わが身一つは
一、
こんなにも、
光はここに照っているのに、
こんなにも、
薫りは辺りに満ちているのに、
月はどこへいったのか、
花はどこへいったのか、
立ちてみても、見つからぬ、
坐してみても、見つからぬ、
するとあれが、月なのか、
するとあれが、花なのか、
いいや、似ても似つかぬ。
去年に見たあの月とは。
あの方と見たあの花とは。
月はない。
あれはもう、昔の月ではない。
春もない。
春はもう、春と呼べるものではない。
あの頃の月は一体どこへ行ったのか、
あの頃の春は一体いつ変わってしまったのか、
教えてくれ。
朽ちたこの板敷に眠れば、
あの月が、あの花が見られるのだろうか、
せめて夢の中だけでも、
あの方に会うことができるのだろうか、
誰か、教えてくれ。
答える者もない、
この夜は、一体、
いつのものか。
どこのものか。
この夜にただ一つある私は、
一体、何なのか。
月やあらぬ
春や昔の春ならぬ
わが身一つはもとの身にして
「探して下さいませんか?」
それは言った。
「探す・・・」
童女の声が問い返す。
「何をです」
「それが、少し難しいのですよ」
それは言った。
「何故です」
「何を探せばよいのか分からぬからです」
「・・・」
「月か、春か、それとも我が身か」
――私にも、分からぬのです。
そう、言った。
朝の庭であった。
まだ日の光は頼りなく、草木には夜露が残っている。
その庭に立ち、興風は花を一輪、白い指の先につまんでいた。
古い松の傍である。
その木の根元に、それは落ちていた。
何かを思うように、興風はその花をじっと見つめている。
「興風様」
童女の声が屋敷の内より響き、興風は松の木より離れる。
草がささりと音を立てる。
「あや、どうした?」
「分からないのです」
と、あやは答える。
「何が分からない」
「春とは、どのように見つけるものでしょう」
「春?」
興風が、今しがた己がいた庭へと目を向ける。
初夏の青い草葉が茂る庭であった。
「なぜ、春を見つけたいのだ?」
「聞こえたからです、探してほしいと」
「業平か」
「そう、なのでしょうか。少し、違うもののような気もします」
「春を探せと?」
「月は、空にあります。でも、春とはどこにあるものなのでしょう」
「そうだな・・・」
興風は縁側へと座す。
「春の庭、といえば、何が浮かぶ?」
「春の庭・・・花でしょうか。梅や、桜などの」
「春と聞いて、浮かぶものこそが、春だ」
「では、梅や桜を見つければ、そこに春があるのでしょうか」
「いいや、梅や桜の中に春が宿るわけではない。春は、梅や桜をみた己の中に宿るのだ」
「己の中に・・・」
「春などというものが、どこかにあるわけではない。春とは人の作りし文だ。その文が梅や桜を春という言葉に繋ぎ止めている」
「では、どのように探せばいいのでしょう」
童女の声が問う。
――どのように、己を見つければよいのでしょう。
童女の、声がした。
ただ、暗いところであった。
闇と呼ぶほど黒ずんではいない。
だが、周りに何があるのかは分からない。
暑くもなく、寒くもなく。
静かであるが、音がないわけでもない。
どこか遠くで風の音や、揺れる草木の音がする。
ただただ、暗いところであった。
その中を、一人歩いていた。
見えないながらも、どこかに向かっている気がした。
しかし、行き先は思いあたらなかった。
ぼんやりと、前に向かって足を進めているだけである。
どれほどの時が経っているのかは、分からない。
時折、誰かの声が聞えた気がした。
それを頼りに歩いてみるが、どこにもたどり着くことはなかった。
歩いても歩いても、どこにも行きつけない。
この暗い中を、ただ一人歩き続けていた。
何かを、探していたはずであった。
けれど、それが何であったのかは、思い出すことができない。
大切なものであったようなのに、何一つ。
歩き疲れ、立ち止まると、何かが胸に引っ掛かる。
探したい。
探さなければならない。
けれど、何を?
けれど、どうやって?
立ち尽くしたまま、途方に暮れていると、
――どのように、己を見つければよいのでしょう。
鈴の音のような、童女の声がした。
かさりと、庭で何かが音を立てる。
あやは、そっと障子を開く。
光はまだ弱いままだが、少しばかり眩しそうに眼を細める。
傍に、興風が腰かけている。
あやは庭を見渡す。
それから松の木の傍に、あるものを見つける。
小首をかしげて、しばらくそれを見つめ、やがて興風へと向き直る。
「興風様」
あやが問う。
「あれは、何ですか?」
「見てのとおりのものだ」
応える声は、心なしか楽しげである。
「何故、あそこにあるのですか」
「さて、拾ったと言うべきか、ついてきたというべきか」
あやが、さらに何か問おうとした時、
「また妙なものを拾いましたなあ」
屋敷の内より、老人の声が加わった。
「斉翁、戻っていたのか」
「ええ、先ほど」
「東の地はどうであった?」
「なかなか面白いものもございましたが、業平に関わりのありそうなものは見つかりませんでした」
それよりも、と、
「あれは、一体どうされたのです?」
斉翁も問う。
「昨夜、業平が来た」
「業平殿が?」
「それでこんな話をしたのさ」
『ご存知ですか、興風殿』
と、それは言った。
「何を?」
興風が答える。
興風の屋敷である。
すでに夜も深い。
満月にほど近い月に照らされて、夜の闇も蒼い。
『五条にある、さる屋敷に出るもののことです』
「出るもの?」
『ええ、その屋敷、既に人は住んでおりませんが、宵を過ぎてその屋敷の前を通ると、明かりが一つ灯っているというのです』
さる貴族が女のもとに通うため、牛車で出かけた。
屋敷に差し掛かった時、ふいに冷たい風が吹き、従者の持っていた松明が揺らめく。
その風は御簾の隙間をくぐり、車の中にも入りこんだ。
驚いて、思わず外を見れば、はたして、荒れ果てた屋敷の前である。
古びた垣根の隙間から、青白い光が見える。
それは、人と同じくらいの大きさで、左右に僅かに揺れているようである。
それの上部には薄暗いところが二つあり、横に並んでいる。
まるで、人の目のようだと思った時、
それがこちらへと向けられた。
従者を急かして、慌ててその場を離れた。
今にもそれが、こちらに近づいてくるのではないかと思ったからだ。
幸い、そのようなことはなかったが、それ以来誰かがその屋敷を通り過ぎると、決まって青白い光が見えるという。
「ふむ・・・」
『興味はありませんか』
「興味があってほしそうな物言いだな」
『――』
「別に、良いではないか」
しばらく間をおいてから、興風は言った。
「ただそこに現れるだけで、害もないのであろう?」
それならば放っておいてもよかろうと言って、それを見上げる。
『しかし、これから害になるかも知れませんよ。一度、見に行かれてみては』
そう言って、とつとつと、屋敷の詳しい場所を語りだす。
「業平」
興風はそれの名を呼ぶ。
「俺にどうして欲しいのだ」
『・・・分かりませぬ』
「分からぬ?」
『それで、ここに来たのですよ。どうしてやるのが良いのか、私にも、まだ分からぬものですから』
「業平」
と、興風が言う。
「その話、どこで聞いてきた?」
答えず、夜の闇の中をそれは滑るように行く。
興風はしばらくそれの消えた闇を見つめていたが、やがてゆるりと立ち上がる。
すっと、障子に明かりが灯り、娘の影がそこに映る。
「お出かけですか、興風様」
「ああ、留守を頼むぞ、影」
「はい。誰かお供をいたしましょうか?」
「一人で良い」
応えると同時に、興風は蒼い闇へと踏み出していた。
程なくして、興風は件の屋敷の門前に立っていた。
門とはいっても、戸はもはやない。
かつてそうであっただろう木の板が、傍に崩れ落ちている。
仮にまだそれが健在であったとしても、土塀にもあちらこちらに大きく穴が開いており、大の大人でも 容易に入り込めそうであった。
興風は瓦礫となった戸をするりと避けて、中へと足を踏み入れる。
荒れ果てた屋敷であった。
外見に違わず、中も壁が所々崩れており、とても人が住めそうにない。
庭もまた、雑草が生い茂り、人の踏み入る隙もなさそうであった。
その庭に、男が一人立っていた。
「それで声をかけてみたのさ」
しかし男は気づいているのかいないのか、全くの無反応であった。
月の光に照らされながら、ぼんやりと朧な空を見上げているだけであった。
三度声をかけても同じであったので、肩に手をかけてみるが、それでも男に動きはない。
「それで、どうされたのです?」
「放っておいて、帰ることにした」
「帰ったのですか?」
「害のあるものでのなさそうだし、害を受けそうなものでもないからな」
仕方なくそのまま踵を返し、屋敷の門を出ようとした時、ふいに後ろで気配がした。
振り返れば、すぐ後ろに男が立っていた。
何か用でもあるのかと、再び声をかけてみるが、やはり男はぼんやりと立ち尽くしているだけである。 それでも興風が歩き出すと、ゆっくりとその後に付いてくる。
どこまで付いてくるのか興味がわき、そのまま歩みを進めていれば、とうとう、興風の屋敷まで付いてきたのであった。
「屋敷の中までは入らぬようで、庭を歩きだしたところで、ちょうど夜が明け――」
ああなった、と松の木の傍を興風が指差す。
「面妖ですなあ。しかし、業平が関係していることに間違いないでしょうなあ」
「そうだな。そして、きっとお前の話にも・・・」
そう言って、興風は先ほどからその指先につまんでいた花を、あやへと手渡した。
童女の小さな手の平に乗せられたのは、一輪の梅の花であった。
二、
ここは、どこであろうか。
ここには、
月はない。
春もない。
いいや、そうではない。
月もあり、春もあるのに、
それは私の知らぬものになってしまった。
私が知るのは、
私というものだけ。
ただ一人、取り残された私だけ。
ただ一つ、あの日のままの、
私だけ。
あの方のいないここに、
あの方のいない今に、
私もいない。
虚ろな身だけが、ここに立っている
「ならば何故、探さぬのか」
それは言った。
「何故、探しに行かぬのか」
それは言った。
――知っているだろうに。
「お目覚めですかな」
どこからか、老人の声が言う。
聞き覚えのない声であった。
すぐ近くから聞こえたようなのに、その姿は見えない。
相変わらず、暗い中に一人立っている。
「ここがどこか、お分かりですかな」
「いいえ」
声の聞こえた辺りに向かい、答える。
「ここは、興風様のお屋敷」
「興風様・・・?失礼ながら見知らぬお方のようですが。それに、屋敷とはどこに・・・」
「分かりませぬか。ここですよ」
声の聞こえてくる方へと目を凝らしても、何が見えてくるわけでもない。
「分かりません。ここは一体・・・私は、何故ここに・・・」
「そう、それを我らも知りたいのです」
と、老人の声が言う。
「そなたは一体、何故あの屋敷におられたのか」
「あの屋敷?」
「さよう、昨夜の屋敷でございますよ」
「はて・・・」
夕べのこととは、いつのことなのか。
ずっと夜のままだというのに。
「どこの屋敷のことでしょう。私がそこで何かしたのでしょうか」
「それを我らも知りたいのです」
老人が、同じ言葉を繰り返す。
「今頃、あのような屋敷で、何をされておられたのか」
「申し訳ないが、何も覚えていないのです」
「ほぅ、それは弱りましたなあ」
声はどこかくぐもっていて、遠くの方より聞こえている。
一体、どこから声をかけているのであろう。
「では、その前のことはどうでしょうな」
「その前・・・」
「屋敷に行く前のことは?」
「いつものように、内裏を出て、自分の屋敷へ戻ろうとして・・・」
「いつものように、ですか」
「ええ。特に変わったことはなかったはずです」
「それで、帰りつけましたか」
「いいや・・・」
そういえば、途中までしか覚えがない。
途中で気でも失ったのだろうか。
そういう病もあるという。
倒れる寸前に、助けを求めて、どこかの屋敷にでも入ったのかもしれない。
そうだ、帰らねばならない。
しかし何を目印に帰ればよいのか。
右を見ても左を見ても、何もないのに。
「どうかされましたかな?」
「屋敷に帰らないと」
「ご自分の家のことは覚えておいでですか」
「もちろんです」
不思議なことを問うものだと思う。
「しかし、すぐはおやめになった方がいい」
「何故です?」
「お顔を見るに、気分が良さそうにはとても思えませぬ」
「そうでしょうか。特に感じませんが」
言ってから、ふと思う。
どこから私の顔を見ているのか、と。
「それに」
声が重ねて言う。
「何の準備もせずお帰りになっては、屋敷の者も驚かれましょう」
「驚く?何故です」
よほど顔色が優れないのだろうか。
「ともかく、しばらくここでお待ちください」
声が少しばかり遠のく。
「いずれ、何もかも思い出しましょう」
「どうなされます?」
それから離れて、斉翁が問う。
「帰りたがっているのなら、連れて行ってみるか」
「よろしいので?」
「おもしろそうだ」
と、興風は薄く笑う。
「本人は、場所を覚えているのか?」
「そのようですが、あれでは見えませんからな。聞き取る方も、あれだけ耳元で話しかけて、やっと通じるくらいですし」
「ようよう動いているだけのもの、か。だが動けるということは、あれを動かすだけの何かがあるということだ」
「何か?」
「執念か、妄念か、それとも・・・」
興風が庭に背を向ける。
「夜になれば、また動きだすだろう。それまでにめ(、)を用意しなければならないな」
その夕刻のことである。
夕暮れの庭と、手の平に乗せられた花と、松の傍のものとをあやは見比べていた。
出かけていた興風も、しばらく前に戻ってきて、あやの隣に坐している。
「春は、見つけられそうか?」
興風の問いに、
「いいえ・・・」
あやは首を振る。
「何の話でございますの?」
障子に映った影が問う。
「頼まれたの。探してほしいと」
あやが昨夜の話をすると、娘の影は頬に手を当てて、首をかしげる。
「まあ、不思議な話ですわねえ。それがどこのどなたかも分からないのでしょう?」
「ええ」
「けれど、月は沈んでまた昇り、春も過ぎてはまた巡る。形として捉えられなくとも、春が巡って来れば感じられるもの。それを見つけられないのだとしたら、我が身にこそ問題がありそうですわね」
「もしもその声の主が、あれだとすれば」
と、興風は言う。
「確かに、問題はありそうだ」
「昨夜いらしたのは、業平殿とあの者だけですから、おそらくはそうなのでしょうが」
と言って、影は再び首を傾げてみせる。
「一体、それらを見つけて、どうしたいのでしょうね」
「お待たせしましたな」
老人の声が、再び話しかけてきた。
あれから、どれほどの時が経ったのか。
辺りの様子に変わりはない。
「我々が案内いたしましょう」
と老人は言った。
「ありがとうございます。できれば、夜が明ける前に帰りつきたいのですが、ここからは遠いのでしょうか」
屋敷の場所を伝えると、
「そう、遠くはございませんよ、しかし出かける前に、やらねばならないことがあります」
「やらねばならないこと?」
「まずはこれをお持ち下され」
何かが右手に触れる。
感触から、何かの木の枝のようである。
「これは?」
「松ですよ」
それだけ答えると、
「興風様」
老人の声が誰かを呼ぶ。
強い風が起き、手に持った松の枝がざざりと鳴る。
それが治まると同時に、目の前に色の白い細身の男が現れる。
「あなたは?」
「昨夜、お会いしたものですよ」
そう言って、興風と呼ばれた男は薄く笑む。
それから、手に持っている筆を、こちらへと向ける。
「失礼いたしますよ」
目の前に出されたために、慌てて目を閉じれば、まぶたに毛先が触れる。
「一体、何を?」
「め、です」
「め?」
「目が見えぬのでしょう?」
「それでずっと暗いままだったのですか。しかし、あなたのことは――」
目が見えぬのならば、何故見えているのか。
こちらの問いなど構うことなく、興風は言葉を続ける。
「今のあなたは、残された感情によって導かれているにすぎない。ただそれだけでは心許ないので、こうして少し補っているのです」
毛先が離れたかと思うと、右耳に触れる。
続いて左耳。
「もう良いな。・・・あや」
「はい、興風様」
鈴の音のような声が聞こえる。
「この声は」
「どうか?」
「先ほど、聞こえてきた声に似ているので」
「ほう、その声は何と?」
「どのように、己を、見つけるのか、と」
「なるほど」
興風と呼ばれた男がなぜかじっと見つめてくる。
その時、己の手に、小さな手が触れた。
その瞬間、金色の光が辺りに舞ったかと思うと、目の前が真っ白になる。
久方の光のまばゆさに一度強く目を閉じ、やがてそろそろと開いてみれば、
「では、送りましょう」
夕日の沈んだばかりの庭に、興風が立っている。
その傍に、童女が一人。
何が珍しいのか自分をじっと、見つめている。
「あや、そんなに見るものではない」
「はい」
と、鈴の音のような声で答える。
門の前には車が二台用意されており、一台には既に黒い牡牛が繋がれているが、もう一台にはまだのようであった。
準備のできている方に案内され乗り込むと、童女と興風ももう一台の方に乗り込む。
両方とも動き出したようである。
不思議に思い、御簾を少しばかりあげてみれば、日が沈んだばかりのはずが、車の外は闇であった。
先刻まで自分が見ていたものよりもなお深く暗い闇だ。
今宵は月も出ないのだろうかと、なお外に身をだそうとすれば、ふいに何かの力で御簾が下ろされる。「おやめ下され、その姿では危ないですぞ」
あの老人の声である。
「今どの辺りを進んでいるのか知りたいのですが」
と問うが、老人は答えない。
屋敷の場所は伝えたが、本当に着くのか不安なようでもある。
車の音がごとりごとりとする以外は、何の音もない。
しばらく身を縮めるようにして、乗っていれば、
「着きましたぞ」
老人の声と同時に、車が止まる。
確かに、遠い距離ではなかったようだ。
外に出れば、薄暗くはあるが、辺りが見えぬほどではない。
目の前には見慣れた自分の屋敷がある。
幸い門がまだ開いている。
門を閉めるためか、ちょうど従者がこちらへと近づいてきた。
見知った顔であるはずなのに、随分と疲れた様子で、数年老けてしまったような顔つきのせいか、別人にも見える。
近づきながら声をかけると、従者がこちらを向いた。
まじまじと、こちらを見る。
「今戻ったぞ」
その声は突然の従者の叫び声にかき消された。
叫びながら、その場に尻もちをつく。
「どうしたのだ、私だ」
さらに近づこうとすれば、そのままの状態で後ずさりをしながら、従者は傍に落ちていた石を投げつけてきた。
かつりと、頭に当たった。
石の当たったところを手で押さえてみるが、幸い血は出ていないようである。
従者はその間に,這うようにして逃げていく。
悲鳴を聞いて駆け付けた者達も、こちらを見ると次々と驚愕の表情になり、従者を助け起こして逃げ去っていく。
なおも後を追おうとするのを、興風が止めた。
「ここは一度、この場を去った方がよろしいでしょう」
「しかし」
戸惑っている内に、新たに男達が数人こちらに向かってくる。その手には各々刀や弓がある。
それが自分に向けられるであろうことはさすがに察しが付く。
「さあ、参りましょう」
興風に手を引かれ、走る。
車へと乗りこむ。
自然と今度は興風も同じ車に乗り込むことになる。
「もう大丈夫ですよ、ここまでは彼らも追っては来ません」
「一体何が起きたというんだ」
「さあて・・・」
興風の口元は、僅かにほころんでいるように見える。
「彼らの様子は尋常ではなかった。私のこともまるで分からないようでしたし。まるで鬼か物の怪にでも憑かれたようでした」
「何か理由があるのでしょう。ここがあなたの屋敷であることに間違いはないのでしょう?」
「ええ、そういえば見知らぬ顔の者もおりましたが、私が帰らぬことを心配して、親族が使いの者をよこしたのでしょう」
「では、私が少し中を探って参りましょう」
車の外で老人の声がそう言った。
「頼むぞ、斉翁」
「大丈夫でしょうか。危険ではありませんか」
「斉翁なら大丈夫ですよ。それよりも、これからすべきことを考えましょう」
平然と興風が言う。
「しかし、一体何をすればよいのか、私には見当もつきませんが」
「思い出せばよいのですよ。あの屋敷で何をしていたか」
「そうすれば、全て良くなると?」
「少なくとも今よりは良いのではありませんか」
「しかし思い出すにも、その屋敷というのがどこのことなのか、どうやって思いだせばよいのか」
「今一度そこへ行ってみればいいのです。幸い、場所は私が存じておりますから」
「分かりました。では、参りましょう」
荒れ果てた場所であった。
都の中にありながら、まるで遠い山野にいるかのように、もの寂しい場所であった。
興風に促され、一歩踏み入る。
昔はさぞ雅であったろう、梅の木の植えられた庭も、雑草の生い茂り、足を踏み入れる隙間もない様子であるのが、なおうら悲しい。
知らない屋敷であるはずなのに、この庭にはどこか見覚えがあった。
「何か思い出せそうですか?」
興風が問う。
梅の木と、伸びきった草と、朽ちた屋敷。この場所で、
「私は、何かを探していた気がするのです」
「それが、この屋敷にあると?」
そうなのだろうか、と男は思う。
ここに、あるのだろうか。
あれが。
「どうなされた?」
「なにやら胸が騒ぐような」
応えながらも、庭の梅の木へと目が行く。
「やはり、あちらが気になるのですね」
「やはり?」
「先ほどから、あちらにばかり目を向けているようですので。それならば、あれが役に立つかもしれません」
そう言うと、興風は傍の童女へ目を向ける。
「あや。あれを持ってきたか?」
「はい」
あやが、その手に乗せていたものを男へと差し出す。
「これは・・・」
「あなたの衣に付いていたものですよ」
梅の花が、一輪。
それを受け取ると、
芳しいその香に、男は目を閉じる。
頭の中によみがえった姿は、胸の内に強い痛みを起こさせる。
「女にございます」
男は、言った。
「私はある女を探していたのです」
三、
叶わぬ恋であった。
許されぬ想いであった。
つまらない身の上の私には。
届かぬ女であった。
けれど、春の初めの強い風が、御簾の中の彼女の姿を私の心に焼きつけた。
そしてその女の心にも。
それが良いことであったのか。
間違いであったのか。
いつしか、共に思いを交わす仲となっていた。
声を聞けるだけで良かった。
共に同じ季節を愛でられるだけで良かった。
月を見ながら、春の草花を見ながら、時の移りを同じように感じられるだけで。
しかし、人の知るところとなり、彼女は他所へ移されてしまった。
会う前なれば、諦めもついただろう。
けれど、巡る季節の中で、言葉を交わしあった、
歌を贈りあい、共に同じ花を愛でた、
そのような仲であって、どうして諦めることができるだろうか。
どうして忘れることができるだろうか。
「私はその女の居場所を尋ねまわりました」
「それで、見つけられたのですか?」
「いいえ、消息を掴むことはできませんでした」
「そうですか」
男は空を見つめる。
「・・・あの方の去った庭にも、変わらず花は咲き、変わらず月は光を注ぐ・・・」
けれど、違う。
全く違う。
それはもう、二人で見ていた月ではない。
あの女のいないここには、もう春は訪れない。
「どうなさいました?」
そのまま動かなくなってしまった男に、興風は声をかける。
男は返事もせず、立ちつくしている。
「昨夜とまるで同じだな」
興風達が見守る中、ぽつりと、男が言葉を放つ。
「月やあらぬ 春や昔の・・・」
「興風様、この歌は・・・」
「業平殿の歌ですな」
老人の声に振り向けば、翁の面が浮いている。
「斉翁、どうであった?」
興風が問う。
「確かにあの男、行方が分からなくなっていたようです」
「女を探していたと、言っているが」
「確かにそのようです。もっとも、一年ほど経っても、見つけられなかったとか」
何一つ分からぬままに時は過ぎ、過ぎるにつれ、男は憔悴していく様であったという。
「何か思い悩んでいた様子だったため、従者達は随分心配していたようです」
そして、季節が巡りまた春を迎えた頃、
「男は屋敷を一人で出かけ、そのまま戻らなかったようです」
「悩んでいた、か。斉翁、この屋敷のことは、何か聞いたか?」
「いいえ、誰も知らぬようでした。女が前に住んでいた屋敷は別の場所のようですし」
「そうか。ならば、見つけたということか」
「見つけた?」
「ここは、女が移されてきた屋敷ということさ」
「だとすれば、少し話が違うようですね」
あやが言う。
「どういうことでしょう?」
「隠しているのか、記憶が混じってしまっているのか・・・」
ただ、暗いところであった。
ただただ、暗いところであった。
あの方がいないこの浮世では、
月はもう輝かず、
春はもう花開かない。
もはや何もない。
――なぜ探さぬのか。
誰かが問う。
誰を、何を。
どうやって。
「本当は知っているのでしょう?」
鈴の音のような声が言った。
「見つけましょう」
風に梅の香が匂う。
闇色の瞳が、再びこちらに向けられている。
興風と、翁の面を被った老人もいる。
「何を・・・」
「あなたの探すものを」
男は頭を振る。
「もう、いいのです」
「いい?」
「もう分かったのです、月も春ももう二度と見つけることはできない。見つけたところで、何の意味もないと。あの方のいないのならば、我が身さえも、何の――」
「だから、見つけるのです」
興風が言う。
「そのために、あなたはここに来たのですから」
「何のことでしょう。ここには、もう探すものなど」
「梅の花を」
男の言葉を遮って、興風が手を差し延ばす。
促されるまま一輪の花を手渡す。
興風は受け取ると、ふっと息を吹きかける。
花びらが、はらはらと散る。
あやがそちらへと手をのばせば、花びらは文字へと変わった。
「春」
という文字がほのかに光を放ちながら夜の中を舞う。
文字は吸い寄せられるように、梅の木へと近づき、やがてその根元へと落ちた。
斉翁はそこへ近づくと、草をかき分け、地を覗く。
「さして深いところにはありますまい」
斉翁は屈むと、手でそこを掘り始める。
見つめながら、男は胸をおさえる。
そこに何があるのか、知りたいようで、知りたくはない。
知ってしまえば、思い出してしまえば、また、悲しみや苦しみが戻ってくるような気がする。
それが、恐ろしい。
斉翁の手が、止まった。
「ありましたぞ」
地中から何かを取り出す。
「これが、あなたにとっての春だったのですね」
あやが、斉翁から受け取ったそれを、男へと差し出す。
それは、女の髪であった。
震える手で、受け取る。
土にまみれたその髪に、頬を寄せる。
「ずっと、ここにいらしたのですね」
女に語りかけるように、男は呟く。
その目から、涙が一つ。
「私は・・・知っていたのです。」
女が移されて、三月ほど経った頃のことだった。
居場所を人に聞くことができた。
しかし、そこは守りに常に人が付いており、忍び入ることのできるところではなかった。
とても会うことはできぬと、肩を落とすしかなかった。
「私が諦めたのがいけないのでしょう」
諦めたということは、あの方との恋を捨てたのも同じ。
あの方の想いを捨てたのも同じ。
そして、
「あの方は、私が知っていることを知っていた」
次の春のことであった。
人づてに、あの方が病で亡くなったことを知ったのは。
亡くなったことでようやく、その屋敷に行くことができた。
共にも告げず参ったのは、ただ一人で、あの方に会いたかったからである。
女の亡骸はすでに野辺の送りに出されている。
けれど、女は亡くなる前に髪を切っていたという。
その髪をどこかに隠し、その場所は誰にも分からなかった。
どうして、髪を切ったのか。
もう浮世の恋を諦めたのか。
それとも、ここに留まりたかったのか。
髪に、己の霊を託して。
私がここを訪れるまで、待つつもりだったのか。
家の者はすでにそこを引き払っていた。
もはや誰も住む者のない屋敷の庭で、梅の花だけがただ一つ変わらずに、咲き誇っていた。
その花の下で、一人思う。
分かってはいた。
変わったのは、月でも春でもなく、
この私だということも。
知ってもいた。
あの方がどこにおられるのかも。
知ってはいても、もはや行けぬ所ということも。
分かってはいる。
月も春も、もはやないのは、
私のせいであることも。
あの方を諦め、あの方との思い出だけに縋りつく、
愚かな我が身のせいであることも。
今になって悔いたところで、どうすることもできない。
それでも悔いることしかできず、
嘆くことしかできない。
「そうしているうちに、何故自分がここにいるのか分からなくなっていきました」
女はいなくなったのか、亡くなったのか。
行った先を知っているのか、知らぬのか。
悲しみを、悔いる心を忘れたくて、
一つ一つ忘れていくうちに、
いつしか、空の自分だけが取り残されて。
「ただ、ここでずっと立ち尽くしておりました」
どこにも行けず、何も思えず。
ここにいることしか、できなかった。
「それが、どうして今頃になって」
興風の問いに、男は答える。
「声が、聞えたのです」
「声?」
若い、男の声であった。
もの悲しい声であった。
月やあらぬ 春や昔の春ならぬ
わが身一つはもとの身にして
「まるで、私の心のようでした」
あの女のいないこの世に、取り残された我が身。
それはまさに己のことであった。
本当に見つけたかったのは、月でも春でもなく、
ただあの女のみ。
その歌を聞いたことで、
「眠っていた思いが、再び戻ってきたのです」
けれど、
「思いは戻っても、記憶だけは、戻したくはなかった」
生きていれば、いつか会いにいく決意が出たかもしれなかった。
また同じ月を見て、同じ花を愛でることができたかもしれなかった。
同じ春が、巡ってくるかもしれなかった。
もう、あの女はいない。
「思い出したくは、なかった」
女の髪を握り、男は歯を食いしばる。
思い出したところで、どうすることもできない。
また、取り残されてしまった。
「いいえ、取り残されてなどいません」
興風が、言った。
「あなたはもう、女のところへ行っているのです」
男が、興風へと目を向ける。
「どういう、ことでしょうか」
「その姿をよくご覧なさい」
言われて、男は己の胸の辺りに目を落とす。
その身に纏っていたのは、長い間雨ざらしになっていたようなぼろぼろの布であった。
そして、その袖から出ていたのは、白い骨であった。
「私は――」
「随分と長い間、嘆いていたのでしょうね。あなたが行方不明になってから、すでに、三年の時が経っているのですよ」
翁が言った。
「では、私は――」
ふと、興風が柔らかく笑む。
「これでもう、傍にいられますね」
男が地に崩れ落ちる。
骨は草地に散らばったが、その両腕は女の髪を包み込むように落ちていた。
「・・・ここまで思い出せば、もう彷徨うことはないだろう」
興風が、崩れた骨へと近づく。
「終わったのですか」
あやが問う。
「いいや。・・・業平」
興風は、その骨に声をかけた。
応じるように、骨は青白い光が放ち、やがてそれから離れ、人の形となる。
狩衣を纏った、若い男であった。
童女が、闇色の瞳を向ける。
「私に声をかけたのは、あなた?」
四、
「私は呼ばれたのですよ、この男に。死んだ後にまで残る、この男の強い想いに」
若者は、骨を見下ろしながら、口を開いた。
「あなたも本当は知っているのね」
あやの問いに頷く。
「ええ、そうですとも。知っていた、どこにおられるか。そして、知っていた。そこが行ける場所でないことも」
知っているが故にどうすることもできない。
「あの男の言葉は、私の言葉でもあったのです」
「それで、あの男に声を?」
男が頭を振る。
「いいえ、あの男に声をかけたのは私ではありません」
男は視線を空に向ける。
「もう一人の私ですよ」
そこに、古びた巻物が浮いていた。
「もう一人の私が――在原業平が、私に、あの男に、語りかけてきたのです」
何故、探さぬのか。
何故、探しに行かぬのか。
そう「業平」は言った。
あの男に、私に。
それができないが故に、嘆いている我々に。
「けれど、私もあの男も、やはり会いに行くことができない」
同じく諦めることしかできない。
『それで私が興風様のもとに参ったのです』
巻物の「業平」が宙から降りてくる。
ただ、変わらず嘆き続けるくらいならば、
『いっそこの身に戻してやった方がいい』
「ならば、なぜあの時そうはっきり言わなかった?」
『諦めきれなかったからですよ』
「業平」が、言った。
『諦められないのは、私の方だったから』
もとに戻しても、何も変わらない。
痛みが消えるわけでもない。
嘆きの思いが我が身に戻ってくるだけである。
そうして、あの方は去っていく。
何も、変えられない。
『どうして、それを良しと言えましょう』
巻物が、身をよじる。
『・・・興風様が動いてくだされば、どんな形であれ、あの男の苦しみは終わる』
それが当人の望むものであろうと、なかろうと。
『あの男の行く末を見て何か思うことがあれば、気持ちを定めることができればと、そう思ったのです』
「しかし、良いのか、業平」
興風が問う。
「お前が手に入れた命は短い。これ以上戻らぬ文字が増えれば、元の物語には戻らないぞ」
『何故、我らが物語から出てきたのか、興風殿もご存知でしょう』
「そこまでしてでも、物語を変えたいか」
『たとえ全てが良くなるとは限らずとも、また繰り返すだけかもしれずとも、何か一つでも、変えることができれば、それだけで良いのではありませんか』
「そうだ、今なら、やり直せるのだ」
若者の業平が、言った。
「あの男を見ていて、ようやく分かった。月も春も・・・我が身さえも、ただあるだけでは意味がないのだと。あの方があっての月や、春。いいや、あの方こそ、私にとっての月であり、春なのだ」
だから、と業平は言った。
「探しに行かなければ。あの男の女と違い、あの方は生きているのだから」
『そうだ、探しにいけばいい』
「業平」が言った。
『そのために我々は、命を得たのだから――』
若者の姿が、霞んでいく。
闇に、何かが舞い上がる。
それは、古びた紙片である。
導くように、巻物も宙へと上がる。
その姿は、ゆっくりと闇に飲まれて行き、やがて完全に見えなくなった。
月は、雲の中に隠れている。
梅の香も、もはやない。
「興風様」
あやがぽつりと言う。
「月も春も、巡っては去って行くもの。決して、手に取ることもできないものなのに、それなのに、どうして人はそれを求めるのでしょう」
「届かぬからこそ、手に入れられぬからこそ、焦がれているのだろう」
「では、どうして、人は人を求めるのでしょう」
「・・・それが、人というものだからだ」
「私には、分かりません・・・まだ」
荒れ果てた屋敷の、草葉の伸びきった庭で、あやは呟いた。
闇色の瞳は、梅の木の根元に向けられている。
鈴の音も、すぐに紛れてしまう闇の中、男は眠っている。
その手に抱いた春と共に。