嘆きの海原 その3
「は、はははははは!」
重い音を立てて閉じる水密扉を見て、上田は口元を歪めた。堪えようとしても、自然と笑い声がこぼれ出てしまう。
「やった! 僕は生き残ったぞ!」
部屋に残された二人のことなど、最早どうでもよかった。二人は死に、自分は生き残った。ただその事実だけで十分。
「それにしても、最後のあの女の顔、実に清々したぜ」
水密扉を開ける直前の、こちらを見る二葉という女の顔。今思い出しただけでも、胸がスカッとする。
上田は二葉のような女性が嫌いだった。女性は黙って男性に尽くしていればいいのだ。女は男の奴隷のようでなければならない。
それを、あの二葉という女は天才である自分に向かって、気持ち悪いだの、ウザいだのと暴言を吐き続けた。気に入らない女だった。
そんな女の絶望に染まった顔を最後に拝めたのは、実に幸運なことだ。
「ははは、これで僕は妖精になれるんだ!」
嬉々とした様子を隠せないでいる上田だったが、ブツリと入る放送の音に思わず体を縮ませた。
『やぁ、僕は妖精だよ。ボートに乗ったのは君だね』
「ああ、そうだとも! 僕が生き残った! さぁ、早く、僕を妖精に!」
『残念だけど、ボートに乗った君はここでゲームオーバーだ。嵐の中、漕ぎ出したボートは荒波に呑まれ転覆してしまう。それが君の末期だよ。それじゃあ、またね』
それだけ言うと、放送の声はもう聞こえなくなった。
「え、え、えっ? ゲームオーバー? どういうこと?」
放送の意味が理解できず、呆けた顔で天井を見上げる上田。しかし次に起こった出来事に、上田の顔色が蒼白になる。壁に穴が開いたと思えば、再び水が怒涛の勢いで流れ込んできたのだ。
入ってきた水密扉は、向こうでドッグタグを外したのか、再びロックされ、開けることが出来ない。出口があるかもしれないと、自分のいる場所を見回してみるが四方を壁で囲まれ、出口らしきものが見当たらない。
荒波に呑まれ、転覆。
先ほどの妖精の声が脳裏に蘇り、上田はとうとう絶叫をあげた。
水位はどんどん高くなる。部屋が水没するまで、もう数分もない。
「どうしてだ……生き残るのは僕だったはずだ……どうして僕がこんな目に……」
引きこもり続けた生活。生きていくのが息苦しかった。自分には何もない。何もないから何にもなれない。自分の部屋という聖域に閉じこもり、世間を僻み、妬み、呪い続ける日々。
自分は特別な人間なのだ。社会に受け入れられない自分がおかしいのではない。自分を受け入れられない社会がおかしいのだ。この世界は自分の生きるべき場所ではない。特別な自分は、より高位な世界でのみ生きることを許されている。
いつからかそんな妄想を抱くようになった上田。
そんな彼が行き着いたのは、とあるインターネットのサイトだった。
『妖精の遊戯台』という名前のサイト。
そこに書かれていたのは、上田が心で鬱々とため込んでいた言葉たち。
妖精は語る。人間という殻を捨て、妖精として生まれ変わるのだと。
自分を受け入れられない世界など、価値はない。自分は妖精に生まれ変わって、妖精の世界で自分の居場所を作るのだ。
そう思っていた。信じていた。
それがどうして、こうなる!?
水位はもう顔の辺りまで上がってきている。苦しい。怖い。どうして自分がこんな目に遭うのだ。
恐怖に思考がかき乱される。そんな中、はたと上田は扉を閉める前の良太の顔を思い出す。上田が生き残るべきだと、自らドッグタグをはめ込んだ少年。
だが最後に見た彼の顔。そこに浮かんでいたのは、
愉悦。憐憫。嘲り。
そうだ、良太はこうなることを知っていた。知っていて、自分をここへ誘導したのだ。
「くそっ……くそっ……」
騙された。特別な存在である自分を騙すなど許されざる行為だ。
「くそっ……」
許さない。許すものか。
「くそおおおおおおぉぉぉぉぉぉがぼっ」
上田の叫びは誰にも届かない。一人でボートに乗って海へと逃げ出した臆病な旅人は波に呑まれ、海へと沈んでいった。