熊襲(くまそ)の中心で、その名を叫んでいた
雨はがやんだみたいだと、美殊は思った。気がつけば、雨音が聞こえない。
(いったい、どんくらい時間が経ったんやろ。いつまで、ここに閉じ込められとるんやろ。
あの男たち、顔に刺青しとった。って事は、ここ、熊襲なんやろな。
でも、丈琉が追いかけてくれていた。私が、ここにおる事、きっとわかっているはずや。
大丈夫。助けに来てくれる)
美殊は頭の中で、何度も何度も繰り返していた。
美殊は数人の女性と一緒に、狭い部屋に閉じ込められていた。窓のない部屋。外の様子は全くわからない。
粗末な建物で、風がビュービューと吹き込んでくる。部屋の真ん中に囲炉裏はあるが、火はチョロチョロと燃えているだけだ。寒さと緊張と恐怖で身体がガタガタと震えた。
誰も、何も話さない。美殊も話をする気にはならなかった。
何の音もしない、薄暗い部屋の中。無理をして、良い方向に考えを持って行こうとしても、すぐにマイナス思考が頭の中を占めてしまう。
(ミヤ君。大丈夫やろか。あん時、ミヤ君、耳を塞いどった。だから、後ろに人が近づいて来たのに、気がつかんかったんや。
私のせいや。トイレん時は耳を塞げなんて言ったから。あんな重そうな剣で頭打たれて。きっと大けがや)
涙がポロポロとこぼれた。
さらわれた時の恐怖もよみがえる。男たちの会話は思い出したくなくても、頭の中でリピートされた。
「この女。ものすごく美人だ。カワカミノタケル様に差し出せば、きっと喜ばれる」
(私のどこが美しいって言うんや。そんな事、言われた事ないのに。どうしてこんな時、ばっか……。
どうしよう。私、カワカミノタケルに差し出されてしまうんやろか。どうなるんや)
ガクガクと震える体を、両手で抱えた。
(オウス君。オウス君。助けて)
オウスの顔が浮かんでくる。
小屋の外がざわついてきた。
(どうしよ。これから、なんかあるんや)
頭の中はパニック寸前だった。
(そうや。あれ!)
混乱しながらも、思い出した物があった。慌ててリュックの中を探った。目当ての物はすぐに見つかった。今度はそれをすぐに取り出せるように、スカートの下に履いているジーパンのポケットに入れた。
その瞬間だった。勢いよく数人の男が小屋に入ってきた。
「立て。出るんだ」
女たちは素直に従った。美殊もリュックを背負い、急いで立ち上がった。
外に出た。真っ暗な中に、炎が見えた。かなり大きな火で、美殊は火事かと思った。
しかし木を組み、そこに藁をかけて燃やしている火だった。
(キャンプファイヤーのでっかいヤツか)
美殊は横目で見ながら歩いた。
女は一列に並んで、キャンプファイヤーの近くまで連れてこられた。
火を取り囲むように、大勢の男たちが座っていた。皆、髪はボサボサで、ヒゲは伸ばし放題。見るからにむさ苦しい男ばかりだった。そして、皆、顔に刺青を入れている。それがより一層、不気味さをかもし出す。
「皆、ご苦労!」
突然、大きな声が響き渡った。その場にいた者、全員がステージに注目した。壇上には人一倍大きな男が、仁王立ちしている。
太い眉、団子鼻、分厚い唇、そして鋭い眼光。顔の半分は刺青で覆われている。
「カワカミノタケル様ーー!」
一同が一斉に英雄の名前を呼び、一斉にひれ伏した。
(あれが、カワカミノタケル)
美殊は顔をしかめた。
「皆、よう集まってくれた。
これから大和が、ここ熊襲に攻め込んでくると、情報が入ってきておる。奴ら、土蜘蛛を滅ぼして、いい気になっている。
しかし、ここ熊襲には、まだ近寄る事もできない。
熊襲に恐れをなして、逃げ帰ったのであろう」
広場から笑いと喝采が起きた。
「たとえ、攻めてきても、この砦が攻撃を跳ね返すであろう。
熊襲は、大和に屈しない! 返り討ちにしてくれるわ!」
「おおーー!」
耳をつんざく雄叫びが響き渡った。
「今日は、砦の完成を祝い、飲むがよい」
カワカミノタケルの言葉に、拍手と喝采が起きた。
女たちは酒の入ったカメを持たされ、酌をするように命じられた。
(コンパニオンか)
美殊は何をさせられるのか、なんとなく理解してきた。
一緒にいた女たちは全員広場に出て行った。最後に残された美殊は、1人違う場所に連れて行かれた。
「お前が一番、綺麗だ。
カワカミノタケル様は女に目がない。お前なら、満足されるだろう」
男はねっとりとした笑みを浮かべている。美殊は背筋が凍った。
美殊は強固な男2人に挟まれ、宴会の輪の外を歩かされた。
(なんや、この宴会? 節操なさすぎや!)
大声で叫びそうになった。
(こんなに大勢の人がおるのに、人前でなにしとるんや。服、脱げとる。
ああぁ。ちょっと、どこ触っとるんや!)
美殊は思わず目をそらした。女性の服は剥がされ、男たちは全身を触りまくっている。下品な笑い声が響いていた。
(わ、私もか? まさか、私もあんな事、されるんか?)
美殊は震えが止まらなかった。
美殊はカワカミノタケルが座っているステージの上に連れてこられた。
カワカミノタケルの三角の目が、美殊をとらえた。
「おお! なんと美しい。これほどの女は初めてだ。さぁ、近くに来い」
カワカミノタケルは舌なめずりをして、卑猥な笑みを浮かべた。美殊は人形のように動けなくなった。
「ほら、何をしている」
後ろにいた男に、突き飛ばされた。美殊は大きくつんのめり、酒のカメを持ったまま、カワカミノタケルに倒れ込んだ。
カワカミノタケルはニヤリと笑った。
「酒はよい」
そう言ってカメを取り上げ、床に置いた。
カワカミノタケルは美殊の腕をつかんだ。
「おお。近くで見ると、なお美しい」
顔がつくかと思うほど、至近距離にカワカミノタケルの顔がある。美殊は全身に鳥肌がたった。
美殊は震えながらも、ジーパンのポケットに手を入れた。そしてさっき準備した物を右手に握った。
その瞬間に、カワカミノタケルは美殊を抱きしめた。骨が折れるかと思うほど、強い力だ。
美殊は渾身の力を振り絞って逆らった。しかし、男の怪力には全く叶わなかった。上半身が少しのけぞっただけだった。
「おとなしくするんだ。
いや、しかし、怯えた顔もまた、そそられる」
そう言って、美殊の頭を鷲づかみにし、頬をすり寄せてきた。
「いやぁぁぁ!」
美殊は絶叫した。涙が流れていた。
「やだ! 離して!」
必死に、左手でカワカミノタケルの顔を剥がし、右手だけをカワカミノタケルの腕からほどいた。そして、握っていた物を、カワカミノタケルの首筋にぶつけた。
スタンガンだった。
美殊は何も考えず、そのスイッチを入れた。
「ががっ!」
奇妙な唸り声をあげ、カワカミノタケルは後ろにひっくり返り、後頭部を思いっきり床に打ち付けた。脳震盪を起こしたのか、ぼんやりとした顔をして、反応が鈍い。
体は痙攣して小刻みに震えた。
美殊は放心状態になり、ぺたんとその場に座り込んだ。
カワカミノタケルの部下たちも何が起きたかわからず、ぽかんとしていた。しかし1人がすぐにカワカミノタケルに駆け寄った。すると、他の男たちもハッと我に帰り、美殊を睨みつけた。
「お前! なにを…」
その時だった。広場の後方から大きな音がした。壇上にいる者、広場で酒と女に興じていた者、全てが音の方向に目を向けた。
異様な状況に美殊も気がついた。顔だけを音の方向に、ゆっくりと向けた。
その音はオウスの軍の雄叫びだった。
オウスを先頭にして、ひと固まりになった軍勢が、まっすぐに向かってきた。
目指しているのはカワカミノタケル。
女たちは悲鳴をあげて逃げ惑った。
剣を向けて抗う者には、あっという間にオウス軍の制裁が下された。尻餅をついて四つ這いになっている様な男たちには目もくれない。進路の邪魔になる物は踏みつけて突き進んだ。
壇上にいたカワカミノタケルの家来たちは、皆、下に降りて戦闘体制をとった。壇には美殊とカワカミノタケルの2人が残されていた。
「オウス君。オウス君や。来て、くれた」
凍った様に固まっていた美殊の体が、一気に氷解した。そして、力が入らない体を、必死に動かした。ステージの端に這って移動した。四つ這いのまま、オウスの姿を目で追う。
オウスは刃向かってくる者に容赦はなかった。あっという間に切りつける。血を流しながら、人が倒れていく。それでも、美殊はオウスから目を離さなかった。
『美殊!』
美殊は名前を呼ばれた様な気がした。しかしどこから聞こえたのかは、全くわからなかった。
視線を忙しく動かした。そして、オウスの後ろで走っている丈琉と岳斗を見つけた。
「えっ? こんな、危ないトコ。2人して。やだ、無茶して……」
美殊の目から、また涙が溢れた。
「岳斗ぉ! 丈琉ぅ!」
美殊は声の限りに叫んだ。
「美殊!」
丈琉はもう1度、美殊にはっきりと届く声で呼んだ。
「ヤマト。タケル。ミ、ミコト……」
カワカミノタケルのかすれた声が聞こえた。意識がはっきりとしてきたようだ。
美殊はビクッとして、振り返った。しかし、カワカミノタケルはひっくり返ったままだ。
手を動かそうとしたが、「ううっ」と、唸り声をあげて、脱力してしまった。
美殊は背中に恐怖を感じながらも、視線を下に戻した。
丈琉と岳斗は、ステージのそばまで来ていた。上に登るため、足を止めた。
その背後に、剣を振りかざして走ってくる男がいた。
「危ない!」
美殊は悲鳴に近い声をあげた。
“ガチッ!”
丈琉は男の振り下ろした剣を、自分の持つ剣で受け止めた。鈍い金属音が美殊のところまで聞こえてきた。
「きゃっ」
美殊は思わず耳を塞いで、目を閉じた。
丈琉と男はお互いの力で跳ね飛ばされた。2人とも尻餅をついたが、立ち上がるのは丈琉の方が速かった。尻餅をついたまま、男は剣先を向けてきた。丈琉は剣を真横に振り、男の剣に垂直に当てた。男の剣は、真っ二つに折れ、剣先は吹っ飛んで行った。残った刃は足元に落ちた。
丈琉は男を見下ろした。男から戦意は消えている。落ちている剣を足で蹴り、離れた所に飛ばした。
丈琉は急いで岳斗の元に戻った。
オウスは真っ先に駆けつけ、ステージに上がって来た。そして近くにいた熊襲の兵士をあっという間に倒してしまった。
ステージの下では、タケヒコが中心となり、誰もステージには上がれない様に陣を組んでいた。
オウスは横向きに倒れているカワカミノタケルを見下ろした。足で蹴って、仰向けにした。唸り声をあげるが、動けないでいる事を確認すると、美殊に視線を向けた。
「お、オウス君」
美殊の目からは、とめどなく涙が溢れている。
「ミコヒメ様。大丈夫でしたか?」
オウスの優しい声に、心臓を鷲掴みにされた。激しい動悸がして、呼吸も促迫になってきた。
オウスは手を差し伸べた。美殊は何度もうなずき、オウスの手にしがみついた。
そこへ、丈琉と岳斗がステージに上がってきた。
丈琉たちが来た事を確認して、オウスは美殊の手を離した。そして静かにカワカミノタケルの脇に進み、剣先を喉元に据えた。
丈琉はつまずきながら、一目散に美殊の元に駆けつけた。
「みぃ。なんともないか? 怪我ないか?」
叫びながら、いきなり美殊を抱きしめた。美殊は丈琉の腕の中で、泣き続けた。丈琉の腕の力が一段と強くなった。美殊のまっすぐな黒髪を何度も撫でた。
「カワカミノタケルじゃな」
オウスが問いかける。
「いかにも」
カワカミノタケルは覚悟を決めたようだった。素直に返答した。
カワカミノタケルの声を聞いた丈琉は慌てて美殊を離し、岳斗と一緒に後ろにかばった。
「吾はオシロワケが皇子。オウスノミコトじゃ」
オウスはカワカミノタケルを見下ろしていた。
美殊の肩を支えていた岳斗は、美殊の異変に気が付いた。ハアハアと激しい呼吸をして、顔が青ざめている。そして手が震えて指が強張っている。
(過換気になっとる!)
「みぃ、落ち着け。大丈夫や。もう、大丈夫」
岳斗は美殊の背中をさすった。
「ゆっくり、ゆっくり呼吸するんや。
息を長く吐いて。そや、まだ吐け。息、吸うのはちょっとだけ。そう。そんで、また息を吐くんや。長く……」
美殊は岳斗に指示に従い、ゆっくりとゆっくりと呼吸をした。
岳斗に体を支えられ、背中を軽くポンポンと叩いてもらっているうち、徐々に落ち着いてきた。
オウスは無表情に話を続けた。
「大和にまつろわぬ、ふとどき者の集団め。大王の命令により、成敗する。観念いたせ」
オウスはためらう事なく、カワカミノタケルの胸に剣を突き立てた。
岳斗はとっさに目をそらし、美殊の視界をふさぐように覆いかぶさった。
カワカミノタケルの体から血液が大量に流れた。カワカミノタケルはうめきながら、かすれた声でゆっくりと話し始めた。
「その女を、送り込んできたのも、おぬしの、計画のうちか。してやられた。
おぬし。確かに、ヤマトタケル、ノ、ミコト。大和の、勇者じゃ。
皇子でありながら、先陣を切って攻め入ってきた。その名に、ふさわしい」
「ヤマトタケルノミコトだと?」
オウスが怪訝そうに聞き返した。
「そうじゃ。そこの、女が、その名を呼んだ」
「みぃが……?」
岳斗が美殊の顔をのぞき込んだ。美殊はまだボンヤリとしていた。過換気の後遺症が残っているようだ。しかしその会話を聞きとり、首を左右に振った。
「私、知らない」
小さな声で言った。
岳斗は眼鏡に触れ、少し前の事を思い起こした。
「そういえば、美殊。俺らの事でかい声で呼んだよな。
“岳斗”、“丈琉”って、俺らのホントの名前で呼んでたな。
そんで、タケがすぐに“美殊”って叫んだんや」
「ヤマト、タケル、ミコト、やな」
背中で聞いていた丈琉がボソッと言った。
「皆の者。聞け!」
カワカミノタケルが残っている力を振り絞り叫んだ。最期の演説だ。
「吾は、ヤマトタケルノミコトに、負けた!
いいか。これからは大和に。いや、ヤマトタケルノミコトに従うのじゃ。その者こそ、真の勇者」
熊襲の頭領の声は、その場にいた者、全員に届いた。
「ヤマトタケル様。ヤマトタケルノミコト様!」
オウスをヤマトタケルと呼ぶ、大合唱が始まった。その声はエコーがかかったように、周囲に響き渡った。そして広場では、整然と平伏する男たち。
「なんか、異様な世界や」
丈琉はステージの上で動けなくなった。
オウスも困惑したまま、壇上で仁王立ちをしていた。
カワカミノタケルは静かに生き絶えていた。
ヤマトタケルノミコト。誕生の瞬間だった。
丈琉たち3人は、戦いの場となった広場を後にした。
美殊は体のだるさは残っているものの、体調はほとんど元に戻っていた。
陣地に戻ってきた美殊は真っ先にミヤトヒコの元に駆けつけた。ミヤトヒコは目を閉じ、横たわっていた。
「ミヤ君!」
美殊の声に反応し、目を開けた。
「ミコヒメ様」
ミヤトヒコは体を起こそうとした。が、「うぅ」と、唸って頭を押さえ、再び横たわった。巻かれた包帯には、血が滲んでいた。顔は紅潮し、汗が流れていた。
「起きんでいいって。大丈夫か?」
美殊はミヤトヒコの顔を覗き込んだ。
「ごめんな。痛かったやろ。
私が耳を塞げなんて言ったからよね。だから後ろに人がおっても、気づかんかったんでしょ。
こんな大怪我させてしまって、ホント、ごめんなさい」
美殊は目を真っ赤にして、何度も謝った。
「いえ。吾が、油断していたのです。こんな敵の目と鼻の先にいながら、不注意でした。
それに、ミコヒメ様に頭を気をつけるように言われておりましたのに。
吾は大丈夫です。それよりも、ミコヒメ様がご無事でよかったです。本当によかった」
ミヤトヒコは笑って見せた。しかし、その笑顔は弱々しかった。表情筋を動かすだけでも、傷が痛むらしい。
美殊は下を向いて顔を手で覆い、泣き出した。
岳斗が美殊の前に出た。そして真剣な表情でミヤトヒコの頭から顔を観察した。次に脈をとるとホッと軽く息を吐き、うなずいた。
「ミヤ。痛いトコ悪いけど、手と足を動かしてみてくれんか?」
ミヤトヒコは少し顔を歪めながらも順番に、ほんの少し四肢を動かしてみせた。
最後に岳斗は頭の包帯を少し持ち上げ、傷の状態を見る。
「出血は止まっているみたいやし、今んとこ、傷も問題はないな」
岳斗の緊張がようやく緩んだ。しかし包帯を直そうとして額に触れると、また厳しい顔に戻った。
「やばい。熱があるかもしれん。冷やさんと。えっと」
岳斗は周囲をキョロキョロと見渡し、何かを探しているようだった」。
「あっ。みい、そのひらひらした服、脱いでしまえ」
「あっ。うん」
美殊は涙をぬぐい、しゃくりあげながら古代の衣装を脱いだ。
「タケ。これ、タオルくらいの大きさに切ってくれ。そんで、濡らしてきてくれんか。
あと、水分も必要やな。なんか水を入れられるやつ。コップの代わりになるようなの、ないかな」
「あっ。私、マイボトルあるけど」
そう言って、美殊はリュックに入っていたマイボトルを取り出した。
「ああ、それでええ。タケ、これも頼むわ。こん中に水を入れてきてくれ」
「わかった」
丈琉は腰から剣を抜き、美殊が着ていた服を切り裂いた。そして布とマイボトルを持って川に向かって駆け出した。
美殊はリュックからハンカチを取り出して、ミヤトヒコの汗を拭いた。
「ヤマ。本当にミヤ君、大丈夫なんやね」
「ああ……」
と言いながらも、岳斗は自信なさそうに顔を曇らせた。
丈琉が戻って来た。
「確か、ビニール袋あったよな」
岳斗はそう言って、そばに置いてあった美殊のトートバックを開いた。
「そうや。みぃ。謝らんと。
お前の荷物、ミヤの処置に使わせてもらったんや。
もう、使えんくなってしまった物もあるけど、ごめんな」
「そんなん、気にせんでええって。なんでも使って。えっと、ビニール袋がいるんやね」
美殊はバックの中から小さなビニール袋を取り出し、岳斗に手渡した。
岳斗は濡れた布をビニール袋に入れた。そして、ミヤトヒコの脇の下に挟んだ。
「ミヤ。冷たいかもしれんが、これ、挟んでいてくれな。熱が下がってくれれば、少しは楽になるやろ。
あとな、水分もしっかり、取らんと。今、水、飲めるか?」
「……。 はい」
ミヤトヒコは弱々しいが、はっきりと答えた。
岳斗はミヤトヒコの背中に手を回し、上半身を少し起こした。ミヤトヒコの顔が、苦痛に歪む。それでもミヤトヒコは声もあげずに耐えていた。
「ヤマ。私、痛み止め持っているけど。これ、ミヤ君に飲ませても大丈夫かな」
美殊はポーチから薬のタブレットを取り出し、岳斗に渡した。岳斗は薬を手に取り、薬品名を確認した。
「解熱鎮痛剤やな。いいかもしれん。
あ、でも、待てよ。この時代の人って、こんな薬飲んだことないやろからな。薬に耐性ないかもしれん。
えっと、300mgか。ちと量が多いかもしれんな。
うーん。半分くらいにした方がええのかもしれんな」
岳斗は悩みながら、薬を眺めた。
「よし、そうしよ」
岳斗は薬を半分に割って、それをミヤトヒコに飲ませた。
「ミヤ。ゆっくり休め」
岳斗は大きな布を探し出し、ミヤトヒコに掛けてあげた。
3人で川のほとりにやって来た。
この川は天降川だと、仲間の1人が教えてくれた。アマテラスオオミカミ様の孫である、ニニギノミコト様が、高天が原から天孫降臨された霧島から流れてきている、神聖な川なのだそうだ。
川では体を洗ったり、作業をする者が何人かおり、焚き火が河原の数カ所でたかれていた。
一番端の川上の焚火には誰もいなかった。3人はその火の側で体育座りをして温まった。
「ヤマ。ミヤ君。本当に大丈夫なんか?」
美殊は再度尋ねた。
「今すぐに、命に危険があるって事はないと思う。
ただ、熱が出ていたし、それが一番気になるな。傷は今んとこ感染してはいないと思うんやけど。でも、感染被ったら、抗生剤もないこの世界じゃヤバイかもしれん。
それに硬膜下血腫だと2、3日してから症状が出る事もあるし。
まだ油断ならん状態や」
美殊はまだ青白い顔をしかめた。
「ミヤ君。なんともないといいんやけど」
美殊は手を合わせ、神に祈る仕草をした。
「みぃ。お前はどうなんや。怪我とかなかったんか。危ない事とか、何にもなかったんやろな」
丈琉はピリピリしながら尋ねた。
「うん。大丈夫や。その、あいつに、ちょっと……」
「あいつって、カワカミノタケルの事か? ちょっとって。ちょっとでもなんかがあったんか?」
「うん……」
「なに? 一体、どうした」
丈琉は身を乗り出して着た。
「待て。タケ。そんなに突っ込んだら、言いたい事も言えんし。言いたくない事もあるやろ。思い出したくないかもしれんしな。
みぃが言いたくないなら、それでええやろ。今、こうやって無事なんやし。なっ」
岳斗に諭され、丈琉は「ごめん」と、小さな声で謝った。
「ううん。そんなひどいことされた訳や、ないから。ホント。大丈夫やから」
美殊は無理に笑ってみせた。
「話変わるけどな、気になる事があるんや」
今度は岳斗が美殊に問いかけた。
「俺らがステージみたいなのに上がった時、カワカミノタケル、ひっくり返ってたやろ。
あれ、誰が倒したん? オウスが行った時には、もう倒れていたらしいし」
美殊は再び黙りこくってしまった。
岳斗も丈琉もそれ以上追求しなかった。手を火にかざし、手を温めた。
しばらく、下を向いていた美殊は、おもむろにリュックの中からスタンガンを取り出し、地面に置いた。
丈琉はそれを手に取った。
「これ、スタンガンやないか。まさか、これでカワカミノタケルを感電させたんか?」
美殊はコクっとうなずいた。
「お前。こんなモン、いっつも持ち歩いとるんか?」
美殊は同じようにうなずいた。
「だって、だって……」
美殊の目から涙がこぼれた。
「あいつが、私に抱きついてきたんやもん。
鳥肌立って、怖くて、吐き気がして、頭ん中真っ白になった。
なんかあったら、使うかもしれんて思って、ジーパンのポッケに入れといたんや」
「それにしたって、こんなモンどこで手に入れたんや」
再び、美殊は沈黙した。
止まらない涙を、もう一度拭い、覚悟を決めた様に話し始めた。
「通販や。大学1年の時にな。
……。私な、痴漢にあったんや」
「なにっ!?」
丈琉の声がひっくり返った。美殊の隣で立ち膝になった。
「大学入って、すぐや。大学の帰りが遅くなった時にな、バス停の近くで。公園に連れ込まれてしまって。
私、鳥目やから、顔とかあんまり見えんかったけどな、金髪のチャラチャラした男やった。
叩かれたりして、すごい、怖くて、声も出されんかった。
そしたら、その男な、『失敗した。ブサイクやった』って、そう言って、笑って逃げたんや。
だから、結局、未遂やったん……」
丈琉は震えながら息を吐き、ドスッとお尻をついた。
「でもな、私、許せんかった。どうしても。
その日、勢いで、これ、買ったん。
それから、私、男の人が怖くて近寄れんくなったん。夜も歩けんし、電車とかバスも乗れんくなったんや」
「だから、車、買ってもらったんか」
美殊はこくんとうなずくと、またボロボロと泣き出した。
「悪かったな。男嫌いとか、散々からかって」
岳斗は謝りながら、美殊の頭をポンポンと叩いた。
美殊はしばらくしゃくりあげていたが、突然、袖で涙を拭いて顔をあげた。
そして、「もう、忘れるわ」と言って、2人に笑いかけた。
「そやな。そうしよ」
丈琉は美殊の背中を、バシッと叩いた。
「ところで、なぁ、ヤマ。
オウス君の事、みんなヤマトタケル様って、呼ぶようになったやんか。
オウス君って、“日本武尊”なんか?」
「そう、なんやろな。なぁ」
岳斗は丈琉を見て、同意を求めた。
「ヤマトタケルって、あの日本武尊よね。
うちの近くにある、能褒野神社に祀られとる」
「そうなんやろな……」
そう言って、岳斗は眼鏡のブリッジを右手の中指で少し持ち上げた。そしてそのまま指を当てたまま、考えにふけっていた。
突然、岳斗が大きな声をあげた。
「そうや。日本武尊って、思い出した」
美殊と丈琉は驚いて岳斗に目を向けた。
「確か、日本武尊って。熊襲での戦いで、女装して敵を油断させて、やっつけたんや」
「あ、そういえば、そんな話があったよね」
美殊は人差し指を立てて、何度か振った。
歴史はもちろん、勉強全般が苦手な丈琉はほとんど思い出せずにいた。しかし、岳斗の話を聞いて、ふと思い当たった。
「えっと。ってことは、みぃが女版、日本武尊ってか。
考えてみれば、みぃがスタンガンで、カワカミノタケルをやっつけた訳やし。なんか、その話と合致しとらんか」
「やだ。確かに」
美殊は手で口を覆い、考え込んだ。
「ねぇ、じゃ、オウス君。うちの近くで死んでしまうん?
能褒野御陵って、日本武尊が亡くなった所っていわれとるやろ」
「古事記とか日本書紀とか、作り話って言われている部分もあるし、全部事実ってわけないとは思うけど。でも……」
「うん。でも、お墓の近くに看板あるやんか。あれに、宮内庁って書いてあるやん。国が日本武尊のお墓って認定しとるんやろ。だったら、おとぎ話とか作り話って訳はないと思わん?」
美殊の言葉に、丈琉も岳斗も黙ってしまった。
「なぁ。俺、日本武尊の事、ほとんど覚えとらんのやけど。何した人なんやっけ。
確か、伊吹山に、銅像があったのは覚えとるんやけど、
伊吹山登山した時、見た記憶があるんや」
丈琉は頭を掻きながら言った。思い出そうと、必死に考えているようだ。
「ええっ? 小学校の時に、遠足行ったし、自由研究とかしたやろ?」
岳斗が聞き返す。
「うーん。覚えとらんなぁ」
丈琉はもう、遠い目をしている。
「実は、私もはっきりと覚えとらん。だって、センター試験とかには出てこない範囲やんか」
「確かにな。
俺も、あんま詳しくは覚えとらんけどな。そんでも、所々、なんとなく覚えとる。
まず、熊襲では、女装して敵を倒すやろ。
そのあと、天皇に蝦夷を治めるように言われて、日本を北上するんや。
最初に、伊勢神宮で草薙剣をもらって……」
「草薙剣……」
丈琉が繰り返した。
「そうや。思い出したか?」
「いや。なんか、違う剣があったような……」
丈琉は剣の話に反応しただけだった。
岳斗は丈琉の言った事はスルーして、日本武尊の話を続けた。
「で、どこだったかは忘れたけど、どっかで、火攻めにあってしまって、殺されるトコやったけど、その草薙剣で危機を脱したんや。
そのあと、またどこだったかで、船が嵐で沈みそうになったけど、日本武尊の妻が、」
「ええっ? オウス君、結婚するん?」
美殊が大声をあげた。
(ツッコミ入るのそこか?)
岳斗はため息をついた。
「そりゃするだろうよ。そんな事で、驚かんでええやろ」
「だって、私、そんな話、覚えとらん」
美殊は衝撃を受けてしまった。
岳斗はそんな美殊もスルーして話を続ける。
「でな、奥さんが、自分が海の神様に身を捧げるって言って海に飛び込むんや。それで、みんなは助かったと。
えっと、そのあとは……。確か、尾張で結婚して、」
「ええっ? 奥さん亡くして、すぐに再婚するん?」
「だからぁ。そういう所ばっかり突っ込むなよ」
岳斗はあきれ顔になってきた。
「昔は一夫多妻制やし。オウスのお父さんなんて、正妻の他に10人以上の側室がいたって、オウス、言ってたし」
「えっ! なに、それ? ありえんやろ」
「ありうるんや。皇族だって現代まで側室制度があったんや」
もうそんなトコばっか突っ込んできてたら、話、進まんやろ」
「はいはい。すんません」
美殊の謝り方には誠意がない。
(でも、みぃのヤツ。すっかり元に戻った感じやな)
岳斗は少し、安心した。
「で、話を戻すとな。
剣を尾張に置いたまま、伊吹山に行ったんや。
で、伊吹山で白い猪に会ったけど、実はその猪が山の神様で。その神の怒りをかって、バチがあたって倒れてしまった。
で、意識は戻ったけれど、重い病気になってしまって。
そう、確か、足がすごいむくんだ時に“足が三重になってしまった”って言ったって話があったはずや。
そんで、そこが三重村になったって」
「三重県って、そこからきてんの?」
「らしいな」
「へー」
「で、その後で、能褒野に来て、そこで亡くなったんや。
で、亡くなったら、白鳥になって飛んで行ったって伝説があるんや」
「死んだら、白鳥になるって。その辺はおとぎ話っぽいな」
「オウス君って、日本中旅するんやな」
美殊がボソッとつぶやいた。
「私たちも一緒に旅するのかな」
「いや、そんな事を考える前に、俺らは元の世界に帰る事を考えんと」
岳斗の言葉に、丈琉も美殊もハッとした。
「そや。こんなトコで、死ぬわけにはいかんよな。
俺ら、この世界の人間やないんやから」
丈琉は力を込めて言った。しかし美殊は泣き出しそうな顔をした。
「でも、どうすればいいの? どうしてここに来てしまったのかわからないのに、どうやったら帰られるのかなんか、わからないし」
丈琉と岳斗は顔を見合わせた。
「確かにな」
岳斗がうなずいた。
しかし丈琉は「あっ」と、小さな声をあげて、思案顔になった。
(もしかしたら、今朝の夢がなんか関係しとるのかもしれん。
確かスサノオはアワキハラに行けとか言っとった。神様ならタイムスリップさせる事くらいできそうやな)
「どうしたん?」
急に黙りこくった丈琉に岳斗が声をかけた。
「……。いや、もしかしたら、今朝の夢が関係しとるかなぁって……」
「夢かい」
岳斗にさらっと流された。
「とにかく。ここに来られたって事は、逆に帰られるって事や。
いつかその日が来るはずやから、諦めんと待つしかないな」
岳斗は美殊の背中をポンポンと叩いた。
美殊はすんっと鼻をすすった。
「そやな」
そう言うと、あっという間に晴れやかな笑顔をみせた。
そしていきなり2人の肩を勢いよく叩いた。
「そう。だから、私たち死んじゃダメなん。こんな大昔の世界で死ぬなんて、絶対ダメ!
それなのに2人ともあんな危険なトコ来るし、丈琉なんていつの間にか剣とか持ってるし。
丈琉、あそこで斬られそうになったやろ。私、息が止まるかと思ったんやからね」
「ごめん。心配かけたな。
オウスに言われてな。剣を持ったけど、やっぱ俺には、人は切れんな。
けど、みぃやヤマを守るためには、この剣は必要なのかもしれん。
俺ら、ここで死ぬわけにはいかんからな」
丈琉は腰に提げた剣の柄にそっと触れた。
「もちろんや」
美殊はもう一度、丈琉の肩を叩いた。
「とにかく! 危険な事、しないで。
3人で、元の世界に戻るの!」
美殊の言葉に、丈琉も岳斗も大きくうなずいた。
川の方からバシャバシャという水の音と、数人の騒がしい声が聞こえてきた。兵士達が川に入り、汚れを落としているようだ。
「冷たそうやな」
岳斗が独り言の様に言った。
「でも、私らも汚いわ。タケ。あんた、血が付いとらんか」
美殊は丈琉に近づきジッと見つめた。
「うん。これ血だと思う。
私もあの男に触られたって思うと、なんか気持ち悪いし、しばらくお風呂にも入っとらんし。
あの、綺麗な水で洗い流したい気分や。
だって、この川の水、すっごい、マイナスイオンやもん」
「出た。みぃのマイナスイオン」
丈琉が切り返す。
「よし、覚悟を決めて、行くか」
3人は勢いよく、川の中に入った。
「冷たぁ」
叫びながらも、服と一緒に体を洗った。
そこへオウスが走って来た。楽しそうに水浴びをしている3人を微笑ましそうに見つめる。
そして、血だらけの自分の手を見つめた。
「あっ。オウス君」
美殊が気が付いた。オウスに向かって、駆け出そうと、一歩足を踏み出した。
「いや。吾も身を清めよう」
そう言って、オウスが川の中に入った。
その瞬間。4人の手が、一斉に光った。青、緑、そして2つの赤い光。
「えっ?」
美殊と岳斗、そして丈琉はとっさに手を取り合った。
と、同時に、3色の光は白い閃光に変わり、昼間の様に周囲が明るくなった。
白い光はその一瞬で消えた。
そして、光とともに、3人の姿も消えていた。
オウスは天降川に1人、たたずんだ。