ヤドカリは、また、己の体の成長に応じて貝殻を変える。しかし、やがては借り物は返さなければならない。 すべてはしばしの借り物、、、あなたのものではないのです。(改訂版)
私の人生を
振り返ってみて、
私の「ついの住処」はどこなのだろうか?」
あちこちと転居してきた私の人生。
でも、、現代人にとっては
家とは極端に言えば
数年で転居するだけの仮住まい?でしかない。というのが大方の現実でしょうね?
つまり、江戸時代ならいざ知らず、
現代では、その家に、死に果てるまで住むなんてありえない。
それが現実でしょう。
わたくしごとで恐縮であるが
私は今までに14回引っ越している。
仕事の関係での転勤引っ越しである。
引っ越し人生である。
今住んでいるのはその14回目の引っ越した家である。
さて
私ももう歳だからこの家で
最後だろうか?
いいや、
それは神のみぞ知る?
まあそれにつけても
たとえその家に住みたい、
そこで死にたいといっても、
現代では自宅でご臨終は、、まず、ない。
自宅で倒れれば、、
救急車で病院に運ばれてICUで御臨終である。
自宅死は現代ではまず、、ありえない。
あるいは
老人ホームで死ぬか
グループホームで死ぬか。
いずれにしろ自宅では死ねないようになっているのが
現代なのである。
ということはそんな大仰に
「ついの住家」探しなんかしなくても、
安アパートで、蟄居、陋巷住まいでいいということだよね?
どうせ、どんな豪邸作っても、そこでなんか死ねないのだから。
理想のマイホームを設計して、汗水たらして30年ローン払い続けて
食うものも食わずに爪に火を灯してローンを払い
やっと払い終わったら
あるいは払い終わらずに
あえなく
ご臨終とは。
まあローン破産しなかっただけ、めっけもの、だったかも?
有名設計士にたのんで自分好みの理想の家づくりなんて
所詮は
徒労だったんだね?
その家を背負って冥途(地獄?)に行けないしね。
死ぬときは一人ぼっち、、、、。
いずれにしろ
生きてる時だけの
ヤドカリの殻に過ぎないのさ、
家なんてさ、
どんな豪邸作っても、
そんなもの無意味さ。
と言って橋の下のブルーシートハウスでもむなしいし。
公園の空き地の段ボールハウスもみじめだ。
まあせいぜい庶民向けの
4DK建売住宅でおつりがくるよ。
頑張りすぎて見栄這って
10LDKの豪邸作っても、
維持費(水道光熱費。固定資産税など)が大変だしね。
そしてそのお気に入りのそのマイホームで
ご臨終を迎えられるわけでもないしね。
結局救急車で運ばれて
病院のICUで御臨終なんだから
家なんてどうでもいいしね。
とりあえず住めれば仮の宿として合格だしね。
まあ家に限らず、
この世での一切が
すべては借り物です。
私の本来所有物なんて何にもありません。
誰だって生まれたときは裸です。
何も持ってきません。
それから、、、
生まれ貧しくも、
その才覚で、
奮励努力
あるいは運も味方して
今の財産や
家・不動産・家財・宝石・車などなど
を手にいれたんでしょう?
要するにすべては「後付け」なんですよ。
本来のものじゃあないんですよ、
借り物なんですよ。
あなた本来に備わったものでなんかないんですよ。
この家だって
借り物です。
いつか出ていかなくっちゃならないんですよ。
「いや。この家はおれのものだ、永久に、絶対手放さない」と
いくら頑張ってみても、
あなたが死ねば、、、。その時は柩に収まって、、この家から出ていくんですよ。
出ていくしかないんですよ。
家だけじゃありません。
愛着する物(車。ダイヤの指輪。伊万里の壷、シャネルのコート。名画。)
だってあなたのものと、あなたは思っているかもしれませんが
実はあなたはただの「一時保管者」でしかないのです。
あくどい稼ぎで庶民を苦しめて奪い取ったその成金財産も、
いずれあなたが死ねばその時、それらはあなたのもとを去っていくんです。
お気に入りの品々を地獄まで持ってはいけないんですよ。
あなたは裸で閻魔大王の前に引きずられて行くしかないんですよ。
永久にあなたのものなんて何も、ないんです。
「絶対手放さないぞ」と、あなたがいくら頑張っても、
あなたがやがて死ねば、、、あなたはそれらをこの世において
手ぶらでむなしく、、去ってゆくしかないんですよ。
物だけではありません。
あなたの愛する人々も
あなたが死ねばあなたは一人で冥土(地獄)に行くしかないんですよ、
あなたがどんなに愛していても
それらはあなたと一緒に冥土(地獄)までついてきてはくれないんですよ、
あなたは一人っきりで死んでゆくのです。
誰もついてきてはくれません。
あなたは一人ぼっちで死んでゆくんです。
それは必然です。
愛する妻、、あるいは夫に、先立たれた人がこの世にはごまんといますよね。
中には結婚して数年で夫に病死された妻だっていますよ。
愛する人々もやがて遅かれ早かれあなたのもとを去っていくのです。
この世に何一つあなたのものなんてありえません。
すべては借り物であり、
ひと時だけヤドカリのように殻を借りているだけです。
どんな愛着のある品でも、あなたはただの「一時保管者」であるにすぎません。
あなたが
30年ローンで
やっと立てた念願のマイホーム。
でも、それもまさに借り物です。
現実的には30年ローンを払い終わらない限り
実はあなたのマイホームは名義上は銀行の所有物なんですね。
あなたはローンを払える範囲においてだけ
「居住権」をかろうじて有しているにすぎませんよ。
ローンが払えなくなったらただちに追い出されるんですよ。
いわゆるローン破産です。
それが憧れのマイホームのかなしい?実態なんです。
無事ローンを払い終わったとしてもあなたが死ねばあなたは
その愛着のマイホームをあなたは出て、、冥土へ行くのです
手ぶらで何も何一つ持たずに、、。
誰も付き添わずにね。
ですが
突き詰めて考えたら家だけではないのです。
あなたの体だって実は借り物です。
あなたは肉体に乗っかってるだけです。
あるいはヤドカリみたいに肉体という殻をまとっているだけです。
やがてその借り物の体はおかえししなければならないときが来るんですよ。
そうです、
死ぬときには、、その体はお返ししなければならないのです。
そしてあなたは肉体を脱ぎ捨てて、、死の国へ旅立ってゆくのです。
ヤドカリが殻を脱ぎ捨てるようにね、
昔、有名な禅僧は
こう喝破しました。
「何月何日、五体髪膚、拝借仕り候。何月何日、お返し申し候」
何月何日というのは生まれた日と、死んだ日ですよ。
結局こういうことなんですね。
体すら借り物です。
ましてそれ以外の、家だの、宝物など、、、
正に、ヤドカリの貝殻のようなものなんです。
一時しのぎの借り物でしかありません。
そして
物ではありませんが
名声とか
人気とか
地位とか
そんなものも
実にむなしい借り物です。
それらもまた一時的なものでしかなく
やがて去っていくものなんです。
何一つ私自身のものなんてこの世にはないんです。
すべてが借り物なんです。
生まれてきたときあなたは何も持っていなかったように、
やがてそれらはすべてお返しして
あなたは生まれ来た原初に、裸でまた帰っていくのです。
それが人生の
この世の
真実なのです。
考えてみてください。
あなたがいくら大金持ちか知りませんが
あなたが死ぬとき
その大財産の宝の山から、その中の、
小さな小さな金の指輪ひとつすらあなたは、あの世には持っていけないんですよ。
あなたが死ねばあなたは一人ぼっちで、棺に納められてやがて、火葬場で焼かれて
最後に、残るの一壷の白い焼骨だけです。
それだけです。それでおしまいなのです。
生前、あなたは
大金持だったか、
大政治家だったか
文豪だったか
大富豪だったか知りませんが、、、
死ねばこうなるだけです。
人生は、、、夢であり
死もまた、、、別の夢でしょうか?
この生でお借りしたものはすべてお返しして
元の自分になってあの世とやらへ帰っていく、
それが究極のこの世の
人生の
人間の
真実なのです。
ヤドカリは、また、己の体の成長に応じて次々と、貝殻を変えては、
その都度まとう。
古い貝殻は捨てられて
今その時に適合した貝殻を見繕っては一時的に纏う。
だがその今纏っている貝殻だって所詮は一時しのぎの借り物だ、
そのように。やがては借り物は返さなければならない。
すべてはしばしの借り物、、、
全ては一時しのぎ、、
あなたのものなんて、、何も、、なにひとつ、ないのです。
まあ。。とはいえ?
逆も真なりであり、、
それがわかったうえで、、
それを重々承知の上で、、
だからこそ?
逆説として?
思いっきりこのつかの間の人生を物欲に生きる、、っていう
そういう選択もあるんでしょうね?
どうせ死ぬんだからこそ
やんちゃにがむしゃらに、物欲まみれで、生ききってやる
まあそれもありでしょう?
借り物だからそれと分かったうえで
借り放題?ってのもありでしょう。
でもそこまで悟ったらそんな物欲に生きる気も起らないでしょうけどね。
大方の物欲まみれ亡者は無自覚にやってるだけですから、
だがもしも物欲の虚しさを知りそのうえで、
かつ物欲をうまく乗りこなしてる人がいたとしたら?
それはまるで、大乗仏教の
一切を「空」(無意味)と悟っても、、なお、、菩薩行(慈善)を行う、、というのと似てるほどの
究極のサトリなのかもしれませんよね。(まあそんな悟った人はまずいませんけどね)
まあいずれにしましても、
人生って所詮は
借り物競争ですよ。
だってもともと生まれたときは「無一物」なんですから。
何も持ってなかったんですから。
その後いろんなところから借りまくった?ということでしょ?
だから、
人生とは
借りたもん勝ちっていう側面もあるんですね。
人生いろいろ、
人もいろいろ
この世をむなしいといって貧乏放浪の歌人として一生過ごすのもよし、
あるいは
この世は一回きりと割り切って思い切りやんちゃに物欲まみれで生きるもよし。
どっちもありです。
というか開き直っちゃうと、
ウハウハの成金人生で思いっきりやんちゃに物欲まみれで生ききるっていうのも
ある意味、、素敵かもしれないですよね?
最後は札束の山に埋もれて心不全で突然死なんてのも素敵じゃないですか?
有名人になってみんなからちやほやされるのも、この夢人生では一興かもしれませんよね?
それに対して
最初っから最後まで、根暗な、逃げ一筋の、貧乏万歳の、、、、負け犬人生、ってのも、
正直、そういう人生もなんか、いやですよね。
でも
いずれにしましても、
人生の一切は空であり、、即、無です
人生はまさに、夢です
人生は空そのものです
ひと時
無常の風吹けば、、
あなたは即座にこの世からあっという間に冥府へと連れ去られるのです。
貧乏な、負け犬、放浪・孤独の人生を送った人も
ずるがしこく、人をしゃぶって、あくどく生きて、成り上がりのウハウハ有名人大金持ち人生も
その意味では、全く一緒なのです。
いずれも即、空です。
それは誰も逃れられない道理
人生という夢劇場のお約束だからなのです。
一切は元の木阿弥、、
振出しに戻るってことです。
生まれてきたときあなたは何も持っていなかった。
裸でぶるぶる震えて
ただ、ぎゃあぎゃあ泣いてただけだった。
そしてそのご、長年生きてきて
命尽きる時
あなたはまた最初に帰るのです。
元に戻るってことです。
生まれる前に戻る
振出しに戻るのです。
それが道理だからです
だから?
結局、
どっちの人生を選ぼうとも、
それでいいのでしょうね。
どっちの人生も、
結局は
終着点は一緒なのですからね。
すなわち
この世の、一切は借り物であり
この世は仮の姿
その架空世界にあなたはなんの縁あってか生まれてきた
そして
その夢の架空世界で
あなたは、しばし、、人生という名の「道化芝居」を無理やり?演じさせられて、、
それが
演じ終わったら、、
そのときは、虚空の死の風がそよそよとあっちの方から吹いてきて
あっという間に
この夢舞台からあなたは拉致されてこの世を去ってゆく
結局人生って、、
そういうことなんでしょうね。
何らかの縁起・因縁。因果によって
あなたはこの世に生を受けた、
おぎゃあと生まれてある日。もの心つくと、
そこにあなたの両親がいてこっちを見ていた。
あなたと両親の出会いである。
それはあたかも両親があなたを呼んでこの世に生まれさせたといってもいいだろう。
ちちははに、呼ばれてあなたはこの世に
つかの間のお客としてやってきたのだ。
だから?
ある日あの世から。「もう帰って来いよ」、という
お呼びがかかったら
あなたはすぐにでもすべてをこの世に置いたままで
帰ってゆかなければならないのさ。、
だからこの世に決して心残りの感情なんか持っちゃいけないんだよ。
そうだろ?
だってあなたは仮に、、この世にお客として
来たのだけなんだからさ。
そうだろ?
それがこの人生という夢芝居の夢劇場の一部始終だったっていうわけなのさ
そうだろ?
だから、、、、、、、、、、、、、
「ちちははに、呼ばれて、仮に、客に来て、心残さず、帰る、ふるさと」 道歌
そういうことなんだろ?
あれ?
そこのボク?
なにしてるの?
ひとりぼっちでさあ
ところで、、
そこのボク?
おしえてくれないかな?
ねえ
ねえ
教えてくれないかなあ
お父ちゃんも
お母ちゃんも
見当たらないんだけどさあ
どうしちゃったのかなあ
え?
おじちゃん知らないの?
みんな
みんな
とっくの昔に死んじゃったんだよ。
みんな
みんな
もう、とっくに死んじゃッてここにはいないんだよ、
なあんだ
まだ
おじちゃん知らなかったんだ?
じゃあね
僕はもうゆくからね。
バイバイ。
またね。