第16話 小休憩室にて、狼が吠える①(side ハーネルド)
フォルティアナとミレーユが奇跡の再会を果たし、親睦を深めていたその頃──
「病み上がりなんだから、少しは自分の身体大事にしろよ」
昔からよく世話になっている小休憩室で、ハーネルドは顔色の悪いクリストファーを備え付けのベッドへ横にならせていた。
「そんなに僕、弱ってるように見えた? 君に指摘されるなんて、ほんと不覚だな……」
虚勢をはった言葉を漏らしながらも、クリストファーは苦しそうに浅い呼吸を繰り返している。その様子を、ハーネルドは眉間に深い皺を寄せて見つめていた。
「お願いだから、もう一人で無理をするな……あの時のように……」
クリストファーが事件に巻き込まれたあの日、どうして一人で行かせてしまったのか。ハーネルドは未だに後悔していた。
いつもと何かが違う。様子がおかしい。そう気付いていたのに。もっと強く引き止めておけばよかった。共に付いていけばよかったと、叶わなかった理想に今でも思いを馳せて後悔する。
その場に自身が居たとして、何か出来たかどうかは分からない。それでも、今とは違う未来があったのかもしれない。そう思わずには居られなかった。
事件は本当に一瞬の出来事だった。その日は王城で、第一王子ライオネルの婚約者選定の儀が執り行われていた。
その時ハーネルドは、クリストファーと王城のプライベートサロンで、いつものごとく情報交換を行っていた。
どこかそわそわした様子で少し様子を見てくると席を立つクリストファーに、ハーネルドは冗談交じりで声をかける。
『未来の姉が、そんなに気になるのか?』
クリストファーはにっこりと笑って、『そうだねー』と軽く返してその場を離れた。
ハーネルドはその笑顔に、何か違和感を感じていた。しかしさほど気にとめる事も無く、いつものように何か企んでいるだけだろうと深く考えなかった。
クリストファーが向かった婚約者選定の儀の場では、集められた候補者達がライオネルに対して、それぞれ自身をアピールする場が設けられていた。
当時の婚約者候補の一人、ダグラス公爵家の令嬢リナリーの番になった時、事件が起こった。リナリーの付き人が懐に忍ばせていたナイフを手に、ステージ上に立つ彼女に向かって、突如牙を向いたのだ。それを近くに居たライオネルが庇い、体勢を崩した付き人をクリストファーがすかさず取り押さえた。
その際、クリストファーは腕に小さな切り傷を負った。
傷自体がそこまで酷くなかったのは幸いなことだった。しかし掠めたナイフには毒が塗られており、その場で気を失ったクリストファーは、それっきり目を覚ます事はなかった。
その日の夜、罪の意識に耐えられなくなったリナリーは全てを自供した遺書を残し自殺した。そこにはライオネルに対する思いと、クリストファーに対する懺悔、王太子暗殺という課された使命の狭間で揺れ動く苦しみが綴られていたという。
ダグラス公爵家の謀反がそれで明るみに出て、首謀者の公爵一家は身分を剥奪され流刑に処された。
ハーネルドはクリストファーが時折、ダグラス公爵家の令嬢に厳しい視線を向けているのを知っていた。今にして思えばそれは、常に彼女の行動を監視していたのだろうとハーネルドは考える。
もっと早く気付いていれば……そう悔やんでも、後の祭りだった。
「あの事件は僕の読みの甘さが招いたことさ。ダグラス公爵家に牽制をかけた時、危険因子だったあの令嬢を泳がせずに、最初から排除しておくべきだった。そうすれば、兄上を危険にさらさずに済んだのに。犠牲が僕だけで済んで、本当によかった」
(いいはずがない。そのせいでお前は三年近くも目覚めなかったんだぞ? それなのに……)
優れた能力を持っているのに、それと反比例した自己評価の低さ。あくまでも自分は偉大な兄の替え玉でしかないと、卑屈になるクリストファーに、ハーネルドは苛立ちを感じていた。
「いい加減にしろ! お前の代わりもどこにも居ない! もっと自分のことを大事にしろよ! お前が倒れてから、俺がどれだけ心配したと思っている?!」
人生をつまらなさそうに斜め上から見下ろして、第一王子ライオネルの周りにある危険を意図的に排除する。そんなクリストファーの姿は、まるでそのためだけに存在するからくり人形にでもなろうとしているかのように、当時のハーネルドには見えていた。
どうしてもっと自分を大切にしないのか。イシュメリダ神の加護を受け、誰より高貴な血筋を引いていながら、いつ死んでも構わないという自身の命を軽く扱おうとする投げやりさ。兄の安全を守るために、影で自らを囮にして悪さを企む貴族を囲い牽制する。
クリストファーの自身に対する危険意識の低さを、改めさせたいとハーネルドは常日頃思っていた。その危なげな背中が、いつか本当に消えてしまいそうで怖かったのだ。
彼と過ごすようになって、ハーネルドは変わった。それまで誰にも頼らず生きてきたハーネルドにとって、クリストファーと過ごす時間だけは、肩の力を抜くことが出来た。それが安らぎだったのだと、失って初めて気付いた。
「誰の手も借りないんじゃなかったっけ?」
「権力は借りない。お前がただそこで腹黒く笑って、馬鹿みたいにからかってきて、隣りに居てくれるだけでいい。ただのクリストファーとして」
第二王子としての立場は要らない。ただ本音で話が出来る腹黒い友人として、お前が傍に居てくれたらいい。そのハーネルドの思いがどこまで伝わるかは分からない。
じっと真摯に見つめてクリストファーの反応を待つ。しばしの沈黙が流れて、クリストファーは照れくさそうにハーネルドから視線を逸らした。
「……まいったな、僕を返答に困らせるなんて。中々成長したね、ネル」
「お前が真っ直ぐな人の好意に弱いのは、リサーチ済みだ。ライオネル様にしても、ティアにしても、自分に持ち合わせない純粋で綺麗な心のままに接してくる人間に弱いだろ?」
どうしてクリストファーがライオネルにあそこまで心酔しているのか、ハーネルドには分からなかった。
確かに第一王子ライオネルはその人柄、人望、志と、次期王の器として申し分ない立派さを兼ね揃えている。尊敬に値する人物だろう。
しかしだからといって、自分の人生全てをかけてまで守らねばならないほどか弱い方ではない。どちらかと言えば、クリストファーよりもライオネルの方が武芸には秀でている。
何がクリストファーをそこまで惹きつけるのか。その理由がフォルティアナとのやり取りを見て、少しだけ分かった。
フォルティアナの曇りのない純粋な眼差しや思い。それに触れている間のクリストファーは、悪しき心が浄化されているかのように、とても嬉しそうに穏やかな顔をしている。無垢な赤子を目の前に、無条件反射で人が笑みをこぼすかのように。
クリストファーは笑顔の安売りはしない男だと、ハーネルドは認識している。全ては計算の上で、人前では笑顔の仮面を被っている。長く時間を共に過ごしたハーネルドは、その変化を読み取れるようになっていた。笑っていても、苛ついてるとか、退屈しているとか、他の人が気付かない些細な変化を感じ取れるのだ。
だからこそ分かる。フォルティアナを前にしたクリストファーの笑顔が、嘘偽りのない本当の笑顔なのだということを。
それはいくら探しても見当たらなかったクリストファーの弱点を、ハーネルドが発見した瞬間だった。無垢で純粋な心の持ち主に、その思いに、クリストファーは弱い。
「人は自分にないものに惹かれるっていうからね。それにしてもまさか、ティアが君の婚約者だとは思いもしなかったよ。どうして隠してたの?」