熊襲(くまそ)は油断のならないところだった
日向を出発して、3日が過ぎた。
この日は冷たい雨がしとしとと降っていた。
いつもの朝食が済むと、タゴが大きな声で叫んだ。
「ここは熊襲のクニじゃ。カワカミノタケルのムラまでもうすぐ。
オウス様の隊はもう到着しているであろう。急いで出立するぞ!」
タゴは岳斗の顔をじろっと見た。岳斗もタゴの視線を感じた。元気よく響くタゴの声が、癇に障る。
「なぁ、あいつ。タゴってヤツ。俺の事を目の敵にしとる気がするんや。そりゃ、俺がついていけんから、迷惑かけとんのは事実やけど。
みぃは巫女様扱いやから、まぁ仕方ないとしても、明らかにタケとも扱いが違う」
きょうだいの間で「タケヒ」「ヤマヒコ」と呼ぶのに慣れなかった。そこで丈流はタケ、岳斗はヤマと呼ぶ事にしていた。
「気にしすぎと、違う?」
美殊が素っ気なく答える。
「違うって。
お前らは気づかんかもしれんけどな、俺な、ものすご冷遇されとる。食事とか、配られてくるの少ないし、なんだかんだときつい用事頼まれるし。タケなんか、用事頼まれた事ないやろ」
「ああ。確かにそうかもな」
丈琉は頭を掻きながら思い起こした。
「タケは大将のタケヒコさん負かしたからな。
俺はなんもしとらんから、お前らのお手伝いさんくらいにしか思われとらん気がする」
「タゴに言ってこようか?
俺らきょうだいの中で、一番優秀なんは、実はヤマやって」
「いいわ。そんなこと言わんでも。
俺が気にしすぎとるだけかもしれんし」
岳斗は深いため息をついた。
「なぁ、みぃも元気ないな。いつものトークも少なくないか。
ため息ばっかついとるし、ぼんやりしとる事も多いし。なんかあったんか?」
丈琉が美殊に話しかけた。
「えっ。そんな事ないと思うけどな」
美殊は自分では思い当たる節はなかった。
二人の会話を隣で聞いていた岳斗は、意味ありげに美殊を横目で見た。
(恋する女の、自然な反応と違うか)
丈琉はマジマジと美殊を見ながら声をかけた。
「タバコ、吸えんくなったからか?」
「禁断症状? うーん。そんな感じと違う。
だって、キッパリやめられたし。ちょっと寂しい気がするだけや」
古代の世界でタバコを購入できるわけはない。美殊はある意味、強制的に禁煙できたのだ。
「言われてみればやけどな」
美殊は思い出した様に輿を指差した。
「あれな、結構しんどいんや。板が硬いから、座っとると、お尻痛いし。不安定やからバランスとるの大変やんか。変に緊張するから首とか肩とか凝るし。
腰も痛いけど、腹筋も筋肉痛や」
「確かに、インナーマッスルが鍛えられそうやな。
しっかり腹筋鍛えれば、ウェスト引き締まって、スタイル良くなるかもしれん。頑張りや」
「余計なお世話や」
「タケは元気やな。すっかりこっちの世界に適応しとる」
「俺やって、悩みはあるって。
一番は空腹やな。
あと、ケーキとかクッキーとか、饅頭でもアイスでも、なんでもいいから、甘いモン食いたい」
「タケ、スイーツ男子やもんね。この世界、砂糖がないから、ほんまに物足りんもんな」
美殊も同意した。
「それにさ、俺、どんぐりが食えるとは思わんかった。道端の雑草とか、普通に食事に出るやろ。
向こうにいたら、そんなん食べるなんて、考えもせんかった」
「向こうの日本じゃ、物が豊富やし、平和やからな。
戦時中とか、今でも内戦とかで貧困に喘いでる国とかは、そんなんも食べとるんやで」
「そやな。平和のありがたさが身にしみるわ」
丈琉は頭をボリボリと掻きむしった。
一行は雨の中、行進を続けた。美殊はバックに入っていた折りたたみ傘を取り出し、輿の上でさしていた。蛍光色のオレンジ色に、大きな花模様がある、非常に派手な傘だった。
「この辺じゃ」
タゴは周囲を見渡して、場所を確認している。
ミヤトヒコが率いる隊は小高い丘の麓に辿りついていた。
「確か、ここじゃ。カワカミノタケルの村はこの丘の向こうじゃ。この丘の中腹に陣を構えるのにちょうど良い場所がある。
おそらくオウス様の隊もそこにおられるはず。
ミヤトヒコ様。吾が先陣を探して参ります。このあたりは木々に囲まれ、身を隠しやすいと存じます。ここで、お待ちいただけますか」
「うむ」
ミヤトヒコがうなずくと、タゴは頭を下げて、丘を登った。
「ミヤ君。トイレタイム、お願い」
美殊がミヤトヒコの耳元で囁いた。
美殊と岳斗もミヤトヒコの名を縮めて呼ぶ様になっていた。
美殊が困っていることの一つに、トイレ問題があった。家のトイレも簡単な作りの便器しかないこの時代。旅の途中に公衆トイレがあるはずもない。不浄の川と言われる所で用を足すのが通常なのだそう。
それを知った時、美殊は驚愕した。強い抵抗感があったが、それしかないとなれば、従うしかない。ミヤトヒコに“トイレタイム”という言葉で、トイレの案内を頼む様になっていた。
今回のトイレタイムには丈琉と岳斗も同行した。
雨はまだやむ気配はなかった。しかし美殊の傘があまりに目立つ色だったため、傘は閉じざるを得なかった。
熊襲のクニが近づいており、目立つわけにはいかなかった。美殊は傘を折りたたんで、背負っていたリュックの中にしまった。
ミヤトヒコの案内で来た場所には、草が群生していた。生い茂った草で、そばを流れる川が隠されるほどだった。笹に似た背の高い草で、肌に触れるとチクチクした。草の丈が高く、美殊とミヤトヒコは草に隠れてしまうほどだった。しかし美殊は都合の良い草むらだと思った。
草むらの中ほどまで来た時、見えない足元と、雨にぬかるんだ地面で、美殊は足を滑らせた。隣を歩いていたミヤトヒコが、とっさに美殊の体を支えた。
いつもであれば、ここで美殊の悲鳴と、突き飛ばされるミヤトヒコ。しかし、今回は違っていた。
美殊は一瞬、ミヤトヒコの体を突き飛ばしかけたが、とっさにミヤトヒコの手をぎゅっと握りしめた。そしてミヤトヒコの顔をじっと見つめた。
「み、ミコヒメ様……」
ミヤトヒコは赤面した。ミヤトヒコは美殊の様に美しい人を見た事がないと思っていた。魅惑的な瞳に見つめられ、すっかり戸惑った。目をパチパチとしたり、意味もなく手を動かしたり、1人で慌てふためいていた。顔が真っ赤に染まった。
「ミヤ君。頭。頭に気を付けて」
落ち着きをなくしたミヤトヒコとは逆に、美殊は冷静に言った。
「えっ?」
ミヤトヒコの動きが止まった。
丈琉と岳斗は美殊の手が光っている事に気がついた。青く丸い光が、美殊の手を覆っている。
2人に母が亡くなった時の記憶が蘇った。美殊が母の事故を予言した時、彼女の手は青く光っていたのだ。
「ミヤ。マジや。マジで気をつけろ。頭には十分、気をつけるんや」
「みぃの手が青く光ると、未来が予知できるんや。多分な」
「戦に行く時は、兜して行くんや。ええな」
「は、はい……。 で、でも、ミコヒメ様の手は、光ってはおられないかと……」
手の光が見えないミヤトヒコ。しかし3人が謎の多い人物である事は知っている。皆の必死な形相に、背中に氷を入れられた様な寒気を感じた。
「……。 はい。わかりました」
ミヤトヒコは理解できないながら、アドバイスに従うことにした。
トイレの場所を決めてもらった美殊。いつもの様に、ミヤトヒコを少し離れた場所で待たせた。
美殊のトイレの案内は大変だ。色々な注文がある。近くに来ないでと言っておきながら、怖いから遠くに行くな。きわめつけは、自分のトイレの最中は耳を塞げという。
「ミコヒメ様は、なぜ耳を塞げとおっしゃるのでしょう」
ミヤトヒコが岳斗に聞いた事がある。
現代人の排泄に関する羞恥は、古代の人間には不可解であった。
丈琉と岳斗は用を済ませると、待ち合わせ場所に戻った。しかし草に隠れているのか、ミヤトヒコの姿が見えなかった。周囲を見渡したその時。
“どすっ”
と、何かを叩いた様な音が聞こえてきた。それと同時に「ぐわぁっ」という、ミヤトヒコの叫び声。そして間髪入れずに美殊の悲鳴。
丈琉と岳斗はとっさに声のした方向へ向かって走った。
「みぃ!」
丈琉が声の限りに叫んだ。
「みぃ、どこや? 美殊ぉ!」
「丈琉!」
美殊の声が聞こえた瞬間、草の隙間から、2人の男の頭が見えた。1人は美殊を肩に担いでいた。
「待て! 止まれ!」
男たちを追いかけようと、スピードを上げたその時、何かにつまづき、丈琉はひっくり返った。
ミヤトヒコだった。倒れていたミヤトヒコにつまづいてしまったのだ。
「ミヤ! どうした?」
岳斗が抱き起こした。岳斗はぬるっとした感触に、顔をしかめた。血だ。
ミヤトヒコの頭からは大量の血液が流れていた。
「ミヤ! ミヤ! しっかりしろ!」
岳斗が大声で呼びかけた。
「は、はい。ああ、み、ミコヒメ様が……」
(意識はある)
岳斗はホッと息を吐いた。
「岳斗。俺、行ってくる」
丈琉は駆け出した。
美殊を抱えた男たちはだいぶ先に行ってしまった。尖った草の葉が丈琉の顔を突き刺し、行く手を阻む。
さらに雨に濡れた袴が足に絡まる。足を前に進めるだけで、体力を消耗した。
しかし、男たちの服は赤や黄色の派手な色とデザインで、草の間からもはっきりと見える。追いかけるには都合が良い。
「待て!」
丈琉がもう一度叫ぶと、美殊を抱えていない男が振り返った。顔に黒い模様が描かれていた。
(刺青! 顔に刺青や。あいつら、熊襲の奴らなんか)
草むらが途切れると、川に行き当たった。小さな川で男たちは、水しぶきをあげながら川を横切った。
川の対岸にはポツンポツンと家の様なものが建っている。あれが熊襲の集落と思われた。
丈琉は男たちに続いて、川を渡ろうとした、その時。急に腕を掴まれた。そして怪力に引っ張られ、大木の影に連れ込まれた。
「離せ!」
丈琉が大声を出すと、口を手で覆われ、羽交い締めにされた。
「しっ。静かに。タケヒ様ですよね?」
耳元で名を呼ばれ、抵抗をやめた。すると相手も力を抜き、解放してくれた。
丈琉はその人に見覚えがあった。
「あっ。えっと、チヂカさん?」
偵察隊の1人だ。オウスの先陣の隊の案内をしていたはずだ。
敵でないことがわかり、丈琉は安堵した。びしょ濡れの顔を、びしょ濡れの袖で拭った。
「はい。どうしたのですか。奴らに見つかったら、作戦も台無しです」
「みぃが、みぃがさらわれたんや」
「えっ? ミコヒメ様の事ですか?」
「そうや。さっき、2人組の男がこの川を渡って行ったやろ」
「はい。そういえば、確かに人を肩に抱えていました。あれがミコヒメ様だったのですか」
「そうや。早よ助けに行かんと」
丈琉は駆け出そうとした。しかし、またチヂカに腕を掴まれた。
「あそこはカワカミノタケルのムラです。入ってはなりません。危険です」
「危険ならなおさらや。みぃを助けんと」
「ミコヒメ様ならば大丈夫でしょう。女を殺したりはしません。第一、殺すつもりならば、わざわざ連れてなんか行きません。その場で殺されています。
ただ、あの様に美しいミコヒメ様ですから……」
「なにぃ?」
丈琉は殺されないまでも、最悪の事態を想像した。
何も言わず駆け出そうとした丈琉を、チヂカはガシッと捕まえた。
「とにかく、オウス様のところへ帰りましょう。ここからすぐですから」
「ダメや。すぐ、助けんと。何かあってからじゃ遅い!」
丈琉は精一杯逆らったが、チヂカの怪力にはかなわなかった。
オウスたちはタゴの言った通り、丘の中腹に陣を構えていた。
背の高い草は刈り取られ、大人数が座って待機できるほどのスペースが作られていた。
丈琉は奥に岳斗の姿を見つけた。ミヤトヒコたちはオウスと合流していたのだ。
「ヤマ! 大変や。みぃがカワカミノタケルの所に連れて行かれたんや」
丈琉は叫びながら岳斗の元に駆け寄った。岳斗の前で立ち膝をつき、身を乗り出した。
岳斗は丈琉の言葉に驚きの表情をしたが、丈琉ほどには取り乱したりはしなかった。丈琉は半狂乱になりかけていた。
「早よ、助けに行かんと!」
丈琉には何も見えていなかった。岳斗の腕を掴んだ。
“ビシッ”
丈琉の額に電撃が走った。岳斗が丈琉の額を、人差し指で弾いたのだ。渾身の力を込めた、デコピンだった。
「落ち着け!」
岳斗が怒鳴った。丈琉は岳斗の怒鳴り声を初めて聞いた。
丈琉は額を押さえながら、岳斗の顔を見つめた。
「女なら殺されたりせんって、みんな、言っとる。殺すつもりなら、その場でやられとる。ミヤみたいにな」
そう言って、岳斗は自分の前に横たわっている、血だらけのミヤトヒコに視線を向けた。
岳斗はミヤトヒコの頭を布で押さえていた。布は血液で真っ赤に染まっている。
丈琉は出血の多さに驚いて、言葉を失った。
「だから、今は、こっちが先や」
丈琉は呆然として、その場にドスンと尻餅をついた。
「ごめん。
パニクってしまった」
頭をボリボリと掻きむしった。
「そうや」
丈琉はガバッと立ち上がった。そして袴の下に履いているジーパンの、後ろポケットに手を入れた。そしてスマートフォンを取り出した。
「何する気や」
岳斗が怪訝そうに聞いた。
「電話や。電話してみるんや。無事かどうかくらい、わかるやろ」
「アホか。どこに電波があるんや」
岳斗の冷静で、もっともなツッコミが入った。
岳斗はTシャツとチノパンの現代の世界の服装になっていた。ここで着ていた服はミヤトヒコの止血に使われていた。
「タケ。お前もその服脱げ。布はもっと必要や」
「あっ。ああ」
丈琉は急いで服を脱いだ。
岳斗はミヤトヒコの右側頭部を押さえていた。
(後ろから襲われたんやろうから、犯人は右利きやな)
警察学校での授業が思い出された。
(でも、そんなん、わかっても、何の足しにもならんな)
そこへオウスが走って来た。
「ミヤトヒコ。大丈夫か?」
息が切れ、声が震えていた。
「……。 オウス、様。申し訳ございません。。このように大事な時に。
ど、どうか、吾の事は、この地に捨て置いてくだされ。もう、き、きっと……」
「何を! 何を気の弱い事を! 気をしっかり持つのじゃ。おぬしがいなければ、吾が軍の勝利はないのだぞ」
オウスはミヤトヒコノ手を固く握った。
その時、オウスは初めて、ミヤトヒコの頭を押さえているヤマヒコに気がついた。
「ヤマヒコ。おぬしは何をしておるのじゃ」
「止血しとるんや。出血が酷いからな。この出血……。 動脈、やられてないとは、思うけど。
なんとか、止まってくれ……」
岳斗は強く目を閉じた。
2、3分。静かな時間が流れた。
ミヤトヒコが小さくうなって、身体を動かした。痛みのためか、無意識に両腕で岳斗の腕を握った。そして足を曲げて、体を横にしようとした。
岳斗は慌てて目を開けた。
「待て、ミヤ。
タケ! ミヤんこと、抑えてくれ」
「おおっ」
丈琉は ミヤトヒコの腕を岳斗から離した。
「ミヤ、大丈夫や。落ち着いて」
そう言って、ミヤトヒコの背中を優しく叩いた。
ミヤトヒコの体から力が抜けた。両腕がパタンと地面に落ちた。
岳斗は小さく息を吐いた。
「うん。四肢の麻痺も言語障害もないから、頭蓋内の損傷はないやろ」
オウスはまじまじと岳斗の顔を覗き込んだ。オウスには岳斗の言葉が呪文のように聞こえたのだ。
「……。 と、とにかく。ヤマヒコはミヤトヒコの血を止めておるのだな。おぬしには、それができるのか?」
「できるかどうかはわからんけど。とにかく、やってみる」
「おぬし、この傷を治す手立てを知っているのだな」
「手立てっていうか、俺、医学を勉強しとる最中なんや」
「イガク?」
「うーん。なんて言えばいいんかな。病気とか怪我を治す手段みたいな物やな」
オウスの顔がパッと輝いた。
「では、ミヤトヒコは治るのか。この様な大怪我でも、治るのか?」
「頑張ってはみるけどな」
そう言って、岳斗は傷を押さえていた布を、恐る恐る外した。ざっくりと割れた頭皮。内部の肉が生々しい。
「よし。ほぼほぼ止血しとる。やっぱ、動脈はやられとらんかったみたいやな。
で、こっから、どうするかや」
岳斗はじっくりと、傷を念入りに見つめた。
オウスは岳斗の隣で、ミヤトヒコの傷を見つめていた。そして、明らかに落胆した表情になった。
「ミヤトヒコ。いいか、しっかりと気を持つのじゃ」
オウスはそう言うと、ミヤトヒコの手を握り、その場を去った。
「タケ。みぃのバックを持って来てくれんか。あいつの事やから、なんか役に立ちそうな物、持っていると思う」
丈琉は大きくうなずき、バックを探しに駆け出した。
丈琉は誰もいない、陣の端までやって来た。そこで、輿に乗せられた美殊の巨大なトートバックを見つけた。
「んっ?」
丈琉は人の気配を感じた。
(誰や? こんなトコで。まさか熊襲の奴らか?)
緊張が走った。丈琉は足音を立てずに、ゆっくりと音のした大木の所まで歩いた。木に背中をつけ、顔だけを動かした。
「オウス!」
オウスだった。木の陰に1人で立っていた。
「こんなトコで、何しとんのや」
丈琉はオウスの正面に回った。オウスの目は充血し、鼻が赤くなっていた。
「オウス。泣いとったんか」
丈琉は声をひそめた。
「み、ミヤトヒコは、もうダメかもしれぬ」
オウスは目を閉じた。その目から。涙がこぼれ落ちた。
「そんな事、ないって。ヤマは頭ん中は大丈夫やって言っとたし、血も止まってきとるし。
そんな気弱な事、言うなって」
「いや。あの様な傷は、戦で何度も見てきた。命が助かり、血が止まっても、そのうち、傷が腐ってくるのじゃ。そして、傷は悪臭を放つ様になり、高い熱が出てくる。その者は飯も食べられなくなり、徐々に弱って。そして、最後には苦しんで、もがきながら……」
オウスの声が震えた。
「大丈夫や。ヤマに任しとき」
丈琉はオウスの肩をポンポンと叩いた。
(こんなトコ見ると、やっぱ16歳やなって思うな)
丈琉は美殊のバックを取りに行き、そしてもう一度オウスの元に戻ってきた。
「ところで、オウス。
みぃが熊襲の奴らにさらわれたって、聞いとるか?」
「うむ」
オウスは涙をぬぐい、唇を噛みしててうなずいた。
「俺、ここが少し落ち着いたら、助けに行くからな。
作戦がどうのこうのって聞いたけどな。でも悪いけど、俺、そんなんかまっちゃおられんのや」
「タケヒよ。吾らも今晩、カワカミノタケルのムラに攻め込むと決めた。
砦は完成しており、今宵、それを祝って宴が催されるのだ。それに乗じて、戦を仕掛けるのじゃ」
「夜なんか?」
「闇に紛れて侵入する。昼間では危険が伴う」
丈琉は頭を掻きながら、イライラと考えた。
(夜になれば、オウスたちと一緒にあのムラに入れる。その時に、みぃも助けられるかもしれん。
でも、夜まで待てるのか。そこまで、美殊は大丈夫なんか?)
丈琉の頭の中は、激しく混乱していた。しかし最後には覚悟を決めた。
「オウス。俺を一緒に連れて行ってくれ。
ただ、俺はみぃを助けるために行くんや。オウスたちの手伝いはできんだろうけど、それでもいいか?」
「……。しかし」
オウスは手を顎に当て、考え込んでしまった。
「頼む。今、俺、1人で乗り込んでも、捕まってしまうかもしれんし。そしたら、みぃも危ない目にあうかもしれん。
オウスたちと行った方が、確実や」
丈琉は必死の形相で、オウスに詰め寄った。
「わかった」
オウスは全ての事情を受け入れ、丈琉に微笑んでみせた。
「あざっす」
丈琉は勢いよく頭を下げると、美殊のバックを肩にかけて岳斗の元に走った。
オウスは頬を両手でバシバシと叩いてから、顔をキリッと引き締めた。そして丈琉の後を追って駆け出した。
丈琉はバックを岳斗の脇に置き、中身を広げた。
「よし。タケ、ミヤん事、見ててくれ」
今度は丈琉がミヤトヒコの傷をおさえ、岳斗が美殊のバックの中身をチェックし始めた。
(救急セットや。絆創膏とガーゼまで入っとる。
えっ。これ、傷薬か?)
岳斗はチューブに入った傷薬を手に取った。細かい字で書かれた、薬の成分表示を読んだ。
(軟膏やし、抗生剤も入っとる。こんなヤツも市販されとるんや。病院で処方されなくても、ドラックストアで買えるんか)
治療には関係ないところで、興味を惹かれていた。
岳斗は使えそうな物を取り出した。
ハンカチ、タオル、ソーイングセット、トラベルセットのボディーソープ、フェイスシェイバー、スーパーのレジ袋。そして、折りたたみ傘まで入っていた。
「あいつ。1泊のつもりのくせに、この荷物。一体なんなんや。傘も2本も持って来とるんか」
丈琉は横目で岳斗のすることを見ていた。
「確かに、そやけど。今は、ラッキーや。
ああ、オウス。水が必要や。この傷、洗わんといかん。水、たくさん汲んできてもらえんか」
「わかった」
オウスは部下に、携帯してきた土器に水を汲んでくる様に命じた。
「それと、傘や。傘を誰か持っててくれんか。ミヤの傷に雨が当たらんように」
それもオウスが部下に命じてくれた。
岳斗はミヤトヒコの髪を結ってある紐をほどいた。それから電動のシェイバーで傷の周りの髪を剃り始めた。傷の全容が徐々にあらわになってきた。
「よう切れん刃物で切られたみたいやな。ここの人たちが普通に持っている、あの分厚い剣でやられたんやろな。
それに、思いっきり叩かれたみたいやな。かなり深い傷や」
丈琉は傷を見ながら、凶器や襲われ方を推測した。
丈琉は傷をじっと見ながら、岳斗に小声で話しかけた。
「なぁ、ヤマ。
さっき、ミヤがもう自分はダメだみたいな事、言ったやんか。それにな、オウスも、こんな傷は腐って、死……。
あっ、いや。傷が腐ると、熱が出て、その……、 ひどい事になるかもしれんって」
丈琉はミヤトヒコに聞こえかねないと思い、慌てて言い直した。
「確かに傷は深いと思う。でも、そこまで深刻な状況なんか?
岳斗、頭の中は大丈夫やって言ってたやろ。脳出血とか脳挫傷にはなっとらんってことなんだよな」
岳斗は「うーん」と唸った。
「脳損傷がないってのは、CT撮ったわけやないから、確定はできん。それに、硬膜下血腫は後から症状が出てくるモンやし。絶対になっとらんとは、言い切れん。
傷のことやって、絶対大丈夫やって断言できない。確かにあっちの世界にいれば、なんとかなるんやろうけど。
でも、こっちは傷を処置する器具もないし、感染を防ぐ抗生剤もない。清潔・不潔の概念もないやろうし。そうすると、感染による悪化は避けられない問題やと思う。
俺はまだ経験少ないからな。はっきりは言えんけど。でも、実際、この傷は楽観できんかも……」
しかし岳斗はすぐに顔を引き締めた。
「でもな。今、できる事、精一杯やるだけや」
岳斗は声を張り上げた。
「そうじゃ。ヤマヒコ。頼む」
オウスが頭を下げた。そして、寝ているミヤトヒコの耳元に話しかけた。
「いいか、ミヤトヒコ。ヤマヒコが手当てしてくれる。
おそらく、吾らにはわからぬ、先の世の手当てじゃ。火を一瞬で起こす事ができるほどの者たちじゃ。きっと、おぬしの傷も治してくれるであろう。
皆には内緒だがな」
オウスの言葉に、ミヤトヒコは弱弱しくも、精一杯微笑んでみせた。
「はい。吾はヤマヒコ様に、全てをお任せします」
「じゃ、始めるで。ミヤ。痛むやろうけど、頑張ってくれ」
「まず、タケ。その絆創膏出して。で、真ん中の絆創膏の小さいガーゼみたいなヤツ剥がして。そう、その黄色っぽいガーゼを、テープから取ってくれ。
そしたらな、絆創膏を縦長に、半分に切るんや。ソーイングセットん中に、小さいハサミが入っとったから、それ使えばいいし」
「わかった」
丈琉は作業に取り掛かった。
「あと、えっと、タゴさん。手を貸してもらえますか」
岳斗は名前を知っているタゴに声をかけた。しかしタゴは、足を一歩ひき、尻込んだ。
「何をしておる。ヤマヒコに手を貸すのじゃ」
オウスに命令され、びくびくとしながら、タゴは岳斗の脇にしゃがんだ。
「ミヤをな、横向きに寝かせて欲しいんや。傷が上になるように」
岳斗は頭を支え、オウスとタゴは体を支えて、側臥位にして寝かせた。顔は少し後方に倒して、水が顔に流れないようにした。顔の下には丈琉の脱いだ服を敷いた。
岳斗はレジ袋を右手にかぶせた。手袋の代わりだ。
「タケ。その水、少しずつ傷にかけてくれ」
「よっしゃ」
丈琉は水の入った土器を傾げ、少しずつ傷にかけた。岳斗はレジ袋手袋をした手で傷を洗い流した。ある程度、血のりが取れたところで、今度はハンカチにボディーソープをつけて泡だてた。その泡で、傷の奥まで念入りに洗った。
「うううぅ」
ミヤトヒコが痛みで唸った。
「頑張れ、ミヤ」
丈琉がミヤトヒコノ背中をさすった。
「カンベンな。でも、しっかり洗わんといかんのや」
岳斗が励ます。その後で、再び水をかけてもらい、泡を取り除いた。
びしょびしょに濡れた、顔の下の布を取り除く。タオルで濡れた顔と髪を拭き、もう一枚あったハンカチで傷の中の水滴を拭き取った。まだ少しづつ出血してくる。岳斗は何回か小分けにして血液を拭き取った。
そして創縁を引き寄せてみる。切られた皮膚は元どおりに合わさりそうだった。
「よし」
岳斗は一人で満足げにうなづいた。そして、傷をもう一度開き、傷の中に軟膏を絞り出した。
「タケ。この傷をくっつけて、皮膚を押さえててくれ」
丈琉は言われるがままに、傷を押さえた。
岳斗は半分に切った絆創膏の紙を剥がした。
まず絆創膏を直角に位置させ、絆創膏の端だけをを傷から少し離れたところに貼り付ける。そして皮膚をくっつけたまま、絆創膏を引っ張りながら貼る。何箇所かに同じ様に絆創膏を貼り付けた。
「フランケンシュタインの傷みたいやな」
丈琉が呟いた。
岳斗はガーゼに軟膏で線を書いた。軟膏が傷口に当たるように、ガーゼを当てた。
そして薄手のきれいな布を細く裁断し、包帯を作った。即席包帯でガーゼがずれない様に頭に巻いた。
「俺、針と糸があるから、傷を縫うんかと思った」
処置の終わった岳斗にに、丈琉は話しかけた。
「そりゃ、器具が揃っていれば縫った方がいいやろけど、こんな普通のソーングセットじゃ無理や。まっすぐな針でなんか縫う自信ないって。
それに糸も針も滅菌しとらんから、不潔っぽいしな。
よし。あとは明日、傷を診て診てやな。しばらくは軟膏を塗らんといかんのやけど、これ、足りんかもしれんな」
岳斗は小さな軟膏のチューブを手に持ち、何度も見ていた。
「ヤマヒコ! 血が止まった。それに傷口がきれいに塞がっておる。奇跡じゃ。
ミヤトヒコ。安心するがよい。怪我は治る。きっと治る」
オウスは岳斗の手を握り、何度も感謝の言葉を述べた。
雨はいつしかやんでいた。雲の切れ間から太陽の光が差し込んだ。
雨が残した草木の水滴に光が反射し、キラキラと煌めいた。