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第三話 風呂と女将と追憶と

「アキラはん、邪魔しますぇ?」

「お? おう、女将か……」


 現れたのは、薄い生地で作られた湯浴み着を着たこの宿の女将であるクレハであった。驚きはするが、もう慣れたものである。


「お背中流しに来たんぇ?」

「ああ、いつもすまないな。お願いしよう」


 背中を向けると、湯気でしっとりとした手のひらが俺に触れる。

 背中に当てた片手を支えに、もう片方の手の手ぬぐい越しの感触が、とてつもなく心地よい。

 女将に背中を流してもらうと、性的欲求とは別の、身体の奥底から清められるかのような、そんな快感が得られるのである。

 肉体的にはほぼ疲れていないのだが、これのお陰で精神的疲労もすっかりと抜けてゆく。


「はい、きれいきれい。ほな前の方も――」

「ちょ、ばっか野郎。そういうのはいいって言っただろ!」

「イケズやねぇ。それと、うちは野郎やおまへんぇ?」


 脇から前の方に手を伸ばしてきた女将に、即座に反応してその手を掴み取る。

 スキがあるとすぐこうしてからかってくる。

 好ましく思ってはいるが、こんな稼業の俺がそうそう手を出していいもんじゃないだろう。

 何より、そう言った関係になった後、もし別れてしまった場合、この宿を使えなくなる。

 いや、使えはするだろうが、気まずいことこの上ないだろう。


「ウチはいつでもよろしおすんぇ?」

「俺は良くない」

「身持ち堅いんは好ましおすけど、ちいとも靡いてくれへんのは悲しおすなぁ」


 女将はそう言って、濡れてしまった湯浴み着の裾を整えながら立ち上がると、木桶を片手に湯船から湯を汲むと、俺の頭からざんぶざんぶとかけ始めた。


「ほな、泡流したるさかいに、後はあんじょうつかりよし」

「ちょ、わっ!?」


 木桶一つとは思えないほどの量の湯をぶちかけられた俺は、耳だの鼻だのといった穴という穴に入った湯を出しきってから、ようやく湯に身体を沈めたのである。


「――ふう。もう、一年ほどになるか……ココに来て」


元の世界――現代日本――から、なんの拍子かこの世界にやってきた俺は。

当初、人気の全くない、草原に立っていた――。



「……なんだこれ」

 見上げれば青い空、白い雲。

 見渡せば、限りなく続く草原。

 地平線の彼方に、薄っすらと白い冠を乗せた山並みがある。

 だが、たった今の今まで、俺は一人でカラオケボックスに入っていたはずである。

 いわゆるヒトカラをしに。


「なんだこれ」


 周囲は映像の中でしか見たことのない、人っ子一人いない大草原である。

 地平線が見えるところなんて北海道ぐらいしか行った事はないが、それにしたって見事なほどに人工物がかけらもない。

 記憶にあるのはカラオケボックスで歌を歌っていた事、ぐらい。

 特に何かしたとかそういう事なんてこれっぽっちもなかったんだが、なんだこれ。


「……せいぜい、最後に歌った曲で百点が出た、くらいのもんだが」


 手の中には、SNSで自慢しようとその百点が表示された画面を写し取った画像を上げたアプリが開いたままになっているスマホと、それを取り出した肩掛けカバンがあった。


「……ちっ、圏外か」


 更新をかけてみたが、案の定電波が届いていないのだろう、サーバーに接続できませんと表示された。

 さて、どうしよう。そう思った俺だったが、まずは体の調子を確かめる事にした。

 何故って? そりゃ決まってる。こんな状況になっていると言うことは、実は俺がカラオケ中に脳卒中とか何かで意識を失ってぶっ倒れ、生死の境目を彷徨っている最中で、夢を見ていると考えられる。これが最も高い確率ではないだろうか。

 何しろ初の百点だったからな、興奮していたのは自覚している。

 頭に血が上ってぶっ倒れた結果、と言うことであれば、俺は今病院なりに搬送されて治療中、そして意識だけが夢の中でこの状況、いわゆる明晰夢という状態なわけだ。

 身体のあちこちを確認したところ、特に異常はなかった。

 格好はカラオケ屋に入ったときの、仕事帰りの作業服のままだ。

 身につけているのは、胸ポケットの煙草とライター、上着の内ポケットに財布、ズボンのポケットに家だの車だのの鍵束。

 いわゆる日常的標準装備であった。

 特にこれと言っておかしな点はない。

 いや、色々とおかしいが考えてもしょうがない。

 そう思った俺は、開き直って目がさめるのを待つことにした。


「さてさて、夢なら夢で楽しもうじゃないか。……どうせならきれいなお姉さんたちに囲まれてくんずほぐれつ、ってのが一番楽しめたんだけどなぁ」


 夢に文句を言っても始まらない。

 と言うか、夢だったら今すぐポンと目の前に美女の一人や二人が現れてくれてもいいと思うんだが。

 そんな益体もないことを考えながら懐を弄って煙草とライターを取り出し、さて火をつけるかと、古ぼけた愛用のオイルライタ―のフリントホイールを回転させた。

 すると、いつものライターがありえないほどの炎を吹き上げたのだ。


「うわっ!?」


 慌てて蓋を締め、火を消し止める。

 どこぞの宇宙海賊が使っているライターじゃあるまいし、火炎放射器に改造した覚えなんぞ無い。

 何の冗談だと、再びライターの蓋を開け火をつけてみる。


「……何だこりゃ」


 やはり同じように凄まじい炎を上げるライターに、俺は呆然として火を消すことも忘れてしまった。

 すると当然のことながら、ライターは加熱される。


「アツゥイ!?」


 思わず落っことしてしまったライターは、それでも消えること無く炎を上げていた。

 って、熱い。

 ……熱い、だって?

 幸いにして取り落としたライターが上げる炎は、周囲の草に燃え移ることはなかった。枯れ草じゃなくて幸いだったなと考えつつ、足で踏みつけてライターを消し止める。

 火の消えたライターを、つんつんと足先でつつき、もう火は出ないと確認した俺はようやくそれを拾い上げた。


「熱い……」


 手にしたライターは、やはり熱かった。そう、火傷をしそうなくらい熱いのだ。夢のはずなのに。


「こりゃ、夢じゃない、って事か?」


 ようやく怪しいと思い始めた俺は、ちょっとばかり焦りを感じていた。

 夢じゃないならなんだ?

 現実か?

 現実ならこんな場所にいきなり放り出されるはずがない。オカルトサイトとかでなら、いつの間にか遥か遠く離れた場所に移動していた話、なんてのは散見するが、あんなのはネタだとしか思えない。

 ならば何だ? やはり夢か? 夢なのに熱いのはなんでだ?

 俺は堂々巡りの考えで頭が一杯になり、その場で立ち尽くしていた。目の前にそれが現れるまで。

 どすん、と俺の目の前にそれが落ちてきたのは、ライターを握ったまま長時間呆然としていたのを終わらせるには十分なインパクトであった。

 目の前がいきなり壁になったと思ったほどだったから。


「……鳥?」


 俺の目の前、ほんの4~5メートル先に落ちてきたのは、体長だけでも俺の数倍はあろうかという、猛禽の類だった。

 いや、正確に言うと、猛禽――鷲のような頭と羽の部分だけが見えていただけだったためそう考えてしてしまったが、それは半端な理解であった。


「……足が、4本? ってコイツは」


 そう、その鷲には、通常の足とは別に、哺乳類の後ろ足、当然の事ながらその胴体部分も付属していたのだ。


鷲獅子グリフォンじゃねえか!」


 獅子の胴体に鷲の頭部と翼、前足は鷲の鉤爪を持つ、神獣とも幻獣とも言われているファンタジー世界の空の強者である。

 だが、それが俺の目の前に落ちてきて、転がっているのだ。

 しかも、土と草と――血に塗れて。

 これは絶対にやばい。

 ファンタジー世界の空の強者が落とされたとくれば、その相手はもっと強いなにかだ。

 そして、そんなファンタジーな空の王者と来れば、もう決まっている。


「ほらな……」


 俺の前に、ズシンと大地を大きく揺るがすような音を立てて降り立ったのは、強固な鱗に包まれた屈強な肉体を持ち、立派な角と牙、爪をその武器とし、天空を自在に飛び回るための被膜で出来た力強い翼を持つ巨大な――ドラゴンであった。

 頭だけでも俺の両手で一抱えほどありそうなドラゴンは、血走った目で横たわったままのグリフォンをにらみつけたあと、そのままこちらに向き直ると、大きく口を開きそのまま首を伸ばして、俺に噛み付こうとしてきたのである。


「う、うわぁあああ!」


 俺は、驚きと共に、恐怖を感じて思わず肩にかけたままのカバンを振り回し、ドラゴンへと無駄な抵抗を行ったのだ。

 スローモーションのようにゆっくりと近づいてくるように思えるドラゴンに、俺のカバンは思いのほか早くぶち当たった。

 そして、まるで豆腐を箸で潰すかのように、俺のカバンがドラゴンの顔面に食い込んでいく姿が、ひどくゆっくりと俺の視界を埋め尽くしていったのだった。


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