伊勢(いせ)で、伝説の剣を手に入れた
丈琉は川の中に座っていた。川幅が狭く、水量の少ない川で、座っている腰の辺りまでしか水はない。
あたりはうっすらと明るい。
(あれっ。俺、寝とらんよな。でも夢、みてたような)
丈琉は目をこすった。
「ここ、どこ?」
美殊の声が聞こえてきた。
丈琉は振り返った。すぐ後ろで美殊と岳斗が川の中で座っていた。丈琉は立ち上がり、美殊の手を引いた。
「さっきまで、夜やなかったっけ。急に夜が明けたみたいやな」
岳斗もゆっくりと立ち上がった。
「景色も全然違うし。一体、どうなっとんのや」
3人は川の中で立ち尽くした。
「おお! ミコヒメ様ではありませんか。タケヒ! ヤマヒコも!」
男の声が聞こえてきた。3人は慌てて声のした方に目を向けた。
「えっ? お、オウ、ス? いや、まさか……」
丈琉が戸惑うのも無理はない。オウスとよく似た、オウスの兄の様な人物が川の中に立っていたのだ。
今まで一緒にいたオウスによく似ている。しかし、その男は背が高く、丈琉と同じくらいではないかと思われた。肩幅は広く、胸板は厚くなっている。すっかりたくましい体つきだ。
そして精悍な顔立ちに、うっすらと生やした髭。
長い髪は後ろで1本に縛ってある。縛り損ねた髪が数本顔にかかっているが、それがなんとも言えぬ色気をかもし出している。
呼びかけられた声は、変声期を終えた男の声だった。
しかし、見覚えのある、あどけなさの残る笑顔と、まっすぐに見つめてくる澄んだ瞳。阿波岐原で初めて会った時と同じ、白い浴衣姿。
そして何より、赤く光る手がオウスである事を確信させる。
「その名で呼ばれたのは、久しぶりじゃ」
男が笑った。
「やっぱ、オウスなんか。なんで、そんな急に男らしくなったんや!」
きょうだいは驚きで目が開きっぱなしだ。
「はて、そんなに急に変わってはおらぬ」
「ううん。オウス君。さっきまで全然幼かったし、体もちっちゃかった」
美殊は今のオウスにすっかりみとれている。
「吾よりもおぬしたちの方が不思議じゃ。7年も経つのに、あの時と全く変わっておらぬ。その服も、天降川で消えた時のままじゃ」
「7年!?」
1オクターブ高くなった3人の声がそろった。
「7年、時間をすっ飛ばしたって事か」
岳斗は眼鏡の位置を中指で直しながら言った。
3人は顔を見合わせた。
「じゃ、私たち、またタイムスリップしたって事? 今度は過去じゃなくって、未来に」
「そやな。オウスが急に大人になっているからな」
その話を聞きながら、オウスは顎に手を当て、思案していた。しばらくそのままの体勢で固まっていた。
「つまり……」
オウスがゆっくりと話し出した。
「吾には、やはり理解できぬが。おぬしたちは、初めて熊襲で出会った時と同じ方法で、吾の前に現れたという事じゃな。
確かに。白い光と共に現れたのも、阿波岐原の時と同じじゃ。
7年前。おぬしたちは吾の目の前から、突然消えた。
忘れもせぬ。吾が天降川に入った途端に、白い光の柱が現れ、そしてその光が消えたと思ったら、おぬしたちも消えていた。
おぬしたちは突然現れたり、いなくなったりする。どれだけ、吾を驚かせたら気が済むのじゃ」
オウスは快活に笑った。
「いや。俺らも驚かされとるんや。マジで、頭がついていけんわ」
丈琉の言葉に美殊と岳斗はうなずいた。
川の向かいにある、小高い山から風が吹き下ろされた。
「さぶっ」
美殊が両腕を抱えた。
「そうや。いつまでも水ん中いたら、風邪ひいてしまう。早よ、あがろ」
4人は水を滴らせながら、川原にあがった。
「あっ。手が光っとる」
丈琉は美殊と岳斗と、3人の手がまだ光っている事に気がついた。スサノオの話が思い出された。
(この光が、俺たちをタイムスリップさせるんか)
3人は改めて、周囲を見渡した。
空は灰色の雲に覆われ、太陽がぼんやりとしていた。小雪が舞ってきた。
川の対岸の小山には木々が生い茂っている。
川原は石畳で覆われ、階段まで作られていた。
「ここ、どこや。なんか見た事ある様な気がするんやけど」
岳斗が石畳をじっと見つめていると、丈琉がすぐに答えた。
「伊勢やないか」
「そうかもしれんな。この石畳。お伊勢さんみたいや」
「そうじゃ。ここは伊勢の神宮じゃ」
オウスが回答を出してくれた。
「タケ。ようわかったな。俺らの時代の伊勢神宮とずいぶん違っとるのに」
「いや。スサノオが伊勢に行けって言っとったから、もしかしてって、思ったんや」
「それって、さっきも言っていた夢の話か?」
「そや」
岳斗は丈琉が時に口走る“夢”が、単なる夢でないように思えてきた。
オウスは話を続けた。
「吾はこれから伊勢の斎宮、ヤマトヒメ様にお目にかかる。そのためにやって来たところじゃった。
斎宮様に会うには、身を清めなくてはならぬ。故に、吾はこの五十鈴川で、みそぎをしていたのじゃ。
おお、話をすればヤマトヒメ様」
オウスは石階段の上の方に目を向けた。
3人は振り返り、オウスの視線を追った。そこには美しい女性が立っていた。
30から40歳くらいに見えるが、落ち着き払ったたたずまいはもっと年齢を重ねているようにも見える。年齢不詳である。
色白でぽっちゃりとしている。一重の細長の目で、大きな真っ黒な瞳。髪はアップに結い上げ、額にはキラキラした宝冠をのせていた。着ているものは白い着物の上着と、真っ赤な袴。
(神社の巫女さんみたいな格好や。斎宮様って、巫女さんみたいなモンなんかな)
3人は同じ事を考えた。
オウスはヤマトヒメの足元にひざまずいた。
「お久しぶりでございます。
ヤマトヒメ様におきましては、ご健勝のご様子。何よりでございます」
オウスは深々と頭を下げた。少しの間をおいてから顔を上げ、ヤマトヒメの顔をまっすぐに見つめた。そして一度、丈琉たちの顔を見てから、再びヤマトヒメに視線を合わせた。
「ここにおりますは、吾が熊襲に出向いておる際に出会った者たちでございます。様々に助けて頂き、熊襲の征伐は、彼らのおかげで成功したと言っても良いほどでございます。
タケヒ様。ヤマヒコ様。ミコヒメ様のごきょうだいでございます」
ヤマトヒメは無表情に3人を見た。ヤマトヒメと目が合った3人は、慌てて頭を下げた。
「真名ではありませんね」
ヤマトヒメの静かな声が響いた。
「申し訳ございません」
オウスは慌ててさらに深く頭を下げた。
「吾がこの者たちに授けた名でございます。ヤマトヒメ様には、偽りの名など、通用いたしませぬ」
「いえ。それで良いのです。この者たちの名は、ここでは使わぬ方が良いでしょう。
良いですね。ここでは、決して名乗らない様にして下さいね」
ヤマトヒメは口元で笑みを作り、黒目がちの瞳で3人を見つめた。一見優しそうに見えるが、有無を言わせない迫力があった。
「はい」
3人のきょうだいは、直立不動で返事をした。
「ヤマトタケルノミコトよ。みそぎは済みましたか。この後、正宮においでなさい。
皆様のご案内を頼みますよ」
そう言ってヤマトヒメは静かに振り返り、足音も立てずに歩いて行った。オウスは浴衣を着替えるため、河原の端にある、粗末な小屋に向かった。
「ヤマトヒメ様って、オウスの叔母さんだったよな。
なんか、不思議な人やな。あの目が、なんか怖いってか、心の中まで見透かされそうな感じやった」
岳斗はヤマトヒメが歩いて行った方向を見ながら言った。
「俺らの名前が、ホンマの名前やないって、なんでわかったんやろな。
不思議な人や」
「名前って言えばさ、オウス君って、“ヤマトタケル”って名前になったんやな。ヤマトタケルって呼ばれてた」
「俺らの名前が元で、オウスはヤマトタケルのミコトって呼ばれる様になったんだよな。
なんか、あべこべな気もするんやけど」
「私ら、子供ん頃、“3人合わせて、ヤマトタケルノミコト”って、よく、からかわれたよね。
それはそうと、やっぱ、ヤマトタケルって呼ばないとあかんかな。なんか、岳斗と丈琉を呼んどる様で、妙な感じなんやけど」
「俺らなんか、自分の名前や」
「オウスで良い」
オウスは戻って来ていた。今の会話が聞こえたらしい。
「ヤマトタケルという名は、吾には重すぎる名だと、常々思っているのじゃ。
せめて、おぬしらは吾の本当の名を、呼んではくれまいか」
「そうさせてもらうわ」
丈琉がそう言うと、オウスは嬉しそうに笑った。
美殊はその笑顔にすっかりみとれていた。しかしふと思い立った様に岳斗に近寄り、小さな声で話しかけた。
「なぁ。私たち的にはほんの数秒しか経っとらんのに、オウス君たちは7年間、生きてきたって事なんだよね」
「そやな。オウスは7歳、年とったんやな」
「じゃあさ、オウス君、23歳になったんやね。私と同じ年になったんや」
美殊は顔中で嬉しさを表している。
「俺らもおんなじ年や」
岳斗は浮かれている美殊に、若干の苛立ちを感じてしまった。それで、しなくてもいいような細かい指摘をしてしまった。
「そんなん、わかっとる」
美殊はプイッと反対を向いてしまった。
(まぁ。はしゃぐのもわからんでもないけどな。
ショタ一歩、手前やったんが、同じ年になったんや。そりゃ、女からすれば、嬉しいかもしれんな。
おまけに、突然たくましい男に成長して、綺麗な顔はそのままや。惚れ直してしまうやろ)
そこへ、巫女装束をまとった若い女が、数枚の衣服を持ってやって来た。ヤマトヒメ様の指示だと言い、きょうだいにそれぞれ服を渡した。
確かに今の3人の出で立ちはひどかった。びしょ濡れで、泥だらけ。ところどころに血液が付着している。
「おぬしたち。着替える前に、身を清めた方が良かろう。これから最も神聖な場所に入るのだ。
特に血の汚れは忌み嫌われる」
オウスに言われ、3人は五十鈴川に引き返した。
「みそぎってどうやればいいん?」
「聖なる水に身を沈め、そして神に祈りを捧げるのじゃ。
しかし己のやり方で、構わぬ」
美殊は巫女と共に離れた場所に移動した。鬱蒼と生えている草が姿を隠してくれる。
3人は震えながら、川の水で汚れを落とし、冷たい水に身を沈めた。そしてヤマトヒメが準備してくれた布で体をふき、衣服を着替えた。
美殊は白い上着と赤い袴の、ヤマトヒメと同じ衣装。
丈琉と岳斗はアイボリーのTシャツと袴。オウスたちと同じ形の服である。
阿波岐原で、オウスからもらった服は寸足らずの、小さい服だったが、今回は2人の体格にぴったりと合っている。丈琉は服をあちこち引っ張りながら、サイズを確認していた。
「俺らって、この時代じゃ特注サイズなんだよな。それが俺たちにジャストフィットってことは、前もって準備しとったって事か?
おそるべし。ヤマトヒメ様やな。マジで超能力者なんかもしれんな」
その後、オウスに案内されながら、伊勢神宮内を歩いた。玉砂利がじゃりじゃりと音をたてる。
3人は正宮の前にやって来た。
正宮に入るまでに、階段を登り、白い幕を3回くぐらなければならなかった。
正宮は正方形の部屋で、四方を白い布で覆われていた。正面には白い布で覆われた、祭壇が設えてあった。壇には鏡と剣、たくさんの榊の枝が備えられていた。
ヤマトヒメは祭壇の前で正座をして、真正面を見据えて座っていた。
オウスと3人は、ヤマトヒメの前に横に並んで座った。オウスはどっしりとあぐらをかいた。3人は背筋をピンと伸ばして正座した。
火の気のない、寒い部屋だった。鳥肌が立つ様な、身震いする様な感覚に襲われた。それは単に寒いというだけでない。神聖な部屋の、荘厳な空気のためではないかと思われた。
「ヤマトタケルよ。そなたの活躍は、ここ伊勢まで届いています。今度は、東国に行かれると聞きました」
「はい。オシロワケの大王の命により、蝦夷を治めに行って参ります」
オウスは頭を下げた。が、すぐに顔をあげ、ヤマトヒメの顔をじっと見つめた。
「ヤマトヒメ様。お聞きください。
吾は長い年月をかけ、熊襲や筑紫など、多くのクニを制圧してまいりました。しかし、帰って来た吾を待っていたのは、蝦夷征伐の命令。
大王には大勢の皇子がおります。なぜ、吾だけが危険な戦に行かねばならぬのでしょうか
やはり、大王はオオウスとの……。 い、いや」
オウスは言葉を飲み込んだ。唇を噛み締め、しばらく下を向いていた。
ヤマトヒメの視線に気がつき、オウスは顔を上げた。慈悲深いヤマトヒメの瞳に、オウスは我慢していた涙が溢れそうになった。
「ヤマトタケルよ。そなたは天に選ばれし人間です。これまで誰も成し遂げられなかった、大和の統一。それはそなたがすべき使命。
私はそう、思っています」
ヤマトヒメの言葉に、オウスの目から一粒、涙がこぼれた。すぐ手の甲でぬぐい、ヤマトヒメの目をまっすぐに見つめた。
「申し訳ありません。弱音をはいてしまいました。
ヤマトヒメ様のご期待にそう様、必ずや、大和を統一して戻ってまいります」
オウスは深々と頭を下げた。長い時間が過ぎた。
オウスはゆっくりと顔を上げ、もう一度小さくヤマトヒメに頭を下げた。そして、今度は3人に向き直った。
「タケヒ、ヤマヒコ、ミコヒメ様。どうか、吾を助けて下さい。蝦夷に共に来て下され。
蝦夷は遠く、そして野蛮なクニばかりです。貴殿らはこの世界に生きる人ではないと知っていながら、危険な所に来て頂きたいと願うのは勝手な事と承知しております」
オウスの声が徐々に熱を帯びてくる。
「しかし、吾には、貴殿の力が必要なのです。
どうか、お願いします」
オウスは3人に頭を下げた。
隣に座っていた丈琉が、オウスの肩をポンポンと叩いた。
「俺らに、頭なんか下げんでくれ。
俺な、さっき、スサノオと話ししたんや。いや、もしかしたら夢かもしれんけどな」
「スサノオ様ですか?」
ヤマトヒメの表情が初めて動いた。
「はい。その、スサノオ…様、が言うには。俺らがタイムスリップするのは、この手の、この光のためなんやそうです。3人の力が合わさった時に、時空を超えることができるって言われました」
丈琉は光っている自分の手を見つめた。
「ねぇ。タイムスリップとか言っちゃってええの?」
美殊は丈琉に耳打ちし、チラッとヤマトヒメを見た。
美殊と目があったヤマトヒメは、優しく微笑んだ。
美殊もつられて笑顔になった。脇で話を聞いていた岳斗が小さな声でささやく。
「ヤマトヒメ様は、なんでも知っておるやろ」
「私にもわからない事はあります」
聞こえるはずはないと鷹を括っていた岳斗。聞こえてしまっていたことに驚き、身を縮めた。
「しかし、あなた方は、本来であればこの世に生きる人ではないと、そう感じていました」
「ってか、真っ先にオウスが言ってたよな。俺らがこの世界に生きる人間じゃないとか。
とにかく今更やけど、俺、隠し事なしで話しますね」
丈琉は1回折れた話の続きを話し始めた。
「それで、えっと、オウスと俺の力が、お互いを引き寄せ合って、俺らは出会ったらしいんです。
それ聞いて、俺、思ったんです。俺らがタイムスリップするのに、オウスも関係しとるんやないかって。
だから、俺らが元の世界に戻るためには、オウスと一緒にいた方がいいんじゃないかって、俺は思ったんや。
なぁ。そう、思わんか?」
丈琉は美殊と岳斗に話を同意を求めた。そう、問いかけられても、2人とも初めて聞いた事実に戸惑っていた。
「俺らのこの手の光で、タイムスリップしたって事なんか?」
「スサノオが言うにはな」
「なんか、話がぶっ飛びすぎて、訳わからんな」
美殊は手で口を押さえて、考え込んでしまった。
「俺ら。ぶっ飛んだ事、たくさん経験したやろ。あんま深く考えんでいいんと違うか」
「タケ。お前、超越しとるな」
「開き治っているだけや。
何度も言うようやけど、俺らはオウスと一緒にいた方がいいと思う。
オウスがえ、えみし? やったっけ。えっと、そこに行くんやったら、俺らは俺らのために行かなあかんと思うんや」
丈琉の言葉に美殊は少し間を置いて返答した。
「なぁ。オウス君は蝦夷に行かないって、選択肢はないんか?
だって、危険なトコなんやろ」
ヤマトヒメは静かに首を振った。
「オシロワケの大王には逆らえません」
丈琉と岳斗は熊襲で聞いたオウスの話を思い出していた。オシロワケは激しい気性で、乱暴な人物である。命令に逆らえば、殺されるかもしれない。
それはオシロワケの妹であるヤマトヒメが一番知っている事である。そのヤマトヒメが大王に逆らわない方が良いと言っているのだ。
行くしかないのだ。
オウスはまっすぐに正面を向き、透る声で語り始めた。
「吾はこの世の平和のためには、大和の統一が重要と考えております。
ヤマトヒメ様がおっしゃった通り、それが、吾の使命と言うのであれば、吾はそれを果たさねばなりません。
改めてお願いします。ミコヒメ様、タケヒ様、ヤマヒコ様。どうか、吾と共に来ては頂けませんか」
オウスは3人に向かって頭を下げた。
美殊はどことなく嬉しそうな表情。そして、少し微笑みながら話し出した。
「だから、頭とか下げるのなしや。
前にも言ったけどな、今、私が頼られるのはオウス君だけや。
オウス君が蝦夷に行くんなら、私も一緒に行く。ううん、連れて行って下さい」
「私って、自分だけかよ。
俺らのこと、完璧に忘れとるやろ。行くのは自分だけやないやろ」
岳斗は美殊の細かい言葉のあやに、ツッコミを入れる。
「そやな。俺らみんなでオウスのお世話にならんとあかんな」
岳斗も覚悟を決めた。
オウスは頭を下げ「ありがとうございます」と力を込めて言った。
「こちらこそよろしくお願いします」
美殊の挨拶に続いて、3人は一緒にオウスに頭を下げた。
その経緯を見ていたヤマトヒメはすくっと、音もなく立ち上がった。
祭壇に向かい、壇上に置いてあった小さな袋を手にした。
「ヤマトタケルよ。これをそなたに授けます」
そう言いながら、小さな皮袋をヤマトタケルに見せた。そして皮袋の長い紐を両手で持ち、オウスの首に下げた。
「これは、そなたを救ってくれます。何か困難が生じた時、この袋を開きなさい。そなたを助けてくれるはずです。
肌身離さず、持っていなさい」
「ありがとうございます」
オウスは首にかけられた皮の袋に、そっと触れた。
「そうや! 忘れとった」
丈琉が突然、大きな声をあげた。皆の視線が集中した。
「ヤマトヒメ様。ここに、アマの、ムラクモのツルギがあると聞いたのですが」
「天叢雲剣ですね」
「あっ。そうです。アマノムラクモノツルギです」
「しかし、それをなぜ? この事は、大王以外知らぬはずです」
「それも、スサノオから聞いたんです。
それを伊勢から出してくれと。それが俺の使命やって。そのために、オウスと会えって、言われたんです」
ヤマトヒメは目を閉じた。オウスも驚きを隠せないでいた。
ヤマトヒメがゆっくりと目を開けた。
「スサノオ様は剣をこの伊勢から出して欲しいと望んでおられるのですね」
「はい。確かに、そう言っていました。
伊勢に、アマテラス…様の、所にあるのが、腹立たしいって。言っていました。
そこから自分の命である剣を救い出してくれ。自分は、なんて言ったかな、忘れたけど、ここに行く事は出来ないって。
ああ、そうか。って事は。俺ら、もしかしてその剣を伊勢から出さないうちは、元の時代に帰れんのかもしれんな。
ってか、逆に剣を外に持ち出した途端に、帰れるかもしれん」
丈琉の推測は美殊に複雑な心境をもたらした。
(もし、その剣を持ってきたら、いきなり戻ってしまうんやろか。
オウス君にお礼も、なんも言えんまま……)
ヤマトヒメは明らかに困惑した表情になった。振り返り、祭壇の鏡に向かって祈祷を始めた。
(あっ! 手が光っとる)
美殊はヤマトヒメの手に目を奪われた。
ヤマトヒメの手には、青くて丸い光が灯っていたのだ。
美殊は隣に座っているきょうだいに目を向けた。
2人とも気がついているらしい。小さくうなずいてみせた。そして3人とも自分の光っている手を見た。
(ずっと光っとる。こんなに長く光ったままって、初めてや)
ヤマトヒメの儀式は続いている。その背中は、何をも受け付けぬ程の緊張感をまとっていた。声を出す事すら、はばかられた。
一同は手を膝に乗せ、背筋をピンと伸ばした。息が詰まる様な時間が続いた。
ヤマトヒメは最後に、鏡に向かって深々と頭を下げると、おもむろに振り返った。一呼吸おいて、口を開いた。
「わかりました。
剣をお渡しします」
丈琉の顔がパッと明るくなった。
「しかし、その剣は誰もお姿すら見た事はないのです。
剣を奉納してある所には、強靭な封印がされています。封印されている所は伝えられていますが、剣がどこに置いてあるのか、どうやって取り出すのか、私にもわかりません」
「なんか、難しいって事はスサノオ、様も、言っていました。
でも、俺とオウスと2人でかかれば大丈夫やって話です」
「吾もタケヒと共に、その剣を運び出せばいいのだな」
「いいんか? オウスには直接、関係ない話なんやけど。オウスの力を貸して欲しい」
丈琉の言葉にオウスは笑った。
「何を、言っておる。
タケヒにも、直接関係のない事であろう。お互い様じゃ。
これまでおぬし達は、どれだけ吾らを助けてくれた事か。感謝しても、しきれぬ程じゃ。
さあ。ヤマトヒメ様。その天叢雲剣のある所へ案内して下さい」
オウスは早々に立ち上がった。
丈琉も慌てて立ち上がり、オウスの肩を叩いた。
ヤマトヒメは穏やかな目で2人を見つめた。
そして、3人で静かに部屋を出た。
祭壇の脇から部屋を出て、細い廊下を奥に進んだ。そして複雑に右に左に曲がっていく。
(こんなに広かったっけ。この建物)
丈琉にはどれ程の時間と距離を歩いているのか分からなくなっていた。
何回目かの角を曲がると、ようやく突き当たりに行き着いた。目の前の壁にはしめ縄がかけられていた。そして壁の手前には4本の棒が立てられている。それらの棒を細い紐で繋ぎ、正方形の空間が作られていた。
「ここですか。確かに他と全然空気が違います」
丈琉の質問にヤマトヒメは静かにうなずいた。
「ここまで辿りつけるのは、私だけです。そしてここに天叢雲剣があるとお告げがあり、ずっと守ってきました。
しかし剣のお姿は見えません。どの様にして剣を見つけるのですか?」
「えっと。そう言えば、アマノムラクモノツルギを伊勢から救い出せとしか言われとらんな」
丈琉はオウスと顔を見合わせた。
丈琉の瞳とオウスの瞳があった時、2人の手の光がまるで太陽のように輝いた。
丈琉は思わず手を前へ伸ばして、顔を逸らせた。
(なんや! この光! こんなに眩しく光ったの、初めてや)
オウスも同じく手を伸ばした。するとふたりの手のひらから、深紅の閃光が発せられた。
強烈な光はサークルの中を照らした。そして、その真ん中に、三方の上に乗せられた剣を映し出した。
2人の前に、はっきりと剣が映し出された。
ゆっくりと歩みを進めた。2人の動きは完全にシンクロしていた。
結界となっていた紐も関係なかった。サークルの中にスーッと入り、中央まで静かに歩いた。剣の前で片膝を立ててしゃがみ込んだ。そして丈琉は右手、オウスは左手を剣に伸ばし、同時につかんだ。
そして、剣を携えて結界の外に出てきた。
外に出てきた瞬間、2人は脱力した様に、ドスンと座り込んでしまった。激しく息がきれる。冷や汗もダラダラと流れてきた。
「どうしたのですか」
ヤマトヒメが声をかけた。彼女には一瞬の時間でしかなかった。丈琉とオウスが顔を見合わせたところまでははっきりと覚えている。そして、その後ほんの一瞬、ヤマトヒメの意識が途切れたのだ。
(私が意識を飛ばしてしまうとは……。 このような事初めてです)
ヤマトヒメは両眼を閉じ、深い呼吸をした。口をすぼめ、細く長く息を吐いた。そして意識的にゆっくりと目を開いた。
目の前で座っている2人の手には、いつの間にか剣が握られていた。
「これが、アマノムラクモノツルギか?」
丈琉はオウスと一緒に握っている剣をみつめた。
「これを伊勢から出せば、スサノオは満足するやろ」
丈流に笑いかけられ、オウスは戸惑いながらも「うむ」と、肯定の意思を示した。
丈琉とオウス、ヤマトヒメの3人は正宮の間に戻ってきた。美殊と岳斗はオウスが持っている剣に見入った。
オウスは準備された三方の上に剣を置いた。長く大きな剣だった。
ヤマトヒメは元の位置に並んで座った4人と向かい合って座った。
「タケヒ様。この剣はあなた様がお使いになるのですか」
ヤマトヒメが尋ねた。
「いえ。って、言うか。スサノオ様は、この剣を伊勢から出す様にとしか言っとらんかったんです。
この剣を使っていいのかも、俺にはわかりません。
でも、俺らはこれで元の世界に戻れるはずやし、俺たちの生きている世界では、こんな剣は必要ないんです。
だから、俺が持つより、オウスが持っていた方がいいのかもしれません。スサノオ様は赤い光を持つ者しか、この剣は使えないって言っていたので、多分オウスしか使えんと思いますし」
「吾がこの剣を持つのか。タケヒ。それでいいのか」
「そうしてくれんか。俺にはどうしていいんか、わからんしな」
丈琉の言葉にオウスは一瞬笑ってみせた。しかしすぐに真顔に戻り、剣の前に進み出た。
オウスは剣に一礼し、まっすぐに左手を伸ばした。
(オウスは左利きなんやな)
丈琉は改めて確認した。
剣を手にしたオウスは、すくっと立ち上がった。右手に鞘を持ち、スーっと剣を抜いた。
諸刃で中央が厚みを持っている。刃の部分だけで1メートル近くありそうだ。鉄製でサビひとつない。光のない部屋の中でも、輝いて見えた。
厚みも長さもあり鉄で作られた剣。非常に重たそうに見えたが、オウスは軽々と片手で持った。腕を前に伸ばし、顔の前に持ってきた。オウスは真剣な眼差しで、まっすぐに剣を見つめていた。
剣を掲げるオウスの姿は凛々しかった。
(男の俺でも、惚れそうや)
岳斗はオウスに見とれてしまった。岳斗は美殊を見た。予想した通り、魂を抜かれた様に、オウスの顔に釘付けになっていた。
「おお。剣が喜んでおる。剣が喜んでいるのがわかるぞ」
オウスは感嘆の声をあげた。そして剣の柄を注視すると、ゆっくりと剣の上の方に視線を移していった。視線は剣先を捉え、またじっくりと時間を掛けて見ていた。
そして剣の全貌を見尽くすと、剣を鞘に戻した。ゆっくりと腰をおろし、ヤマトヒメに平伏した。
「この剣。ありがたく申し受けさせて頂きます。
これで、東国を平定してまいります」
続いて丈琉に向き直り、丈琉の手を握った。
「おぬしのお陰じゃ。この様に素晴らしい剣を手にする事ができるとは。本当に感謝いたす」
その後、きょうだい3人とオウスはヤマトヒメのお祓いを受けた。
正宮を出て、神宮の外に向かおうとした。オウスの兵士達が神宮の外で待っているのだ。
しかし岳斗が突然、足を止めた。
「ヤマトヒメ様。相談があるんです。少し、お時間を頂けませんか」
ヤマトヒメは「どうぞ」と、優しく言い、微笑んだ。
「オウス。俺ら、ちょこっと話をして行くから。先に行っててくれんか。すぐに追いかけるから」
「わかった。吾らはこの先の五十鈴川を渡った、鳥居の所にいる」
オウスは1人で足早に歩いて行った。
「ちょっと、待って。私も行く」
美殊はオウスを追いかけようとしたが、岳斗に腕をつかまれ止められた。
美殊は心配そうにオウスを見送った。
岳斗はヤマトヒメの正面に立った。
「急にすみません。オウスには聞かれたくない事もあったので」
岳斗は軽く頭をさげた。
「実は、俺たちは、先の時代、今よりずっと未来の世界から来ているんです」
ヤマトヒメの表情は変わらず、小さくうなずいただけだった。
「それで、俺らの時代には、昔の出来事とか言い伝えが残っているんです。もちろん“日本武尊”の事も。
俺ら、歴史の事はあんまり詳しくなくて、はっきりしない所もあるんですけど。
でも、はっきりしているのが、“日本武尊”のお墓が、能褒野にあるって事です。
ヤマトタケルは能褒野で死んだって、言い伝えられているんです」
ヤマトヒメの切れ長の目が、丸く見開かれた。それでも、何も言わず、岳斗の次の言葉を待った。
「オウスが亡くなるであろう場所はわかっていても、いつ、何歳で亡くなるかはわからないんです。
まだまだ先なのか、あと、もう少しなのか」
「俺、もし、オウスが能褒野に行くって言ったら、止めてしまうかもしれん」
丈琉が突然大声をあげた。岳斗はコクっとうなずいた。
「俺も、同じことしてしまうかもしれません。
でも、それって歴史を変えてしまう事になりかねない。
実は、俺、熊襲でいろんな人に関わってしまって。けが人の治療したり。いや、彼やって俺らと関わらなかったら、怪我せんでもよかったかもしれんのに。
俺らは先の出来事を、少しばかり知ってしまっているけど、それを元に行動してしまってもいいのか。歴史を変えてしまうってわかっていても。
ヤマトヒメ様。どう思われますか」
岳斗だけでなく、丈琉と美殊もすがる様にヤマトヒメを見つめた。
ヤマトヒメは大きく、深く息を吐いた。目を閉じ、両手を重ねて胸に当てた。
ほんの数秒であったが、きょうだいには時が止まった様に思えた。
ヤマトヒメは、一つ、また息を吐き、目を開けた。そしてゆっくりと3人に語りかけた。
「ヤマトタケルの事、心配して頂き、本当に感謝します。
人はいつか、死ぬ。それは自然の摂理です。避けようとしても、避けられる物ではありません。
私たちは、神が定めた流れに乗っているだけ。あなた方が今、ここにいるのも、定められていた事かもしれません。
神の定めた流れに変わりはありません」
「俺らが何かしても、実は何も変わってはいない。それは、もう歴史の一部になっている、って事ですか。
俺らは、俺らのやりたい様にやっていいんですね」
ヤマトヒメは肯定も否定もせず、静かに微笑んでいた。
「俺も、一つ聞いていいですか」
丈琉が一歩前に出た。
「さっきも言ったかもしれんけど。スサノオ様は、オウスと俺が引き寄せ合って、俺らはここに、この時代にやって来たって言いました。
って事は、みぃを巻き添えにして、こんな危険なトコに来てしまったのは、俺のせいなんでしょうか」
(みぃ、みぃって。俺はいいんかい)
岳斗は力が抜けてしまった。大きくため息をつくと、丈琉のひたいにデコピンをくらわせた。
「痛っ」
丈琉は額を押さえた。
「アホか。自分のせいとか、そんなん考えとったんか」
「ほんまにアホやな。
タケ。ここに来たのは私ら3人の力が合わさっての事やって、自分で言ったんやないか。あんた1人の力じゃ来られんかったって事やろ」
「そんな事、うじうじ考えてもしょうがないって。
考えんといかんのは、どうやって、この時代を生き抜くか。無事に元に戻れるかや」
美殊と岳斗が交互に責め立てた。
丈琉は何も言えなかった。額を抑えていた手を離すと、今度は明るく笑った。
「2人して、アホアホ、言うなって。自覚しとるわ。
そやな。ごめん」
そう言って、ヤマトヒメに向き直った。
「すみません。なんか、解決してしまいました」
ヤマトヒメは微笑み、小さくうなずいた。
最後に美殊が話しかけた。
「ヤマトヒメ様の手も、光るんですね。
私と同じ、青くて丸い形」
「はい。この光は先見の力を持っています」
「やっぱり。
私もこの手が光ると、未来の事が頭に浮かぶんです」
美殊は自分の手を見つめた。
「そうや。
スサノオも言っとったな。美殊のは鏡の力で、先の事を読むって。で、岳斗の緑の光は勾玉の力で、魔を祓うって」
「また、スサノオ談義か」
岳斗は笑ったが、ふと気になる事を思い出した。
「えっと、俺の力って、魔を祓うって言ったよな」
「ああ」
「確か、あの、母さんの時。むかって来た父さんに、緑の光が当たったら、あの人、ぶっ飛んだよな。
あれも、そうなんかな」
「ああ。そうかもしれんな」
「って、事は、何? あの人“魔”なんか。俺、そこまで思っとらんぞ」
3人の会話を黙って聞いていたヤマトヒメが、さっと右手をまっすぐにあげ、オウスの去って行った方を指差した。
「さぁ、行きなさい。あなた方の行く先に、幸あらん事を祈ります」
3人は深々と一礼した。
そしてオウスの待つ鳥居を目指して駆け出した。