尾張(おわり)経由、伊勢(いせ)行きの旅が始まった
翌日、オウスの一行は、カジクルムらに見送られて上総を出発した。
一行は伊勢の前に、尾張に立ち寄る事にしていた。尾張の国造、オトヒコの嫡男、タケイナダネの遺髪を届けるためだ。
伊勢に向かう旅は海沿いの道ではなく、甲斐、信濃などの山道を通る事になった。厳しい山が続き、回り道にもなる。
しかしオウスは、自分の使命をないがしろにはできなかった。父、オシロワケの大王は山岳地帯のクニについても、しっかり統一して来るようにと命じていたのだ。
今回の旅では美殊の輿は準備できなかった。今まで使っていたものは走水の海に沈んいる。輿の担ぎ手も、この人数不足の中では確保できなかった。
「大丈夫や。私も結構、足、鍛えられたし。頑張って歩くわ」
美殊は明るく、決意表明をした。その姿を見て、ミヤトヒコが真顔で美殊に申し出た。
「ミコヒメ様が歩けなくなりましたら、吾が背負います。
ミコヒメ様の様に痩せたお方。伊勢まで担いでいけます」
「大丈夫や」
美殊はミヤトヒコに背負われるつもりはなかった。
しかし、現実は厳しかった。ただでさえ厳しい山道。しかも、現代のように整備された登山道などはない。美殊は何度か、ミヤトヒコの背中にお世話になったのだった。
(私。今回の事で、男の人に免疫ついた気がするわ)
切羽詰まった状況とはいえ、自分が男性に体をくっつける事ができるようになったことが、信じられなかった。
山道が大変だったのは美殊だけでなかった。それよりも厳しいのはオウスだった。それはもはや隠すことのできない、公然の秘密となっていた。しかし家来の中に、オウスにそのことを告げることができる者はいなかった。
ある日、美殊はミヤトヒコに言った。
「オウス君って、絶対に弱音吐かんやろ。大丈夫なんかな。こんな山道、体力使うし、絶対にしんどいはずや。
ミヤ君だけには言うけどな、ヤマがオウス君には絶対、無理させちゃいけないって、言っとったんや。
ヤマがここにおったら、絶対に、こんな事はさせんはずや」
「そうなのですか。
でも、タケヒコ様が無理をしないようにおっしゃっても、オウス様は絶対に聞き入れません」
「そうだよね。
それに、ここで山賊とかに襲われたり、これから行く所とかで、反抗されたりしたらどうすんの?
イナダネさんもおらんし、タケもおらん。タケがおらんかったら、あの炎も出せんみたいやし」
「吾がおります。タケヒ様にはかないませんが、これでも吾はこの軍では強者なのです。
オウス様もミコヒメ様も、お守りいたします」
ミヤトヒコは笑ってみせた。
運の良い事に美殊が心配した様な事は起きず、旅は順調に進んだ。
“草薙剣のヤマトタケルノミコト”の名は、広く響き渡っていた。どのクニでも、その名を聞くだけで、無条件で忠誠を誓ってでた。
甲斐、酒折宮。
山の中腹にある、小さなクニである。
国造である塩海足尼は穏やかな人間であった。以前より大和には深い忠誠心を示していた。一行が安心して滞在できる、数少ない所であった。
このクニには風流な風習があった。和歌のやり取りをするのである。
しかしオウスたち一行の中で、和歌を詠む者はおらず、興味も示さなかった。
オウスもこれまで歌を詠んだ事はなかった。しかし塩海足尼は歌を勧めた。
「和歌は古より、高貴な方々がたしなんでおります。
和歌の始まりはスサノオ様と言われております。“八雲立つ 出雲八重垣 妻ごみに 八重垣つくる その八重垣を” この歌はご存知でございましょう」
「うむ。確かに」
オウスはこれまで、剣の鍛錬に力を入れていた人生を振り返った。思い返せば、オシロワケの父王は妻や他の子らと歌を楽しむ会を開いていた。
(今度、父上とお目にかかった際には、歌で問答できる様にしておくか)
夕食の後、オウスはタケヒコとミヤトヒコと一緒に焚かれた火にあたっていた。美殊も一緒だった。
どんよりと雲っていて、月も星も見えなかった。
燃え盛るオレンジ色の火を、オウスはぼんやりと見つめていた。
「ミコヒメ様は歌はたしなまれないのですか」
突然、オウスがふってきた。
「歌? 歌う歌じゃなくってね。
百人一首とか、お正月にやったことはあるけどね。私はほんの少し覚えとるだけやったけど、ヤマはほとんど覚えておってな。一番強かったわ」
美殊の胸がズキッと痛んだ。自分で弟の名前を出して、切なくなった。丈琉と岳斗と離れ、10日以上が過ぎた。その間、何の手がかりもなく、不安がつのるばかりだった。
オウス達には百人一首が何の事か、さっぱりわかない。美殊はタケヒコも自分が未来の人間である事を知っているため、隠す事はあまりしなくなっていた。気楽に事実を話してしまう様になっていた。
「……。 そうやなぁ。私の一番好きなのは “瀬をはやみ 岩に瀬かるる滝川の われても末に 逢はむとぞ思ふ” かな」
「素晴らしい」
火を焚いていた老人が、絶賛した。
「いや。これ、人が読んだ句や。ごめんなさい。私が考えたんやない」
老人は笑った。
「いえ。素晴らしい歌を詠まれる方とお知り合いなのですね。それだけでも、貴重です」
(いや。友達でも、何でもないんやけど。歴史上の人物やし、作者の名前なんて、覚えとらんわ。
でも、説明するのもめんどくさいし、ま、いっか)
美殊は否定も肯定もしないで、黙って笑った。
オウスは顎に手を当てて、必死に考えている様だった。
「難しく、考えなさんな。思った事を、素直に表現すれば良いのです」
「思った事……」
オウスは空の雲を見上げて、ぼそっと呟いた。
「吾が妻よ 海に消えうす 橘の実……」
(オトちゃんの事や。やっぱり、いつも思うのはオトちゃんの事なんや)
美殊はじっと炎を見つめていた。
「あまりに正直な歌ですな」
「素直過ぎても、ダメなのですか。何やら難しくて、吾には無理ですな」
タケヒコは最初から、作る気はない。
オウスはもう1度、同じ姿勢で考え始めた。
(ムキになって考えとる。なんか、可愛い)
歌を考えているオウスを見て、美殊は笑みを浮かべた。
(こんな風に、のどかに旅ができればいいのに)
「新治筑波を過ぎて 幾夜か寝つる……」
オウスは上の句を読んで、黙りこくってしまった。先が思いつかない様だった。
「日々並て 夜には九夜 日には十日を」
火をくべながら、老人がボソッと後を続けた。
「素晴らしい歌になった。感謝する。心が洗われた」
オウスは久しぶりに微笑んだ。
「いえ」
老人は控えめに、一言言っただけだった。
翌日、出発する前に、オウスは火焚きの老人に駆け寄った。
「吾は歌を勉強するぞ。
おそらく、2度と会う事はないと思うが。いや、またおぬしと歌合わせをするぞ」
オウスは老人と握手をして別れた。
信濃の山を超えた頃。美殊はミヤトヒコにお世話になる事なく、自分の足でついて行ける様になっていた。
(私の足が鍛えられたのかもしれんけど、なんか歩くのがゆっくりになった気がする)
そう意識すると気が付いたが、確かに歩行速度が遅くなっている。
この頃、オウスは激しい咳をして立ち止まる事もある。歩いていなくても、呼吸が苦しそうになる事もある。しかしオウスの鬼気迫る表情を見るにつけ、誰も何も言えなかった。
「オウス君。マジで大丈夫なんか」
オウスに進言できるのは、美殊しかいなくなっていた。
「夜も結構、咳しとるやろ。しっかり眠れているんか」
オウスはクマのできた目で、美殊を見つめた。
「大丈夫じゃ。もうすぐ尾張。その先には伊勢じゃ。オトタチバナヒメが待っている」
一行はようやく尾張に到着した。
オトヒコが前回と同じ様に出迎えてくれた。オウスは頭をさげて、タケイナダネの訃報を伝えた。オトヒコは驚愕し、涙をこぼした。
「ヤマトタケル様。タケイナダネの死は、非常に悲しく、辛ろうございます。
しかし、この様に髪を届けて頂き、さらにはヤマトタケル様の瞼が腫れるまで泣いて頂いたのかと思いますと、タケイナダネは幸せ者でした。
吾が息子が、名高きヤマトタケル様の一行に参加していた事は、尾張の誇りでございます」
オトヒコの言葉を聞き、美殊は思わずオウスの顔に目を向けた。
(確かに、オウス君の瞼、すごい浮腫んどる。瞼だけやない。顔、全体や)
美殊はここ数日で、一気に悪化した事を感じていた。
「オトヒコ殿。その様に言って頂けると、吾の心も少しは安らかになれる。大切なご嫡男をお預かりしておきながら、この様な事になってしまい、なんと言って、詫びれば良いかと」
「おお。そこまで、考えて頂いていたとは。
そのお優しさ、以前と変わらぬ、ヤマトタケル様でございます。
あの、いえ。遠方から聞こえてきますヤマトタケル様のお噂は、信じられない事ばかりでして。あのお優しかったヤマトタケル様が、変わられたのかと、心配しておりました」
「瞬時に、人を焼き殺すとでも言われておるか」
オウスの言葉に、オトヒコは苦笑いをした。
その直後、オウスは胸を押さえて膝をついた。
「皇子様!」
タケヒコが駆け寄った。
「大丈夫。疲れただけじゃ」
オウスは息を切らしながら答えた。
「屋敷にご案内いたします。そちらでゆっくりとお休みください」
タケヒコがオウスを抱えて、屋敷に連れて行った。美殊も後に続いた。
(咳、ひどいし。風邪かと思ったけど、なんか違う気がする。
そういえば、岳斗、オウス君が不整脈で心不全になるかもしれんって。これが、心不全ってヤツか?)
美殊は岳斗を真似して、オウスの手首に触れ、脈を探した。“とっとっとっ”と、美殊の指に鼓動が感じられた。その後、自分の手首にも触れ、脈をとって見た。
(速い。オウス君の脈。私のより、ずっと速い。
どうしたら良いんやろ。私じゃ、なんの役にも立たん。岳斗がオウス君と一緒にいた方がよかったんと違うか)
美殊は何もできない自分に、歯がゆさを感じた。
オウスは高床式の屋敷に案内された。
「タケイナダネが使っていた部屋でございます。散らかっておりますが」
オトヒコが申し訳なさそうに、部屋に通した。
部屋の真ん中に囲炉裏があった。囲炉裏には火が灯してある。隅には薪や木箱などが雑然として置いてある。
ミヤスヒメの準備した布団に、オウスは横になった。しかし臥床すると咳が出て止まらない。休むどころのではない。
「なぁ。座っていた方が、咳が出ないみたいや。背中にクッション、ってか、大きな枕みたいなのを当てて、それにおっかかれば楽かもしれん」
美殊の助言で、藁の束を布で巻いた、大きな背もたれが作られた。オウスはそれを背中に当て、よりかかると、座ったままの体制で、眠る事ができた。
それでもオウスの肩が上下し、苦しそうにしている。
(これ、肩呼吸って言ってたかな。ほんまに苦しそうや。
それにこの足。なんなん? ものすご太っくなって、なんかツヤツヤしとる。一体、いつからこんな足になっとんのや)
この様な足になっていても気が付かなかった事に、美殊は激しく後悔した。
いつの間にか、この部屋にはオウスと美殊の2人になっていた。美殊はオウスの顔をじっと見つめていた。
(まつ毛、長いな。やっぱ整った、綺麗な顔立ちしとる。
思い出に写真撮りたいな。でも、スマホの充電切れとる。
ってか、そんな事、考えとる場合やないやろ。オウス君が苦しがっとるのに!)
美殊はプルプルと頭を激しく振った。
そこへ、ミヤスヒメが水瓶を持って、入ってきた。寝ているオウスの脇に瓶を起き、美殊の脇に座った。
「この前、一緒におられたオトタチバナヒメ様のお姿が見えません」
ミヤスヒメは聞き取れない程の小さな声で聞いてきた。細い切れ長のつり目で、美殊を捉えた。
その目は丈流達が言っていた様に、蛇を連想させた。恐怖を感じる程の視線に、負けない様に必死に気をはった。
「い、伊勢に行っとるん。だから、私らは伊勢に向かっとるん」
「伊勢。そうですか。ヤマトタケル様がこの様に具合が悪いというのに。薄情なお方なのですね」
「そんな事ないんや。オトちゃんの意思で、ここにおらんわけやない。仕方ない事情があるんや」
ミヤスヒメはふんと鼻を鳴らすと、面白くなさそうにして部屋を出て行った。
不機嫌に部屋を出て行ったミヤスヒメと入れ替わりに、ミヤトヒコが入って来た。
「ヤマトタケル様は眠られた様ですね。でも、お顔の色がひどくお悪い」
ミヤトヒコは膝をついて、オウスの顔を覗き込んだ。
「ミコヒメ様。少しよろしいでしょうか。お話があります。外に行きましょう」
美殊はオウスを1人残して部屋を出る事が心配だったが、ミヤトヒコは急いでいる様子だった。何回か振り返り、部屋を出た。
その2人と入れ違いに、部屋に入る人影があった。
美殊とミヤトヒコは高床式の屋敷の階段を降り、屋敷の脇の大木の陰で話しを始めた。
「吾が軍は、これから伊吹山に行く事になりました」
「伊吹山? 確か岐阜県にあった山よね。あれっ、滋賀県だっけ……。まぁ、それはいいとして。
こっからじゃ、結構遠くない? 何しに行くの? オウス君は、どうするん。今、そんな遠くに歩くのは無理やと思うけど」
「はい。ヤマトタケル様にはここでお休みいただきます。
ヤマトタケル様はこれまで、無理をされてきました。あの様に倒れておしまいになられますし、少し、休養が必要であると、タケヒコ様はおっしゃっています。吾もそう思います。
ですから、今回はタケヒコ様を筆頭に行くことになります」
「でも、オウス君に、相談せんといいのかな。戦になるの? 大丈夫なんか」
「確かに、これはタケヒコ様の独断です。
タケヒコ様のおっしゃるには、戦はしない。交渉に行くのだと。
伊吹には鉄の精製に長けた一族がいるそうです。タケヒコ様の狙いは、鉄です。
これからの時代、武器は鉄になる。鉄を制する者は大和を制する。と、タケヒコ様はおしゃっています」
「うん。それは確かや」
美殊は歴史の流れを思い起こした。世界の歴史の中でも、鉄は重要なポイントを占めている。
「やはり、そうなのですね。ミコヒメ様のおっしゃる事ですから、間違いはないのでしょう。
そうなると、やはり、伊吹に向かわねばなりません。
タケヒコ様は、ヤマトタケル様を大王にと願っておられます。鉄の精製技術を手に入れれば、それも可能であると。ヤマトタケル様が大王になるには、それが必要……」
ミヤトヒコの言葉が、話の途中で止まった。丸く見開いた目は、美殊の後方を向いている。
「ヤマトタケル様!」
ミヤトヒコは大きな声で叫んだ。美殊は驚いて後ろを振り返った。
美殊の後ろにオウスがいた。屋敷の脇をゆっくりと歩いている。ミヤトヒコは駆け出し、美殊も後に続いた。
「ヤマトタケル様。まだお休みになっていて下さい」
「そうや。まだ、無理せん方がいいって」
ミヤトヒコはオウスの腕をつかんで、部屋に戻そうとした。オウスは「いや、その」と口ごもり、顔を隠す様に下を向いた。
「その、ヤマトタケルというのは、ここにおるのだな」
「何をおっしゃっているのですか? どうされたのですか」
「……。そうか。もしかすると、ヤマトタケルは、吾と似ているのだな」
ミヤトヒコは意味不明な事を言うオウスの両腕をつかみ、顔を真正面から見据えた。
最初は顔をそらせていたオウスであったが、観念した様にミヤトヒコと目を合わせた。
「なんと。急に顔色が良くなって。お顔もすっきりとされて。苦しくはないですか?」
オウスは瞬きを繰り返し、ミヤトヒコを穴が開くほどに見つめた。
「おお、おぬし、葛城のミヤトヒコではないか」
「今更、何をおっしゃっているのですか。一体、どうされてしまったのですか」
ミヤトヒコはすっかり困惑し、美殊と顔を見合わせた。
「ミヤトヒコがここにおるという事は、ヤマトタケルとは、やはりオウスの事なのだな」
ミヤトヒコは脳に全神経を集中させた。そして、5秒後、ガクガクと震えだした。
「まさか。まさか。オオウス様ですか?」
「そうじゃ。久しいの。ミヤトヒコ」
オオウスと呼ばれ、返事をした男は、オウスと同じ笑顔をみせた。
「しかしそのように大きな声を出すでない。吾はその名を捨てた身」
オオウスは大きな体を小さくして、影に隠れるようにした。
オオウスも長い髪は背中に垂らして1本で縛り、この時代に一般的なみずらは結っていなかった。
「オオウスさんって、オウス君のお兄さんよね。ホンマそっくり。見分けつかん」
美殊は初対面の男性に、無作法なほどに見入った。
「オオウス様。やはり生きておられたのですね。吾は信じておりました」
ミヤトヒコの目から、大粒の涙がこぼれ落ちた。
「どうした、ミヤトヒコ。まるで吾が死んだ様な事を言うの」
オオウスは首を傾げた。
(そっか。この人、オウス君が自分を死んだ事にしたの、知らんのや)
美殊は熊襲で、自分が捕まっていた時に、オウスが話した事を、後から、丈流と岳斗から聞いて知っていた。
今度はオオウスは美殊に話しかけてきた。
「そなた、オウスの妃か?」
「えっ! 妃って、妻の事よね。いいえ。違います。私、妃と違います」
美殊は顔の前で手を振り、強く否定した。
「オオウス様。こちらはミコヒメ様です。ヤマトタケル様と共に、旅をしております。先読みの力をお持ちで、吾らを導いてくださっています」
ミヤトヒコの紹介を聞き、オオウスは美殊の前に片膝をついた。
「失礼いたしました。
オウスの兄でございます。オウスの助けとなっくださっている様子。代わりにお礼を申します」
オオウスは深々と頭を下げた。
「いえっ、そんなえらい事はしとらんですって」
オオウスのスマートな仕草に、美殊はすっかり慌ててしまった。
オオウスはニコッと微笑むと、立ち上がり、ミヤトヒコに話しかけた。
「ところでミヤトヒコ。吾は、他の者に見られたくないのだ。早く、オウスの元に連れて行ってはくれまいか」
「あっ。はい。失礼いたしました」
ミヤトヒコは急いでオオウスを案内した。
オウスは大きな枕に寄りかかって、半座位でぐったりと眠っていた。部屋に人が入ってきた事も気がつかない様子だった。
オオウスは弟の顔を見るなり、立ち止まってしまった。
「どうした事じゃ! 何という顔の色じゃ。
オウスはどこか悪いのか? 一体どうしたというのだ」
ミヤトヒコはオオウスに声を小さくする様に言った。そして、自分の声もひそめて語り出した。
「はい。最近は特に調子がお悪くて。咳もひどいですし、息が切れるご様子でした。ご覧の通り顔色も悪く、顔も足も浮腫んでしまって。
でも、オウス様は決して休もうとされず、とうとう、ここで倒れてしまわれたのです」
オオウスはオウスの前で膝をついた。顔にかかった髪を、優しくかき上げた。オウスは一瞬、顔を動かしたが、目を覚ます事はなかった。
「オオウス様」
ミヤトヒコは、オオウスの背中に小さな声で話しかけた。
「吾らは、オオウス様が亡くなったと、聞いておりました」
オオウスは振り返り、ミヤトヒコに向き直った。
「そういえば、先ほどもその様な事を言っておったの。
なぜ吾は死んだ事になっておるのだろうか。オウスか。オウスがその様に話を作ったのか?」
オオウスは顎に手を当てて考え込んだ。顔だけでなく、仕草までオウスと同じだった。
「う、うん」
美殊小さく肯定した。オオウスは美殊に近寄った。
「ミコヒメ様。何か、子細をご存知なのですね。どうか、教えてください」
オオウスは手を床につけ、美殊に顔を近づけてきた。美殊の顔のすぐ前に、真剣な眼差しのオオウスの顔があった。
間近に迫られ、美殊の心臓はバクバクと大きく拍動し、顔が赤くなった。
(オウス君と同じ顔で見つめるんやもん。心臓に悪いわ)
美殊は胸に手を当て、深呼吸をした。
「オウス君は誰にも言うなって言っていたらしいけど。オオウスさんは自分の事やもんね。
話、聞いといた方がいいと思う」
美殊は話をする事を決めた。しかしその時、オウスが何度か咳をし、苦しそうに体を動かした。
3人は静かにその場を離れた。そして屋敷の裏手に回った。
屋敷の裏には木々が生い茂り、林になっていた。林の中には、澄んだ水を湛えた、小さな泉があった。泉の真ん中に、小さな島があり、小さな社が建てられていた。
「こんなトコがあったんや。ここもすごいマイナスイオンがあるな」
美殊は大きく息を吸い込んだ。
そして、改めてオオウスに向き直り、語り始めた。
オウスとオオウスとオシロワケの間に起きた、一連の出来事を。
美殊は話し終わり、伏せていた目をまっすぐに向けると、ミヤトヒコが号泣していた。
「それで、それで合点がいきました。
あの、お優しいオウス様が、オオウス様を殺すなど。絶対にあり得ないと、信じておりました」
ミヤトヒコは拳で涙を拭ったが、後から後から涙は溢れてくる。
「だから、だからヤマトタケル様は、大王の無茶なご命令にも、何も言わずに従っておいでだったのですね。
熊襲、蝦夷。ヤマトタケル様が戦を命じられるのは、遠方で乱暴な部族の所ばかりでした。遠征から帰ってきても、休む暇すら与えてもらえず、次の戦です。
皇子様は他にも大勢おられるのに、なぜ、ヤマトタケル様ばかりが、過酷な戦に出陣せねばならなかったのか……」
ミヤトヒコは膝をつき、地面に手をついて泣き続けた。
オオウスも両膝をつき、拳で地面を叩いた。
「オウス。そこまでして、吾を助けていたとは。吾はお前の犠牲の上で、幸せになっても、嬉しくないのだぞ」
オオウスの目にも涙が溢れていた。
「オウスは吾を逃がす時に、“心配ない。自分に任せておけ”と笑ったのだ。いつもの、あの明るい笑顔で。
それでも、吾は気がかりで、心休まる時はなかった。オウスはどう大王に申し開きをしたのか。辛い目にはあっていないのか」
オオウスは涙を拭い、地面にあぐらをかき、美殊を見上げた。美殊も地面に正座をしてオオウスと向かい合った。
「吾の住む所は、人里離れておる。世俗の噂も届かぬ、山奥じゃ。
それが先日、偶然だったが、里の人間が山に迷い込んできた。その者の話す事には、ヤマトタケルという、オシロワケの大王の皇子が尾張に向かっているらしいという事じゃった。
父王にヤマトタケルという皇子はおらん。きっと、誰か皇子の1人が名を変えたのだろうと思った。
聞くところによると、ヤマトタケルノミコトは剣に長け、炎で全てを焼き尽くす、恐ろしい人物だという事だった。
その話では、オウスとはかけ離れた人物に思えた。しかしオウスほど、剣を使える皇子は他にはおらぬ。
だが、大王には大勢の皇子がおる。それがオウスかどうか、確かめるすべはなかった」
オオウスは顔を2、3回、左右に振った。
「吾は、ずっと、オウスに会いたかった。オウスに会って、幸せに暮らしているのか、尋ねたかった。
だから、ヤマトタケルがオウスかどうか、吾は確かめにきたのじゃ。もしかしてオウスかもしれない。ほんのわずかでも可能性があるのであれば、確かめたい。危険であることは重々承知しておる。
しかし吾は自分の気持ちに逆らえず、尾張を訪ねたのだ。
オウス、すまぬ。吾のために、すまぬ」
オオウスの涙は、ぼたぼたと地面に落ち、地中深く吸い込まれていった。




