第56話 必要なのは、心からの協力です
温泉水を持ち帰った翌日の朝、フォルティアナはクリストファーと共に別邸に来ていた。
いつの間にか設備が整っている部屋を見て、フォルティアナは驚きが隠せない。
「まるで実験室のようですね」
科学実験を行うための様々な器具がそこには揃っていた。
「遅れてた荷物が届いてね。僕、科学が好きなんだ。ここで一緒に、ネルに高額で売り付けるもの作ろうか」
クリストファーの爽やかな笑顔と悪どい台詞のギャップに、フォルティアナは若干の戸惑いを抱えていた。
それからトーマの冒険日記を手がかりに、準備していた胚乳に温泉水を練り込み、かまどで焼いて作ってみた。混ぜずに焼いたものと比較して、その違いを観察する。
そのまま焼いた方は熱に焼かれるとベタベタに溶けてしまった。冷めるとカチカチに固まり、引っ張るとちぎれてしまう。
しかし温泉水を混ぜた方は弾力が増して革状になった。冷めてもプニプニとした触り心地をしており、トーマさんの作ったボールとよく似ていた。
「かなり近いものが出来ましたね」
「そうだね。温泉水……鼻につくあの香りは、硫化水素によるもの……」
クリストファーは成分の分析結果に目を通した後、サラサラと化学構造式を書き始めた。そこから考えられる化学反応式を探り、何がどう結合して完成したのか、じっと眺めて答えを探っているようだ。
「ポリマー同士が連結した結果、性質の変化が起きてるね。どうやら熱にも強くなっているようだ」
その時、クリストファーの視線が隅に避けられた黒みのある物質へと注がれる。
「ティア、それは?」
「焼くときにかまどの煤がかかってしまったものです」
手が黒くなり汚れそうで避けていたものの、クリストファーはそれに何の躊躇もなく触れた。
「これ、他のより丈夫な気がする」
「この失敗作がですか?」
触って確かめると、確かに煤を被っていないものより弾力が強く、引っ張っても丈夫になっている。
「なるほど、炭素が加わることで強度が増すとすれば……ティア、黒いインクを借りてもいいかい?」
何かを閃いたようで、クリストファーの顔はとてもいきいきとしていた。
「はい! ご用意いたします!」
そうして実験を続けた結果、リーフゴムの実の実用化を図れるほどには成果が見えてきた。
「ティア、よかったら君に、研究結果のレポートを作ってほしいんだ。そのレポートはきっと、この領地改革の切り札になる」
「わかりました、頑張ります!」
残りの領地の視察を挟みながら、夜はリーフゴム実験の研究結果をノートにまとめてレポートを作る。
そうして過ごすうちに、レオナルドとの約束の日がやってきた。
◇
あの実験から一週間後。レオナルドの執務室には、フォルティアナとクリストファーの姿があった。
「それで殿下、どのように領地を改革なさるおつもりですか?」
「こちらが僕の考えた計画書となります。まずはご覧ください」
レオナルドの問いかけに、クリストファーはあらかじめ作っておいた資料をそっと差し出した。
資料を受け取ったレオナルドは、静かに目を通す。
父がどのような反応を見せるか、フォルティアナは固唾を呑んで見守っていた。
「こ、これは……」
小冊子ほど枚数がある計画書をめくるレオナルドの手が止まらない。全てに目を通した後、彼は驚愕した様子でクリストファーを仰ぎ見る。
「本当に一年間で、成し遂げようとなされているのですか?!」
(お父様が驚かれるのも無理ないわ。拝見させてもらった時、私も衝撃を受けたもの)
ハーネルドがクリストファーをライバルと認めているのに無条件で納得してしまう程には、あの視察でここまでの計画を立てられる彼の賢明さに驚かされた。
クリストファーの立てた計画の柱は大きく分けて二つ。
一つ目は領地改革を行うための資金稼ぎ。
二つ目は得た資金を循環させ、継続的に領民が困らない生活の基盤を整えること。
あの計画書には、その二つを叶えるためのロードマップが事細かに記されているのだ。勿論クリストファー自身も全てが成功するとは思っていない。そのため、現状再現性のある思い付く限りの施策が書かれていた。
この一週間――酪農や養蜂が盛んな北部、主要都市グラースのある東部、農作が盛んな中心部の視察の傍ら、クリストファーは持ち帰った温泉水とリーフゴムの実の研究を行っていた。
そんな中でハーネルドが確実に欲しがる物質を作り出すのと平行作業で、あの計画書を製作したというのだから驚きだ。
機械工学に関してはハーネルドに軍配が上がるのだろうが、科学分野においてはクリストファーの右に出るものは居ないのかもしれない。
「そのつもりで頑張ります。幸いなことに協力者も居ますし、実現可能なはずです」
「協力者、ですか?」
タイミングよくバタンと扉を開き現れたのは、ハーネルドだった。
「遅れて申し訳ありません。グランデ伯爵、許諾いただけるなら、こちらにサインをお願いしたく存じます」
いつも偉そうなハーネルドだが、商談の時はきちんと礼節をわきまえているらしい。アタッシュケースから契約書と記された複数の書類を取り出した彼は、恭しくレオナルドの前に並べた。
「リーフゴムの実を、このような価格で買い取っていただけるのですか!? しかも街道の舗装まで!?」
「はい。是非お願い出来ればと」
機嫌の良さそうなハーネルドを一瞥して、レオナルドはさらに困惑していた。しかし動揺を悟られないよう必死に表情を作っているようだ。
廃棄するのにも費用がかかっていたものに恐ろしい値段が付いていることに、レオナルドは信じられないと書類を持つ手が小刻みに震えている。
こんなに美味しい話には何か裏があるに違いないと、レオナルドは慎重に全ての書類に目を落とした。そして見つける、不可解な一文を。
「このリーフゴムの特殊加工技術を、伯爵家より買い取るというのは……?」
「ティア、見せてあげて」
「かしこまりました」
緊張した面持ちでフォルティアナは、レオナルドにとあるノートを差し出した。受け取ったレオナルドはそれを見て大きく目を見張る。
「これを、ティアが書いたのか……?」
「はい。クリス様に教わって、私がまとめたものです」
リーフゴムの特殊加工技術の製法と、それに使う原材料の採掘地。さらにグランデ領で使われているカラフルな塗装に用いる原料の一覧表が添えられている。
専売的にアシュリー領にその技術を売る代わりに得た莫大な利益は、主要都市グラースのリゾート化計画の資金に回される予定だ。
「僕が教えたのは、ほんの触りだけ。そのレポートを完璧に作り上げたのは紛れもなく、貴方の優秀なお嬢様ですよ」
クリストファーの言葉で、レオナルドの目には涙が滲む。真っ直ぐなフォルティアナの瞳を直視出来ないようで、レオナルドは目頭を押さえ俯いた。
こんなにも優秀な娘を、窮屈なこの地に縛り付けてきた自身の愚かさを。守るためだと大義名分に胡座をかいて古いしきたりをただ遵守し、領民達の生活の質を向上させる努力を怠ってきた年月を、レオナルドは悔いていた。
(お父様はきっと、変革を恐れているのね……)
フォルティアナは席を立つと、そっと父の震える背中を後ろから抱き締めた。
「お父様、リーフゴムの実はきっとグランデ領を救ってくれます。加工すれば様々な用途に使用が望める、奇跡の素材なんです。どうか私達に、力をお貸しください」
「知らぬ間に、こんなにも立派になっていたのだな……わかった、受け入れよう」
「ありがとうございます、お父様!」
「殿下、アシュリー侯爵、どうか領地の復興に、お力添えいただけると幸いです」
深く頭を下げるレオナルドに、「勿論です」とクリストファーとハーネルドは頷いた。
「それでは早速サインを……」
やけにサインを急かすハーネルドに、クリストファーは訝しげな視線を送り手を伸ばす。
「ネル、その契約書見せて」
「は? な、ななな何故お前に見せなければならないんだよ」
「不当な契約を結ぼうとしてないか、確認だよ」
一通り目を通した後、クリストファーはそれをひっくり返し、呆れたように呟いた。
「この一文、足すために遅れたんでしょ」
「は? な、なんのことだ……」
「裏面にティアとの結婚を正式に許諾するものとするって書いてあるけど?」
「な、なんですと! アシュリー侯爵、何度も申し上げましたが私は娘の幸せを願っております。契約書一枚で切れるような関係を、二度も結ばせる気はございません」
(お父様……だから正式な発表をされていなかったのね)
「少々気が急いてしまったようです。契約書の方は作り直してきますので、ご安心ください」
冷や汗を滲ませながらハーネルドが退室した後、クリストファーは改めてレオナルドに向き直り口を開いた。
「伯爵、もう一つお伝えしておかなければならないことがあります」
「はい、お聞きしましょう」
真剣な表情になったクリストファーを見て、レオナルドにも緊張が走る。
「フォルティアナ嬢には、浄化の聖女の力があります。先日起こったサウスニアでの報告を受けているとは思うのですが、実は呪物に囚われた侯爵の呪いを解いたのは彼女なのです」
「ああ、なんということ……」
「このことを他に知るのは侯爵と腹心の部下ラルフのみで、父にはまだ伏せております」
悲しそうにこちらを見つめ、「すべて、知ってしまったのか?」と尋ねてきたレオナルドに、「はい、お父様」とフォルティアナは頷く。
この世の終わりのように表情を歪めるレオナルドの不安を少しでも和らげたくて、フォルティアナは努めて明るく言った。
「今までお父様が私達を守るために努力されてきたこと、深く感謝しております。どうかこれからは、私にもその責を背負わせてください」
「殿下……最初にこの話をしなかったのは、なぜですか?」
フォルティアナの思いを聞いたレオナルドは、噛み締めるようにそっと目を伏せる。そして不可解だと言わんばかりの視線を、クリストファーに向け尋ねた。
順序を逆にすれば、この領地改革の提案を受け入れるしかなかった。秘密が知られた上で守り抜くには、あまりにも領地に力不足なのは明らかだった故に。
「僕が望むのはフォルティアナ嬢の幸せです。領民達を思う彼女の夢を、何よりも尊重したかった。そしてそれを叶えるためには伯爵、貴方の心からの協力が不可欠だからです」
胸に手を当て、クリストファーは自身の思いを述べた。レオナルドとクリストファーの真剣な視線が交錯すること数秒、レオナルドがふっと口元を緩めた。
「……私の完敗です、殿下。貴方の覚悟、しかと受けとりました」
「しかるべき準備をした後に、必ず魔女の汚名はそそいでみせます。そのためにも今は、領地の復興にご協力させてください」
「はい、よろしくお願いいたします」
クリストファーの差し出した手を、レオナルドが両手で固く握りしめる。
こうして、グランデ伯爵領の領地改革が始まった。
最新話まで、お読みいただきありがとうございます。
今後のコミカライズ更新についてですが、先行配信先が11話から、まんが王国様からピッコマ様に切り替わるらしいです。
他電子書店様では10月25日に7話、11月22日に8話、12月27日に9話と10話が更新される予定ですので、よろしくお願いいたします。
また、11月20日(水)には単行本1巻の発売も控えており、詳細についてはまた改めて、活動報告の方で書影と共に御報告できればと思います。
とっても可愛い1巻になってますので、ぜひ楽しみにしていただけると嬉しいです。
【公式HP】
https://www.bknet.jp/book/b10089728.html










