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思えば初めから異質な関係だった。立場としてなら私のほうが上。
小さな路地に捨てられていた名もない君に名前を付けて、『無償の愛情』という首輪を付けた。
しかし野良猫は所詮野良猫だとでも言うように希は過ごしている。今まで生きた、短くてもいろいろありすぎた人生は、希の心を深く閉ざしているのだろう。
『優しくされるのは嬉しい。でも、見返りを求めないなんてそんなのは在り得ない。だって…』
ドア越しに伝えられた希のこの言葉の続きを私は察している。どうして希がこの続きを言わない…いや、言えないのかも正しく理解しているはずだ。
───ギブ&テイクの関係で生き延びてきた彼にとって、無償の愛なんてものは綺麗過ぎるのだ。
そんなものがあるとは知らずに生きてきた彼にとって、そんな『優しさ』は、『与えなくても与えられる愛』の存在は、彼の生き方そのものを否定してしまうことになるのだと、私は知っている。
だから認めたくはないのだろう。
口にしてしまえばその存在が事実であることを認めてしまいそうで、口には出来ないのだ。
…それでも、私は彼を愛さずにはいられない。あの悲しい存在を、いとおしいと思わずにはいられないのだ。だって…──。
だって、あの子は。
「────…っ」
浮かぶのは、遠い日の存在。
地毛だという茶色がかった髪の毛に、白い肌、優しい表情。
『あなたは子どもの夢を作っているのね』と笑った、誰よりも愛しい存在。
そんな子どもの夢づくりは現実の不況という存在の前にあっさりと崩れてしまったが、それでも彼女はそばにいてくれると信じてた。
その者からの裏切りに心は麻痺したかのように痺れて、私のほうこそ愛情に飢えていたのだと分かる。 愛情を与えることで、私は愛情を持っていると思い込ませた。
けれどこの心は、与えるだけではからっぽのままだ。
彼女に関する記憶は、彼女が家を出て行く前のことは、霞がかったようにしか思い出せない。
倒産したといったときの、あの絶望に満ちた顔や。
当時は精神的なストレスだと思っていた、よく洗面台に駆け寄っては吐いていたあの姿。…不安そうに、お腹を撫でる、手。
―――そう、初めから、分かっていたんだ。
私は希が閉じこもっている部屋に駆け寄り、言った。
「希……。この家から、出るか?」
「っ、」
そう言った途端、勢いよく部屋のドアが開いた。
「な、んで…」
なんで今更そんなことを言うんだと、瞳が訴えている。
「君を……愛して、いるからだよ」
「―――っ!」
だから、この言葉は最後の鎖。せめて離れる前に、君を愛した証を言葉に刻む。
私はその痩せた身体を思い切り抱きしめた。
理由もなく彼に触れるのは、彼を蝕むだけだと知っている。
傷つけたくなんかないのに、愛さずにはいられない、大切な存在。
抱き寄せた希の体が、震えているのが分かる。頭を引き寄せた胸元が熱く湿るのを感じて、彼が泣いていることも分かった。
もう彼も疲れてしまったのだろう。与えられる愛情にも、それを拒めない自分にも。
(……泣かないで)
そう思うのに、願えない。
だって、泣いていいんだ。
無償の愛情がどれほど怖くても、この世に確かにある、愛の形に。
おびえても泣いても、あると知ってほしい。
馬鹿みたいだ。
こんなにも強く思うのに、泣かないでとは願えない。
愛している。…だからこそ。
「じゃあね…希」
最後だなんて思わせない、軽い挨拶。
そう、始まったときと同じように、ただの私の気まぐれだというように。
手放してあげるから、どうか、泣かないでと。
一人こころの中で思うだけだ。
希は着の身着のまま飛び出すように家を出る。
はじめてあったときと同じように、空も泣いている。
遠ざかっていく希の後姿に向かって、小さく呟く。
「さようなら―――…愛しい愛しい、私の息子」
結婚当時、いつか子どもが生まれてきたら「希」と名づけようと、話していた。 今では痛いだけの、綺麗で愛しい思い出。
「あなたが作り出しているものと同じ名前ね」と、やわらかい声で話していたっけ。
「………君を、愛してた」
FIN