僕は今日、結婚する(筋)
二度読んでもらえたら別の楽しみがあるかも。
僕は今日、結婚する。
白いタキシードに身を包み、森の中にひっそりと佇む教会で。
誰もが一度は憧れる六月の結婚式。天候にも恵まれた大安の今日、僕は新たな家族を迎え入れ、新たな門出を迎えることになるだろう。
なんだか落ち着かない僕は、何度も姿見の前に立って身なりを確認してしまう。
多くの参列者の前でみっともない真似は見せられない。
相手の女性は勤め先である専務の一人娘で、過去に男性と付き合った経験がなく、大切な宝物のように可愛がられてきた箱入り娘らしい。
蝶よ花よと何不自由なく育てられてきたから傲慢になりそうなものだが、彼女の性格はとても明るく社交的。街を歩けば男女問わずに目を引く容姿に、息を吞むようなスタイルからは包容力が満ち溢れている。
ちょっと嫉妬深くはあるけれど、裏を返せばそれだけ僕に惚れているということで欠点足り得ない。
そんな女性と結婚するのだ。上司の覚えめでたく出世コースは間違いないだろう。
既に打ち合わせなどは済ませていて、後は時間が来るのを待つばかり。
式の前に花嫁と会うのはよろしくないということで特にやることもない。
だから僕はもう一度姿見を確認し、不自然なところがないかを確認する。
大丈夫。どこも変じゃない。
清潔感があり汚れ一つ見当たらない。
曇り一つない磨かれた鏡にはいつもと同じ自分の顔が映っている。
恵まれた天候。恵まれた結婚。
不満など、とてもではないが口に出来ない、これ以上ないくらいの絶好な結婚日和。
……ただ、僕の表情だけが優れなかった。
マリッジブルーとは花嫁が発症するものだと思っていたが、どうやらそうでもないらしい。
男のくせに女々しい僕は、こんな気持ちのまま結婚していいのかと自問を繰り返していた。
僕には忘れられない相手がいる。
結婚式当日にこんな事を思うのは筋違いだし不誠実だと思う人もいるだろう。事実その通りだと思う。
でも、どうしても彼女のことが忘れられないのだ。
触れれば壊れてしまいそうなほど儚く、いつも憂いを帯びた瞳で窓の外を眺めていた彼女――夏樹円の事が。
彼女と初めて出会ったのは僕が12歳の頃、今から10年も前になる。
当時の僕は夏休みを利用して初めて母方の実家に帰省していた。周囲は360度自然に囲まれており、そこは良くも悪くも田舎だった。
普段とは違う環境で、僕は大人たちの退屈な話から逃げるために外に飛び出していた。
あちらこちらから弾んだ蝉の声が五月蝿くて、緑林からの木漏れ日が僕の冒険心を駆り立てた。
初めて訪れた場所だ。当然友達なんていないし子供の足で行ける距離なんて限られている。
それでも僕の心は踊っていた。地理にも詳しくないからこそ、まるで別世界に来たような、ありとあらゆる光景が新鮮だった。
迷子にならないようにだけ気をつけて、僕はそこら中を駆け回った。
荒く弾む息が、流れ出る汗すらも心地良かったのを覚えている。
目的地もなく、無造作に進んで辿り着いた先。民家から離れたその場所で。
青い屋根。
白い壁紙。
鉄柵に囲まれた大きな屋敷だった。
怖いもの知らずだった当時の僕は柵の隙間を通り抜けて、綺麗に整えられている芝生に足を踏み入れた。
忍び込んだ庭先で、何かに導かれるようにして視線を上げた。
そこで僕は彼女に出会ったんだ――夏樹円に。
屋敷の二階窓。
触れれば壊れてしまいそうなほど儚く、どこか憂いを帯びた瞳で窓の外を眺めていた彼女。
艶やかな黒髪に白のワンピース。目に痛いぐらいの青空が瞼に焼き付いた。その全てが彼女によく似合っていると思った。
「ねっ、ねえ! そこでなにやってるの!」
気がつけば声をかけていた。
今思えば失笑してしまう。勝手に忍び込んでいながら、家人に「なにやってるの」はないだろう。
不躾な僕に彼女は少し驚きながら、それでも律儀に答えてくれたのだ。
「……なにもしてないよ。ただ夏を見ていただけ」
鈴の鳴るような声とはよく言ったものだ。彼女の口から出た音は、夏風に揺られる風鈴よりも澄んだ音色だった。
「夏をみる? それって楽しいの?」
「わからないわ。でも、それしかできないから」
「よかったら一緒に遊ぼうよ! すっごく楽しいよ!」
彼女と言葉が交わせたことが嬉しくて、キレイな女の子と話せたのが誇らしくて、ちょっとだけ気恥ずかしかった。
窓枠が彼女を讃える額縁で、一枚の絵画として完成されていた。完成されていたからこそ手を伸ばし、触れ合ってみたいと、そう思った。
夏特有の暑さとは異なる、まるで別種の息苦しさから顔に熱が集まるのを自覚した。
彼女を一目見た瞬間、たぶん、その時に僕は恋に落ちていたんだと思う。
「ごめんなさい、わたしは身体が弱くて家の外には出られないの」
深窓の令嬢然とした彼女はそう言った。
「そうなの?」
「だから、ごめんなさい……」
「そんな、別にあやまるようなことじゃ――」
心底申し訳なさそうに謝る彼女に言いかけて、
「円? 誰と話しているの?」
おそらく彼女の母親だろう。
部屋の奥から大人の女性の声で遮られた。
ここで不法侵入している事を思い出して、僕は慌てたよ。
子供にとって大人に叱られる恐怖は何よりも恐ろしかったから。
「あぅ、えっ、あ……」
「行ってっ」
慌てふためく僕に、彼女は言ってくれた。
「で、でも」
「はやくっ。見つかったら怒られちゃうわ」
「まっ、また来るから!」
焦燥というには可愛らしいやり取り。
まだ話していたくて、でもどうすればわからなくて、一方的に、言い捨てるようにして逃げ帰るのが僕の精一杯だった。
そして興奮冷めやらぬまま家に辿り着き、冷静になったところで出所のわからない使命感に満ち満ちていた。
彼女の寂しそうな顔をどうにかしたいと、僕はそう思ったのだ。
「今日ね、青い屋根の大きな家できれいな子に会ったんだよ!」
その日の晩。
僕は祖母に今日の成果を自慢するように言った。
「……その子とはもう話しちゃ駄目よ」
でも返って来たのはそんな無情な一言。
理由を尋ねても祖母は言葉を濁すだけで何も言わず、ただただ悲しそうな顔をするだけだった。
納得できない無知なる僕は、祖母の言いつけを護らず次の日も彼女に会いに行った。
「こんにちは!」
「本当にまた来ちゃったのね……」
どこか困ったようで、でも少し嬉しそうに微笑む彼女を見て、僕は間違っていないんだと自信が持てた。
それから時間あるときは足げく通うようになっていた。
彼女の両親に見つかりそうになったら逃げ出して、時には掴まって怒られもしたけど、それでも僕は止めようとは思わなかった。
彼女とは色んな話をした。
彼女は身体が弱いらしく、学校には通っていないらしかった。
だから僕は彼女に学校のこと、友達のこと、住んでいる街のことを。
変わりに彼女はいつも読んでいる本のこと、両親のこと、好きな花のことなんかを教えてくれた。
話題なんかは何でもよかった。
ただ時間を共有して、お互いに知らないことを教え合うのが楽しかった。
それが僕の当たり前で、僕の日課となりつつあった。そんなある日、
「わたしね、もうすぐ死んじゃうんだ」
「え……」
唐突に告げられた事実が、僕は信じられなかった。
「だからもう来ないでね」
「なん、で……」
「別れるとき、つらくなるもの」
そのとき彼女が浮かべた表情を、僕は生涯忘れないだろう。
「今までありがとう。とても楽しかったわ」
「……」
肯定も否定もできない愚かな僕に、彼女はいつも微笑みを向けてくれた。
それが無性に悲しくて、悔しくて、
「そんなの……! そんなのいやだっ‼」
僕は逃げたのだ。
子供みたいに、事実子供だった僕は一刻も早くその場から離れたくて、逃げ出した。
彼女に励ましの言葉すら吐けなかった自分に失望した。
走り去る僕の背中を見ながら、彼女が静かに涙を流しながら見送っていることに、僕は気づけなかったのだ。
家に帰って布団を頭から被った僕を家族が心配してくれたが、僕は何も言わなかった。
いや、言えなかったのだ。
逃げ出した自分が情けなくて、恥ずかしくて。誰かに知られてしまうことに耐えられなかった。
蒸し暑い布団の中だったけど、胸を締め付ける息苦しさを誤魔化すには他の方法が浮かばなかった。
祖母がなんで彼女と会うのを止めたのか、僕はここでようやくわかったのだ。
死なんてもっと縁遠いものだと思ってた。
自分とは関わりのないものだと思ってた。
僕はどこまでも無知で愚かな子供だったのだ。
彼女がいなくなる。
彼女に会えなくなる。
それがとてもつらくて、悲しくて、苦しかった。
声を押し殺すようにして泣いたのはこれが初めてだっただろう。
そんな僕の心情を察したのかは知らないが、次の日から雨が続いた。
縁側から降りしきる雨を見て、雨音を聞いて、僕は安心してしまった。
これで会いに行かないでもいい理由ができた――と。
一日、二日と続き、三日目は気が重くなるような曇天。
彼女に会いに行こうと思えば行けただろう。でも、臆病な僕は自分に言い訳をして家から出ることはしなかった。
そして四日目にまた雨が降る。
自分から会いに行こうとしないくせに、彼女と会えないことが一番つらかった。
彼女が死んだら、こんな思いを毎日しなければならないのか。
そんなことを呆念と思った。
彼女と一緒にいたい。
もっと話をしたい。
もっと彼女の笑った顔を見ていたい。
僕は彼女のことが好きなんだ。
今まで胸の奥で燻っていた熱。
彼女を想うと高鳴る鼓動。
それらの謎が氷解し、僕の初恋が産声を上げた。
五日目。
昨日までの雨が嘘だったかのような快晴。
彼女と初めて会った時のような、目が痛くなるような青空。
この気持ちを伝えよう。
そう決意して僕は走り出した。
汗で張り付く髪が鬱陶しかったのを今でも鮮明に覚えている。
たどり着いた屋敷。しかし二階に彼女の姿はなかった。
屋敷の門には施錠され中から人の気配は感じられない。
ちょうど通りかかった人に聞いてみると、
「ん? 夏樹さんなら二日前に帰ったよ」
それを聞いて僕は愕然とした。
二日前。それは僕が行こうとすれば行けた曇りの日だ。
「もともと長く滞在するつもりはなかったらしいけど、なんでも急に娘さんの病状が悪化したとかで慌ててたよ」
教えてくれた人が離れていく。
お礼も言えないまま、僕は立ち竦んでいた。
彼女はここから離れる前に、僕に真実を話してくれたのだ。
たぶん、体調が崩れてきたことも関係していたのだろう。
そんな簡単なことにも気がつけず、自覚した思いも伝えられぬまま彼女は去ってしまったのだ。
僕は予感していた。二度と彼女に会う事は出来ないと。
あの夏風に揺蕩う艶やかな黒髪も。
あの憂いを帯びた儚い瞳も。
あの鈴が鳴るような綺麗な声も。
そして花が綻ぶような微笑みも。
僕は二度と見る事が叶わないと、そう理解してしまったのだ。
僕は外から彼女を見るのが好きだった。
僕が会いに行ったとき、嬉しさを隠すような、あの顔が好きだった。
僕は、自分のことばかりだ。
彼女がどんな思いで自分の死を告げたのか。
彼女がどんな思いで僕と一緒にいたのか。
怖くないはずがない。
誰だって死ぬのは嫌だし、助けて欲しいに決まってる。
僕は彼女の微笑みに隠された気持ちに気づけなかった。
僕は逃げ出して、彼女の気持ちを踏みにじったのだ。
遅すぎたのだ。何もかも。
いまさら言っても、もうすでに終わってしまったのだ。
僕はその場で崩れ落ち、言葉にできない声が慟哭となって漏れ出した。
反省、後悔、謝罪。
いつも彼女と話すとき、五月蝿くて煩わしい蝉の声が僕の声を隠してくれた。
前日の雨でぬかるんだ地面に、僕の涙が吸い込まれて、消えていく。
そんな独善的な涙に価値はないと、そう、突きつけられているような気がした。
それもまた僕の勝手な、利己的な懺悔。
誰かに口汚く罵られ、責められて、楽になりたいと。
そんな身勝手な感情の発露が生み出した被害妄想だ。
事ここに至っても僕は自分のことばかりだ。
彼女がいなくなっただけで、見上げる青空も、緑林の木漏れ日も、すべてが色褪せて見えた。
彼女が見ていると言った夏。
見ている事しかできなかった季節。
その日から、僕は、夏が嫌いになった。
――コンコン
僕はノックの音で現実へと引き戻される。どうやらいつの間にか式の時間が来ていたようだ。
本来なら僕から迎えに行かないといけないのに、向こうが先に痺れを切らしたようだった。
「ガッハハハハハッ‼ なかなかに来ないので此方から出向いてしまったぞ!」
扉から出てきたのは筋骨隆々という言葉が似合う筋肉の妖精さん。
盛り上がった筋肉からは蒸気が見えるような気さえする。
いまだ色あせない、たった十日間の夏の思い出。
触れれば壊れてしまいそうな少女は、もういない。
病気に打ち勝った彼女は自らを鍛えぬき、今では鋼の肉体を手に入れていた。
前に金属バットを曲げるのを見せてもらったので間違いない。
「ガッハハハハハッ‼ この夏樹円――いや、今日から姓は斎藤になるんだったなっ! この斎藤円、不束者ながら良き妻として精進するのでよろしく頼む‼」
照れたように顔を赤く染め「今夜は寝かせんからな‼」そんな殺人予告をする彼女と、僕はこのまま結婚していいのだろうか。
嗚呼……誰か助けて。
僕は今日、|結婚する(人生の墓場に入る)。
噓はついていない( `ー´)ノ
……ごめっ、マジごめッ(´・ω・`)!