選択の洞窟 その3
「毒ガス……」
そう呟いた二葉の顔は蒼白で、闇の中に浮かび上がるその様子はまるで幽鬼のようだ。
だが、それも無理はない。毒ガスと言われたところで、それがどんなものなのか知りようもないのだ。苦しいのか、痛いのか。未知という名の恐怖は、よからぬ妄想ばかりを肥大化させていく。
良太は正臣とマリの様子を盗み見た。
マリは取り乱すような素振りこそ見せていないが、内心の焦りを表すかのように爪を強く噛みしめていた。対して正臣は平然とした態度で酸素マスクを弄繰り回している。
「それで、どうする?」
良太は三人を見回して、そう問いかけた。どの部屋に毒ガスが仕掛けられているのか。まずはそれを推理しなければいけない。
しかし良太にはどの部屋に毒ガスが仕掛けられているか、既に検討はついていた。あとはそれを他のメンバーにどう納得させるかが問題となってくる。
「そ、そんなこと急に言われても、あたしは分かんないよ……」
「そうよね……確率で言えば、四分の一だけど。どの部屋に毒ガスが仕掛けられているかなんて分かりっこないじゃない」
予想通り、二葉とマリは思考することを放棄していた。この二人には最初から期待などしていない。良太は正臣へと視線を向けた。この男が何を考え、どういう答えを出したのか。それを良太は知りたかった。
「そうですね。毒ガスの仕掛けられている場所として考えられるのは二つでしょうか」
そう言って、指を二本立てて見せた。良太は余計な口を挟まず、先を促した。
「まず、これは相手の立場に立って考えないといけません。どこに仕掛ければ、効率よく人を殺せるのか。最初に考えられるのは、最後のエリアーです」
「四つ目の部屋ってことね。根拠は?」
「……相手の立場になって考えるのです。どこに毒ガスが仕掛けられているかが分からないという状況下で、手元には一度だけ使える保険がある。人間というのは目の前に保険があれば、それにすがりついてしまうものなのですよ。いくら安全と分かっていてもね。ですから最後のエリアーまで保険を使わずに進もうなどという考えを持つ人はいない。ゆえに毒ガスを仕掛けるとすれば、最後のエリアー。それが相手に取って最も効率よく人を殺せる場所になるのです」
正臣の仮説は良太の考えていたものと全く同じだった。相手の立場になって考える。正臣の言葉は正しい。では相手とは誰のことを指すのか。それはゲームを仕掛けた奴らであり、ゲームを観ている観客たちのことだ。彼らの視点に立って考えれば、このゲームはそれほど難しいものではない。
まず推理の前提となるのは、このゲームにおいて観客が最も興奮し、渇望するシチュエーションが何かということだ。
(そんなもの、考えるまでもないな)
それは目の前の絶望に為す術もなくなったときだ。つまり毒ガスが仕掛けられていると分かっていながら、保険を使い切ってしまい、どうすることも出来ず絶望に暮れるしかないとき。観客が求めているのは、まさにその瞬間だろう。ではその絶望を演出するには、毒ガスをどこに仕掛ければいいのか。そう考えると、答えは最後の部屋に絞り込まれる。最後の部屋まで保険を使わず進み続けることが、真っ当な精神の持ち主に出来るはずはないのだから。誰もが疑念や恐怖に負け、最後の部屋に到達する前に保険を使ってしまう。そんな愚かなプレイヤーを嗤うため、毒ガスは最後の部屋に仕掛けられている。
(やはり正臣という男……油断出来ない)
「そ、それじゃあ、もう一つの説だと、どこになるのかしら?」
マリの質問に、良太はハッとなった。そうだ、正臣は仮説が二つあると言った。そして最初の説は良太の考えていたものと同じだった。では最後の説とは何なのか。
「とりあえず移動しましょう。最後の説も三番目の部屋までは安全が保障されていますので」
そう言って、正臣は気密扉へと手を伸ばした。
「ちょ、ちょっと! 本当にそんなのでいいわけ!?」
マリが慌てて正臣の手を掴む。
「私たちがそう考えると思って、最初の部屋に毒ガスが仕掛けられているかもしれないじゃない!」
「なら、貴方は酸素マスクを使うといい。私は自分の説を信じています。それで私が死んだとしても後悔はしませんよ」
「ぐっ……」
そう、誰も正解など知りはしないのだ。いくら推理を立てたところで、最後に答えを選択するのは自分自身。自分が選択した結果を受け入れることが出来るのなら、全てが自由なのだから。
「良太……」
二葉が服の裾を掴んでくる。その表情には迷いがあった。どうすればいいのか。
だから良太は強く頷いてみせた。
「俺もあの男と同じ意見だ。毒ガスは最後の部屋だ。だから保険はまだ使わなくていい」
「う、うん。分かった」
二葉はこくりと頷くと、酸素マスクを抱えるようにして持ち直した。
「それじゃあ、開けますよ」
正臣がバルブを回す。そしてゆっくりと扉がスライドしていく。
マリの方を見ると、マリも酸素マスクを付けてはいなかった。どうやら正臣の説を信じたらしい。
そして、一つ目の扉が、完全に開いた。
「…………」
「…………」
「…………」
「…………」
誰も言葉を発しない。少しずつ、確かめるように空気を吸い込み、何も起きないことを確認する。
「……どうやらこの部屋には毒ガスはなかったようだな」
「心臓に悪いよ、これ……」
胸を押さえながら、二葉が苦々しく呟く。
「先に進みましょうか」
正臣が開いた部屋へと入っていく。それに続いて良太、マリ、二葉と後に続く。
良太たちが次の部屋に入ると、ガシャンと思い音を立てて背後で扉が閉まった。ロックがかかったのか、扉を開けることはできなくなっている。どうやら引き返せないように、次の部屋へ入ると前の扉がロックされる仕組みになっているようだ。
良太は部屋の中を見回した。狭い部屋だ。奥にはまた気密扉が設置されている。そして扉の横にはタイマーだろうか。数字が明滅しながら、減少し続けているデジタル時計があった。
「次の扉を開けるには五分待たないといけませんね」
「なぁ、あんたがさっき言いかけてた最後の説ってどんなのなんだ?」
休憩がてら、良太は正臣に話しかけた。自分の説が間違っているとは思えないが、正臣の出したもう一つの答えというものにも興味があった。
「そうね、私も興味あるわ。もったいぶらずに教えてちょうだい」
声が聞こえていたのか、マリも詰め寄ってくる。
正臣は全員の視線が集まっていることに気付き、困ったなぁと指で頬を掻いた。
「……最後の説は、どの部屋にも毒ガスが存在しないというものです」
「ちょ、ちょっと待ちなさいよ! さっきの放送聞いてなかったの!?」
「では逆に聞きますが、どうしてあの放送を鵜呑みにしているのですか?」
「だって、それは……他に情報がないからで……」
「では少し言葉を足しましょう。毒ガスは確かに存在します。ただし、それがあるのは部屋とは限らない」
そして正臣は自身の手に持っている酸素マスクを小突いた。
「毒ガスがこの中に入っているとしたらどうでしょうか?」
「なるほど」
思わず良太は声を漏らしてしまった。発想の転換だ。そもそも部屋一つを毒ガスで充満させるなどということが本当に可能なのか。それよりも最も効率よく人を殺せるのは、保険と称したこの道具こそが猛毒だった場合だ。保険というからには、人は必ずどこかでこれを使うだろう。そして毒ガスを吸い込み、死亡する。
だが、
「それだと色々とおかしなところが出てくるぜ」
良太はその説を否定する。正臣は良太の言葉に微かに口元を綻ばせるのみ。
良太は気付いた。この男も今の説は間違っていると理解しているのだと。
「おかしなところって……?」
「例えば、仮にこの部屋でマリが酸素マスクを使って死亡したとしよう。それを見た俺たちはどうなる? この保険こそが毒であると気付くだろう。ならばあとは酸素マスクを使わず、ただ部屋を進んでいくだけでいい。そんなぬるい結末を相手が望んでいると思うか?」
「あ、相手?」
「俺たちをこんな下らないことに巻き込んでくれた連中のことだよ。きっと今もどこかで俺たちの姿を見て、喜んでいるに違いないんだ。奴らにとってそんな結末が本当に望ましいのか。仮に全員が同時に毒ガスを吸って死亡したとして、その結果に奴らは満足できるのか」
答えは否だ。奴らの望んでいるものは絶望だ。ならばより効果の高い絶望を演出するはずだ。確かに酸素マスクに毒ガスという発想は斬新だが、それでは絶望が薄い。そんなもので奴らが満足するはずがないのだ。
「そ、それじゃあ、やっぱり最初の説の四番目の部屋に毒ガスがあるってこと?」
「ああ、俺はそう思う」
良太の言葉を、正臣は黙って聞いている。その表情には何の感情の色もない。果たして、今この男は何を考えているのか。
「時間ですね。それでは二つ目の扉を開けますよ」
五分が経過し、正臣が扉へと手をかける。
「良太……」
「だから大丈夫だって。俺を信じろよ」
分かっていても不安なのだ。その気持ちは良太にもよく分かる。だが良太はもう決めたのだ。自分の出した答えを信じた。ならば、あとはその選択に身を委ねるだけだ。
そうして、良太たちは部屋を進み続け、最後の扉の前にたどり着いた。
目の前には四つ目の部屋。毒ガスが充満している部屋だ。
さすがに全員が酸素マスクを装着した。下部の小型ボンベをひねることで酸素が供給される作りになっているようだ。
「さて、それでは扉を開けますよ。みなさん、準備はいいですか?」
正臣がバルブに手を伸ばす。
張り詰めた空気。正臣の一挙一動に誰もが目を見張る中、良太はふと今の状況に違和感を感じた。
(なんだ、この感じ……)
何か重要なことを見落としている。そんな気がしたのだ。
良太は最初の妖精の放送を思い返してみた。
『妖精に生まれ変わるためには、島の奥にある王の間と呼ばれる場所にいる妖精王と謁見しないとダメなんだ。そして君たちがいるのは島の入り江だよ。ここから洞窟を抜けて、まずは広場を目指すんだ。王の間までは遠く厳しい道のりが続いているけど、君たちなら大丈夫。頑張って!』
『おっと、忘れるところだった。その洞窟はいくつかのエリアーに分かれているんだけど、エリアーの一つは毒ガスが噴き出ているんだ。僕たちは平気だけど、人間は少しでも吸い込んじゃうと死んじゃうから気を付けてね』
『僕たち妖精の中には、君たち人間を快く思わない者も少なくないんだよ。僕たちの仲間は昔人間にたくさん殺されたからね。この毒ガスもそんな人間を嫌う妖精が施したトラップなんだ。あ、でも心配しないでいいよ。ちゃんと道具を入口の前に用意してあるからね。ただし、使えるのは一度まで。使う場所には気を付けて。あと、洞窟はとても長いから、一つのエリアーに入ると、次のエリアーに移動するまで五分はかかるんだ。だから息を止めて駆け抜けようとしても無駄だよ』
『洞窟の地図は入口に張っておいたから、よく目を通しておいてね。それじゃあ、次は広場で会おう』
毒ガスを仕掛けたのは人への恨みを抱く妖精だ。彼にとって望むべく結果とは、洞窟を抜けようとする人間全員の死だ。ならばどうするのが最善手なのか。全員を確実に殺すための仕掛け。
そこでふと、正臣の言葉が蘇った。
『……相手の立場になって考えるのです。どこに毒ガスが仕掛けられているかが分からないという状況下で、手元には一度だけ使える保険がある。人間というのは目の前に保険があれば、それにすがりついてしまうものなのですよ。いくら安全と分かっていてもね。ですから最後のエリアーまで保険を使わずに進もうなどという考えを持つ人はいない。ゆえに毒ガスを仕掛けるとすれば、最後のエリアー。それが相手に取って最も効率よく人を殺せる場所になるのです』
最後のエリアー。正臣はそう言った。何故、そんな言い方をしたのか。
四番目の部屋。最後のエリアー。最後のエリアーまで保険を使わない人はいない。だから最後の部屋に毒ガスを仕掛けるのが最善手。
(そうかっ!)
良太は気付いた。毒ガスの本当の設置場所に。
(まずいっ!)
扉は今まさに開かんとしていた。
「マスクを使うなぁっ!」
怒号を上げ、良太は二葉から酸素マスクを剥ぎ取った。マリのマスクへも手を伸ばすが、時既に遅くマリは酸素マスクを使ってしまっていた。
「良太っ!? マスクを返して! 早くしないと、毒ガスがっ!」
二葉は困惑と悲壮の混じった表情で、良太へと掴みかかってくる。
「落ち着けっ! この部屋にも毒ガスは『存在しない』んだ!」
そう言って、良太も自身の酸素マスクを取る。
「言葉による誘導だ。俺たちは騙されていた、こいつにな」
良太は正臣を指差し、強く彼を睨みつけた。
正臣は何も答えない。その顔は能面のようで、じっと良太を見つめ返してくる。
「ど、どういうことなの?」
「もっと早く気付くべきだった。どうして俺たちは洞窟が四つのエリアーしかないと決めつけていたんだ」
「だ、だって、妖精が、四つの部屋のどこかに毒ガスが充満してるって……」
「いや、違う。エリアーが四つとは明言していないんだ。地図を思い出せ。この洞窟はどういう作りになっていた?」
「えっと……確か、入口から扉を挟んで四つの部屋があって、そこを抜けると出口に……」
「そうだ。四つ目の部屋を超えた先に、出口という名の五つ目のエリアーが存在しているんだ」
「あっ!」
入口にあったのは、洞窟の地図だ。だから出口と書かれた場所も、地図に記載されている限りは洞窟の一部なのだ。
「よく地図を見れば、気付けたはずだ。だがこの男はそれをさせなかった。今にして思えば、お前は俺たちにそれを気付かせないよう、早々とゲームを進めていったんだ。違うか?」
良太の言葉に正臣は、
「……どうやらお前を甘く見ていたようだ」
小さくため息をこぼした。
「やはりお前は全て分かった上で……」
「ああ、争い競うことになる人数は少ないに越したことはないだろう?」
そう言って、口元を小さく釣り上げて笑った。
「いやあああぁぁぁぁぁぁぁぁっ」
マリの絶叫が響き渡る。マリは酸素マスクを止めようとするが、マスクからの供給は終わらない。一度きりの保険。もうマリは保険を使うことが出来なくなった。
完全に開け放たれた扉。四つ目の部屋。だが、そこに毒ガスは存在していなかった。そして四つ目の部屋の奥には、やはり気密扉。五番目の部屋に続く扉だ。これで出口に毒ガスが設置されていることが明確となった。
「マスク! 私のマスク! どうしてくれるのよおぉぉぉぉっ!」
般若のごとき様相で正臣へと掴みかかるマリ。
しかし正臣は乱雑にそれを振り払うと、汚物を見るかのような冷たい視線でマリを見下ろした。そこにあったのは、今までの温和な雰囲気ではない。鋭く研ぎ澄まされた冷たいナイフ。今の正臣は、そんな雰囲気を放っている。これが彼の本当の姿なのだろう。
「書いてあったはずだ。ここは選択の洞窟。行動を選択するのは、自分自身。お前は思考を放棄して、人の言い分を盲目的に信じた。疑うこともせずにな。これはお前自身が招いた結果だよ」
正臣の言葉は辛辣だが、正論でもあった。ここは、選択の洞窟。全ての選択は自分の手に委ねられる。良太とて誘導されていることに気付けなければ、マリと同じ運命を辿っていたに違いない。気付けたのは、運か。
(いや、違う)
良太は正臣を完全に信用することが出来なかった。だから彼の説が自分と同じと分かっても、心のどこかでそれを疑い続けていたのだ。
(やはり、こいつはおれの敵だ)
良太の直感は正しかった。この男こそ、自分が倒さなければいけない敵。
「ま、まだよ! 出口に毒ガスなんて存在しないわ! だって、出口だもの! 出口に毒ガスなんて!」
マリは微かに残された希望に縋り付こうと必死だ。
「そう思いたければ思うといい。さぁ、審判の時だ」
正臣はマリを一顧だにせず、最後の扉に手を伸ばした。