109.力を失った巫女の最後の意地さね
騒がしい階下の騒動を知ったのは、翌日の昼過ぎだった。眠れないのをいいことに、書類を片付けて報告書に目を通す。人間がまだ攻めていない状況で持ち込まれる報告書は、ほのぼのとした内容が多かった。
森の奥の魔狼夫婦に新しい子が生まれたとか、湖で溺れかかった竜種の子が救助されたなど。魔族の子の初角生え替わりの報告まで混じっていた。微笑ましい文章を指で辿りながら読み、一番下に印章を押す。これらは複製されて報告者の元に戻されるのだ。
穏やかな時間を過ごす魔王シオンの部屋に、呆れ顔のネリネが案内したのはリクニスの巫女だった。今朝到着したらしい。クナウティアの部屋でしっかり朝食を平らげた後、侍女経由で謁見を申し出た。
先日の謁見が終わったことで、竜の爺や将軍、吸血種の大臣が領地に引き上げている。魔王に会えればいいと強請られ、この部屋まで連れてきたようだ。
「久しいな、ババ」
「まだ若いよ」
言い返すのはいつもの通り。顔馴染みでなければ、ネリネもここに案内したりしない。手にした印章を横に置いて、机の上で肘をついて両手を組んだ。その上に顎を乗せて眺める魔王シオンへ、巫女は肩を竦めた。
「今度こそ、悲願なるか……」
予言の巫女と呼ばれた過去の彼女の発言なら、きっと価値があっただろう。今は希望を口にするだけの、非力で長寿な女性でしかない。
かつて彼女は自らの能力の喪失を予言した。リクニスの一族に聖女が生まれたとき、世界は新たな変革に巻き込まれ、リクニスが世を覆うだろう。
「何か変わるだろうか」
「わからないが、あの子を嫁にもらってくれるんじゃろう?」
「それはっ! ネリネが勝手に」
尻すぼみに声が小さくなったシオンに、300年弱を生きた老女は優しく言い聞かせた。
「いいことさ。あんたがようやく幸せになれるんだろう? もう苦しむのはやめたらどうだい」
「……亡くなった者になんと説明するのだ」
「人間を娶れというんじゃないさ。あの子はリクニスだ。魔族と人間の間の子だよ。混じった血はどれだけ世代を経ても残る。あんただって知ってるだろ」
罪悪感に苛まれる魔王を諭す声は柔らかく、どこまでも優しい。リクニスが表の歴史から姿を消したのは、巫女を一族から奪って孕ませようとしただけじゃない。この魔王を守る意味もあった。
人間と魔族の間に生まれた子らは、魔法を自在に操った。魔族と同じように魔術を扱い、人間の器用さで改良する。より便利な魔法や魔術を作り上げたことに、巫女は恐怖を覚えた。
魔族の血を混ぜて作られた子に、これほどの力があると知られたら……人間は魔族を捕らえて子を産ませるだろう。戦うための子が作られる。予言の言霊を飲み込み、運命に逆らったのは彼女の意思だ。それゆえに呪われた彼女の寿命は止まった。
魔族のように死ねない彼女にとって、魔王は護るべき存在へと変わっていく。
「あんたは幸せにならなきゃいけない。死んだ子らに悪いと思うなら、余計にね」
ネリネが言っても届かない言葉を、巫女はゆっくりと言い聞かせた。顎を乗せた手を解き、シオンは顔を手で覆う。僅かに震える肩を見ないフリで、巫女は部屋を出た。
さあ、人間という種族を滅ぼしてあげようか――ババと呼ばれる女の、最後の意地さね。




