第二十二話『我は汝、汝は我――なんていうお約束』
凍月芽音が春風逢間と初めて出逢ったのは、二年と少し前、中学生になったばかりのころのことだった。
今でも友達の多い方ではないが、当時の芽音の人付き合いの悪さは、自己評価ではあるが度を越していた。驚くほどの孤独っぷりである。孤立していた、と言った方が良いかもしれない。
それは物理的な話とは違う。以前逢間が漏らしていたが、芽音は他人から見れば人気者に見えるらしい。いつでも誰かに囲まれていて、誰かと言葉を交わしていて、誰かの為に行動している――そんな風に見えるのだそうだ。
でも前述の通り、芽音にはさっぱり友達などいないわけである。この矛盾の正体とは、なんなのか?
簡単だ。
芽音の周りに集う人は、誰も芽音という人間を欲していないのである。彼らが求めているのは、『凍月芽音』という存在が持つ機能だけ。世間の事情に照らせば良い家に生まれて、人並以上には勉強ができて、それなりに運動神経も良くて、ちょっとおこがましい気はするけどでも事実として見た目も悪くない――そういう、彼女を構成している記号を欲しているに過ぎないのだ。
全員が、である。
全員がそうだった。私たち友達だよ、と言ってきた女の子も。言い寄ってくる男の子たちも。何か困ったら頼りなさい、と言ってくれる教師たちも。お帰り、今日の学校はどうだった? と問うてくる両親でさえ。誰も、一個人としての芽音を必要としてはいなかった。
つまらなかった。なまじっか洞察力が他人より優れている分、すぐに相手の考えていることは理解できてしまった。自分に付与されていく属性だけを見て喜ぶ彼らと言葉を交わすたび、言いようのないもやもや感というか、そういうくらい感情が芽生えるのを、毎日のように感じていた。
けれどあの頃の芽音は同時に、それがきっと「自分に求められている」ことなんだろうな、と思っていた。助けを求められればそれに応じ。親からいうことを聞きなさい、と怒られればそれに従い、期待されている、期待以上の結果を出す。人間とはそういうもので、いくらこの生活に色がなくても、ずっと続けていくしか方法はないのだ、と。この冬の曇天みたいに凍てついた、灰色の毎日から抜け出す方法は無いのだ、と。
それを変えてくれたのが、逢間だった。
芽音が抱いていた人間の常識を粉々に打ち砕き、バラバラに破壊し、モノトーンの毎日に光をくれた。ただの豪華な景品みたいに雛段の上に座っているだけだった芽音を引きずり降ろして、一個人として、なんでも自由に選択していいのだと叫んでくれた。誰も見ようともしなかった、芽音自身の人格を、欲してくれた。
最初は多分、ただの感謝だったのだと思う。恩人、自分の環境を変えてくれた人、この人と一緒に居れば、今とは違う自分になれるかもしれない、という興味もあった。
でも、彼が彼だけのために作った部活に、半ば無理矢理入れてもらって。
ほとんど毎日、放課後を彼と一緒に過ごすうちに。
凍月芽音が春風逢間に抱く感情は、徐々に、徐々に、別のものへと変わっていった。
目で追うだけの日々が続いた。
視線が交われば、それだけで嬉しかった。
同じ教室で、彼の趣味の話を聞いているだけで楽しかった。それに自分が加われるようになってからは、もっともっと、花が咲くように毎日が美しくなっていって。
もっと一緒に居たい、もっと仲良くなりたい、もっと彼の事を知りたい――それまで抱いたこともない、我儘にもにた甘い想いが募っていく。
一日の終わりに、ベッドの中で逢間の笑顔を思い出すたびに、びっくりするほど胸がずきずきするのだ。そんなときは決まって、彼と出会う前、自分自身を見てくれない周囲の人々に、感じていた黒い感情が戻ってきた。あんまりにも辛いものだから、それまで流したこともなかったような涙をこぼしたこともある。
それでようやく、その黒い感情の名前が『寂しさ』なのだと気が付いた。
それでようなく、逢間に抱いた甘い想いが『恋心』なのだと気が付いた。
寂しい。逢間と一緒に居られないと辛い。彼の笑顔が見れないと悲しい。彼の声が聞こえないと、世界から色が消え失せてしまう。
楽しい。逢間と一緒に居られると嬉しい。彼の笑顔が見られるだけで、その一日がまるで最高の日であるかのように思えて――。
自分という人格を見てくれたから逢間に感謝していたはずなのに、今度はどうすれば、自分という記号の全部を好きになってもらえるだろう、と考えるようになっていた。個としての自分、記号としての自分、どちらもを使って彼を繋ぎ留めないと、彼が誰かにとられてしまいそうな気がした。
思ったことをそのまま口に出してしまう体質だから、無意識に彼を傷つけて、嫌われてしまったらどうしよう、と不安になったこともある。あれはたしか一年生の終わりの頃だったと記憶しているが、一度だけ逢間と本気で喧嘩をしたことがある。あのときは学校で一切口が利けなくて、毎晩のように後悔に枕を濡らしたものだ。今は大切な想い出だけれど。
そんな毎日を積み重ねていくうちに、感情は少しずつ、少しずつ、心の中でより広い領域を支配していく。
今だってそうだ。自分の気持ちを伝えあって、それが受け入れられて、ただの先輩後輩から、明確で特別な『恋人』へと関係が変わっても、芽音の想いは色あせない。それどころか大好きな彼への想いは、毎日のように、どんどん強くなっていく。見つめ合い、手を繋ぎ、声を交わし、肌を重ねる……そんな無上の幸福を繰り返していくうちに、芽音の恋心は際限なく膨らんで行った。
――だから。
分かるのだ。分かってしまうのだ。
愛する誰かを探して彷徨う、『彼女』の慟哭が。
「あなたは――」
勝手に起動させられた自分のエンブレーマギア・フレーム。人体を内側からみたような、淡く発光するミラーシルバーのコックピット。『ルキフグス』の内部構造と接続したそれは、相互の情報交換を可能としているらしい。逢間がこの機巧の魔物に対して、「単体で完結している」「自律するような気がする」と口にしていたが、まさしくそれは正解であったようだ。『彼女』から、驚くほど人間のそれによく似た感情や、ルキフグス自身が培ってきた想い出の数々が流れてくる。
自らを創造した人間のために、彼の望んだとおり世界を滅ぼそうとした。
けれど人間たちの反撃によって、魔物たちは皆狩られて行った。
彼女は戦いを最後まで見届けることもできず撃墜され、『巣』――あのアプラ・エディナの奇妙な尖塔へと帰投する直前、あの鉱山で眠りについたらしい。
それが、自分たちに掘り起こされた。
求められるままに目を覚ませば、世界のありようはまるで変っていて……自分を呼んでくれるはずの『マスター』は、『彼女』が探れる範囲のどこにもいなかった。
どこですか、どこにいるのですか、答えてください、私の名前を呼んでください、褒めてください、求めてください、愛してください――
嘆きのままに、『ルキフグス』は大空へと深紅の方陣を描く。洞窟を破壊した禁忌の術式。この世界のどの魔導砲よりも威力のある、世界を焼き尽くすために編まれた、天使の焔。
『Kirrryyye――』
「うぁ……っ!」
同時に、芽音の身体からはごっそりと魔力が抜けていく。物質世界とは別の層に存在する魔力。その喪失は直接的に身体に悪影響を及ぼすわけではない。だが裏を返せば、精神的な側面では絶大な欠損を引き起こす、ということを意味する。
体内魔力が枯渇すると、意識を保っていられなくなるのだ。
確か先輩は、「あれだろ、MP=意識を保っていられるだけの精神力っていう説。それがなくなったら自我が保てなくなる。だから意識はブラックアウトして、体内魔力が回復するまで目を覚ませない」、と解釈していたっけ――どちらにせよ、このまま同じペースで魔力を奪われたら、芽音の意識は混沌の沼にどぼん、だ。
それは大変拙い。精神力を半無限にゼロのままにされるということは、実質的に自我の崩壊を意味し、それは凍月芽音という人間の死と同義だ。
なんとか抵抗しないと。
芽音はルキフグスと接続したギア・フレームに意識を集中する。魔力の流れを絶ち、しかる後にフレームそのものも解除しなくては。
だがそれが悪手だった。両者の接続を注視した瞬間、芽音は細い悲鳴を上げた。雪崩れ込むようにルキフグスの激情が、己の意識を侵食し始めたのだ。
魔力の欠乏によって揺らめく自我が、魔物のそれと溶け合っていく。『彼女』の感情と自分の感情、どちらがどちらなのか、見る見るうちに分からなくなっていった。
いけない。
これはいけない。
本当にいけない。
焦る気持ちと相反するように、ルキフグスの慟哭が伝わってくる。多分自分は混乱しているのだ。『彼女』が想うマスターの容姿が、芽音の想う逢間のそれに置き換わる。逢間に逢えない哀しみが、そのまま自分の体験・感情であるかのように襲い掛かってきた。
ぼんやりと、深紅の魔法陣を見つめる。
もし高らかにこの砲を撃ち放てば、逢間が自分の存在に気付いてくれるかもしれない。芽音はそう、感じていた。
でも同時に、直感がこう伝えている。恐らくだが、マスターは応えない。自分を迎えに来てはくれない。悲しい、寂しい、嫌だ、会いたい、逢いたい、相対。
――そうだ。
視界の彼方、いくつか森を超え、川をまたぎ、平野を飛んだ先の場所。かつて自分の『巣』であった塔の周りに出来上がった、人間の街。
あれを焼き払ったら。
世界の全てを焼き尽くす、自分の使命の一端を果たしたら。
今度こそ、マスターは自分を見つけてくれるのでは?
背筋が凍った。
はっと我に返る。リンクが途切れたのだろう、身体が自由に動く。記憶の混在も見られない。あと何かおかしなところは……いや、こんな確認をしている場合ではない。そうだ、銀の魔鳥の狙う先。あのおかしな蟻塚のような物体は、アプラ・エディナの『天の門』だ。
つまり。
今、その暴威を示すべく収縮している魔法の、向かう先は――
「だめ、だめ、だめ、だめ、だめぇぇぇえええええええええ!!!」
虚空に向かって、手を伸ばす。でもそれは、この鋼の鳥の行動になんの影響ももたらさない。
あふれ出す光、紡がれる魔法陣、芽音の身体から凄まじい量の魔力が引き抜かれる。意識が明滅する。再びルキフグスの意識が流れ込み、自分が、自分でなくなっていく。喉から、潰れたような呻き声が漏れた。
どうしよう、このままじゃ皆死んでしまう/いいや別に構わない。私はあそこに暮らしている人たちを知らない。
アイヴィーさんがいます。部隊の人達も/マスターと私を認めてくれない世界の一要素。マスターの望むまま、燃やしてしまえばいい。
それは確かに、先輩に酷いことをした人たちも、たくさんいますけど――/そんな存在に慈悲を考慮するよりも、マスターの願いを果たす方が先決です。
いいえ、先輩はそんなこと望まない!/いいえ、マスターはそれを望んでいます。
混濁する意識が、うねる、溶ける、混ざり合う――芽音の自意識は、もうどろどろの混沌、右も左も分からない深淵に落ちていた。
ああ駄目だ、抗えない、ごめんなさい先輩、このまま私、消えてしまいそう――
そう、心の中で、最後に残った芽音の自我が、マスターならざる逢間に謝った、そのとき。
ドンッ、と。
機体に、鈍く重い、衝撃が走った。
何かに体当たりされたのだ、と気づくのと、己の姿勢が大きく変わるのはほぼ同時。
芽音の正面、鳥か天使を思わせる体を取り巻く形で展開した魔法陣が、彼方の首都から、上へと大きく狙いを逸らした。
束ねられた魔導のレーザービームが、ゴゥッ!! と不気味な音を立てる。
それは一直線、目標地点とは全く別、曇天を目指して解き放たれた。
瞬きの内に、雲が鋭く貫かれる。白いそれには真っ青な大穴が開いていた。
霧散した魔力の紅い残滓が、降り注ぐ陽光に照らされてきらきら輝く。降り注ぐその煌きの中で、芽音は再び、自己を取り戻した。二度目のリンクが切れ、状況を理解できないままに半放心状態へと陥った彼女の耳に。
『まに、あっっ……たぁッ!』
声が、届いた。
聞きなれた声。取り立てて特徴的なわけでも、その声だけで他者を魅了するほどの魅力があるわけでもない、平凡なそれ。でも分かり易くて、よく通って、彼の優しい心を表し、その内面をにじみ出しているかのような、あったかい声がした。魔力回線を通しているらしく、ちょっと機械がかったエフェクトつきだったけれど……でも、間違えるはずがない。
嘘、どうして、あり得ない、そんな、という混乱。やっぱり、思った通り、最高、来てくれたんだ、という歓喜。
把握しきれないほど膨大な感情が、ぐちゃぐちゃと表現していいくらいないまぜになる。規格外に巨大なその感情の渦を、胸の内に抑え込むことができない。無理だ、当然無理だ。こんなの、自分が例えどれほど自制心に優れた鉄の女だったとしても、次の声は絶対震える。
「先……輩……!」
泣きそうな声が、零れた。
ルキフグスのカメラアイから、自分のギア・フレームを通じて見える風景。
大空には、この銀色の機体を突き飛ばした、黒いエンブレーマギアの影があった。外骨格がむき出しなのは、あの崩落で使用可能なスケイルを全て喪ったからだろうか。見慣れない大型の翼は、自分たちが谷底へと落下したあの日、どこかに堕とした竜の翼。自分に追いつくために、見つけて来てくれたのだろうか。
装着者が誰かなど、問うまでもない。
『お待たせ、芽音。迎えに来たぜ』
白馬の王子様というには、ちょっとキラキラが足りないけど。
でも芽音にとっては、そんな物語の存在よりも、もっとずっと『それらしい』人。
春風逢間が、囚われの姫君を取り戻しに来た。




