第52話 呪物に宿る恐ろしい邪気
(ここは、どこ?)
気がつくと見慣れないドーム型の天井が視界に入った。ベッドから上体を起こすと奥には暖炉があり、薪までくべてある。
グランデ領は一年を通して比較的温暖な気候が続く。この時期に暖炉を使うなんて、普通ならありえないことだった。
「おはよう、フレア」
驚きで肩を大きく震わせた後、フォルティアナは声のした方を向く。
そこにはソファーから立ち上がり、甘い笑みを浮かべてこちらへ歩いてくるハーネルドの姿があった。
何だかむずかゆくてもやもやする。
見たこともない笑顔で挨拶をされたから?
愛おしそうにこちらを見ながら、別の女性の名前を呼んだから?
「具合はどうだ? 熱は下がったか?」
まとまらない思考に意識をとられていると、前髪をかきあげられ、ハーネルドがゆっくりと顔を近付けてきた。
「よかった、熱はないようだな」
おでこをくっつけてそんな事を言われ、恥ずかしくてフォルティアナの頬が一気に赤く染まった。
(おかしい! 絶対におかしいわ! この方は、本当にハーネルド様……?)
そもそもハーネルドは、爽やかな笑みを浮かべて話しかけてくるような人じゃない。眉間にシワを寄せて睨んでくるのが普通なのに。
「いまさら何を恥ずかしがってるんだ?」
優しく目を細めて笑う彼の手には、赤黒く光る指輪がはめられている。
(あの指輪は、きっと呪物……やはりハーネルド様は、怪異に操られているのね。それにこの空間も異質な気配を感じる)
壁にかけられた時計は、時を刻んでいない。
窓から見える景色は、静止画のように動きがない。
何より不気味なのは、薪がくべてある暖炉から燃える音が聞こえないことだった。
あまりにも静かすぎる部屋で、何者かに身体を乗っ取られたハーネルドの声だけが聞こえる。生活音が全く感じられない部屋が、ここが普通ではないと教えてくれた。
「貴方の目的は何ですか? ハーネルド様を、返してください」
思ったよりも自身の声が部屋に響いたことに、緊張が走る。
「また、別の男を作ったのか……?」
目の前の男性は途端に憎悪に顔を歪ませ、おぞましい視線を向けてくる。
こちらに伸びてきた男性の手が、容赦なく首を掴んだ。
「何度言えば分かるんだ、フレア。お前は俺のものだろう?」
ぞっとするような声の冷たさに身体がすくむと同時に、全身を駆け巡るかのように誰かの意識が頭の中に流れ込んできた。
◆
『俺は何のために……!』
指輪を投げ捨てた悲痛な男性の叫びと共に、底冷えするような負の感情が胸を締め付ける痛みに駆られる。
信じていた妻フレアが別の男性と不貞を働き、裏切られた男性の深い絶望と悲しみが募り、激しい憎悪となっていく過程が走馬灯のようにフォルティアナの意識の中を駆け抜けた。
『カルロ、お願い信じて。私は貴方のために……!』
裏切られた悲しみで衝動的に妻を殺めた後、男性は気付いてしまった。フレアが何のために、身体をはってそんなことをしていたのか。全ては、男性の名誉を守るためだったのだと。
王室から与えられる金細工師の称号を得るため努力していた男性は、見事大会に優勝しその名誉を手にした。
しかし彼の作品は盗作だと不名誉な噂が広まり、称号は剥奪されてしまった。名誉を取り戻すため、フレアは彼を陥れた犯人が不正を働いた証拠を掴むために、奴隷のように付き従っていたのだと知る。
誰よりも自身の夢を応援してくれた愛する人を自ら手にかけた男性は、現実を受け入れられず完全に壊れてしまった。
『フレアが居ない。探さなければ、俺のフレアを……』
愛する女性を求めて彷徨う恐ろしい存在となった男性は、仲の良いカップルや夫婦を見かける度に、女性を拐った。フレアがかつて自身に向けていた眼差しを、別の男に向けていると嫉妬して。あの眼差しで見つめられていいのは、自身だけだと。
拐った女性の指に指輪を嵌め、男性は満足そうに微笑む。しかし拐われた女性が男性を受け入れる事はなく、愛する男性の名を泣きながら呼び続ける。
自分以外の男の名を呼ぶ女性を見て、不貞を働いたのかと壊れた男性は激昂して女性を殺めた。その度に赤いルビーの指輪は、犠牲になった女性達の無念の血を浴び続けていく。
そうして壊れた男性は多くの女性に危害を加え、愛する人を奪われた男性達に復讐されて一生に幕を閉じた。
しかし死してなお、壊れた男の恐ろしい執念は、消えることのない炎のように真っ赤な指輪のルビーへと宿り、呪物と化していた。
『やっと見つけた。お前はフレアだ。俺のフレア、フレアフレアフレアフレア!』
◆
まるで洗脳されるかのように、頭の中には恐ろしい男の執念が流れ込んできて、気分が悪い。
「フレア、今ならまだ謝れば許してやる」
そう言いながらも、男性は手の力を強めていく。苦しくて息ができない。
(謝れば、助かる? そもそも私、フレアっていう名前だったっけ? おかしいな、自分のことが思い出せない……)
朦朧とする意識のせいか、自分が誰なのかさえ分からなくなっていた。
自分がフレアだって、認めてしまえば楽になれる。
「私は……」
その時、キーンという不協和音と共に、頭の中に誰かの声が響いてきた。
『……ティア』
透き通った優しい声で、たどたどしく何度も繰り返し唱えて覚えてくれた、自身の愛称。
(あの時は、嬉しかったな……)
希望を打ち砕かれた時に、優しく寄り添って声をかけてくれた。それに苦手だったダンスまで一緒に踊ってくれて……嬉しそうに頬を緩めて愛称を呼んでくれたクリストファーの姿が胸に浮かんだ。
まるで力を与えてもらったかのように、霞がかっていた頭が鮮明になっていく感覚がして思い出す。
(そうだ、私はフレアじゃない。フォルティアナよ)
『すまない、ティア、ネル……僕があの時、過信しなければ……!』
暗闇を明るく照らしてくれた声が、今にも泣き出してしまいそうな、不安と心配の入り交じった声に変わった。
(この声は、クリス様……私達を心配してくださっているのね。戻らなきゃ。こんなところに居てはいけない)
「くそっ! どうして謝罪の一つも、出来ないんだ!」
怒りに身を任せながら、瞳からは悲しそうに涙を流す男性を見て、この矛盾した行為を繰り返す彼も辛いのではないかと思った。
男性がフレアへ抱く強い想いが、永遠に解けることのない、恐ろしい愛の呪いになってしまったのだろう。
(ハーネルド様をあの呪物から解放して、何とかここを抜けださなければ……)
フレアは、もう存在しない。
誰かを無理やりフレアになんて、出来るわけがない。
完成することのない愛する人を求めて、人々を不幸へ誘う恐ろしい指輪。
(こんなもの、あってはいけない……!)
首を絞めてくる指輪の嵌められた男性の手を、両手で包み込むように握りしめ、フォルティアナは口を開いた。
「カルロ」
出来るだけ優しい声で、彼の名を呼んだ。
自身の名を呼ばれて驚いたのか、男性が首を締める力が弱まった。
(成功するかは分からない。けれどもし、彼の魂がずっとこの呪物に囚われているのだとしたら、解放することが出来るかもしれない)
ルーブレイク美術館でハーネルドがやっていたように、光る人達と同じように彼の意識を外へ向けさせることが出来れば!
「貴方の夢を、一番応援していたのは誰ですか?」
「それは勿論、お前じゃないか。フレア……」
「だったらいつまで、こんな所に居るのですか? フレアさんは、貴方をずっと待っているのに」
「フレアが、俺を待っている……?」
ルーブレイク美術館で光る人を呼び集める際、フォルティアナは繊細な装飾の施された金冠の前に佇む光る女性を思い出していた。
その女性が慈しむような眼差しで見つめていた金冠の説明書には確か、制作者カルロ・チェンタと刻まれていた。あの光る女性はもしかすると、フレアだったのかもしれない。
彼の作品の飾られた美術館を守りたいから、彼女はあるべき場所に帰った。彼がすべきことは偽物のフレアを作ることではなく、誠心誠意彼女に向き合うことだろう。
「ええ、そうです。過去に囚われて、これ以上苦しまないでください。どうか前を向いて、進んでください……! その先できっと、フレアさんは待っています」
フォルティアナの言葉や想いに呼応するように、身体から光の粒子があふれだす。やがてそれが集約し、聖なる光となって呪物を明るく照らした。
「だからそろそろ、ハーネルド様の身体を返してください!」
全ての苦しみを優しく包み込み解き放つその輝きは、ルビーの指輪に宿った男性のおぞましい怨念や犠牲になった者達の無念ごと砕け散った。
『……ありがとう』
黒い邪気が消滅する直前、誰かのお礼が聞こえた気がした。
目の前でふらっと傾いたハーネルドの身体を咄嗟に抱き止めその場に座らせる。
すると呪物が消滅したせいか、歪だった空間に亀裂が入り始める。まばゆい光の粒子に囲まれて、囚われていた意識が解放される感覚がした。










