第51話 温泉で潜入調査を開始します
脱衣所で、フォルティアナは盛大なため息を漏らしていた。
(まさか、こんな形で水着を使うことになるなんて……)
ハーネルドが潜入調査を手伝ってくれるのはありがたいことだが、呪物が発動するトリガーがはっきりと分からないため、怪異が起こった時と近い状況を再現する必要があった。
自然な流れで露天風呂に入るには、もちろん水着を着て普通に入らねばならない。しかしハーネルドの前で再び水着を着ること、それはフォルティアナにとって正直避けたいことだった。
水着を持つ手が、思わずガクガクと震える。
これならあの時、素直にクリストファーの手を取っておけば……と後悔しても後の祭りだった。
(お待たせしたら、また怒られてしまうわね……)
襟元に手を伸ばしてリボンを解き、ブラウスのボタンを外していく。震える手に叱咤して、「女は忍耐、女は忍耐」と心の中で自分に言い聞かせる。
クリストファーの話によると、呪物は怪異の発動中にだけ、邪悪な淀んだ光を放つらしい。
そこでフォルティアナとハーネルドに課せられたミッション――それは仲睦まじいカップルを演じて露天風呂に入り、怪異を発生させることだった。
その間クリストファー達は、いつでも駆けつけられるよう控え、怪異が発生した瞬間現場を取り押さえて呪物を特定し確保する役割を担っている。
つまりフォルティアナ達がうまくやらないと、計画は失敗に終わってしまうのだ。
(サウスニアはお母様の故郷であり、グランデ領唯一の憩いの場。こんなことで、廃れさせるわけにはいかない!)
たとえハーネルドによい顔をされなくても、慣れている。フォルティアナは自身に渇を入れ、水着に着替えて脱衣所を出た。
「すみません、お待たせしました」
先に出ていたハーネルドに声をかける。振り返ったハーネルドを見て、フォルティアナは目のやり場に困った。
学生時代に見た同級生の男子生徒のものとは違う鍛えられたハーネルドの身体は、完全に大人の男性のものだった。
「ティア……!」
こちらへずんずんと歩いてきたハーネルドに、突然がばっと抱き締められた。
「は、ハーネルド様!?」
驚きで心臓が飛び出そうになる。
確かに演技をする必要があるとはいえ、いきなりこのような……そもそもハーネルドにこのような迫真の演技が出来るのだろうか……と、頭の中で様々な思考が入り乱れる。
「お前が来るのを、待っていた……!」
耳元で絞り出されたハーネルドの掠れた声には不安が滲み出ており、肩に頭を埋めながら大きな身体をガタガタと震えさせていた。
(お待たせしすぎてしまったわ。自分のことばかり考えて、ハーネルド様のことを全然気にかけてあげられなかった……)
悪いことをしてしまったと、フォルティアナは後悔していた。
「ハーネルド様、ゆっくりと深呼吸をしてください。大丈夫です、私はここにいます」
冷静になったフォルティアナは、怖がりな妹達をなだめるのと同じように、優しく声をかけて背中をゆっくりとさする。
光る人の存在は受け入れてくれたが、ここに潜む怪異は得体の知れないもの。それこそハーネルドの苦手とする部類に入るものだろう。
たとえ婚約者という体面を保つためだとしても、こうして苦手に立ち向かってまで協力してくれた。そんな彼の行動に感謝を込めて、お礼を述べた。
「ありがとうございます、ハーネルド様」
少しして落ち着いたのか、ハーネルドの震えはピタッと止まった。
「すまない……っ!」
顔を上げたハーネルドは、こちらを見て大きく目を見張る。顔を真っ赤に染めて口をきつく結んだ。
(げ、激昂されている!?)
「……き、綺麗だ」
どんな暴言が飛んでくるか身構えていたフォルティアナに飛んできたのは、思いもよらない言葉だった。
(今、綺麗って……私を見て、言ったの!?)
手で口元を隠してそっぽを向くハーネルドの耳は、赤かった。
(演技、よね……慣れないことをされて、きっと恥ずかしがっておられるのね)
今のところ、怪異らしき現象は見られない。露天風呂で行うカップルらしいこと……と考え、自分も負けていられないとフォルティアナは口を開いた。
「ハーネルド様、お背中お流しします」
「…………はっ!?」
「もしかして、温泉は初めてですか?」
「ああ」
「湯船に浸かる前には、身体を清めるのがルールなんですよ。遠慮せず、こちらへ座ってください」
洗い場に誘導して椅子に座らせる。道具を用意していたら、「じ、自分でするから大丈夫だ」と奪われてしまった。
(無理強いは出来ないわね)
「分かりました」
仕方なく自身の身体を洗ってお湯で流す。
身体を清め終わったところで湯船に向かおうとすると、頭からお湯を浴びるハーネルドの姿が目についた。
無骨な手で無造作に前髪をかきあげる姿は雄々しくあるが、水の滴る腰まで伸びた髪に光が反射してキラキラと輝く姿は幻想的で美しく、神話に出てくる男神のように見えた。
(髪を結んでいないハーネルド様、初めて見たわ。あんなに長かったのね……)
普段からハーネルドは黒い服を着ていて髪と同化しており、そこまで髪の長さを気にしたことがなかった。
何の願掛けをしているのだろう?
女性は長髪が好まれるため伸ばすことが多いが、男性が髪を切らないのは一般的に願掛けの意味がある。
願いが叶った時に髪を切るわけだが、あそこまで伸びているのを見る限り、相当大変な願いを込めているのだろう。
一体何の願いを……と疑問を抱いていたら、振り返ったハーネルドとばっちり目が合ってしまった。
「そろそろ湯船に行きませんか?」
咄嗟に誤魔化し、「ああ」と短く返事をするハーネルドを連れて湯船に移動した。
手を軽く湯船に浸し、腕にかけ湯をして温度を確かめる。こちらを見て真似をするハーネルドに問いかけた。
「お湯加減はいかがですか?」
「ああ、問題ない」
ゆっくりと湯船に浸かった。
ちょうどよい湯加減が心地よく、思わずほっと息が漏れる。
(気持ちいい……極楽だわ……)
普通に露天風呂を楽しんでいたが、未だ怪異に遭遇しない。何故だろうと考えて気付く。
ハーネルドまでの距離、およそ二メートル。
この距離感では、確かにカップルには見えないだろう。
「あの、ハーネルド様。もう少しそちらに行ってもよろしいですか?」
立ち上がって声をかけると、ハーネルドは慌てた様子で手を前にやり顔を隠した。
「はっ!? だめだ! それ以上近付くな!」
全力で拒否られてしまった。
しかしこのままでは怪異も起きず、呪物を特定することが出来ない。
「せ、せめてもう少し話しやすい距離まで……きゃ!」
踏み出した足を、着地する前に後ろから誰かに掴まれた気がした。次の瞬間、強く引っ張られて身体が前に傾く。
「ティア!」
咄嗟にハーネルドに抱き止められ、何とか転ばずにすんだ。
「足を、誰かに足を掴まれて……」
「ここから出るぞ! 先に上がれ」
そのまま抱き上げられ、ハーネルドが湯船の端におろしてくれた。
「ハーネルド様もはやくこちらへ!」
視界に入った湯水が、心なしか濃く濁っている気がした。背中から、じとりと嫌な汗が流れてくる。
「ああ……くっ!」
ハーネルドが上がろうとした時、不自然にバランスを崩して、身体が湯船の中に沈んでいく。
「ハーネルド様!」
慌てて駆け寄り、腕を掴んで湯船から引っ張り出す。
ハーネルドは上体を起こしたまま、何故か下を向いて動かない。
「どこか痛みますか?」
問いかけるも返事がなく、お湯がじわじわと赤く染まっていく。
(これは……血!? 大変、怪我を……っ!)
「すぐに手当てを! 人を呼んで来ます!」
一人では運べないため、外に助けを求めに行こうとしたら、ガシッと腕を掴まれた。
振り返るとハーネルドは依然として俯いたままで、こちらに手を伸ばす彼の小指には、何故か見慣れない指輪がはまっていた。
存在感のある大振りのルビーが嵌め込まれた赤い指輪が、鈍い光を放つ。
(指には何もつけておられなかったはず……)
「やっと掴まえた……逃がさない。今度こそ、決して逃がすものか……!」
強く腕を掴まれ、ギシギシと骨が軋む音がする。
「ハーネルド様、どうか……おやめください」
「他の男の名を呼ぶな! フレア、お前は俺のものだ!」
(何を仰っているの……?)
顔を上げたハーネルドの瞳は指輪に嵌められたルビーのごとく赤く光っており、一目で普通じゃないのが分かった。
ハーネルドの背後には黒い人の面影があり、邪悪な気配を感じるそれはとても歪に感じた。光る人とは違う、異質な存在がハーネルドの身体に纏わりつきこちらを見ている。やがて黒い人はハーネルドの身体に吸い込まれるように消えた。
(まさか、あの黒い人が怪異の正体!?)
「クリス様、怪異です! 怪異が、ハーネルド様を操っています!」
「また違う男の名を! どれだけ俺を侮辱すれば気が済むのだ!」
掴まれた手から黒い邪気がこちらまで伸びてきて、飲み込まれる。
「ティア!」
囚われる直前、クリストファーの悲痛な叫び声が聞こえた気がした。










