序章 青い目の死神
純白の霧が辺りを立ち込めていた。
べっとりと張り付くような、汗が身に着けていた服を張り着かせる湿原地帯。そこで一歩、足の踏み場を間違えれば、身体は泥と病原のうごめく沼の中へと突っ伏す羽目になるだろう。
国境付近のこの場所で、今まさに、軍隊同士の戦闘が始まろうとしていた。
ことの発端は、隣国ヴァージリアの軍隊が、祖国であるクリフトラ国に対し、宣戦布告を行い、さらに同刻、軍隊は領内に軍事進攻を始めたことからだ。
クリフトラの時の王は、これに対して急遽勅令を宣言したため、2国間の軍事衝突が発生することになった。
早朝、寝起き間もなくのクリフトラ軍の目の前には、すでに陣形の組み終わったヴァージリアの精鋭部隊が並んでいた。
その数ざっと4000近くもおり、ヴァージリアの前衛は大楯と直剣を構えた歩兵隊と、両端はクロスボウを構えた弓兵。そして、軍の後方には、戦闘の華とまで言われた重装騎兵隊である。
歴戦の精鋭を揃えた彼らの士気は高く。洗礼された装備に、鍛錬された集団行動やその気迫から、身を震わす仲間は多かった。
しかし、相対するクリフトラ軍3000人の士気は非常に低いものだ。
それもそのはず、偵察任務だと高をくくっていたはずのクリフトラ軍だったが、突如目の前にヴァージリア軍が現れたことによって、指揮官のみならず、誰もが敵に虚を突かれた形になってしまったのだ。
しかも、平和続きだったクリフトラの兵士は、戦闘経験はほとんどなく、これが初陣だと言う者も少なくなかった。
装備も品癪で、クリフトラの指揮官に至っては、戦場に立つのが初めてなのか辺りをきょろきょろと見渡しどう見ても怖気ついている。
気品も勇敢さのかけらもない指揮官には、今回金で雇われたクリフトラ軍の大半を占める傭兵はほとんど、愛想を尽かしている始末だ。
この戦いは、数でも質でも劣るクリフトラには、勝ち目のないことは誰の目から見ても明白だった。そのためか、傭兵の中には、戦闘開始の混乱に紛れて、逃げ出してしまおうかと考える者もいるほどである。
「あれが、例の傭兵か……」
戦闘が開始される寸前のクリフトラの傭兵陣営。その中で屈強な傭兵達の中をかきわけるように進む若い男に対して、嫌悪に似た小さな囁きが、飛んできた。
「噂通り、いけ好かない奴だ……」
皮肉じみた声で、誰かがそう言った。
だが、若い男はピクリとも反応することなく、傭兵の中を進んでいく。
全身黒の軽装を身に纏っていた、その若い男の名前は、レイ、ベンバー。
歳は若く、20代前半と言った所だろうか。
彼の表情は常に険しく、殺気すら感じるほどである。
そんなレイの目の前には、立ちはだかるどころか、傭兵の連中は勝手に道を開けて行く。
それは、彼が『青い目の死神』という異名で呼ばれ、傭兵の中で畏れられていることを意味していたからだ。
通りすがりに出会った人物からは、ひっきりなしに小言が聞こえてくるが、レイはそれらに反応することはなかった。なぜなら、彼がこの軍に参加をすると決めた時から、こうなることはすでに分かっていたことだからだ。
軍隊同士の戦いは、決まって定石通りの展開になるものだ。
この日のクリフトラ軍と、ヴァージリア軍との戦闘も、まさにそれであった。
まず、お互いの指揮官の号令で、両端のクロスボウ兵が敵に向かって矢の嵐を放つ。
それが終わると、前衛で待機していた歩兵隊が、お互いの突撃を見せ乱戦状態になり、機会を見計らいながら、後方で待機していた騎兵が、前方の見方をかき分けながら、激しくぶつかる。
これこそが、軍と軍との戦いの定番であり、慣例でもあった。
こういった小競り合いは特に、主に貴族で構成されている指揮官は、特別なことがない限りこの流れを崩すことは、まずありえない。
だが、だからと言って、味方騎兵の合図が遅れることがあれば、前方の歩兵隊は敵騎兵の攻撃をまともに受け敗走を始めるため、指揮官には絶妙な駆け引きと、多大な注力が求められる。
所謂、そこが戦闘での、指揮官の腕の見せ場と言っても過言ではない。
だが、その日クリフトラ軍の騎兵隊は、突撃の合図を出されることはなかった。
いや、それだけならまだましだったのかもしれない。
歩兵同士の激しい戦いが前方で繰り広げられている中、クリフトラ軍の指揮官は、わずかな騎兵をすべて連れて、戦場を離れて行ってしまったのだ。
それは、クリフトに従軍していた者の誰もが、自分の目を疑いたくなるような光景だ。
そして、その直後に襲いかかったのは、敵騎兵の殺意と刃だった。
とある傭兵は、鋼鉄の鎧を身に着けた敵が乗る馬にまるでトマトがつぶれたかのように、頭を踏まれて死んでしまった。
また、ある傭兵は戦場から逃げ出そうとして、背を向けた瞬間に背後から、敵歩兵の直剣で内臓を一突きにされ、鮮血を撒き散らして死んでいく。
戦場には、いくつもの気の狂った敵の雄叫びと、味方の悲鳴が交差するように飛び散り、生者の死骸のが、次々と築かれていった。
指揮官に見捨てられたクリフトラ軍には、士気など皆無に等しく、もはや軍隊同士の戦いと呼べるものではなかった。
一的なヴァージリアの虐殺が続く中、クリフトラ軍は次々と敗走を開始する。だが、敵もそれを見越したうえで、蹂躙を始めた。それはクリフトラ軍に従軍していた傭兵も関係なかった。
金で雇われた傭兵は、その時点でヴァージリア軍の敵である。
そのため、傭兵は決して敵方に投降することはない。
なぜなら、捕虜になったとしても多額の身代金が払えないため、彼らに待ち受けるのは、一生知らない土地での奴隷生活かもしくは処刑という運命しか待ち構えてないからだ。
傭兵は、何があっても剣を抜き立ち向かうが、勝ち目がないと分かれば一目散に逃げる。
忠誠や忠義に縛られることなく、自由な彼らだが、自分の身は自分自身で守らなければならない。
それが傭兵と言う者達の定めだった。
ヴァージリア兵の虐殺が続くこの戦いで、敵の歩兵と騎兵は戦場に立つ1人の若い男に刃の狙いを定めると、猛獣のようなうなり声をあげながら、剣を構えて飛び掛かった。
だが、それに立ち向かうように、彼は背中に背負っていた古いロングソードを抜くと、敵との距離を見計らい、一瞬のうちに胴体と頭を切り離していく。
何の迷いも無く、躊躇することもない彼の剣さばきは、鮮やかと言うしかなかった。
その場で倒れ行く敵兵は、いったい何が起こったのかも分からずに、死んでいく。それはまさに滑稽でもある。
泥と血と、汚物に紛れた戦場で、レイは次々と襲ってくるヴァージリア兵を剣で交えることなく殺していく。
そうしていると、いつの間にかこの場で、死神を殺すことの出来る人物は誰もいなくなっていた。
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この日、国境付近で始まったヴァージリアとクリフトラの小競り合いは、引き分けと言う形で幕を閉じた。
その戦場で生き残ったのは1人だけ。『青い目の死神』と呼ばれていた傭兵だけだった。
彼は、ここで誰よりも敵を殺し、誰よりも多くの死体の山を築きあげ、地面を真っ赤に染めた。そして、自らが築き上げた敵兵の死体の上で、剣を突き立てながら胡座を掻いて座る。
憂鬱そうな表情に、身体はすでにぼろぼろなうえ、傷さえ目立つそんな有様の彼をあざ笑うかのように、すっかりと晴れてしまった青い空の上には、戦場の死体を漁るためにやって来た烏達が、弧をかきながら飛んでいた。
そんな烏を見ながら、レイは一言、
「アホくさ……」と力の無い声でつぶやくのだった。
新人賞に投稿した物語になります。
話自体はすでに完成していますので、ネットup用に改行してから、準備ができ次第あげて行きたいと思っています。指摘、感想など、ありましたらぜひ!