駿河(するが)で炎と戦った
「あれ、富士山と違う?」
美殊が輿の上から大きな声をあげた。前方に頭ひとつ、ポツンと飛び出している山の頂が見えた。とがった山頂が白く輝いている。
「ホンマや。そろそろ静岡に入るんかな」
岳斗は感慨深げにして、遠くに見えてきた山をみつめた。
「おお。皆様も、霊峰富士をご存知でしたか」
タケヒコが振り向いて話しかけてきた。
「吾は話には聞いていましたが、この目で見るのは初めてでございます。
随分と高い山ですな。まだ、山頂しかみえませんが、美しい山と聞き及んでおります。全貌を見るのが楽しみです。
皆様はご覧になった事がおありですか」
「ああ。そやな」
丈琉はあいまいな返事をした。
「見たって言っても、1500年先の富士山や」
日々、東に向かって進行する。その都度、富士山のフォルムが大きくなる。富士山観察が旅のささやかな楽しみになっていた。
とうとう一行は富士山の裾野が見える所までやって来た。
「感動やな。1500年経っても、富士山はおんなじや。
あっちでもこんな風にどっしりとしとるんやろな」
ふと、望郷の念がわいてきた。
「そろそろ、駿河のクニに入る。皆、油断するな。気を引き締めろ」
タケヒコの声が響いた。
ミヤトヒコが一緒に歩いている丈琉と岳斗に話しかけてきた。
「駿河のクニは大和に、使いをよこしません。もちろん貢物も途絶えております。
貢物を納めないという事は、大和に従わぬという、意思表示とも取れます。
ですから、タケヒコ様は駿河が反抗してくるかもしれないと、心配しておられるのです」
「そっか。わかった。俺らも注意する」
丈琉は知らず知らず、背中の剣に触れていた。
一行にも緊張が走った。
今回の先陣にはタケヒコとタケイナダネが入った。オウスは椅子代わりの石に腰かけ、目を閉じていた。
「時間がかかっとるな」
岳斗はすでにタイマーとストップウォッチ化した腕時計を見た。もはや時計の刻んでいる時刻に、意味はなかった。
それでも、岳斗は何かにつけて時計を見ていた。癖の様なものだった。
「30分もかかっとる。いつもは10分くらいで帰ってきてたのにな」
おもむろにオウスが目を開けた。
「ミヤトヒコ。様子を見てくるのじゃ。タケヒ。一緒に行ってくれぬか」
丈琉はすっかり戦力にされていた。確かに、このメンバーの中で一番強いのは丈琉だった。
しかしオウス丈琉も対しては、決して命令をしない。しかも、命に関わるような危険な依頼は避けてくれていた。丈琉はオウスの人柄にすっかり心酔していた。自分にできる事は、できるだけ答えようと決めていた。
今回も「了解」と言って、すくっと立ち上がった。
「ヤマトタケル様。タケヒコ様が戻って来られました」
前方の見張りが大きな声をあげた。オウスは安心したように、深く息を吐いた。
タケヒコは中年の太った男を連れてきていた。その他に、3人の家来と思われる男を引き連れていた。
まず、タケヒコがオウスの前にひざまずいた。
「ヤマトタケル様、お待たせいたしました。
駿河の国造、その嫡男ほか子らにございます」
そう言うと、タケヒコは脇に逸れた。
一番前にいた男は平伏し、口上を述べた。
「駿河のシビでございます。
ヤマトタケル様のご武勇は、ここ駿河にも聞こえております。駿河は大和に忠誠を誓っております」
シビは顔を引きつらせている。冷たい風が吹いているにもかかわらず汗が流れていた。
「うむ。しかし駿河は大和に使いも貢物もよこさなくなって、久しいようじゃ。これはなんと申し開きをするつもりじゃ」
「申し訳ございません。
実は、駿河では悪いはやり病が蔓延しております。都に病を持ち込んではならぬと、遠慮していただけでございます。
病はようやく終息し、そろそろ使いを出そうと準備をしておりました」
シビは深々と頭を下げた。
オウスは厳しい表情のまま、うなずいてみせた。
一行はシビについて、駿河に向かった。
「タケヒコ。時間がかかっておったの」
オウスが声をかけた。
「申し訳ございません。
シビ殿がなかなか出て来ず、屋敷の外で待たされておりました。扱いが粗雑であったわけではありませんが、なにか不穏な空気も感じました。
「やはり、油断はできぬな」
オウスとタケヒコの会話が、ポツリポツリと聞こえてくる。丈琉は否が応にも緊張してきた。
駿河は海に面している。風に乗って塩の香が漂っている。平地が少なく、海岸線の間近に山が迫ってきてた。
シビは自分の屋敷に案内した。早速、貢物の山をオウスに披露した。絹の反物の他に、魚の干物などの食物も山積みにされていた。
「まもなく夕暮れ。明日にでも、大和に向けて出発いたします」
このシビの言葉にもオウスの表情はまだ緩まなかった。「うむ」と、一言だけ言い放ち、その場を後にした。
「なぁ、タケ。あのおっさん、なんか、うさん臭くないか」
岳斗が丈琉に話かけた。
「ああ。お前もそう思うか。油断ならんよな」
丈琉と岳斗はシビから、目を離さないようにしていた。
その夜、豪華な宴会が開催された。美殊と岳斗、オトタチバナヒメは例によって出席していない。3人は小屋の様な粗末な家に案内された。
ナナツカハギが夕食を運んで来てくれた。ナナツカハギは岳斗に近寄り耳打ちをした。
「ヤマヒコ様。ここは見張られているかもしれません。外に、人の気配を感じます。なにやら、不穏な空気も」
「うん」
岳斗はうなずいた。そして談話しながら食事をしている美殊とオトタチバナヒメにそっと視線を向けた。
(あの2人は何も気づいていないよな。まだ知らせる事もないか)
と考えた。美殊たちには聞こえない様に小さな声でナナツカハギに話しかけた。
「やっぱ、ここ、怪しいよな。ナナっちもみんなが戻ってくるまでここにいた方がいい。1人にならんようにな」
「はい」
緊迫した時間が静かに流れていた。
オウスは、宴会の間、シビの隣で酒を飲んでいた。
丈琉は十握剣を背中に背負い、オウスの脇にずっと立っていた。オウス専任の警護だった。
そこへ会場全体の見張りをしているミヤトヒコがやって来た。
「タケヒ様。変わりないですか」
小さな声で話しかけてくる。
「ああ。何もないけど。でもな、あのシビって奴。なんか、怪しくないか。俺、どうもあのおっさんの顔が気に食わん。腹ん中で何考えとるか、わからん感じや。
笑った時の口が、なんか歪んでいるし。あれって、心根表している様に思えてな。
それに、なんか、あちこちに見張りしている様な奴がいっぱいおるやろ。あれって、俺らの事を見張っとるって思わんか」
「はい。吾もそう思います。外部からの侵入者を警戒している配置ではありません。
タケヒ様。十分、注意しましょう」
丈琉とミヤトヒコは目を合わせ、口をきつく締めて、強くうなずいた。
宴会は滞りなく終了した。
オウスは解散する前に、皆を集めた。
「明日、この先の部落を懲らしめに行く。この付近に巣食っている山賊と手を組み、他の集落を襲っているそうだ。そうやって武器や、人を集めているそうだ。
山賊と手を組むとは、もってのほか。いずれは大和にとって、脅威となりうる事態じゃ。
悪しき芽は今のうちに摘んでおくべきじゃ。
ここで大和の、わが軍の力を見せつけてやろうぞ。皆、頼むぞ」
「おおーー!」
雄叫びがあがった。酒が入り、兵士たちのテンションが上がっている。丈琉の心配をよそに、高揚した気分に任せ、大いに盛り上がってしまった。
翌朝。
早い時間から出陣の準備が行われた。
美殊やオトタチバナヒメは見送りに出た。
雲ひとつない空。底冷えがしている。
「今日は、特に寒いなぁ。それにお肌がピリピリする」
美殊は乾燥してガサガサの唇にリップクリームを塗った。美殊のリュックと共に7年間過ごしたリップクリーム。最初は使うのを躊躇したが、唇の乾燥の方が辛かった。思い切って唇に塗ったが、問題はなかった。美殊はそれ以来、安心して使っているのだ。
美殊はオトタチバナヒメにも塗ってあげている。オトタチバナヒメは初めての感覚に、最初は戸惑った。しかし、ガサガサになりすぎて、時に切れていた唇に痛みがなくなったのだ。オトタチバナヒメは大きなカルチャーショックを受けていた。しかし、こうやって美殊に塗ってもらっているうちに慣れて、塗ってもらうのを楽しみにする程になっていた。
元がピンク色のオトタチバナヒメの唇にリップクリームを塗ると、唇の発色が良くなる。薄いが形の良い唇が艶めき、可愛らしさが倍増する。
そこへ、準備の整ったオウスがやって来た。オトタチバナヒメを見つけると、真っ先に駆けつけた。
「今日はまた、一段と可愛らしい」
オウスはオトタチバナヒメの顎をくいっと持ち上げた。
「この唇じゃ」
オウスはそう言って、唇を重ねた。
「人前で、ようできるな。アメリカ人か。」
丈琉はそう、つっこんで、歩いて行った。その言葉すら、美殊の耳には入らなかった。
美殊は顔を背け、胸元の布を握りしめた。胸が潰れそうに痛んだ。
駿河の兵士が集まって来た。
「これ、兵なんか? なんか普通の人ばっかやないか」
丈琉が驚くのも無理はない。日焼けをした漁師と思われる男達ばかりが集まって来ていた。槍を持っているが、明らかに持ち慣れていない。戦の経験もなさそうだ。
「タケ。なんかやばい気がする。お前、マジで大丈夫か。あの兵士とも思えん人たちじゃ。全くアテにならんやろ。それどころか、やばくなったら真っ先に逃げてしまいそうや」
岳斗は出陣しないで、このムラで待機する事になっていた。それだけに、余計に丈琉のことが心配になる。
美殊も丈琉と岳斗のところに来ていた。オウスとオトタチバナヒメの側にはいられなかった。
「なぁ。タケ。やっぱ、あんたも行くん? 危なくない?」
「大丈夫や。
俺な、オウスに頼まれたら、嫌とは言えん。言ったやろ。俺、頼りにされとるみたいやし。オウス守りたいし。
でもやばいと思ったら、必ず逃げる。無理はせん。
だって俺ら、3人で元の時代に戻るんや」
丈琉は美殊の頭をポンポンと叩いて笑った。
駿河には丈琉と美殊、オトタチバナヒメの他に、ナナツカハギも残る事になった。
岳斗はオオウスの剣を腰に下げてもらい、すぐに使える様にしてもらった。
山賊退治に向かう一行。シビの長男、マシビが先頭になって進んだ。
すぐに小高い丘に入った。一行は道とは言えない道を進んだ。葦や熊笹の様な背の高い草が群生している。背の低い者達は、すっかり草に隠れてしまう。硬い草がチクチクと肌を刺す。思う様に進めない状態になって来ていた。
「なんか、人の数が少なくなっておらんか」
頭ひとつ飛び出している丈琉は、まだ視界が保たれている。この異変にいち早く気が付いた。
駿河の素人兵士達が、行列を外れて行くのが見えた。
「おい。どこに行くんや」
丈琉の声がきっかけとなってしまった。マシビがここぞとばかりに叫んだ。
「今だ! 火を放て」
残っていた駿河の者たちは、一斉に駆け出した。
そしてマシビの命令に従って、草むらに火玉が投げ込まれた。
数日の好天で続きで草も空気も乾燥している。あっという間に、草は燃え上がった。四方八方から火が迫ってきた。
「騙されたか!」
オウスは声を絞り出した。炎に囲まれ、完全に逃げ場を失った。丈琉は炎の外から中を伺っているマシビを見つけた。唇を歪めて笑っている。
(くっそぉ。親父そっくりや。やっぱ、油断ならん奴やった)
「火を消せ! 草を薙ぎ払うのじゃ。奴らを逃がすでない」
オウスは天叢雲剣で、燃え盛る草を刈り始めた。
「切れ、切れ。火の元をなくすのだ」
タケヒコが続けて叫んだ。
オウスの兵士達は慌てながらも、命令に従った。
火傷を負いながらも皆必死で草を切った。いつも陽気に笑っているタケイナダネも、死に物狂いの形相だ。
鉄の鎧を着ていた者は鎧を脱ぎ捨てた。熱が伝導して、体が焼け尽きそうだった。
丈琉の持っている十握剣は、刀身が長く、他の刀よりも広範囲に草を切る事ができた。しかし、炎の勢いには勝てなかった。
熱風と煙で思う様に呼吸ができなくなってきた。ゴホゴホと激しく咳き込んだ。丈琉は生まれて初めて、死の恐怖を感じた。意識が遠のく。
「美殊……」
脳裏に美殊の顔が浮かんだ。
(こんなトコで、くたばるわけにはいかん!)
片膝と手を地面につき、必死に体を支えた。
オウスが丈琉の元に駆け寄って来た。
「タケヒ。大丈夫か」
オウスは丈琉の頬を軽く叩いた。丈琉は煙でしみる目を、必死に開けた。すると、顔に当てられているオウスの手から、赤い光を感じた。
「オ、オウス。手が、光っとる」
自分の手をゆっくりと目の前に持って来た。同じ光が灯っていた。
丈琉はもう一度、オウスに顔を向けた。もう一つ、赤い光を感じた。オウスの胸からだった。服の下からぼんやりと光が発せられていた。
「胸や。なんか、光っとる」
丈琉は震える手で、オウスの胸を指差した。
「ヤマトヒメ様から、授かった、袋。そうじゃ、困難が生じた時、開く様にと。吾の首に提げてくれた」
オウスは胸元を開き、首に提げてあった皮袋を引っ張り出した。小さな皮袋が、ほのかな光を灯していた。中には赤く光る石が、2つ入っていた。
「火打ち石じゃ。さらに火を起こせというのか」
オウスは天叢雲剣を地面に置き、両手で石をひとつずつ持った。
そして、2つの石を激しく打ち付けた。
火打ち石から発せられた火は、普通とは違っていた。火打ち石から生まれた火とは思えないほどの火力があった。
その、大きな炎は天叢雲剣と十握剣に燃え移った。
2つの剣は猛烈な炎をまとった。
丈琉とオウスは瞳と瞳を合わせた。
何も言わなかったが、2人は同じ動作をとった。動きは完璧にシンクロしていた。
オウスは天叢雲剣を取り、両手で持った。そして、前に立っている丈琉に向かって、剣を構えた。
丈琉はすくっと立ち上った。燃え盛る十握剣で中段の構えを取った。
2人共、涼しい顔をしている。火の熱など感じていなかった。今の丈琉とオウスには自分の意思はなかった。
ふたりは剣先を合わせた。2つの剣は共鳴し、“ゴォォォーーッ”と、激しい音をたてた。
剣を持つ手に振動が伝わってきた。
丈琉とオウスは剣に命じられるまま、同時に剣を空に向かって勢いよく振り上げた。
天叢雲剣と十握剣から猛烈な炎が吹き出した。
火山が噴火したような、マグマ爆発が起きたような勢いだった。
耳をつんざく爆音。体を吹き飛ばすほどの爆風。
丈琉は後ろに吹っ飛び、背中を強打した。激しい痛みで息が止まった。
巨大な火柱が地上から天にまで繋がった。紅蓮の龍が昇天するようだ。龍は炎と周りの空気をごっそりと引き連れて行った。
激しい上昇気流が発生した。草や木の葉、その場に倒れている者の衣服。全てが天に向かって、バタバタとはためいた。
丈琉は激しい気流を浴びせられ、宙に浮きそうに感じた。鼓膜は轟音で破れそうだった。
丈琉は薄れゆく意識を必死で保とうとした。
炎が昇りきると、風はピタッと止んだ。
丈琉の体にかかっていた重力は瞬時に解けた。身体は完全に脱力し、思考能力もなくなってしまった。
辺りには、あちこちで動けなくなった人間が、人形の様に横たわっていた。
そして燃え盛っていた炎は、数カ所でくすぶっているだけだった。
炎の龍が昇天した空に、真っ黒な雲が発生した。空はあっという間に暗雲に覆われた。付近は夕暮れ時の様相を呈した。
“ぽつ”
丈琉の頬に、ひとつぶ水滴が当たった。丈琉は目をぱちっと開けた。
「……、雨?」
丈琉は腕に力を入れた。自分の体の一部とは思えないほと、腕が重かった。それでも、必死に顔まで持ち上げ、頬の雨粒を拭った。
その直後。突然、豪雨が襲ってきた。
仰向けに寝ている丈琉の顔に、容赦なく雨が降りかかる。丈琉は雨水でむせかえった。顔をゆっくりと横に向けた。4、5回、激しく咳き込んだ。
徐々に意識がはっきりとしてきた。体も動かせる。丈琉はゆっくりと起き上がった。
この大雨で残っていた火はほとんど消火された。
丈琉と同じく倒れていた者たちも、ゆっくりと起き上がった。少しずつ人の動きが出てきた。
丈琉は必死に立ち上がった。地面に打ち付けられた背中がひどく痛む。
雨のカーテンに視界を遮られ、辺りがよく見えない。手を目の前にかざし雨を遮って、周囲を見渡した。
少し先に、まだ倒れて動かない人物を見つけた。丈琉は重い足を引きずりながら、その人の元に歩み寄った。
オウスだ。うつ伏せで倒れていて顔は見えなかったが、みずらを結わず、髪を長く垂らしているのはオウスだけだ。さらに、手に握ったままの草薙剣がオウスであることを証明していた。
「オウス。おい、大丈夫か」
丈琉はオウスの脇にかがみ込んだ。返事がない。
「おい」
丈琉はオウスの身体を激しく揺すった。それでも、何の反応もなかった。
丈琉は急いでオウスの身体を仰向けにした。オウスは完全に脱力している。人形のように、丈琉に動かされるがままになっていた。
オウスの目は固く閉じられていた。顔は真っ白で、唇も青白い。
丈琉の心臓が早鐘のように打ち始めた。
「おい。オウス。オウス!」
丈琉はオウスの頬を激しく叩いた。オウスは微動だにしなかった。オウスの顔の前と、胸に耳を当てた。
丈琉にはオウスの呼吸が感じ取れなかった。
「オウス! オウス!」
丈琉は大声で名を呼んだ。
丈琉の頭の中は真っ白になってしまった。
丈琉の叫び声を聞きつけ、人々が集まってきた。
「タケヒ様。どうしました?」
タケヒコが真っ先に駆け寄る。
「オウスが、息、しとらん。呼吸が止まっとる」
「なっ! ヤマトタケル様! ああ、吾が皇子様!」
タケヒコも激しく取り乱した。豪雨の中、ヤマトタケルの名を呼ぶ声がこだました。
「タケ!」
丈琉は名を呼ばれ、反射的に声の方向に目を向けた。岳斗が美殊を支えながら走って来ていた。その後ろにはナナツカハギとオトタチバナヒメがよろよろしながら追いかけて来ている。
ここに来るはずのない4人の姿に、丈琉は目を疑った。
「オトタチバナヒメ様!」
タケヒコは大声をあげながら、オトタチバナヒメの元に駆け出した。そしてヒメを抱きかかえると、オウスの元に連れてきた。
タケヒコのただならない様子に、岳斗と美殊も慌てて駆け寄ってきた。
「ヤマトタケル様が、大ごとじゃ! 早く、その乳を」
「乳?」
タケヒコはオトタチバナヒメの服を剥ごうとした。
「きゃっ」
オトタチバナヒメが胸をおさえて、小さな悲鳴をあげた。強姦の様相だ。
「なにしとんや。乱暴な事すんな」
岳斗が止めに入る。しかしタケヒコは我を失っていた。
「ヤマトタケル様の一大事じゃ!
その昔、絶命した大国主命様は、ウムギヒメ様の母の乳汁を塗りて、蘇ったのだ!
早く、乳を!」
「待て! 落ち着け! 何がどうした?
乳、乳って。ちしるって、母乳の事か。そんなん、子供を産んどらんオトヒメに出るわけないやろ!」
混乱している中、丈琉が叫んだ。
「岳斗! オウスの呼吸が止まっとるんや!」
岳斗は血相を変えて、オウスに駆け寄った。
「だから、急がねば。さぁ」
オトタチバナヒメに襲いかからんばかりのタケヒコ。思わず岳斗はタケヒコの額をバシッと叩いた。
「どいてくれ! おいっ! オウス!オウス!」
岳斗は大声でオウスを呼んだ。
乱暴にオウスの手をとり、手首に触れた。続けて首の側面に指を当てる。次に胸の皮膚をつねる。そしてオウスの鼻の前に自分の顔を近づけた。
(呼吸停止。レベル300。頸動脈触知不能)
「CPA。心肺停止や」
岳斗は早口につぶやいた。間髪置かず、右手を振り上げ、オウスの胸の真ん中に拳を振り下ろした。
“ドスっ”
鈍い音が響いた。
そしてすぐにオウスの傍に膝立ちし、両手を重ねてオウスの胸骨に手を乗せた。全体重をかけるようにして、胸骨の圧迫を始めた。
岳斗は流れるように動いた。丈琉はそれをただ呆然と見ていた。
(そや。心臓マッサージや。心肺蘇生術って、授業で習ったよな。
俺、そんな事、思いつきもせんかった)
丈琉はいたたまれない気持ちと後悔を同時に味わった。
タケヒコから解放されたオトタチバナヒメは美殊と抱き合っていた。2人は震えながら、少し離れた場所で事態を見守るしかなかった。
「ヤマヒコ様。何をされるのですか!」
タケヒコが岳斗の腕をつかんだ。救命措置を知らない人とっては、怪我人を痛めつけているようにしか見えないだろう。
「離せ! オウス、助けたいんやろ。ほんまに死んでしまうぞ」
岳斗は声を荒げた。タケヒコは岳斗の威圧感に言葉を失った。しかし岳斗の行為には、自分には理解できない確信があるように思えてきた。
「タケ! オウス、倒れてから、どん位たっとる?」
岳斗は心臓マッサージをしながら尋ねてきた。
「さっき。爆風で飛ばされた時やと思う。それまでは、俺と一緒に剣を振るとったから」
「さっきの爆風か」
岳斗は1回、手を止め、時計を見た。そして、すぐにマッサージを再開させた。
「そんなら、5分……、 は経っとるか。でも、10分以内や。大丈夫や。きっと間に合う」
(そや。心肺蘇生は、できるだけ早く始めた方が、蘇生率は高いんや。俺があの時点で始めとったら、もっと救命率は上がったはずや。
俺は学校で何、習っとんのや)
丈琉は後悔で胸がいっぱいになった。しかし落ち込んでいる場合ではないと思い直した。
「オウス。オウス。頑張れ。戻ってきてくれ!」
オウスの耳元で叫んだ。
「オウス。帰って来い」
岳斗も声をかけた。
2人の叫びと共に、白い息が吐き出される。岳斗の顔には汗と雨粒がとめどなく流れた。
「ヤマトタケル様。ヤマトタケル様!」
タケイナダネが真っ先に声をかけ始めた。それにつられて、皆がオウスを呼んだ。
雨足が急に弱くなった。岳斗はマッサージをする手を一時止めて、右手で眼鏡を外し、手首で目を吹いた。汗で目がしみていた。
その瞬間、オウスの体がビクッと動いた。
岳斗は胸においていた、左手を慌てて離した。
オウスは詰まったような音をたてて、かすかに息を吸い込んだ。その後で、数回弱々しく咳き込み、浅い呼吸を始めた。
「オウス!」
岳斗と丈琉は同時に名を呼んだ。オウスがうっすらと目を開けた。
「オウス。わかるか?」
岳斗の問いかけに、オウスは目を1回閉じてみせた。
岳斗はオウスの手首に人差し指、中指、薬指を当て、脈をとった。しばらく手首に触れたまま、目を伏せていた。
「ヤマトタケル様!」
タケヒコが大声で叫びながら、オウスに覆いかぶさってきた。
そして大きな歓声があがり、皆がヤマトタケルの名を呼んだ。
岳斗は濡れた顔を拭い、深呼吸を繰り返しながら、呼吸を整えた。
それからオウスに覆いかぶさっているタケヒコの肩を叩きその場を譲ってもらった。そしてオウスに声をかけた。
「オウス。手とか足とか動くか?」
オウスは視線を岳斗に向け、軽くうなずいた。そしてゆっくりと、腕を持ち上げた。その後、脱力して地面に腕を落とし、目を閉じた。しかし規則正しく呼吸をしている。
岳斗は目を閉じ、大きな息を深く吐いた。すると腰が抜けたようにドスンと地面に座り込んだ。
「オウス、大丈夫なんやな。助かったんやな」
丈琉が岳斗に問いかけた。
「ああ。大丈夫やと思う。まだ、油断ならんけど、でも大丈夫やろ」
そこへ、這うようにして美殊とオトタチバナヒメが近寄ってきた。美殊も腰が抜けたみたいだった。老人のようにゆっくりと動いていた。
美殊はすがるように岳斗を見た。声が出ないらしい。
「大丈夫や」
岳斗がそう言うと、オトタチバナヒメはぺたんと座り込んで泣き出した。そしてまた這って、オウスの元に行った。
そしてオウスに抱きつき、泣き出した。オウスは左手をゆっくりと動かし、オトタチバナヒメを抱きしめた。
美殊はただ呆然とその光景を見ていた。
岳斗は少し後ろに下がった。丈琉は座り込んでいる美殊を抱え移動した。3人は集団から離れた所で腰をおろした。
「一体、何があったんや」
岳斗が丈琉に尋ねた。丈琉はマシビに騙され、焼き討ちにあった事。オウスの火打ち石で剣に炎が燃え移り、激しい火柱が上がった事。そしてその際に発生した爆風で、吹っ飛ばされ、オウスが倒れていた事を話した。
岳斗は眼鏡のブリッジに触れながら、じっと聞いていた。丈琉が話終えると、何度かうなずきながら語り始めた。
「確かに、あの火柱と爆風はすごかったな。俺らも尻もちついたわ。
近くにいたお前らなら、かなりな衝撃やったやろ。そん時、オウスは胸とか打ったんかもしれん。その時の衝撃で、VF(心室細動)になったんかもしれんな」
「それよか、ヤマ。お前ら、なんでここに来たんや。駿河で待っているんじゃなかったっけ」
今度は丈琉が美殊と岳斗に問いかけた。美殊は目を伏せ、うつむいている。話をする気分ではないようだ。
「お前らが出発してしばらくして、みぃの手が光ったんや。で、お前らの事を予言したんや。
タケが火に囲まれる、オウスが倒れているって。
だから俺らもすぐに駆けつけようと思ったんやけどな。俺ら、見張られていたんや。で、そいつらに襲われたん…」
と、岳斗が話している最中に、大歓声と共にオウスの兵士達が走って来た。一目散に向かって来る。
「な、なんや!?」
3人は思わず尻込みをした。
一同が丈琉たちの前に到着すると、タケヒコが岳斗を前に引っぱり出し、自分たちの前に立たせた。そして一斉に岳斗の前でひれ伏した。
「ヤマヒコ様。ありがとうございます。ヤマトタケルが戻って来られたのは、あなた様のお力。神業でございます」
岳斗は神のごとく、崇め奉られた。
中でもタゴは必死だった。
「ヤマヒコ様。申し訳ございませんでした。吾のこれまで所業、お許しください」
岳斗に辛く当たっていたタゴは、懺悔をした。
「いや。そんなん、どうでもいいから。やめてくれって」
岳斗の願いは、誰も聞き入れない。尊敬、感謝、懺悔。様々な思いが岳斗に浴びせられた。
そんな岳斗を残し、丈琉と美殊は隣合って座った。
「襲われたって聞いた。こうやって今、ここにいるからな、大丈夫だったってわかるけど。何があったん?」
美殊は充血させた目を丈琉に向た。鼻は真っ赤。鼻を手でこすり、ずずっとすすった。それから、ゆっくりと話し始めた。
「……。 うん。みんなのトコに行こうと思って、外に出たらな、見張りの男らに、ここから出てはいかんて、出て行くなら切るって、言われたんよ。そんでもナナっちが進もうとしたら、本当に襲いかかって来られたん。
ナナっちが1人やっつけているうちに、私は鏡で光を反射させて、1人は撃退できたんやけどな。でも、もう1人が私に切りかかって来たんや。
そん時、ヤマが剣を振りかざして、私んこと庇ってくれたん。そしたらな、ヤマの手と剣が緑に光ったん。ものすっごい光やった。切り掛かって来た男、ぶっ飛んだわ。昔、お父さんを弾いた時とは比べもんにならんくらい。
でも、岳斗な、あの光が出んかったら、私のこと庇って斬られたかもしれん」
美殊はまた。鼻をすすった。
「でも、タケ! あんたやってその格好、なんなん。服、ボロボロやし、火傷もしとるやんか。マジで、やばかったんやろ。
この時代の人たち、弱いからって、油断したんか? 3人で、元に戻るって言ったやんか……」
美殊の目から、ポロっと涙がこぼれ落ちた。
丈琉の頭の中に、死ぬかもしれないと思った時の事が思い出された。あの時、頭の中に浮かんだ美殊の顔。その美殊が自分を思って泣いている。そう思った丈琉は、美殊への気持ちが抑えられなくなった。
とっさに丈琉は美殊を抱きしめていた。華奢な体を思い切り強く。
「タケ……。 丈琉?」
美殊の戸惑った声。美殊は体をよじって、丈琉の腕から逃れようとした。
「動かんでくれ。このまま。頼む」
丈琉は美殊の頭を手で押さえ、自分の顔に押し当てた。目を固く閉じ、美殊を感じていた。
突然、丈琉の額に衝撃が走った。
「アホ」
岳斗のデコピンが丈琉を直撃した。瞬時に丈琉の理性が戻ってきた。丈琉は急いで美殊を離した。
岳斗は美殊の背中をポンと叩いた。
「みぃ。オトヒメが向こうでパニクっとる。そばにいてやってくれ」
「うん」
美殊は丈琉に締められていた腕をさすりながら、駆けて行った。
「わかっとる!」
美殊が見えなくなると、丈琉が大きな声をあげた。
「俺やって、普通に向こうの世界で生活しとったら、こんな事、せんかった。こんな風に、みぃの事、思わんかった。
きっと、若干シスコン入った弟で過ごせたと思う。
でも、ここで、死の恐怖感じるような、切羽詰まった状況で、俺、余裕なくなった。
みぃが、俺の事、心配して泣いてくれてるの見たら、押さえられんかった。ブレーキ、効かんくなった」
丈琉は両手の拳を握りしめた。
丈琉は胸の中で燃えたぎる、禁断の恋の炎と戦っていた。
岳斗は何も言わず、丈琉の背中をポンポンと叩いた。
その後、丈琉は自分の額を自分で弾いた。自己デコピン。
「ごめん」
小さな声で謝った。
「俺に謝っても、しょうがないやろ」
「いや。ヤマも危なかったって、斬られそうになったってみぃに聞いたとこや。
命の危険と戦っているのは、俺ばっかやないのにな」
岳斗はもう一度、丈琉の背中を叩いた。そして、少し間を置いた。
「……。 タケ。あのな、みぃが泣いたんは、それだけやないかもしれん。
あの2人見て、切なかったんかもしれん。さっき、オウスとオトヒメが抱き合っているのを見て、泣きそうになってたからな」
「? どういう事や」
「オウスの事、思っていたんやろ。
全く、シスコンの弟に、1500年以上昔の人間好きになる姉かよ。
お前ら、ホントにややこしいな。3人きょうだいの真ん中って、大変や」
今度は、岳斗はバシッと丈琉の背中を思い切り叩き、仲間の所に歩いて行った。
(美殊がオウスを……)
丈琉はその場から動けなかった。
雨はすっかりやんでいた。
太陽の光が水滴に反射しする。丈琉の目には、キラキラとした光が眩しく思えた。




