方なくその辺をうろうろしていた馬丁と小姓に手伝わせて鎧を外す。
陣に戻ってきた他の騎士や従者たちは、出かけたときより、目に見えて数が少ない。天幕に集まってくる諸侯をかぞえると、大将を務めたトエテジル伯は無事だったが、隣領のチャンテル男爵はおらず、従者とともに次男が『兜』を携えていたし、領主のかわりに盾だけ置いてある席も。血をぬぐった痕のついている、青い紋章が痛々しい。
そして、赤いマントを着けた紋章官と、従者の一団がやってきた。
(このクソ暑いのにご苦労な事だ──)
従者の引いてきた手押し車に、巻かれたヴェラム紙が小さな山になっている。紋章官はそれを取り上げ、中の名前を読み上げた。一呼吸おき、身代金の額を読み上げる。
即決できる財力の持ち主は、その場で手付金を渡せば、日のあるうちに捕虜を連れ帰る事ができる。バーチバルの領はあまり裕福ではないが。どっちかといえば国全体が裕福とは言い難い。難癖レベルの理由で開戦して侵攻したのも、無理ありまくりだろ、とツッコんだのはムスカケ家だけでなく、トエテジル伯自身もである。伯が飲み会でぶっちゃけたのだ。
(従者のひとりくらい、銀で百もあれば余裕、よゆー……)
クソ暑い。葡萄酒でも飲まなきゃやっておれん。気の利いた従者がおれば、せめて水の一杯くらいはもうとっくに飲んでおられたものをのぅ。
余裕ぶっこいているバーチバル卿の耳に、とんでもない金額が入ってきた。
「ムスカケ家、騎士バーチバルの従者。金二百」
「ぶふおぉ!?」
鼻からぶっ飛んでいったなにかを、紋章官は華麗に避けた。体を入れ替えるように進み出た従者が、
「こちらが書面になります」
はい、と再生ヴェラム紙を渡してくる。
そこには、間違えようもない従者の名前と、二百という、数字。
「王族でもなきゃ要求せんぞこんな値!ええい我をおちょくっておるな!」
そのとき、隣領チャンテルの従者と、反対側の隣にいた騎士が動いた。
「おおっとムスカケ男爵!」
「はははははははは、まだ血のたぎりが収まらぬようですな!水でも飲んで!ささ、あはは!あはは!」
騎士は全体重をかけてバーチバルの肩を押さえ、チャンテル家の従者は絶叫に近い笑いと、殆ど顔にぶちまけるに等しいコップ入りの水を差しだし……いやぶちまけた。
「ふんがゲッホごふぅ!?(なにをする、きさまら)」
紋章官も従者も、これを『同郷騎士たちのほほえましいじゃれあい』と見做すことにしたらしい。手押し車の中には、まだ読み上げるべき書類が山積しているのだから。
暴れようとするバーチバルも、さすがに3人がかりで押さえ込み(もうひとり従者がやってきて、ベルトを掴まれてしまった)されてはままならぬ。
男爵が抵抗しないことを確認して、ようやく騎士は肩から降りた。文字通り全体重で抑え込んでいたのである。
「ふッ……。決闘男爵が絶望男爵となっても、熱い心は変わらずでござるな……」
「友情確かめあった若造みたいな台詞、やめてくんないかなえーと君……」
巻き毛黒髪の、鼻づらががっしりした青年に見覚えが無い。
こんな若い者、幕舎にいたっけ?
戸惑うバーチバルに、目を細めて人懐っこそうな笑みを浮かべた青年は、
「申し遅れました。シェイカブトゥ家の四男、ニバールと申す」
と自己紹介した後、とても自然に目を落とした。
「女性の肌着を帽子に付ける習慣は、おやめになったでござるか。代わりにご自分の鎧に女性の乳房を再現するとは……新たな性癖の扉を開けたでござるな」
うむうむ、と一人納得した騎士ニバールの顎に、バーチバルの拳がさく裂した。
板金鎧の胸に偽乳を象る男騎士。
バーチバルこそ『絶望男爵』と呼ばれるへんた……従者が言うには、
「ちょっと他人には理解しづらい美意識の持ち主」
であった。