3章 昔の自分
――クリフトラ王国。それは、大陸の南東に位置する大国の1つだ。
各都市の領主は、王である、ジーク・イマイラに忠誠を誓い、クリフトラは大陸での支配を確かなものにしていた。
クリフトラは、歴史的に見ても商業が盛んな国だった。商業都市ベルリラを初め、長い年月築き上げた交易ルートからは、多大な収益があり、豊かな国へと成長を遂げていた。
クリフトラに暮らす民はそのおかげか、飢えを経験することなく、生涯を終えて行く。
この国は、世界的に見ても、数少ない成功した国として認知されるようになっていた。
――数年前。俺は、そんなクリフトラの首都、ドロキアと言う都市でベンバー家の長男として産まれた。
ベンバー家は、クリフトラが建国してから続く名家であり先祖代々、王家に仕えて来た重臣の中でも古参一族である。
その中でも、現ベンバー家の当主である父上。モーガン・ベンバーは王様の片腕とまで言われるほど優秀で、王からの信頼も厚く、他の重臣達の中でも、絶大な発言力を有していた。
だが、俺はそんなベンバー家の長男として産まれてしまったせいか、物心つく頃には、周囲からの期待の目にさらされ続け、将来はクリフトラを支える1人になるように、言われ続けて来た。
クリフトラでは、当時でも尚、階級制度が残る上下社会だ。それはつまり、貴族の子供は将来貴族となり、平民の子供は一生平民。奴隷の子は大人になっても奴隷。もし、この国で出世を夢に見るのであれば、何よりもどこで生まれたのかがはっきりとものを言う。
その点、俺は出生には問題はまったく無い。むしろ、ベンバー家の長男ということもあり、生まれる前より出世街道は確約されていたほどである。
そんな俺に対して、父は甘やかすことは無く、常に厳しかった。
教育は物心つく頃より始まり。剣を握れるようになれば、毎日のように剣術を徹底的に教え込まれた。
王都に居た頃の父は、随分と人間が出来た人だった。
王様の重臣として、何よも国の利益を考え、他の家臣からも慕われていた。
「ベンバー家の男ならば、強く勇ましく、そし賢くなければならない!」
これは毎日のように、言い聞かされた父の言葉だ。
別にこの言葉に魅了されていた訳ではないのだが、世間と言うものをまるで知らなかった幼い頃の自分は、父に必死に喰らいつき、父のような立派な人間になろうと、心に決めていたのかもしれなかった。
今思えば、なんでそんなことを思っていたのか分からないのだが、当時はそれが正しいのだ思いこんでいた気がする。
――10歳の誕生日を迎えた日のこと。
俺は、国が運営する首都にある、貴族学校にほとんど強制的に入学させられることになった。
貴族学校は、将来クリフトラを支える優秀な人材の育成を目的として、近年作られたものだ。
各都市の貴族や領主は、10歳を超えた自らの子供を、学校に入学させることを義務付けられ、生徒に様々な英才教育が施される。
この学校では、上級貴族の子供から、クリフトラが支配する領主の子供まで一定の地位を持つ者が多く集まっていた。だが、クリフトラで重視されるのは階級制度である。
学内では生まれが良ければ、何不自由なく生活が送ることが出来る反面、平民上りの男爵の子供は最悪だ。
貴族とは名ばかりの男爵の位を持つ者の子供は、身分の高い貴族の子供に逆らうこと出来ない。
もし、逆らうようなことがあれば、その子供の父親は、位を剥奪されることだってあった。
したがって、下級貴族の子供は、ここでは奴隷となんら変わりはない。
貴族学校の頃の自分は、成績もそこまで悪くは無く、指導教官からも、ある程度の信頼を得ていた。それは、ベンバー家の長男と言う期待にも、出来る限り答えようと自分でも奮闘していた結果だったのかもしれない。
そんな自分に対して、逆らうものは誰1人としていない、順風満帆な貴族学校での生活は、自信から驕りへと変わり、我がもの顔でふるまうことも増えていくほどだ。
だが、それと同時にどこか満たされることもない、虚無感も感じていたのも事実である。
目的なんて何もない。自分が心の中から面白いと思う事は、何もなかった。
生まれる前から敷かれた人生設計。それをただ歩むだけの行為が最善だとは、分かっていたものの、そのことに対しての魅力や尊厳すらも何も感じることはなかった。
――俺が物心つく頃、王宮内では、表立って2つの派閥の意見対立が激化していた。
1つは、父であるモーガン・ベンバーが中心となる、ベンバー派と呼ばれる派閥で、もう1方は、父と同じくらい発言権の強いグラン・リーゼルと言う重臣が中心になる、リーゼル派と呼ばれている派閥だった。
彼ら2人は、王宮内の重臣の中でも、2本の指に数えられるほどの有力者であるのだが、根本的な考えの違いから、お互いが目の敵にしていた。
そして、近年の目まぐるしい世界情勢の中、クリフトラの今後の方針を決める段階で、ついに2つの派閥は意見の違いにより、対立した。
父が中心になっている、ベンバー派の主張は以下の通りである。
隣国、ヴァージリアが、最近軍隊の拡張に乗り出しているため、他国に侵攻する恐れがあり、我がクリフトラも、今まで通り外交政策を継続しつつ、軍備を強化するべきである。
戦争が始まり、民が傷付けられてからでは遅いのだと。
一方、これに対してリーゼル派は、こう主張した。
軍の強化なんてとんでもない。簡単に軍を強化しろと言うがそのためには、膨大なお金がかかるという事実がある。それは各都市に課せられる税金を上げるという意味であり、民を苦しめることになりかねない。
そうなれば、いずれ王に対しての忠誠は離れ、暴動を起こす可能性すらある。そのため、我国では、今まで通り外交の力によって、国を維持していくべきだと。
どちらも一理ある意見に、国王は頭を悩ませた。
この意見の対立が起こっていた当初は、王宮の重臣はリーゼル派になびく者が多くいた。
理由は、もともとクリフトラは共和制の強い国であり、今でこそ貴族社会が根強くあるとは言え、民の上に我々があるという事を十分承知していたからだ。
だが、ここで最も懸念するのは、隣国であるヴァージリアの動向である。
ヴァージリアの指導者が近年、死去してしまい、次に指導者に選ばれた者が、支配欲の強い男だという事が徐々に分かって行くと、このままで大丈夫かと不安を感じた、家臣たちが次第にベンバー派に加わるようになってきた。
極めつけは、父が王宮内で放った言葉である。
「民を守ることが出来るものは力であり、力の無い国など、存在する価値はない!民がいてこその我々であり、我々の仕事は民の幸せを第一に考え、他国からの侵略から守ることである!」
この言葉に、リーゼル派に付いていた多くの重臣は、ベンバー派に賛成の意志を示した。
しかも、王宮内のみならず、モーガン・ベンバーの考えは、民からも支持を得られるようになり、結果的に、リーゼル派中心であるグランは、追い詰められ孤立するようになってしまった。
そんな王宮内の派閥対立もあってか、俺は貴族学校の一日のカリキュラムが終わった放課後に、学内の人目が無い場所でとある人物を、ベンバー派の家臣の子供達数人を連れて、いじめるようになっていた。
俺と俺の仲間に囲まれて、抗うこともなく暴行を受けているその人物は、父モーガン・ベンバーと対立していた、グラン・リーゼルの息子、マルクス・リーゼルだった。
彼は小太りな上、上級貴族の子供と言うこともあってか、碌に苦労もしたことの無い顔つきをしている。もともと普段の口数は少なく、何を考えているか良く分からないため、俺はマルクスのことをあまりよくは思ってはいなかった。
全体的な能力でも、俺に劣っている彼は、どう考えても人の上に立つ器ではなく、マルクスに従う者も誰もいなかった。
しかも、今回の両親の対立によって、彼は注目を集めてしまい、俺達のターゲットにされてしまったという訳だ。
いくら殴ったとしてもへらへらと笑い起き上って来る彼を見ていると、愉快で仕方がない。
マルクスは、何も反撃なんかしてこない。全く、こんなのが王宮内でも1、2を争うグランの息子だと思うと、情けなくなってくるほどである。
「なんで、こんなことをするんだい……?」
そう言うマルクスを、仲間の1人が蹴り飛ばすと、地面に突っ伏した。それを見ながらもう一度、皆は笑った。
なんでか、と問われた時に、確か最近調子に乗ってる、だとか、お前の顔が気に食わない、だとか、色々なこじつけの理由をつけては、殴っていたのだが、明確な理由なんて特に思い浮かばない。
もしかしたら、期待だのなんだのと、今まで自分に向けられていたものが、すべてストレスになって、マルクスに暴力をふるうことによって、発散していただけだったかもしれなかった。
だが、どっちにしたってそんなこと、彼にとっては一切関係のないことである。
そして、俺は倒れこんでもう起き上がることもしないマルクスに向かって、こう吐き捨てる。
「お前の父さんは、クリフトラの民を守ることが出来ない、腰抜けだ!」と……。
そう言った瞬間、マルクスの表情はきりっと変わり、俺を睨みつけて来た。
「僕のお父さんは、間違ってなんかいない!」
マルクスは、叫びながら、彼を見下しながら見る俺の顔を一発殴った。
そんな彼をすぐに間髪入れずに殴り返し、痛さで目の前で悶えるマルクスを、仲間はすぐに囲って袋叩きにするのだが、俺は殴られた頬を手でさすりながら思った。
なんで、強い者に対して、弱い者が立ち向かおうとするのだろうかと……。
俺は、生まれた時から、ベンバー家の長男として生きて来た。
人の上に立つ存在。出世も名誉も権力でさえ思うがまま。
敷かれた道を歩めば、出世だって待っているだろう。このまま行けば、父の位を継ぐことだってきっとできるかもしれない。
だが、目の前で血を流しながら転がっているこの男は、俺とは違う。
どう考えても俺より弱く、彼の立場は時期に失墜してしまうだろう。
そして、何より彼は人の上に立てる器ではない。
弱いなら強い者に、大人しく従っているべきである。そうすれば、何も考えず、苦しい思いをすることは無く、生きていけるはずなのに、なぜ彼は立ち上がったのだろうか?
俺には、それが分からなかった。
俺は、そのあと、ベンバー派の貴族の子供達と共に、マルクスを立てなくなるまで、殴り続けた。これ以上、暴行を続ける必要がないと、心のどこかで分かってはいたのだが、それでも俺は殴る手を止めなかった。
なぜなら、弱い彼が自分を睨みつける眼差しが、たまらなく憎たらしく、とても恐ろしいものに思えたからだった。
だから、もう二度とあんな目を向けないようにしなければいけないのだと、そう思った。
彼が、俺に向けたあの目は、今でも思い出すことが出来る。そして、一生忘れることはないだろう。
――その日、俺は学内寮に戻ると、そこに待ち構えていたのは、王国の衛兵だった。
しかも彼らは、衛兵の中でも、国王直属部隊であり、主に凶悪犯などを捕まえる特殊部隊だ。
彼らは、俺に付いてくるように言うと、武器で脅しながら手枷をはめられて連行された。
その後、俺はそのまま投獄され、地下牢の中で夜を明かした。
初め、なぜ自分が捕まり、こんな場所に居るのかが全く理解することも出来なかった。
理由も誰も教えてはくれず、いくら考えたところで分かるはずもない。
もしかしたら、袋叩きにしたマルクスが父親に報告したのではと考えてもみたのだが、それはそうとしても、俺1人が投獄されているのは変な話だ。しかも、そんなことでは国王直属の衛兵隊なんて動かない。
今や父の対決に敗れたリーゼル派は、まさに無勢だ。重臣の忠誠心も離れつつあるグランの息子をけなし、暴力をふるった所で、何かお咎めなんてあるはずもないだろう。
では、いったいなぜ俺は投獄されたというのだろうか?
――謎が解けたのは翌朝になってからのことだった。
手枷をはめられたまま、衛兵に連行されて向かったのは、王宮広間だ。
大理石で出来た天井を支える柱に、黒曜石のタイルには赤い絨毯が引かれ、豪華絢爛な装飾が施された広間には、王座に座るジーク・イマイラ王と、その横に立つグラン・リーゼル。そして、その他には多くの王宮の重臣が、待ちわびていたというように、俺と、俺同様、手枷をはめられて連れてこられた母を、じっと見た。
「母上!」
俺はそう叫ぶと、母も反応し、俺の名前を呼んだ。
母も見るからに、なぜ自分がここに連れてこられたのか、分からないという様子だった。
「王様、罪人、モーガン・ベンバーとその家族を連れてきました!」
衛兵長は敬礼をし、イマイラ王に向かって言った。
罪人?この男は何を言っているんだ?
俺は心の中で思いながら、衛兵長を睨みつけると、すぐに王宮広間の扉は開かれ、そこから入って来た人物に、衝撃すら覚えた。
扉から入って来た人物は、手枷をはめられ、まるで罪人のような無地の服を着た、哀れな父の姿だったからだ。
父はひどい拷問を受けたのか、目の上には青色のこぶを作り、身体の各所に鞭で打たれたような傷や火傷。さらには打撲が目立っていた。
見るに痛々しい、父の姿に母は顔を伏せた。
だが、父は俺達がここに居ることに気が付いていないのか、顔を向けることもしなかった。
父はそのまま、衛兵によってイマイラ王の前で跪かされ、王様を見ながら口を開く。
「王様、なぜ私にこんなことをなさるのですか!この私がいったい、何をしたというのですか!」
父の訴えに、イマイラ王は、何も答えることはなかった。ただ、彼は裏切り者でも見るような目を父に向けていた。
「王様……、モーガン殿は密かに、各重臣達に賄賂を贈り、権力を集中させることによって、国家転覆の機会を虎視眈々と狙っておりました。これが、その証拠にございます……」
イマイラ王の代わりに、話を進めるのは、すぐ隣に居たモーガンだった。
彼は自分の部下から、賄賂の経緯がこと細かく書かれた簿帖を受け取ると、それを王様に差し出した。
簿帖を見たイマイラ王は、眉を寄せてうーん……とうなって難しい顔をする。
賄賂とは詰まるところ、不正な金の受け渡しであり、クリフトラでは、賄賂を贈るという行為はいかなる理由があっても禁止されていた。理由は単純で、賄賂の根本は民の税金であることが多いためだ。
この金の無断着服を一度でも許せば、その行為はどんどんと広まりを見せ、結果もたらされるのは、王宮の乱れと民の疲弊だ。
そのため、王直属の衛兵部隊は、これらを取り締まるため権力をかさに、自由に動き回ることが出来る。そして、賄賂が実際に行われていたとなれば、父とその家族は極刑になるという事もクリフトラでは珍しいことではないのだ。
「グラン、貴様、クリフトラの民のみならず、王様までも欺くというのか……!」
父の言葉に、グランはその場であざ笑った。
「王様の信頼を裏切ったのは、貴殿の方だろう……。王様、これは紛れもないベンバー家の印。この書面によれば、数年分の民の血税が、この1年間で不正に動かされていたようでございます。これらがモーガン殿が罪人である確かな証拠。何卒、ご決断を……」
まるで、敵を追い詰めたように不気味な笑みを浮かべるグランに、吐き気すら覚えるほどだ。
その後、ベンバー派の重臣の懇願もあってか、父は極刑だけは避けられたが、財産を国にすべて没収され、ベンバー家は遠方の村へと、流罪になった。
――一見、流罪で、命だけが助かったことに感謝するべきなのかもしれないが、それから始まった生活は、まさに地獄と呼ぶにふさわしいものであった。
まず、国家の反逆罪として連れて行かれた土地では、周りの人々から、常に敵でも見るような嫌悪の眼差しを向けられ、味方は誰1人としていなかった。
さらに、ベンバー家のような貴族崩れの人間には、そもそも仕事など与えられず、貴族だった頃とは打って変わって、生活は苦しいものになっていった。
毎日のように、国のために働いていた父は、仕事を探すことはなくなり、昼間から酒を飲むようになる。
父は泥酔して現実を忘れるように眠ってしまう。そしてまた起きたかと思えば、また酒を飲み、酔った勢いで俺や母に暴力を振るう毎日。
もうそこには、あの頃の、厳格で誇れる父の姿はなかった。
顔を真っ赤にさせ「酒がない」と叫びながら、母や俺を殴る父の姿を見ては、昔の気高く、勇敢な父は死んでしまったのだ。俺はそう確信するのに、時間はかからなかった。
そして、その死んでしまったという表現は、まるで予言のような結末をもたらした。
また地獄のような日々が始まるのかと思った一日の始まり、泥酔して寝ているはずの父の姿は、質素な家にはなかった。父はその日、家の裏の木で、とうとう首を吊って死んでしまっていたのだ。
いずれは、こうなることは心の中で分かっていたかもしれないが、死んでしまった哀れな父の姿を見た瞬間、ずっと国の多面働き、生涯を尽くす覚悟すらあった彼の一生と言うなんとも呆気ないものだと思った。
もう、後悔や、悲しみすらその当時の俺には感じることはなかった。
しかし、父が死んでしまってから、母の精神が崩壊するのには、時間はそうかからなかった。
俺の母は、父が死んでしばらくの間は、思いつめたように過去にすがり、戯言のように時折父との思い出を、独り言のように語る。
食べることも寝ることもしない母は、次第にやつれて行き、俺にはどうすることも出来なかった。
そして、父が埋葬され、とうとう死んでしまったことを肌で感じるようになったある日、母はまるで気が狂ったかのように笑うと、憎しみと悔しさに満ちた表情で俺にこ言った。
「私は、何があろうとも生き抜いてやる!」と……。
その言葉が意味していたことに気がつくことが出来たのは、あとのことである。
母は、毎日のように夜、知らない男を次々と家へ連れ込むようになった。
俺はそのたびに家を追い出されて、寒空のした1人野宿する羽目になる。
誰も助けてはくれない。
そうやって俺も自分がなんとなく壊れて行くのを感じる日々を送るようになった。
――あれは、いつの日のことだったのだろうか。
その日もいつものごとく、母に家から追い出され、村の周囲を行く当てもなく彷徨っていた時の話だ。
すると、村の同い年の子供数人が、何かと自分に因縁をつけて、殴りかかって来たことがあった。
初めは3人で、それでは俺に勝てないと分かれば、次に6人、8人と増え、最終的には10人を超え、徒党を組んで向かってきた。
初めのうちは何のこともなかった俺だったが、数が数だけに、抗う気力も体力も無くなっていった。
地面に突っ伏す自分を見下しながら、奴らはこう言い捨てる。
「お前は、裏切り者の子供だ!」と。
これが、俗にいう因果応報という奴なのだろうか。こんな時になって、マルクスの気持ちが痛いほど分かるようになるとは……。
子供達は、俺が立ち上がることが出来なくなるまで殴ると、全員が頭に唾をかけて立ち去って行ってしまった。
俺は、たまらなく悔しかった。なんで俺ばっかり、こんな目に合わなくてはいけないだろうか。なんで俺があんな奴らに、惨めな思いをさせられなくてはいけないだろうか。
朝から曇天だった空模様は、しだいに激しい雨に変わり一面を襲った。
「うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
出来上がった水たまりに拳を叩きつけながら、俺は悔しさのあまりに叫んだ。
誰にも聞こえることの無いその叫び声は、次第に雨にかき消されてしまう。
皮肉なものだと、俺は思った。今まで自分自らがしてきた行いが、こんな形でまんま返って来たのだから。
前までの、それでも貴族の誇りを胸に生きて来た自分は、もういない。貴族の名誉も権力さえもいつの間にか消え失せてしまった。
こうなったら、もうどうだっていい。いつまでも同じことを固執しているのには、もう疲れた。俺はもう貴族ではないのだから……。誇りなんてもうどうだっていい。
――もう立ち上がる気力も無くなると、このまま雨でぬかるんだ泥に埋もれながら死んでしまうのかと、本気で思った。
自分が想像したかっこいい死に方とは全然違う。
だが、こんな時だけ、それも決して悪くないと思えるのだから不思議である。
それに、こんな自分には、その方がお似合いだ……。
そう考えながら、降り続ける雨の中、目をつむって、覚悟を決めた時だ。
俺を見下しながら、傘を差した老婆が、目の前に立っていた。
彼女は憔悴した俺を、鋭い目つきで睨むと、ぼそりとつぶやいた。
「少年よ……。随分と苦しい思いを、今までしてきたようだな……」
何も、言葉が出てこない俺を見ながら、老婆はさらに言葉を続けた。
「もし、お前がもう一度立ち上がって、この世の中を、朽ち果てるまで戦いたいと思うなら。私に付いてくると良い。ここよりもっと過酷で地獄の淵を生きる術を教えよう……」
そう言って、老婆は雨でぬかるんだ土を、ゆっくりと俺に背を向けて歩き出した。
まだまだ、若かった俺は、最後の力を振り絞るように、立ち上がった。
すべてをあきらめてしまったあの時、もしかしたら、まだ死にたくないという気持ちが心どこかに残っていたのかもしれない。
だが、そんなことは今となってはもう思い出すことは出来ない。
「あんたは、いったい、何者なんだ?」
俺がそう言うと、老婆は振り返り皺の酔った顔を向けてこう答えた。
「私の名前は、ジラン。傭兵だ……」
「傭兵……?」
訳の分からないと言った表情をする俺に、構うことなくジランと名乗った老婆は歩き出す。
そして、俺は彼女に付いて行くことにした。
それはたぶん、生きるためである。




