第57話 間違った努力の方向性(side ハーネルド)
グランデ伯爵邸のとある一室にて、ハーネルドは契約書を作り直していた。
従者のルーカスがぷるぷると震える手で、ハーネルドの座るテーブルに、紅茶を注いだティーカップの載ったソーサーを置いた。
コトンと大きな音が鳴ったのは、彼の心情の現れだろう。案の定堪えきれなかったのか、ルーカスは契約書を作り直すハーネルドに容赦ないツッコミを入れる。
「ハーネルド様……何であんなことしたんですか! 正気ですか? バカなんですか?」
「うるさい。黙れ、ルーカス」
書類に目を落としたまま、ハーネルドは苦言を呈す。
「俺があげたバイブル本、きちんと読まれましたか?」
「……ああ」
「どうせ拝読されてないんでしょうが……って、読んでこのザマですか⁉」
隣でキャンキャンと吠えるルーカスがうるさくて顔を上げたハーネルドは、思わず眉をしかめる。
「そのゴミを見るような目、やめろ」
「むしろゴミ屑以下ですよ」
「貴様、よくも主に向かってそんなことが言えるな?」
「……ま、間違った方向へ進もうとする主を止めるのは、従者の役目ですから」
ハーネルドの鋭い視線に一瞬怯むも、ルーカスは真っ直ぐに見つめ返してそう述べた。ばつが悪くなったハーネルドは、書類に視線を戻して口を開く。
「親父は昔、よく言っていた。決してなめられるなと」
「確かにカーネル様は目利きに優れ、実業家としては素晴らしい御方でした。ですが人の親としては正直、最低最悪のド畜生ですよ。それはハーネルド様がよくご存じなのではありませんか?」
いつか絶対見返してやるという反骨心を抱きながら過ごした日々は、正直苦しいことの連続だった。それでも――
「…………親父がああじゃなかったら、フォルティアナと出会うことはなかっただろう」
「まぁ、それは確かにそうですが……って、今はそれが言いたいんじゃなくて、フォルティアナ様は商品ではありません! わざわざ契約書に書き足す必要なかったでしょう! それでは伯爵に誠意も何も伝わりませんよ!」
人の弱みにつけ込んで相手を掌握して支配下におく。そんな父の背中を見て育ったハーネルドは、欲しいものを見つけても、素直に自身の心の内を相手に見せることができなかった。
「だったら、どうすればよかったんだ……」
クリストファーに提示された条件より高い金額を盛り込んで契約書を作った。グランデ領を復興する上で、資金はいくらあっても困るものではない。
伯爵もあれなら納得するだろうし、それで誠意を示したつもりだった。
これなら一年後、フォルティアナは安心してこの地を離れることもできるだろう。
抜かりのない、完璧な契約書だったはずだ。
「余計なことを書き足さなきゃよかったんですよ!」
「それで、クリスに勝てると思うのか……?」
「正直、99%無理でしょうね。殿下はフォルティアナ様の気持ちを、何よりも優先されております。ですがそれに比べてハーネルド様は……」
大きくため息をつくルーカスに、ハーネルドは苛立ちを含んだ視線を送る。
父に教わったやり方では、心情面へのアプローチが欠けていたようだと、そこでようやく気付かされた。
伯爵の反応からもそれは明らかで、気が急いてしまったことが大きな敗因となってしまった。
「非難がましく睨まないでくださいよ。恋愛面において、カーネル様をお手本にするのはまじでやめた方がいいですって! あれは相手を掌握する手法でしかありませんから!」
場の主導権を握り、相手を動揺させている間に印を押させ、契約を結ぶ。それがビジネスの基本だと父はよく言っていた。そこにルーカスが持ってきた恋愛バイブル本の知識も交え、賄賂作戦も行った。
先日の温泉宿ではフィグ男爵の応援も得られ、勝機はこちらにあったはずなのに……
「……額が、足りなかったのか? それならこの倍出しても……」
「そういう問題ではありません! 世の中お金で買えないものもあるんですよ!」
「だかあの本には書いてあったぞ。何度も賄賂を渡せば人の心はいずれ手に入ると」
「言い方! せめてプレゼントと仰ってくださいよ! 人の心を動かすのは、心のこもったプレゼントです」
「だが丹精込めて作ったクマの人形が、使われずに飾られていたじゃないか!」
「人には好みがあるんですから、全てが喜んでもらえるわけではないでしょう」
確かにそうだ。よく調べもせず、何となくじゃじゃ馬たちが好きそうだという決めつけで、勝手に作って渡しただけ。領地改革には金が必要だから高額にすれば喜ぶだろうと決めつけ、それで伯爵の心が掴めると思っていた感は否めない。
相手の好みを探るという、本来なら最初にやるべきだった行程をすっ飛ばす、根本的なミスを犯していた。
「それなら何を贈れば、伯爵は許可をくれるのだ? 酒か? 馬か?」
父が以前好きだったものを適当にあげてみるも、ルーカスは残念なものを前にしたような目でこちらを見てくる。
「それだと目的と手段が逆転しているんですよ! 姑息な手段を考えるよりも、目的を大事にされてください。貴方が欲しいのは、フォルティアナ様の心でしょう?」
核心を突いてくるルーカスの言葉に、ハーネルドは短く「……ああ」と答えた。
霊的なものが怖いという自身の弱点を知っても、フォルティアナは馬鹿にしたりしなかった。
それどころか自分の大事な秘密を打ち明けて、その弱点への苦手意識を和らげてくれた。
陽だまりのように温かい、あの可憐な笑顔でまた笑いかけてほしい。
しかしフォルティアナが浄化の力を持つと公になれば、それこそ自身では手の届かない遠い存在になってしまうだろう。
それだけじゃない。救国の聖女オルレンシアは最期、その身を賭して強大な呪いから人々を守り命を落とした。聖女となったフォルティアナの身もまた、危険にさらされることになるのではないか?
呪物に操られている間の記憶はないが、飲み込まれる直前、ハーネルドはおぞましい何かに身体と意識を奪われた感覚だけは覚えている。あんなにおぞましいものと対峙して浄化するなど、危険すぎる。
優しいフォルティアナのことだ。目の前で困っている人がいれば放ってはおけないだろう。そうして危険に飛び込み続ければいつか……そんな焦りもあって、ハーネルドは気がつけば契約書の裏にあの一文を書き足していた。
フォルティアナの心が欲しいのは変わらない。それと同じくらい今は、堂々とそばで守れる権利がほしかった。
「ハーネルド様。貴方が昔、カーネル様から庇ってくださらなければ、俺と母は生きてはいられなかったでしょう。俺が落としてしまった高価な調度品は、一生働いても払えないものだったと……母に聞きました」
突然昔話をし始めたルーカスに、ハーネルドは思わず目を丸くする。
もしハウスメイドの息子であるルーカスが犯人だと父が知れば、その頂点に達した怒りはおぞましい結果をもたらしただろう。それこそ明日生きていられるかわからないほどに折檻を与えた上で、屋敷から追い出されていたはずだ。
流行り病で夫を亡くし、ルーカスを大切に育てていたハウスメイドの姿を見ていたハーネルドは、亡き母の姿を少しだけ重ねていた。もし母が生きていれば、あのように愛情を与えてもらえたのだろうかと。
気がつけばエントランスで佇む親子の前に立ち、鋭い眼光を向ける父と対峙して、やったのは自分だと述べていた。
その後、ルーカスは恩返しがしたいと必死に侍従訓練を受けて、数年前から正式に侯爵家で雇用となった。
「あの時は助けていただき、本当にありがとうございました」
よく喋って騒々しい。お調子者のルーカスが、そう言って深く頭を下げる姿を前に、何を今更……と気恥ずかしくなったハーネルドは、誤魔化すように皮肉を口にする。
「そうか。知っているなら身を粉にして働け」
「とても感謝しています。でも……そういうところなんですよ、直すべきところは! 別に俺に対してはいいんです。ハーネルド様が素直に気持ちを口にできない御方だというのは、よく存じていますので。でも俺はフォルティアナ様にも、貴方の良さを知ってほしいです」
必死なルーカスを前に、ハーネルドは嫌な予感がした。
――恥も外聞もプライドも全て捨てなよ
以前クリストファーに言われた言葉が脳裏によぎり、その時の恐怖体験を思い出してぞわっと背中に悪寒が走る。
ろくでもないことを提案してくる者の目は、大抵なぜかこう輝いている。目の前にいる従者や腹黒い王子のように。
「待て、はやまるな。余計なことはしなくていい」
「必死に貯めた給金で、とても貴重なチケットを入手したんです!」
意気揚々と、ルーカスは内ポケットから恐怖の紙切れを取り出した。
そうしてこちらに差し出されたのは、とある観劇のチケットだった。
「深淵の悪魔……? おい、これってまさか……」
「劇団ステラ主催のとっても怖いと話題のホラー演劇です。どれだけ叫んでも外に声が漏れることはない、ボックス席ですのでごあんし……」
「誰が行くかーっ!」
遮るように叫んだハーネルドを見て、ルーカスは嬉しそうに瞳を輝かせる。
「そうです、その調子です! この演劇を見て、まずは素直に感情を吐き出す練習をしましょう、ハーネルド様!」
誰だこんなやつを従者に採用したのはと、数年前の自身の判断を後悔していたハーネルドだった。
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