第50話 南部地方では奇妙な噂が広まっていました
翌日、フォルティアナはクリストファーやハーネルドと共に南部地方にあるサウスニアを訪れていた。
自然の温泉が湧き出るこの地は保養地として親しまれ、グランデ領で二番目に大きな集落だ。
中心地には大きな温泉宿の他に、安価で気軽に楽しめる足湯や温泉施設がある。周囲には飲食店や土産物店が軒を連ね普段はそれなりに活気があるはずだが、今は通行人の姿すら見られない。
(昔はもっと賑やかだった。こんなに閑散としているなんて、何かあったのかしら……)
不安な気持ちを抱えたまま、南部の統治を任せているフィグ男爵の居る温泉宿へと向かった。
「活気がないな。それに独特な臭いが……」
蒸気自動車を降りて、ハーネルドが思わずうっと口元を押さえる。鼻にツンとくる独特な香りは、温泉に通いなれない者にとっては受け入れがたいものがあるだろう。
「ようこそお越しくださいました。南部地方の統括を任されております、ライル・フィグと申します」
短い亜麻色の髪を後ろに撫で付けスーツに身を包んだ男性が、右手を胸に当てながら片足を後ろに引いて腰を折り、丁重に挨拶をしてくれた。
出迎えてくれたよく見知った人物を見て、フォルティアナの頬は自然と緩んだ。
「ライル叔父様、ご無沙汰しております」
ライル・フィグ男爵は、フォルティアナにとって母方の叔父にあたる人物だった。
「少し見ない間にまた綺麗になったな、ティア」
「ふふっ、ありがとうございます。叔父様、こちらはクリストファー・オルレンシア殿下とハーネルド・アシュリー侯爵です」
振り返って紹介をすると、クリストファーとハーネルドはカイルに会釈を返した。
「クリストファー殿下もアシュリー侯爵も、ご足労いただきありがとうございます。療養に来られたと義兄より話は伺っております。どうぞこちらへ」
簡単な挨拶を済ませ、ライルが温泉宿の中へ案内してくれた。
(ロビーにもお客様の姿はないわね。ここまで客足が遠退いているなんて……)
閑散としたロビーを抜けて、特別な個室のラウンジに通された。上座である一番奥にクリストファーが座り、その隣にハーネルドとフォルティアナが続いた。
従業員がお茶を出してくれ、退室したところで正面に座ったライルが本題に入った。
「殿下には温泉でゆっくり寛いでもらいたいと思っていたのですが、実は問題がありまして……」
どこか歯切れの悪いライルを心配し、フォルティアナは声をかけた。
「叔父様、何か出来ることがあれば力になります! よかったら話していただけませんか?」
「ティア……分かった」
こちらを見て、ライルは優しく目を細め頷いた。
「実は最近奇妙な噂が広まって、客足が遠退いてしまったのです」
「奇妙な噂、ですか……」
クリストファーの言葉に、相づちを打ちながらライルが話を続ける。
「はい。不気味な声が聞こえたり、お湯が突然濁ってきたり、湯船に浸かっていると足を掴まれた感覚をしたという方もいらっしゃいました。それで怪異が起きると噂になってしまいまして……」
「まさか、幽霊か!?」
ティーカップを掴むハーネルドの手が、心なしかカタカタと震えている。
(ハーネルド様、霊的なものが苦手だったわね。大丈夫かしら?)
物音を声と勘違いすることはあっても、お湯の色が変化したり、湯船で足を掴まれるというのは確かに普通では起こり得ないことだ。
「露天風呂は野外ですし、野生の動物が潜んでいたりなどはございませんか?」
フォルティアナの問いかけに、「事件が発生する度に隅々まで確認し原因を探したが、一度も姿を確認できていないんだ」とライルは静かに首を左右に振った。
「一度現場を確認させていただいてもよろしいですか?」
「分かりました」
ライルに案内されて、問題の怪異が起こるという露天風呂へと向かった。
「こちらは宿泊客専用に開放している温泉でして、プライベートな時間をお楽しみいただくため入浴時間は完全予約制にしているのです」
脱衣所を抜けた先には、自然に囲まれたのどかな露天風呂がある。
足を踏み入れた瞬間、肌にまとわりつくような嫌な空気を感じた。
(湯気のせいかしら?)
綺麗に掃除がされており、一通り見回ってみたものの特におかしな様子は見られない。
「悪霊退散、悪霊退散、悪霊退散……」
青白い顔をして、ハーネルドは始終ブツブツと念仏のように唱えている。
(ハーネルド様も何かを感じておられるのかしら?)
心配になってその様子を眺めていたら、クリストファーがこっそりと耳打ちしてきた。
「ティア、何か見えたりするかい?」
周囲を見渡してフォルティアナは答えた。
「いえ、誰も囚われてはいません。ですが、空気が少し淀んでいるような気がします」
肌にまとわりつくような気持ち悪さの原因が分からなかった。
「空気が淀むのは、怪異の前兆。今回の条件は一体……」
何かを考えているのか、クリストファーは顎に手をかけ黙り込んでしまった。
(もしかしてクリス様は、何かご存じなのかしら?)
しばらくして、クリストファーはライルに問いかけた。
「フィグ卿、怪異が発生した時間や目撃した客の特徴などはご存じですか? 何か共通点が見つかるかもしれません」
「時間は特に一貫性は見られませんでした。お客様の特徴は……そういえば若い夫婦やカップルのお客様が、二人きりで温泉に入った時にのみ、その怪異に遭遇していました」
ライルの話によると、家族や友人同士で利用している者達は怪異に遭遇していないという。
「なるほど。男女のペアで様子を確認しに行かないと、実態は掴めないのかもしれません。一度戻りましょう」
クリストファーの指示で現場を引き上げ、一旦ラウンジに戻った。
「クリス様、何かご存じなのですか?」
「おそらく露天風呂のどこかに、怪異を引き起こす呪物があると思う」
呪物? 聞きなれない言葉に首を捻ると、クリストファーが説明してくれた。
「呪物は身を滅ぼすほど強い感情が凝縮されたもので、様々な怪異をもたらすものなんだ。昔に比べて数は減ったけど、見つけたら被害が拡大しないよう王家で封印して保管してるんだ。聖女様みたいに浄化はできないけど、王族は神の加護のおかげで封印はできるからね」
そんなに危険なものが露天風呂にあるなんてと、フォルティアナは恐怖と緊張で顔をこわばらせていた。
「呪物ってお前の身に付ける、そのブルーサファイアみたいなものだろ? それの他にも、まだ存在してるっていうのか!?」
驚きのあまり大きく目を見開くハーネルドに、クリストファーは「少なからず存在するよ」と頷く。補足するように、クリストファーはさらに言葉を続けた。
「呪物はものによって、効果も発動条件も違う。その時の条件を再現しないと確かなことは言えないけど、おそらく今回は男女のペアで何かをすることが発動の条件なのかもしれない」
(もし男女のペアであの場所に行くことが条件なのだとしたら……)
「クリス様、それでしたら叔父様と一緒に私が再度様子を見てきます。このまま放っておくことは出来ませんし」
「いや、それだけではきっと再現できないだろう。最初に現場に駆けつけた時、私と女性スタッフが向かったのだが確認出来なかったんだ」
フォルティアナの言葉を遮ったのはライルだった。
「怪異が起こったであろう状況を再現するにあたって、親子ほど年の離れたお前と私では無理がある。その、お客様達はなんというか、本当に仲睦まじいご様子だったからな……」
気まずそうに言葉を濁したライルの様子を見て、フォルティアナは察して言葉を噤む。
それなら婚約者であるハーネルドに手伝ってもらうのが一番適任ではあるが、ガタガタと肩を震わせる彼に再びあの場所へ行ってくれとお願いするのは気が引けた。
「ティア、僕が一緒に行くよ」
「クリス様の身を危険にさらすわけには……」
「大丈夫。僕にはイシュメリダ神の祝福があるから、邪気にあてられたりはしないよ」
一緒に来てもらえたらとても心強いだろう。しかし今でさえ、魔女の呪いを受けた呪物を身につけておられるのだ。これ以上危険が潜むかもしれない場所に、同行させたくはなかった。
それに万一のことがないとも限らない。呪物に詳しいクリストファーには、不測の事態に備えて安全な場所から的確に指示を出してもらえた方が良いだろう。
「いえ、どなたか年の近い男性スタッフの方にお願いを……」
さっき給仕してくれた方はどうだろうかと考えながら席を立つと、引き止めるかのように手を掴まれた。
「それに僕と一緒なら、下手に演技をする必要もないでしょ?」
クリストファーの熱を帯びた眼差しがこちらを捉え、優しく細められる。フォルティアナの身体は雷で打たれたかのように硬直し、恥ずかしくて頬が真っ赤に染まった。
「却下だ! 俺が一緒に行く。ティアの婚約者は俺だ!」
真ん中に座っていたハーネルドが二人を引き裂くように割って入り、クリストファーの手を掴んで牽制する。
「ハーネルド様。無理をされない方が……」
「領地改革を手伝うと、約束しただろう。それにお前のパートナーは、俺だ!」
(お、怒らせてしまった……)
わざわざ苦手な場所へ連れていきたくなくて他の方にお願いしようとしていたわけだが、それが逆にハーネルドの逆鱗に触れてしまったらしい。鋭い目付きで睨み付けてくる彼を見て、フォルティアナは悟った。
よくよく考えてみれば、一番に誘わなかったことは婚約者であるハーネルドにとってみれば、不仲だと示しているようで不名誉なことだろう。
しかも余計な気を遣ったことにより、ハーネルドの弱点を周囲に露見させてしまったかもしれないと自身の失態に気付いた。
「ハーネルド様、お願いしてもよろしいでしょうか?」
「ああ、任せろ」
得意気に胸を張るハーネルドが突然、「ひっ!」と短い悲鳴を上げ、クリストファーを睨み付ける。
「クリス!」
ハーネルドの腰を人差し指でつつくクリストファーの姿がそこにはあった。
「これくらいで驚いてて、本当に大丈夫なの? 相手は突然掴みかかってくるかもしれないんだよ」
ジト目でハーネルドを見るクリストファーは、唇を尖らせていた。
(クリス様、もしかして少し不機嫌……?)
こちらの視線に気付いたクリストファーは、にっこりと微笑んで助言をくれた。
「ティア。怪異が発生したら、ネルを生け贄にしてでもすぐに出ておいで」
(笑顔で恐ろしいことを言わないでください、クリス様……)
何と返事をしたらいいのか悩んでいると、「い、生け贄!?」とハーネルドが素っ頓狂な声を出す。
「まさか、守る覚悟もないのに行くわけじゃないよね?」
「くっ! 肝に銘じておく」
こうして呪物を見つけるため、再度ハーネルドと露天風呂に潜入調査を行うことになった。
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