宮崎には阿波岐原(あわきはら)があった
2017年、2月21日。7時5分。
夜はすっかり明けていた。空はうっすらと青くなってきている。
吐く息は白く、外に出ると、体の芯から冷えた。
丈琉と美殊は慌ただしく玄関を出た。
「あっ。鍵、鍵」
美殊がバタバタと戻ろうとした。
「鍵、俺がかけとくから。みぃは早よ、車出せって」
「あっ、ありがと」
美殊は大きな荷物を抱えて、車庫に走った。
丈琉が車庫の前に駆けつけた時、美殊は荷物を車に入れようとしているところだった。
美殊はマリークワントの大きめのリュックと、大きなトートバックを持ってきていた。
「なんや、その荷物。海外旅行にでも行くんか?
どうして、いっつもそんなに荷物が多くなるんや。
そんな大きなヤツ、機内に持ち込みできんかもしれんぞ」
「ダメやったら、手荷物で預ければええんやろ。
だって、向こうで一泊するかもしれんし、必要な物しか持って来とらん。
丈琉こそ、荷物、そんだけなんか。エコータウンに買い物行くんと違うで」
丈琉はいつも使っているスポーツブランドの小さなボディバック1個しか持って来ていない。
「俺は日帰りのつもりや。警察学校って外泊の規則がうるさいしな。
万が一、泊まる事になっても、スマホさえあれば、あとはなんとかなるって」
そう言って、スマートフォンの入っているジーパンの後ろポケットを叩いて笑った。
美殊は荷物を積み込み終わると、運転席に乗り込んだ。
美殊の車は大学1年の秋に、父親に頼み込んで買ってもらった車だ。サークル活動などで忙しくなり、電車通学では不便になったそうだ。あの父親にわざわざ頼みに行ったと言う事に、丈琉はまず驚いた。それだけ必要だったのだろう。
ごく一般的な軽自動車だが、気に入っているらしく、手入れが行き届いている。急な車での遠出だが、ピカピカに磨いてある。
丈琉は美殊の車を目の前にして仁王立ちし、大きく深呼吸をした。
「なにしとんの。早く乗って。急がんと」
美殊が助手席の窓を下ろして声をかけた。
「分かっとる。みぃの車に乗るには、覚悟が必要なんや」
すでに窓は閉められてしまい、丈琉の言葉は美殊に届かなかった。
丈琉はもう一度大きく息を吐き、ドアを開けた。そして助手席のシートに座ると、顔をしかめた。
「みぃ。車ん中で、相当吸っとるやろ。煙草! エライ臭うで」
「いいやんか。私の車や」
「アホか…。 煙草なんかいい事一つもないで。
全く、良いトコも悪いトコも、みんな瑞恵さんの真似するんやから。
俺、煙草、大っ嫌いなんや。俺のおるトコでは吸わんでくれよ。
ああ、ただでさえ美殊の運転なのに、こんなに臭いと、俺、酔ってしまうかもしれん。
運転も瑞恵さん譲りやしなぁ」
「ああ、しつこいなぁ。言われんでも、丈琉の前では吸っとらんやろ。そんなに言うんなら、酔い止めあげるわ」
美殊はリュックの中から小さいポーチを、そのポーチの中から酔い止めの薬を取り出した。そしてマイボトルと一緒に丈琉に手渡した。
「すんまへんな」
丈琉は若干の嫌味を込めて言った。
受け取った薬を3錠、マイボトルの中の冷たい水で一気に飲み込んだ。
「相変わらず、みぃのバックは、ドラえ○○のポケットやな」
「丈琉も相変わらず、車酔いしやすいんやね。お巡りさんになるのに、大変やな」
「お巡りさんと違う。警察官や」
「じゃ、行くで」
美殊はギアをドライブに入れ、フットブレーキを解除した。そして一気にアクセルを踏み込んだ。
ブオォォォォォ!
けたたましいエンジン音が響いた。そして、重力がかかるほどの急発進で出発した。車は家の前の狭い道を一気に走り抜けた。
美殊の運転する車に乗るのは、命がけだ。
急発進に、急ブレーキ。スピードの出し過ぎ、無理な車線変更。カーブの時などは、横Gを感じる。
(どこぞの走り屋か)
丈琉は無事に空港に到着する様にと、それだけをずっと祈っていた。
一般道でも高速道路でも渋滞はなく、順調に進んだ。予定通りに伊丹空港に到着できた。
丈琉は無事に到着できた事に感謝し、車を降りた。
(相変わらずや……。
こ、これで、よう無事故、無違反の優良ドラーバーやな。俺が警察官になったら、取り締まったる)
「なんかヨレヨレしてない? 順調に到着できたやろ。なんで、そんなに具合悪そうになっとんの?
なぁ、大丈夫なんかい」
「だ、大丈夫やけどな……」
丈琉は弱弱しく答えた。
「なら、早よ、行こ」
美殊はさっさと歩いて行った。丈琉はいつもの様に美殊の荷物を持ち、ゆっくりと後を追いかけた。
美殊は北口の前で丈琉を待っていた。2人で入り口に入り、エレベーターの脇で立ち止まった。美殊は周囲をキョロキョロと見渡し、岳斗を探した。
岳斗は丈琉と同じくらいの身長で、人混みの中にいても頭ひとつ飛び出ていることが多い。そのため待ち合わせで探すのに困らない。それが今回は、それほど混んでいないにもかかわらず、すぐには見つからなかった。
「おかしいな。どこで、待ち合わせたんや」
と、丈琉が美殊に尋ねた時には、すでに美殊は岳斗に電話をかけていた。
「岳斗。どこにおるん? え?。…… 私らもエレベーターの脇におるよ。えっ?…… 南? 南ってなに? えっ? 北口とか南口があるん? そんな事、言わんかったやんか。
ああ、ここ、JALのマークやわ。
はいはい、すぐ行くわ」
美殊は通話を終了させると、丈琉を見上げた。
「ここやないんやって。北と南と入口が2つあるなんて、岳斗、言っとらんかったのに」
不機嫌にそう言うと、美殊は髪がなびくほどに勢いよく踵を返し、南ターミナルに向かって歩いて行った。
「いつもの様に、美殊がよう聞いとらんだけやろ」
丈琉はため息をついた。
伊丹空港は航空会社によって、北ターミナルと南ターミナルに分かれている。宮崎空港行きがあるのはANAで、南ターミナルだった。
南ターミナルに入ると岳斗はすぐにみつかった。腕時計を見ながら、周囲をキョロキョロと見渡している。美殊は跳ねるようにして駆け寄った。
「久しぶりやな。でも、相変わらず、寝ぼけた顔しとるな」
話の途中で電話を切られた上、いきなりのこの一言。
「お前は相変わらず、失礼な奴っちゃな」
穏やかな性格の岳斗も、さすがにムッとした。
美殊は知らないが、岳斗の少しぼーっとした表情は、女子に “可愛い” と言われているのだ。その上、医学部に現役で合格する程、頭脳明晰。また陸上では短距離走で全国大会に行ったこともあるスポーツマン。当然、女子の間では人気がある。
丈琉と岳斗は顔の作りは似ているが、どことなく違っている。丈琉は中学生の時に、“残念な岳斗くん”と言われた事があった。それが、好意を寄せていた子の発言だっただけに、未だに丈琉の小さな心の傷になっている。
岳斗は丈琉よりも服装に気を使う。今日、岳斗はダッフルコートに下に黒の薄いセーターを着て、カーキ色のスリムなチノパンを履いている。そして黒い革のボディバックを背負い、もう一つ中くらいのショルダーバックを肩にかけている。
丈琉はダウンコートと白いセーター、ジーパンとスニーカーといった、いつもと同じ格好だった。
「寝ぼけているんと、違うわ。ホンマに寝不足なんや。
実習のレポート提出せんといかんかったし、来週からは試験やし。昨日も寝たのが遅かったんや。
今朝は目が腫れて、コンタクト入れられなかった」
そう言った通り、いつもはコンタクトレンズを使っている岳斗が、今日は眼鏡をかけていた。黒の縁の太い眼鏡を少しずらし、目をこすった。
岳斗は美殊の後ろで下を向いている丈琉に気が付いた。岳斗は丈琉の肩をポンと叩いた。
「ご苦労様ってか。みぃの運転、相変わらずやったんか」
「当たり前やろ。酔い止めなんか、効く間もないわ」
「そやろな。
丈琉。まだ、顔色悪いで。早よ待合室行って、休も」
3人はチェックインカウンターに向かった。
入場手続きを済ませた3人は搭乗待合室に入った。フライトにはまだ少し時間がある。ここで朝食を済ませる事にした。
美殊と岳斗はサンドウィッチと飲み物を購入した。丈琉は何も食べる気が起きず、スポーツドリンクを買っただけだった。
「岳斗も今日は予定がなくってよかったわ。丈琉が、医学部は忙しいからとか何とかグズグズ言ってたから、ちょっと心配やったん」
美殊はサンドウィッチを食べ終わり、ホットコーヒーを飲みながら言った。岳斗は小さなため息をついた。
「予定はあったんやけど、断ったんや。
デート、ドタキャンや。すごい、がっかりしとった。
宮崎でお土産でも買ってこんとな」
「彼女。おるんや」
「まぁな。男嫌いのみぃとは違うからな」
「男嫌いやない。苦手なだけや」
美殊はプイッと横を向き、立ち上がってトイレに行ってしまった。
「あの、反応。相変わらずやな」
岳斗はクスクスと笑いながら美殊を見送った。そして横目で丈琉をチラッと見た。
「まぁ、仕方ないかもな。
産まれた時から一緒の男が、過保護で優しくて、それでいて、剣道日本一の強い男で。
そんな男にがっちりガードされているんやもんな。
他の男なんか、興味も湧かんかもな」
丈琉はスポーツドリンクにむせ込んだ。ゴホゴホと咳き込み、口から吹き出た水分を、慌てて手で拭き取った。岳斗は意味ありげにニヤッと笑った。
「どうゆう事だ? な、何が言いたいん」
慌てる丈琉に、岳斗は「別に」と言って、ペットボトルのお茶を飲み干した。
その日は好天で気流も安定していた。フライトは順調で、予定どおり宮崎に到着した。祖母の入院している病院には、正午前に着くことができた。
「やっぱ、宮崎って、あったかいな」
丈琉はダウンコートを脱いでしまった。美殊の運転による体調不良は、すっかり治っていた。
「確かにあったかいけど、上着を脱ぐほどやないと思うわ」
美殊がそう言うと、岳斗は2人を見て、クスッと笑った。
「なんか、おかしい?」
美殊が素早く切り返す。
「いや。相変わらず、ああ言えば、こう言うって仲なんやな。仲が良いのか悪いのか分からんなぁって、思ってな」
病院はこじんまりとした、古い建物だった。周りには桜の木がたくさん植えられている。
「春に来たら、きっと綺麗なんやろな」
美殊はしみじみと並木を見つめた。
今日は外来が休みのようだ。病院は閑散としていた。岳斗が受付で祖母の病室を確認してくれた。
3人は並んで病室の前に立った。部屋には “田中アヤ子” と、祖母の名札が掲げてあった
「個室やな」
岳斗が呟いた。個室は状態の悪い患者さんが入る事が多い。丈琉と岳斗は一瞬戸惑っていたが、美殊はためらう事なくドアをノックした。
中から50歳くらいの女性が出て来た。電話をくれた、伯母の伊津子だろうと、3人は思った。母によく似ている。
「お久しぶりです。あの、亀山の美殊です」
美殊が代表して挨拶をした。
「まぁ、まぁ、こげんに早く来てくれたと。おおきん。
えっと、岳斗君と丈琉君よね」
伊津子は2人の顔を交互に見つめた。
「あっ。俺が岳斗です。ご無沙汰しています」
「丈琉です」
2人同時に頭を下げた。
「あら。挨拶もせんで、ごめんなさいね。でも、3人とも、本当に大きくなって。最後に会った時は、まだ小学生で、こげんに小さかったとね」
伊津子は手を腰の辺りに持ってきた。そしてニコッと笑って見せたが、その笑顔もすぐに曇った。
「朝、早くから悪かったとね。
お母さん。癌って言われてもう3年かな。年も年だし、ある程度は覚悟しちょったんだけどね。
でも最近なんよ。急に具合が悪くなったのはね。食べられんくなったし、熱も出たし。病院連れてきたら、入院になってね。ちょうど1週間になるかな。
それが、昨日からなんか、具合が悪そうになってきたと。おしっこが出ないなって、思っとったんじゃけど、夜中に血圧が下がったとか、酸素が測れんとかって看護師さん、大騒ぎになったと。気が付いたら、意識がなくなっていたし、私もびっくりしたんじゃ。
お医者さんに延命治療とかどうしますかって聞かれたけど、お母さん、そういうのはしないでくれって、前から言っとったから、せんでええって断ったん。そしたら、何もせんかったら、あと1日2日じゃろって言われたもんでな。
だから、朝になって、すぐに電話したんよ」
伊津子は振り返って、病室の中に目を向けた。
「お母さんね。亀山の子らに会いたい、会いたいって、ずっと言っちょった。みんなからの手紙とか年賀状とか、全部とってあるんよ。
ほら、私ら、景治さんと色々とあったから、なかなか若林さんの家に電話かけられんかった。今日は美殊ちゃんが電話出てくれて、ホッとしたくらいじゃ。
でも、こんな状態になってから来てもらっても、遅かった。もう、お母さん、話もできんし。
本当にごめんなさい」
伊津子は口元を押さえて、うつむいた。その時、中から微かな声が聞こえてきた。
4人は一斉に部屋の中に視線を向けた。アヤ子が手を動かしていた。伊津子はベッドに駆け寄り、3人も続いた。
「お母さん。わかる? 亀山の子達が来てくれたと。3人、一緒に」
伊津子はアヤ子の耳元で叫んだ。
アヤ子はゆっくりと目を開けた。酸素マスクで口元はよく見えないが、微笑んでいるのがわかった。
「……。 美殊ちゃん。岳斗君。丈琉君……。 会いたかったぁ。今まで、ほっといて、悪りかったね」
アヤ子は一人一人の顔をゆっくりと見て、涙を流した。
「ううん。私らこそ、ごめんなさい。もう大人になっとるんやから、私がおばあちゃんの所に来ればよかったん」
美殊の目からも、涙がポロポロとこぼれた。
丈琉と岳斗はベッドサイドにしゃがみ込み込んだ。丈琉はアヤ子の手にそっと触れた。
(細っそい手や。骨の形もわかるみたいや。ばあちゃん、こんなに小っちゃかったっけ)
丈流も涙が落ちてきそうになった。
「ばあちゃんな、心配じゃった。景治さん、お父さんがな、みんなを可愛がってくれとるんか、ちゃんと育ててくれとるんか……。
でも、心配いらんかったね。こんなにいい子に育ってくれた。みんないい顔しちょる。
いかった、いかった……」
アヤ子は満足そうに目を閉じた。安らかな表情だった。
4人は息を飲んだ。そして顔を見合わせた。
「ちょっと」
岳斗はアヤ子の一番近くにいた美殊の肩を押して、美殊の前に出た。そしてアヤ子の顔のすぐ脇にしゃがみ込んだ。
アヤ子の手首に触れ、自分の顔を、アヤ子の顔に近づけた。視線だけを横に向け、何度か瞬きをした。真剣に何かを考え込んでいる時の仕草だった。
「大丈夫や。脈はちゃんと打っとるし、呼吸も規則的や」
美殊と丈琉、伊津子はホッと息を吐いた。
伊津子は胸を軽く叩いて、深呼吸をした。そのあと岳斗の顔をマジマジと見つめた。
「岳斗君。お医者さん?」
「いえ、まだ学生です。今、医学部の5年生です」
「すごいのね。立派な後継ができて、景治さんも安心じゃね」
伊津子は他意なく笑った。
「あぁ。でも、あの病院は継がないって言うか、継げないと思います」
「継げない?」
伊津子は首を傾げた。一瞬の沈黙と、きょうだいの間になんとも言えない空気が漂った。
「いやっ。まだ、わからんよね」
美殊が慌てながら、話題を変えた。
「私は、今、高校の先生やっとるんです。亀山市内の学校で、英語を教えとるんです」
「まぁ」
伊津子は感嘆の声をあげた。
「俺は警察官になろうと思っています。今、津市の警察学校に通っとります」
「まぁ、まぁ、まぁ。みんな立派になって。奈美子もきっと喜んどる。
お母さんもずっと心配しちょったけど、本当に何も心配いらんかったね。
ふふふ。我が家なら絶対無理じゃ。3人同時に、大学に通わせるなんて。お金がもたないもの」
(うっ)
3人とも、心の中で唸った。
(学費の事、言われると、何も言えん)
4人はしばらくの間、ベッドの脇で話をしていた。
そこに看護師が部屋に入って来た。
「あっ。長々とごめんなさい。おばあちゃんの具合悪いのに」
3人は部屋を出る事にした。
伊津子は外まで送ってくれた。
「遠い所、本当にありがとね。
今日は、泊まっていくの? どこか観光する時間は?」
「そうなんですよね。せっかく来た事やし、どこか行きたいんですけど。どこかお勧めの観光スポットってありますか」
美殊の質問に、伊津子は少し困った顔をした。
「うーん。若い人が喜ぶ様な所って、あったかな。
宮崎神宮は結構有名かもしれんけど、ここから少しあるからな。
近くやと、阿波岐原公園ってのがあるけどね」
「アワキハラ!」
丈琉の突拍子もない声に、皆の視線が丈琉に集まった。
「なに、変な声出してんの?」
美殊に突っ込まれても、丈琉は返事もせず、必死に思考を巡らせていた。
(そうや。スサノオが言ってた。アワキハラ。
ここなんかな? 確かアワキハラに行けって、言っとったよな)
アヤ子の騒ぎで忘れていたが、今朝の夢を事を思い出した。
「あの、そのアワキハラってここなんですか」
「そ、そう言われているのよ。
その阿波岐原公園にね、江田神社ってのがあって、そこにはイザナギとイザナミが祀られているし。あとね、みそぎ池って言われる池があってね。
そこは黄泉の国から逃げて来たイザナギがみそぎをして、アマテラスとツクヨミとスサノオが誕生したって言われていてね」
「スサノオ!」
丈琉の声がひっくり返った。
「なに? さっきから何、変な声出しとんの?」
美殊の視線が冷たかった。
「丈琉君は神話とか好きなの?」
クスクスと笑っていた伊津子が声をかけた。
「いや。好きっていう訳でもなかったんですけど……」
「それは残念。でも、時間があるなら行ってみたら。江田神社はちょっと小さいし、みそぎ池はただの池って言っちゃえばそれまでなんじゃけど。
でも、なんか興味あるみたいだしね」
「あ、はい」
丈琉はまた考え込んだ。
「じゃ、この辺で失礼します」
美殊が丈流を押しやって挨拶をした。
「今日は連絡くださって、ありがとうございました。おばあちゃんと、ちょっとやったけど、話もできたし。良かったです。あっ、そうや」
美殊はリュックをおろし、中からメモ帳を取り出した。そしてササっとペンを走らせると、その紙を伊津子に渡した。
「これ、私の携帯電話の番号です。もし、もし、何かあったら、いつでも連絡ください」
伊津子はメモをギュっと握ると、唇を噛み締めてうなずいた。
3人は阿波岐原公園に行くことにした。
美殊と岳斗はなぜ丈流が阿波岐原にこだわっているのかはわからなかった。しかし深刻な顔をして「阿波岐原ってトコ、行ってみたい」と呟いた丈琉の言葉に、反対する理由はなかった。
公園には病院から歩いて行く事ができた。
「で、当然のように美殊のでかいバッグは、お前が持つんやな」
岳斗が突っ込む。
「そりゃ、そやろ。女にはこれ、重すぎるって」
自分が持つことに、なんの疑問もないらしい。
「だったら、自分で持てる重さの荷物にすれば良いだけやろ。
一泊するかもって考えてきたのもわかるけどな、一泊にしても、この荷物はないって」
「ああ、それな。俺もそう思った」
そう言いながら、天真爛漫に笑った。
最初に江田神社にたどり着いた。
「なんか、小っちゃくて、ぼろいな。でも、これ、由緒正しい神社なんだよね。
おばあちゃんの事、お願いしとこ」
美殊はお賽銭を入れて、お参りをした。
美殊の罰当たりな感想を神社に謝りつつ、丈琉と岳斗もアヤ子の安寧を拝んだ。
陽は昇りきり、公園はポカポカと暖かった。木々から漏れてくる光が目をさしてくる。
鬱蒼と茂る木々。舗装された歩道。子供向けの遊具。家族連れで楽しめる公園だった。
3人は伊津子の話に出て来た、みそぎ池に向かった。
松林の中を3人並んで歩いた。
ベビーカーを押して歩く母親。鬼ごっこをして走り回る子供たち。のどかな午後のひと時だった。
「なぁ、お前ら今日宮崎に泊まるんやろ。俺、ここ見たら三重に帰るわ。
やっぱ、外泊やばいかもしれん」
丈流の言葉に、岳斗は下を向いて、何度か頭を左右に振った。そして小さな咳払いをして、意を決して話し始めた。
「あのな。今帰ると、もしかして、とんぼ返りになるかもしれん」
「どういう事や?」
丈琉は足を止めて、岳斗の顔を覗き込んだ。
「おばあちゃんな、やばいと思う。今日1日もつか、明日までもつかって。そんな感じや」
「死んじゃうって事? だって、さっき、あんなにお話ししたやんか」
美殊は甲高い声で叫んだ。
「それは、奇跡的やったと思う。
だって俺らが行くまで、意識がなかったって。おばちゃん言っとったし。
ご飯食べられんのに、点滴もしとらんかったし。何も栄養入ってないって事や。
それに昨日から尿が出ていないし。酸素5リットル流してても、もうチアノーゼやったし」
「チアノーゼって何?」
「手の爪とか唇が紫色っぽかったやろ。あれや。
うーん。簡単に言えば、酸素が不足すると、あんな色になるんや。人間、亡くなる前に、あんな風になる事があるんや」
歩道の真ん中で3人は立ちすくんだ。
“どんっ”
鬼ごっこに夢中だった子供が丈琉にぶつかってきた。男の子はよろめいて尻餅をついた。
「あ、ああ。ごめん。大丈夫か?」
丈琉は慌てて男の子を抱き起こした。男の子はコクっとうなずいて、そのまま鬼ごっこを続けた。
男の子を見送ると、丈琉は頭を掻きながら、歩き始めた。
「そっか。わかった。今日は俺も泊まるわ」
それから3人は一言も話さず、歩いた。
「グスッ、グスッ」
一番先頭を歩いていた美殊から鼻をすする音が聞こえてきた。
「泣いとんのか?」
丈琉が駆け寄った。
「だって。色々考えてしまったら、なんか悔しくっなってきて」
「何が?」
丈琉はそう言いながら、ティッシュを渡した。
美殊は受け取ると鼻をかみ、自分のリュックからハンカチを取り出して涙を拭った。
「だって、おばあちゃん、うちのお父さんが、私らの事、立派に育ててくれたって。
あの人、全然、子育てなんかせんかった。
私ら、瑞江さんに育ててもらった。
なのに、おばあちゃん。勘違いしたまま、し、し、死んじゃったら。なんか、なんか、悲しいってか」
また、涙が溢れた。
丈琉と岳斗は顔を見合わせ、お互い困った表情になった。
「でも、あんな状態のおばあちゃんに、ホンマの事なんて言えんやろ」
丈琉が言うと、岳斗もうなずいた。
「おばあちゃん、安心したって言ってたやんか。
それで、いいんと違うか。それが嘘だったとしても。真実だけが、正しいってわけやないし」
「岳斗やって、病院、継げんとか、余計な事言ったやないか。
伊津子おばちゃん、きょとんとしとった」
美殊の反撃が始まった。
「そやな。やっぱ、ホンマの事、言いたくなるよな。
俺も、つい、本音が出てしまった」
岳斗は苦笑いをした。
美殊は豪快に鼻をかみ、ハンカチでゴシゴシと顔を拭いた。ハンカチから顔を話した顔はすっきりとした表情だった。
「うん。そやな。おばあちゃんが安心したなら、いいよね」
美殊はにこっと笑った。
「立ち直り、はやっ」
岳斗が美殊の背中を軽く叩いた。
すると美殊は岳斗の顔をのぞき込んだ。
「それはそうと。岳斗。ホンマにおじいちゃんの病院、継がんの?」
「そやな。だって、あっちの子が医者になったら、向こうが病院継ぐんやろ。父さんはそっちの方がいいんと違うか」
“あっちの子”とは、父親と愛人の子供、つまり丈琉たちの異母兄弟の事だ。
「でもな」
美殊はもったいぶったように話し始めた。
「あっちの子な、今年も医学部の受験、難しいらしいで。もう、5浪か? 色々大変みたいや。
でな、私の高校ん時の同級生がな、うちの病院に勤めているんや。その子の話やと、病院の看護師さん達には、岳斗に病院ついで欲しい人が大勢おるんやって。
岳斗、あの病院じゃ、人気あるらしいで」
「なんや、それ」
岳斗は美殊の視線を無視した。
2人の会話を聞きながら、丈琉は大きなため息を吐いた。そして
「ああ、いっその事、父さん、再婚すればいいのにな。母さんは亡くなっとるから、とっくに不倫と違うし。俺らが反対するとでも、思っとるんかな」
と独り言のように、しかし必要以上に大きな声で呟いた。
「俺らの反対なんか、気にせんやろ。あの人は」
岳斗のあっさりした物言いに、丈琉も美殊もうなずいた。
「そやな。岳斗が継ぐ気がないんなら、跡取りはあっちで決めてしまえばいいのにな」
「だから、あっちの子。医学部にすら入っとらんって言っとるやろ。
私らと同じ年やから、もう5年も受験勉強しとるんやで。
かわいそうにな。母親の期待が大きいみたいやし。受験、やめる訳にはいかんのやろ。
私なら、何年も受験勉強するくらいなら、諦めるわ。
あっ。ほら、看板」
美殊がみそぎ池と書かれた案内板を見つけた。
「この奥かな」
美殊が小走りに向かった。
松林を抜けると、一気に景色が開けた。
「これが、みそぎ池……?」
池は蓮の葉の緑で覆われていた。一見しただけでは、池と気づきにくい。
その場には3人のきょうだい以外、誰もいなかった。
今まで聞こえていた、子供の笑い声も、誰かの話し声も、何も聞こえない。静寂の空間だった。
「すごい、マイナスイオンや」
美殊の声が響き渡る。
「でた。美殊のマイナスイオン」
岳斗が笑う。
「いや。マジや。ここ、マジですごい。
何かが違う」
丈琉は取り憑かれた様に、池に向かって歩き出した。
丈琉は池の周りの芝生に足を踏み入れた。
「丈琉。そこ、立ち入り禁止やって」
岳斗の声は丈琉には届いていなかった。
丈琉は瞬きもせずに池を見つめ、足音もたてずに歩いた。
池のほとりまで来て、丈琉はしゃがみ込んだ。両手を地面に付き、池の底を覗き込んだ。
丈琉は池の中に、すっと手を入れた。凍るほどの冷たさだったが、丈琉は表情も変えず蓮の葉をよけた。
池の水が見えた。汚れのない、透き通った水だった。
(あれっ。人がおる)
丈琉は湖面に顔を近づけた。
池の中に人の姿が見えたのだ。
(なんで、人が……)
丈琉はバッと振り返った。しかし、後ろには誰もいない。
(水に写っているわけじゃないんか。
まさか、池の中に人がおるんか?)
丈琉は身を乗り出して中の人物を凝視した。
その人は華奢な体つきをしている。真っ黒な艶めいたストレートヘア。男か女かわからない。
(いや、そんな事より……。
手や。あの人の手が光っとる。赤い光。俺とおんなじ……)
丈琉は自分の手を池から出して目の前に持ってきた。丈琉自身の手も赤く、強く、輝いていた。
「丈琉、何やっとんの」
美殊がいきなり声をかけてきた。
「うわっ」
丈琉は驚愕の声と共に、池に落ちた。
丈琉は池の中に座り込んでいた。
さっきまで、あれほど深く見えた池。しかしお尻をついている丈琉の腰までの深さもないごく浅い池だった。
「きゃっ! 私のバック!」
美殊が大きな声をあげた。
「心配するのそっちか?」
岳斗が突っ込む。
「だって、バックがびしょびしょやんか」
やはり、バックの心配。
岳斗はため息をついた。そして、丈琉に手を伸ばした。
「運動神経のええお前が、何しとんのや」
「バック、早よバック、よこして」
美殊は丈琉に伸ばした岳斗の手を握り、丈琉に向かって手を伸ばした。
“ずるっ”
今度は美殊が足を滑らせた。
美殊は岳斗の手をつかんだまま、丈琉に突っ込み、大きな水音と共に金色に煌めく水しぶきをあげた。
池に落ちた瞬間に、美殊の手には青、岳斗の手には緑の光が灯った。
すると丈琉の赤い光と青、緑の光が混じり合った。そして眩いばかりの真っ白な閃光が瞬いた。
周囲の景色は白一色に変わった。全てが色をなくした。
それは、一瞬の出来事だった。
すぐに草木やみそぎ池は元の色に戻り、いつもの風景がそこに存在していた。
しかし丈琉と美殊と岳斗の姿は、そこから消えていた。
鮮やかな蓮の葉が、池にゆらゆらと浮かんでいた。




