第46話 初めての経験でした
「そ、掃除しますね!」
二人が帰ってくる前に汚れてしまった作業台を綺麗にしておこうと、辺りを見渡して掃除道具を探す。
角に掃除道具入れがあるのを見つけて雑巾とバケツを取っていたら、「汚れるから俺がやる」とハーネルドに声をかけられた。
(ハーネルド様がお掃除を!?)
出来るのだろうか……と一瞬失礼な考えが脳裏に浮かび、必死に打ち消す。
「貸せ、水を汲んでくる」
頭上からハーネルドの声が振ってきて、後ろからバケツを掴まれる。何故かその手がカタカタと震えていることに気付いた。
「折角クリスが身を挺して庇ったのだ。お前が汚れたら、後でどんな報復を受けるか考えただけで恐ろしい……」
ハーネルドがブツブツと呪文のように呟いた。振り返ると顔面蒼白なハーネルドの頬に、白い液体が付いているのが見える。
(ハーネルド様にもかかっていたのね。あれくらいなら……)
「お待ちください、ハーネルド様」
がっくりと肩を落とし遠ざかっていくハーネルドを呼び止める。振り返ったハーネルドに手を伸ばして、フォルティアナはハンカチでそっと頬を拭った。
「なっ!」
大きく目を見開いたハーネルドの頬が、みるみる赤く染まっていく。
「ごめんなさい、頬についていたので」
(気付かないほど動揺されていたのね……確かにクリストファー様のあんな姿を見たら無理もないわ)
途端に顔を青ざめさせたハーネルドに、ハンカチを持った手を掴まれた。
「ティア、お前の手まで汚れてしまったじゃないか! 今すぐ洗いに行くぞ!」
これくらい大丈夫だと言う間もなく、手首を引かれて傾いた身体をひょいっと抱えられてしまった。
突然感じる浮遊感に驚いて短い悲鳴を上げ、近くにあったものにしがみつく。
「すまない、水場に移動するだけだ」
顔を上げると、吐息を感じれるほど近距離に真剣なハーネルドの横顔があって、心臓が飛び出そうになった。
「は、ハーネルド様、自分で歩けます!」
「クリスが歩いた地面に、液体が落ちている。踏んだら汚れるだろう!」
そう言われて地面を見ると確かにポタポタと白い液体の落ちた跡がある。
庭にある蛇口の前で、ハーネルドはようやく下ろしてくれた。
(お姫様抱っこなんて、初めてされたわ……)
恋愛小説の中だけに出てくるものだと思っていたフォルティアナにとって、それはあまりにも衝撃的な出来事だった。
エスコートやダンスなど、ハーネルドと触れ合う機会はこれまで多少なりともあった。しかしそれはあくまで、貴族として身につけておくべき教養とマナー。変に恥じらいを持ったりしてはいけないと淑女教育でも教わったし、皆が当たり前のようにやっていることだ。
しかしお姫様抱っこは違う。そんな作法なんて学んでいない!
軽々と自身の身体を持ち上げられ、ハーネルドが初めて大人の男性なのだと意識させられた気がした。
(そうよね。ハーネルド様だって、あの頃のままのわけじゃない……)
最初に婚約した頃の高慢なハーネルドの姿が、フォルティアナにはとても色濃く残っていた。それに加えてハーネルドはあくまでも利己的なビジネスパートナーという認識が強く、男女の関係などありえないと思っていた。だからこそ、彼が大人の男性になったという認識があまりにも欠如していた。
「ぼーっとしてどうした? 早く手を洗え」
「は、はい!」
怪訝そうに眉をひそめるハーネルドに顔を覗き込まれ、恥ずかしくなって慌てて蛇口を捻ったのがいけなかった。予想に反して水の勢いが強く、跳ねた水がハーネルドの顔に直撃した。
さっと血の気が引くのを感じながら、慌てて蛇口を閉めた。
「も、申し訳ありません!」
どんなお叱りを受けるのか、顔を上げれないフォルティアナの頭上に振ってきたのは、「くっ、ははは!」と可笑しそうに笑う声だった。
(怒って、ない……?)
恐る恐る顔を上げると、前髪をかきあげながら何故か楽しそうな笑顔を浮かべるハーネルドの姿がそこにはあった。
「まったく、俺の顔まで洗ってくれとは、頼んでないぞ」
(そんな風に笑えるんだ……)
いつも怒ったような顔をしているハーネルドが、まるで子供のように無邪気に笑っている。珍しい姿にフォルティアナは思わず目を奪われていた。
クリストファーとの笑顔特訓の成果なのだろうかと考えていたら、「これを使え」とハンカチを差し出された。
「さっき、お前のダメにしてしまっただろう?」
「い、いえ! どうかハーネルド様がお使いください!」
「これくらい自然に乾く」
顔に水を被ったハーネルドの方がどう見ても大惨事だった。
「いいから、使え。風邪を引いてクリスにでも移したら大変だろう?」
(確かにそれは一大事だわ! でもそれならハーネルド様だって……)
中々受け取らないフォルティアナの手を掴むと、ハーネルドはその手にハンカチを握らせた。それはいつものエスコートのように荒々しくはなく、まるで壊れ物を掴むように優しい手つきだった。
「先に戻る。しっかり洗ってから戻ってこい」
そう言ってバケツに水を汲むと、ハーネルドは足早に納屋へと戻っていった。遠ざかるハーネルドの背中を眺めながら、フォルティアナは胸に手を当てぽつりと呟いた。
「最近のハーネルド様、何だかおかしいわ……」
◆ side.クリストファー
人差し指で自身の頬についた白い液体に触れ、クリストファーはその感触を確かめる。ネバネバと粘着性のある液体は、親指と人差し指で伸ばすと軽く糸を引いていた。正直、かなり気持ち悪い。
(ティアにかからなくてよかった。ネルには後でお仕置きが必要だね)
フォルティアナが絡むと、何故あんなにも思考が短絡的になってしまうのか。もう少し冷静に話を聞いて行動してくれたら、こんなことにはならなかったのに。
(それなら僕も一緒か……普段なら軽く受け流せたのに、否定もせず認めるのが嫌だった)
口は悪いけど、ハーネルド的には一応気遣いを込めた言葉だったのは知っていた。
ライオネルと比べられても、いつもなら兄を立てるためにクリストファーはそれを受け入れた上で兄を称賛していただろう。
昔から剣の鍛練を積んでるハーネルドに、病み上がりの身体が単純な力勝負でかなうわけもない。
それでもフォルティアナの前でだけは、情けない姿を見せたくなかった。
パナマに案内されながら、一度クールダウンが必要だとクリストファーは小さなため息をこぼした。
◆ side.ハーネルド
納屋の作業台に飛び散った白い液体を雑巾で拭きながら、ハーネルドがぽつりと呟いた。
「あいつの中で、優先順位が変わったんだな……」
以前のクリストファーだったら、ライオネルの名前を出したら絶対に一歩引いていた。それに自分から面倒なことも極力やらない。なによりこんなベトベトしたものが飛んできたら、かからないよう真っ先に避けたはずだ。
何がクリストファーを変えたのか。
その答えは簡単だった。
――フォルティアナだ。
身を挺してフォルティアナを庇ったクリストファーを見た時、危ういと思った。睨みつけてくる鋭く冷たい双眼は、明らかにこちらを敵認定していて、身体が怯み背中にゾクリと悪寒さえ感じた。
フォルティアナを守るためなら命さえ軽々しく差し出しそうなクリストファーを見て、その強い思いがいつかフォルティアナを苦しめることになるのではないかと不安が募る。あの時の最悪の事態が脳裏に浮かび、震えが止まらなくなった。
クリストファーが倒れてから、第一王子ライオネルが相当苦悩していたのは周知の事実だ。様々な重責の中で彼が尽力していたのは、復帰したクリストファーに余計な心配を、負担をかけないようするためだった。
盲目的なクリストファーが気付いているかは分からないが、あの日からライオネルは変わった。人々を温かく照らす眩しい太陽に、影が差した。人を疑うことを覚え、物事の裏側を必死に見るようになった。
あの時謀反を起こしたダグラス公爵一家は皆、流刑地で謎の死を遂げている。その後少しでも謀反の疑いのある者は、厳しく詮議された後に処刑された。
不正を徹底的に正そうとする当時のライオネルには、鬼気迫るものがあった。
(あの兄弟は、怒らせると怖い)
今回の療養だって、話を聞けばライオネルが半ば強引に推して進めさせたものだという。
たとえクリストファーがフォルティアナの意思を尊重しても、ライオネルがいつまでそれを許すか分からない。
最悪一年後、陛下に進言し王令としてフォルティアナをクリストファーの伴侶にあてがってしまったら?
もう二度とあのような悲劇が起こらないよう、ライオネルが楽園のような箱庭に二人を閉じ込めてしまったら?
かつてクリストファーがしたように、ライオネルに汚い醜い世界を見せないように、秘密裏に仇をなす敵を潰して回ったように。
クリストファーは、ライオネルの言葉には逆らえない。しかしそれがフォルティアナのためにならないとしたら、あの兄さえもクリストファーは敵認定し恐ろしい兄弟喧嘩(宮廷バトル)が勃発……などと恐ろしい未来を想像しかぶりを振った。
(俺は馬鹿か?)
ありもしない現実を妄想して怯えるなど格好悪いことこの上ない。
ハーネルドがいきすぎた妄想を振り払い呼吸を静めていると、フォルティアナが戻って来た。
「ハーネルド様、やはり私もお手伝いします! 汚れたら、さっきみたいに洗えばいいんです」
止める間もなく、袖をまくり雑巾を手にしたフォルティアナは掃除をし始める。一生懸命なその横顔は、何故か楽しそうに微笑んでいた。
(そうだな、止めても無駄だったな)
見た目は誰よりも美しく気品のあるその容姿に反して、少し目を離せば駆け出し困っている人に手を差し伸べにいく。
皮肉を並べて衣類の汚れを指摘すると、パンパンと手で払って、これくらい何ともないと笑うのがフォルティアナだった。
(この女に、狭い箱庭は似合わない)
フォルティアナは、小さな箱庭で満足できる女じゃない。閉鎖的なグランデ領の中で、この領地を立て直そうと誰よりも貪欲に外の知識を求めて努力していた。
狭い王宮に閉じ込めておくなんて、無理なことだ。つまり、クリストファーの隣は窮屈に違いない!
(だったら俺が見せてやろう。もっとお前に、教えてやろう)
この世界にまだないものを。人々が凌駕する最先端の技術を用いて、フォルティアナが喜ぶものを作ってやろう。
自信を取り戻したハーネルドは、口角を持ち上げてフォルティアナに声をかける。
「そうか、恩に着る」
「はい、お任せください!」










