選択の洞窟 その1
パシーンと、乾いた音が響き渡った。
「~~っ!」
鋭い痛みが頬に走り、次いでじりじりと疼くような感覚が襲ってくる。
良太は張られた頬を押さえ、思わず目の前に立つ二葉を睨みつけた。
「ってぇな! 何するんだよ!」
「うっさい、バカ! 死ね!」
二葉は顔を真っ赤に染め、両手で体を隠すようにして立っている。
水を多分に吸った二葉の制服のシャツは肌に張り付き、彼女の下着や白い肌を浮き彫りにしてしまっていた。服だけでなく、髪からも水滴がとめどなく流れ落ち、足元に水たまりを作っている。二葉はびしょ濡れだった。
しかしそれは二葉だけに言えたことではない。良太もまた全身濡れそぼっている。
先のゲーム、嘆きの海原をクリアーした良太と二葉だが、その弊害として着ていた服がびしょ濡れになってしまったのだ。
あのあと梯子を上り、再び通路へと出た良太たちだったが、そこに着替えが用意されているわけもなく、濡れた服のまま先に進まざるをえなかった。
濡れた服が肌に張り付く不快な感覚。だが、それ以上に体温を奪われていくのが辛かった。そういえば二葉の様子はどうだろうか。ゲームを終えたばかりの二葉は突然降りかかった非現実的な出来事に憔悴した様子を隠せないでいた。
そんな様子では今後のゲームに生き残れない。いや、それ以前に良太の足を引っ張る可能性もある。どうにかして元気づけなければ。そう思い、何か話そうと二葉の方へ振り返った良太を、二葉の張り手が襲ってきたのだ。
「じろじろ、こっち見ないでよ、スケベ!」
「ちがっ!」
「だから見ないでってば!」
今の二葉を宥めるのは難しい。そう判断した良太は二葉を無視して、先に進むことにした。頬の疼きはまだ続いている。
(くそっ……助けてやったのに、どうして俺がこんな目に遭うんだ)
良太は知らずため息をこぼす。
そんな良太のやや後ろを二葉がついて歩く。その足音からはまだ微かな怒りが感じられた。
「あぁ、もう、ほんっと最悪。どっかに着替えとかないかなぁ……」
怒りが絶望を塗りつぶしたか、はたまた虚勢を張っているだけか。二葉は元気を取り戻したようだ。
(ついでに機嫌も取り戻してくれると嬉しいんだがな……)
二葉との不和が続けば、今後の行動に支障をきたす可能性があった。最初は自分一人で行動するつもりだった良太だが、先のゲームで協力者の必要性を迫られ、二葉と行動を共にすることを決めたのだ。良太たちを誘拐した相手が何を企んでいるかはいまだ不明だが、今こうしている間にも良太たちをどこかから監視しているに違いない。次またどこでゲームが始まるかも分からぬ中、二葉がこちらの指示を聞いてくれないという状況だけは避けたい。
(そう、ゲームはあれで終わりじゃない。次があるんだ)
良太は歩きながら、先ほどのゲームについて思い返していた。
水没する部屋から脱出する、嘆きの海原。あれはまさしく都市伝説で囁かれているブレインキラーだった。上田があの後どうなったのかは分からない。しかしもう生きてはいないだろう。一つの判断ミスでたやすく命を奪われる。あまりにも残酷で、非日常のゲーム。それに良太は、
(面白いっ!)
微かな興奮を感じていた。
ずっと思っていたのだ。この何もない世界は退屈だ、と。
平和なのは良いことなのだろう。しかしあまりにも平和すぎるのだ。毎日同じことの繰り返し。そのことに誰も疑問を感じない。ループする営みに慣れてしまったのか。このままでは次第に考える力を麻痺させられ、自分で考え、決めている『つもり』になっているだけになるのではないか。共同社会という実態を持たない存在の一部品となって、生涯を終えるのではないか。そしてそのことに気付かないまま、幸せな人生だったなどとほざいて死んでいくのだ。恐ろしい。吐き気がする。そんなくだらない世界で生きていかなければならないのか。そんなことを思うこともあった。
だが良太がいくら社会に反抗しようと、そんなことを歯牙にもかけず、社会は動いていく。今では諦念の方が勝り、流されるだけの日々を許諾している。
それに比べ、あの頃は良かった。幼少時の記憶。あの頃は自分の力で生きているという実感があった。強くなければ、賢くなければ、生き残れない。あの場所では誰もが自分の牙を磨き、隠し、隙を窺っては相手の喉元に食らいつき、一日を生き残っていた。良太からすれば、今自分が置かれている状況はあの頃に近い。だからだろうか、今までにない充足感を感じているのは。
「ねぇ、良太」
「ん?」
「あんたはここに連れて来られたときのことって覚えてる?」
「ああ、ツレと街を歩いてたら、黒服の奴らに囲まれてな」
「そっか。あたしも似たようなもん。あいつら、何者なんだろうね。あたしたちを攫って、どうしようってのよ」
「さぁな」
ブレインキラーは、自殺志願者たちを集めて命懸けのゲームをさせるというものだ。これがそのブレインキラーなのだとしたら、良太たちにゲームをさせ、それを見ている観客たちは賭けに興じているのかもしれない。
だがそんな都市伝説を口にしたところで、笑われるだけだ。だから良太は余計なことを言わず、適当に誤魔化すことにした。
「さっきの水が出てくる部屋、凄かったよね。あたし、あんなの映画の中でしか見たことないもん」
「そうだな。これが金のかかったドッキリとかだったら笑えるんだけどな」
「何よそれ」
二葉が小さく笑う。しかしその声に力はない。怒りが収まってくると同時に、不安が増してきているのかもしれない。
「でもさっきのゲームで、俺たちが今どこにいるのかが、おおまかにだけど分かった」
「え、嘘っ!?」
「あの水、しょっぱかったんだ」
「えっと、それって海水ってこと?」
「ああ」
「じゃあ、あたしたち、海の近くにいるの?」
「いや、あれだけの水を流し込むとなると、陸の上じゃ無理だ。恐らく、船。船の中に俺たちはいる。それもかなり大きな船だ」
「船……」
「部屋一つを水没させても運航に支障が出ないように作られているとしたら、俺たちのいるのは船の最下層部分だろうな。つまりここから脱出するには」
「上へ、上へ、上がっていけばいいってこと?」
「そうだな」
だが、それだけではダメなのだ。この船は動いている。上に上がったところで、陸地に戻れるわけではない。このゲームを完全に終わらせるためには、船を操作して陸地に戻らなければならない。果たしてそんなことが出来るのか。
(どちらにせよ今は上へ上がっていくしか道はない、か)
「あ、行き止まり」
通路を塞ぐように、また壁が設置されていた。隣には扉が一つ。扉の上には『選択の洞窟』と書かれたプレートが掲げられている。
「これって……」
二葉の声が震えていた。無理もないだろう。これは嘆きの海原のときとまったく同じだった。恐らくここで二つ目のゲームが始まる。
扉の横には二つの窪み。ドッグタグをはめ込むものだ。
「ICチップでも入っているのか? 水に浸かって壊れてないといいけどな」
良太は迷うことなく窪みにドッグタグをはめ込んだ。それを見て慌てたのが二葉だった。
「ちょ、ちょっと! 心の準備とか、まだ出来てない!」
「どうせ中に入らない限り、ゲームの内容は分からないんだ。ならさっさと部屋に入った方がいい」
「で、でも……」
「心配するなって。どんなゲームだろうと、絶対クリアーしてみせるさ」
散々迷った挙句、二葉もドッグタグを窪みへとはめ込んだ。カチリと、ロックが解除される音が響く。
「それじゃあ、開けるぞ」
深呼吸を一つ。そして良太は扉を開け放った。