第九話『全世界の皆さん、事件です』
凄いことが起きたので話そうと思う。
驚きすぎてひっくり返っても俺は一切の責任を取らない。
……前にも思ったけど、ほんと誰に向かって話してるんだろうな俺?
深夜の十二時を抜けてから、ようやく俺は意識を取り戻したらしい。
らしい、というのは、そこから今に至るまでの記憶がさっぱりないからだ。衛生班の人たちから色々健康状態やら後遺症やらについて説明を受けたような気がせんでもないんだが、ぶっちゃけ靄がかかったような感じで全然思い出せん。
だから俺がはっきりと、目を覚ましたんだと記憶しているのは、自室のドアを開けたあたりからだ。
王城だったころ、国外からの客人を丸ごと滞在させるために使っていたという宿泊施設の一角が、今の俺の根城だ。スキルランクに応じて部屋の質と位置が変わるので、無能であるところの俺は一階の隅っこ、一番質素な部屋で寝泊まりしている。
その部屋の中で最大の調度品、狭いが意外とふかふかのベッドに、どさり、と倒れ込む。ほぼ同時に、遅まきながら自我を取り戻した。
いやぁ、正直もうちょっと待ってくれた方が良かったかもしれん、と思ったね。
なんせ直後、全身を貫く様な酷い感覚が、両腕を起点として走り回ったのだ。あまりの痛みに思わず絶叫。いたいいたいいたい、これはやばい、また気絶しそう……!
悶絶すること一分半ほど。ほんのちょっとずつではあるが、その痛みは引き始めた。ぐぉぉ、二度と来んな……。
「いってぇー……」
あんまりにも酷いもんだから、気を紛らわせるような声が出た。男ならちょっとくらい我慢しろだぁ? 勘弁してくれよ。これまで認識していなかった全ての痛みが、ものすごい勢いで殺到してきたんだぞ。流石に悲鳴の一つも上げたくなるわ。
そうだ、一回経験して見ろよ、絶対分かってくれるはずだ。あれだぜ、死ぬほど痛いぞ、ってやつ。
しっかし……我がことながら、随分こっぴどくやられたもんだなぁ。
身体の至る所に真っ白い包帯が巻いてある。感触的に、顔や頭にもガーゼが貼られていたり、やっぱり包帯が巻かれていたり。
特にひどいのが両腕だ。なんとびっくり、感覚そのものがない。指はなんとか動くのだが、その度にひどい激痛が走る。手首に至っては動かすことすらできない。記憶がないので何とも言えないのだが、俺はどうやって部屋の鍵を開けたんだろう?
その両腕を、ゆっくりと天井に向けて掲げてみる。
……守り切った、んだよな。俺。
なんとなく誇らしかった。初めて、明確に誰かの役に立った気がする。社会貢献欲とか自己犠牲精神とか、そういうのが旺盛なわけじゃぁないけれど……なんつーか、俺でもやれるんだ、っていう、変な自信みたいなのを持てた気がするんだ。
慢心に気を付けないとなぁ。こういうこと考えてる傍から足元を掬われるのが戦場の定石というかなんというか。よくFPS系のゲームで遭遇する場面である。
あーあ、この誇らしさで痛みが消えれば良いんだけどなぁ……今晩は寝れそうにねぇや……なーんて、思っていたその時。
こんこん、と、小さな音が、木製のドアを叩いた。
廊下の方から、透き通った綺麗な声が聞こえてくる。
『……先輩』
「おん、芽音か。どうした?」
『その……お邪魔しても、いいですか』
おねだりをするような言い方がいじらしい。こんな時間に珍しいなぁ、良い子は寝る時間なんだぞ、などと思いつつも、後輩に弱い俺はのこのこと従ってしまうわけだな。
「どうぞー。ちょっと待ってな、今開けるわ」
よっこいしょ。両手が上手く使えないと、体を起こすのも一苦労だ。
そして鍵を開け閉めするのも一苦労である。いやだからほんとマジでさっきの俺はどうやってこの部屋に入ったの。鍵、テーブルの上に置いてあるけどめっちゃ小さいじゃん。何なの、無意識だからこそできる曲芸的動作だったの? なら今からもう一回気絶を……いやそうすると芽音が不安がるだろうし……よし、やっと開いた。
ガチャリ、とドアを開ければ、目の前に芽音の細い体があった。薄いピンク色の長袖パジャマは、どの部屋にもある寝間着だ。サイズが合わないのか、ちょっとぶかぶかなのがやたらと煽情的。無意識に、喉がごくりと鳴った。いかんいかん、煩悩退散。こういうときはどうでもいいことを考えて思考を逸らさなければ……そういえばパジャマって本来はゆったりしたズボンを指す言葉であって、寝間着のことじゃないらしいな……ってああ畜生! 一層意識しちまった!
白い枕を抱きかかえているのは何の故か。俺としてはそのせいで、上目遣いと、僅かに上気した頬が強調されてしまっているのが大変健全な精神に悪いというかなんというかですね。
くそ、やっぱりこいつ反則的に可愛いわ。見てるだけで痛みが吹き飛ぶ。
「こんばんは」
「お、おう。こんばんは……」
なんだろう。なんかイケナイことをしているような気分になる。例えるなら全寮制の学校で、夜な夜な男子寮を抜け出しては女子寮の庭から気になる女の子の部屋にちょっかいを出すようなノリというか……いえ、性別的には逆なわけですけども。
芽音はうっすら頬を染めたまま、押し黙ってアクションを起こさない。なんだなんだ、何か用事があったんじゃないのか?
ともかく、このままにしておくわけにはいくまい。バルアダン共和国、立地の問題なのか季節の問題なのか、夜になると微妙に肌寒いんだよな。
「……取りあえず入れよ。廊下、寒いだろ」
「……はい」
こくり、と頷く芽音。うーん、ますます可愛いな……格好が格好だけに俺の心の中のやましい思考が、ここぞとばかりにアップを始めていやがる。ええい、静まれ静まれ。
しかし困った。底辺部屋であるマイルームは、来客を想定した調度品をさっぱり所持していない。こういうとき、香り高い紅茶とか出せると完璧なんだろうけどなぁ。
「わりぃ、お茶とかそういうの、なんもないんだわ」
「いえ、お構いなく……突然お邪魔した私が悪いので……」
「やっぱ最高の後輩だよお前……ごめんな。どっか適当に座っててくれ」
「はい」
消え入るような返事。そのまま芽音は、ぽすん、とベッドの隅っこに座ってしまった。すまん、どっか適当にという表現はまずかった。ベッドはあかんてベッドは。
まぁでも、他に座るような場所がないのも事実なんだよな……実際、俺もベッドに座らざるを得ないわけで。
必然的に、狭いベッドに二人で座ることになる。肩と肩が触れ合う距離、というほどじゃぁないけれど……芽音の体温と息遣いを、すぐ隣に感じるのは確かだ。電車で出かけるときとかにもちょいちょいあったシチュエーションだけど、何度遭遇しても全く慣れない。なんでだろうな。どうして女の子の呼吸音っていうのは、こうも男の心を乱してくるんだろう。
ホタルブクロみたいな形のランプが、うすぼんやりと部屋の中を照らしている。
「……先輩、お昼は、本当にすみませんでした」
「何謝ってんだよ。俺の方こそ、もっと早く駆けつけてやれなくてごめんな」
「そんな……先輩が、先輩が謝ることなんて何もないんです! 私が……あの場所では、私が戦うべきだったのに……」
まーたこいつはそういうことを言う。
責任感が強い、と言えばマイルドだろうか。芽音は何でもかんでも自分の責任として背負おうとする癖がある。一人で銀級ギア使いたちに立ち向かおうとしていたのも、きっとその性質のせいだろう。俺よりもよっぽど自己犠牲精神が強い。
「あのな、俺はお前の事を助けたかったから、あの場所に割って入ったんだぞ。この怪我も、あの戦いも、全部俺の自業自得。お前が気に病むことなんてなんにもないんだっつーの。むしろ誇りでさえあるわこの傷」
ところが、お姫様はこの回答がご不満だったらしい。
表情を明るくすることはなかった。
「先輩は、いつもそうです……本当に察しが悪くて、間抜けで、理解力が足りない人」
随分酷い言われようだ。やんわり自覚している部分なので、反論がしにくい。でも何かしら反応しないと、「言い返すこともできないんですか? 先輩の語彙力は小学生レベルですね」とか言われるんだよなぁ……。
と、思っていたのだけれども。
覚悟していた追撃は、なかった。
「自分のしたことが、どれだけの意味を持っているのか、全然、これっぽっちも、分かってないんですから」
いつもみたいな、ちょっと小馬鹿にする感じの言い方じゃない。噛みしめるように、というか……何だろう、『泣きそうな声で』、っていうのが一番合ってるかもしれない。ミスったな、と直感的に思った。よく分からないが、少なくとも何かしら、俺は彼女を傷つける行動をとってしまったのだ。理解力の低さの故に。
己のコミュニケーション能力の低さを呪いたい。致命的過ぎる。この状況で、彼女にどんな言葉をかければいいのか、俺の貧弱な受け答えリストからでは全く回答が導き出せないのだ。下手をすれば、今以上に彼女を傷つけてしまうかもしれない。それは嫌だなぁ……芽音が悲しみで泣いてる顔、見てると凄い辛いんだよな。できれば回避したいところだ。
一番無難なのは、思っていることを正直に言うことだろう。うん、これで行こう。
「そりゃお前、困ってるやつがいたら助けるのは、流石に常識の範疇内――」
「同じことを」
ところがその返答は、最後まで言い切らないうちに遮られてしまった。
「同じことを、先輩は以前にも口にしました。私を、初めて助けてくれたときのことです」
「へ……?」
何言ってんだこいつ。いや、真面目に身に覚えがない。
俺が体を張ったのは後にも先にも今日……昨日? とにかくさっきのやつだけだ。そもそもあんな風に、酷いくらい殴ったり蹴られたりするような場面には、幸いなことに生涯遭遇したことはない。言ったじゃん俺。
だから同様に、芽音のことを悪漢から救う、みたいな場面はなかったと思うんだけど。
「何か勘違いしてるみたいですけど。私が言っているのは、三年前……部活動の勧誘から、私を引き抜いてくれたときの話です」
むすっ、と頬を膨らませる芽音。忘れてしまったんですか? と追加の舌鋒。
「いや、流石に覚えてるぞ。でもそれ、『助けた』の域に入るのか……?」
エンブレーマギアの操作こそ苦手だが、芽音は本来、スポーツ万能、運動神経抜群の完璧JCである。以前にも話した通り、入学当初、体育の授業だかなんかから噂を聞きつけたのだろう、多くの上級生が、彼女を自分の部活に入れようと勧誘の嵐を起こしたほどだ。
一時期それは酷くエスカレートして、まるで汚職問題を起こした政治家に詰め寄る記者みたいな勢いで生徒達が芽音の下へ詰めかけるまでに至った。「彼女が入るのはうちの部だ!」と、取っ組み合いの喧嘩に発展した場面も見ている。
思い返せば確かにその時、俺、「それを決めるのはあんたらじゃなくてこの子の方だろう!」みたいなことを叫んで、芽音をどっかに連れ出した記憶がある。今思い返せばとんでもねぇ蛮行だ。上級生に啖呵切った挙句、初対面の女子生徒を引っ張って逃走するとか。よくもまぁ無事に学園生活を送れてきたものである。
でもそれは、救ったというよりは単に、状況を見かねた当時の俺の、後先考えない勝手な行動だったように思う。芽音が他の部活に入る機会というか、そういうのの大半を潰してしまった事件だ。結局彼女にはその後も、ちょいちょい勧誘は来るわけだけど……全部断って、模型部に入ってくれたわけだし。
それを果たして、『助けた』の域に入る、と言っていいのだろうか?
「入るんです、私にとっては」
けれども芽音は断言した。
そのまま少しだけ、俺との距離を詰めてくる。ふわり、と甘い香りが鼻腔を掠める。異世界産のシャンプーの匂いと、パジャマを洗った洗剤の香り。それから、芽音自身の、女の子特有の陽だまりみたいないい匂い。
「嬉しかったんですよ、これでも。私のことを、自由意思のある普通の人間として見てくれる人がいるんだ、って。それまではクラスメイトも、家族も、私の事を駒か、ちょっとしたブランド品みたいな目でみていましたから」
まぁ……それはな。
あれだけ身体性能が高いのに、見た目までこのレベル。一家に一台欲しいくらいだ。ちょっと魔性だもんなぁ……芽音は良いところのお嬢様だっていうから、家のしがらみっていうのも結構あるんだろう。
「だからその場しのぎの嘘であっても、それが本当に、本当に幸せで……私、この人になら、いつもの目線でみられてもいいかもしれない、なんて思ったほどです。どんな要求が来ても、受け入れるつもりだったんですよ? それこそ、『俺のモノになれ』とか言われても、従う覚悟でした」
え、そうだったの? と聞き返さなかったその時の俺は、多分相当自制心が効いていたと思う。生涯で最大だったかもしれん。いや本当に。雰囲気ぶっ壊すところだった。
そんな内心の葛藤を知る由もない芽音は、優しい想い出を一つ一つ解き明かすように、静かに、過去を回想する。
「なのにその人は、私のことを放置して、そのまま帰ろうとするじゃありませんか。初めての経験だったので、私、びっくりして聞いたんです。どうして何も要求しないんですか、って。何か利用価値を見出したから、私の事を助けたんじゃないんですか、って。そうしたら、その人は――あなたは、こう言ったんです」
ああ――思い出した。むしろ、どうして忘れていたんだろうな。
芽音が俺との交友関係を、最優先事項として設定してくれている理由。
俺が初めて、彼女と普通に接した生徒だから、っていうのは、本当に文字通りの理由だったんだ。
「「困っている奴がいたら、助けるのは常識の範疇内。そこに理由も何もあったもんじゃねぇだろ」」
声は、重なった。
芽音が、ベッドの上に乗り上げる。きし、という小さな音が、妙に胸の鼓動を早くした。
気が付けば、俺たちは正面から向かい合っていた。芽音の真っ黒な瞳に、俺の間抜け面が写り込む。彼女の伸ばした白い指が、俺の傷だらけの頬にそっと触れた。全然痛くない。なんでこんなに、彼女と触れ合うと辛さとか、痛みとか、そういうのが全部抜け落ちていくんだろう。
「あれからずっと、ずっと先輩に、何か恩返しがしたかった。私を一人の人間にしてくれたあなたを、今度は私が、どうにかしてあげたかったんです」
きっと彼女が、俺一人だけだった模型部に、籍を置いてくれたのもその一環。
大して楽しくなかっただろう話でも、一生懸命覚えては、いつの間にか彼女自身の趣味へと変えてくれたのも、そうに違いない。
「なのに私はまた、先輩に助けられて……私、まだ先輩に何もしてません。先輩に、私の感謝を、想いを、伝えきれていません」
「恩返しなんて……別に俺は、その為にお前を助けたんじゃねぇって」
「分かってます。だからこれは、ただの我儘――これでも結構、強欲な方なんですよ、私」
とす、と軽い音がした。
芽音が、俺の胸に、その額を押し付けた音だった。
小さな手が、俺のシャツの端をきゅっと掴む。か細い肩が、震えていた。
「悔しかった。先輩を助けにいかなくちゃ、と思っていたのに、手足の動かなかった自分が恨めしかった。先輩は私のことを守ってくれたのに、私が先輩を守れないことが悲しかった」
畜生、やっぱりダメダメだ、俺。
見たくない、と思っていたのに。結局、芽音を泣かせてしまった。
おまけに実にみっともないことに、俺自身も泣いていた。うるうるしてるとかそういうレベルじゃない。鼻の奥が熱くなる。目じりから零れた水滴が、頬を伝ってベッドに落ちる。ああもう、なんて情けないんだろう。
「先輩……今度は、私が先輩を守ります。この異世界にいる間……叶うなら、元の世界に戻った後も、ずっとずっと、あなたに寄り添って生きていきます。バラバラになっても、あなたのことを愛します」
芽音の細い腕が、俺の胴に回される。俺が腕を動かせない分、彼女は驚くほど密着してきた。
柔らかい感触が、前面に押し付けられる。早くなる鼓動は、きっと芽音自身にも聞こえているはずだ。
けれども彼女が、怒ったり、軽口を言ったりすることは、無かった。
「先輩――好きです。大好きです。もし、許してもらえるるのなら……私を一生、あなたのお傍にいさせてください」
……まぁ、色々とシリアスめな口調で語ってきたわけなのだが。
要するに、凄い事件というのはだな。
春風逢間十六歳、人生で初めて、『彼女』というものが出来ました。
それも一歳年下の、学園トップクラスに美少女の。
……俺、もしかして前世で凄い徳を積んだ王様の生まれ変わりとか、そういうサムシングだったりするんだろうか?
その間抜けな疑問を、俺は多分、生涯抱き続けることになる、と。
芽音にぎゅーっ、と抱き締められながら、半分くらい上の空で思った。