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霧雨が、どんよりとした雲に覆われた都会に降る。人っ子ひとり通らないであろう路地裏にも同じように雨が降っている光景は、なんとなく不思議な感じがした。
人の溢れるこの世の中でひとりぼっちのような感覚を味わってみたくて、ふらりと気まぐれに立ち寄った路地裏。華やかな都会の裏の部分を寄せて集めたようなこういった場所は、いつでも病的だ。
そして誰もいないハズの路地裏には、一匹の猫がいた。
──否、正確には『猫のような』人間であった。
薄汚れた肌に、布切れのような服。天然であろう淡い茶色の髪は文字通りの猫っ毛で、乱雑に切られている。格好に似合わずその黒目がちな瞳には気高い意志が見て取れて、本当に猫のようであった。
「あんた、誰?」
棘のある声に、ゾクリとなった。声変わりもしていない声。息子は母親に似るという俗説があるが、事実母親似であろう、少年はどこか少女染みた容姿をしていた。
あまりにも凝視していたため、僕の視線が気になったのだろう。少年は剣呑な目つきで私を睨んでいる。
「僕かい?通りすがりのおじさんだよ」
「…まだ若そーだけど?」
「ははっ、もう三十も大台に乗っている。君からすれば充分におじさんだ」
「ふーん」
「……君、名前は?」
「ないよ」
やけにハッキリと言い切った少年は、立ち上がりするりと僕の腕に絡みついた。
「……おじさんが、僕に名前を付けてくれる?」
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「うぁっ、そ…れ、いやだ、嫌だ…!やめ、て…んくっ…はぁ…」
少年の湿った声はひどく甘く、鼓膜を震わせる。身体はとても敏感で、どこを触っても声をあげる。薄汚れた肌は今は赤く染まり、私の腕の動きに合わせて震えている。
そんな少年に一言……。
「……風呂がそんなにキライか?」
あまりにも小汚かったため、家に帰るが否や風呂に突っ込んだのだが…。使い勝手が分からないらしく、説明しているうちに少年がいきなり暴れだしたためこちらも水浸しになってしまった。
しょうがないからと一緒に風呂に入ったのはいいが、水を毛嫌いしている少年は自分の身体を洗うのにも抵抗を示した。部屋を汚されてはたまらないからと無理やり洗ってやればこの有様だ。水を嫌がり暴れるさまは本物のネコのようだ。
暴れる少年を押さえつけて無理やり洗った私は頭からシャワーで泡を流してやる。
これ以上洗わないで済むと悟った少年はほっと一息ついたが、ため息をつきたいのはこちらのほうだった。
少年は風呂が終わって一息ついたのか、やけに明るい声で言う。
「ねえ、名前決めてくれた?」
無邪気な声で問うて来る少年の身体をバスタオルで拭きながら、私はしばし思案して答える。
「…どんな名前でも文句は言わないな?」
「うん。俺は今おじさんのものだからね」
「……そうか、じゃあ」
『希』
そう、私は口にした。
「え……?」
「なんだ。なんでもいいと言ったのはそっちだろう」
希、と名づけた少年はなぜかとても驚いたような表情を見せた。大人びた顔から一転、目見開くその表情は年相応に見えた。
「う、ううん…それで、いいよ」
トーンの落ちた声に何かがあると思ったが、気づかぬフリをした。
「ほら、さっさと食え」
「うん、ありがとう」
市販のサンドイッチを美味そうに食う希を見ながら、改めて私は希を観察する。
差し出した服や食事は、ためらいなく受け取り、お礼だって言える。乞食である少年がこの年でどのように生きてきたか…媚びるような視線と言葉を向けてくる様子から嫌な想像が浮かぶ。しかし、多分その想像は外れてはいないのだろう。
大方サンドイッチを腹の中におさめた希は、席から立ち上がり私の腕に絡みついた。
「おじさん…する?」
「…はっ、」
結局は、そういうこと。
慣れきった身体に媚びるような視線、黒目がちな瞳は濡れたように潤み、男の嗜虐心を煽ってくる。
全身で男を誘うその姿は、幼い姿をしていながら立派な男娼だ。希の姿は一見少女のようにも見えるし、お相手は引く手数多だったであろう。 ひもじくなれば男に媚、体と引き換えに施しを受ける。そういう生き方しかしらない、かわいそうな子ども。
「おじさん…」
首に腕を回し、ためらいなく唇を重ねてこようとするその身体を、突き放した。
「そんなものは、いらない」
「…え?」
希にそんな回答をした奴は、悲しいことにいなかったのだろう。希はわけがわからないといった目をしてこちらを見た。「私にそんなことを仕掛けてくる元気があるならこっちを手伝え」
力仕事なんだよ、といって物置になっている部屋を示す。そちらには仕事で使っていた備品やらなにやらが詰まっていて、片付けようにも一人でやったら一日では終わらない。小回りの利く子どもはいい小間使いになる。
……話題を逸らしたいがための都合のいい言い訳ではあったが、それが意外な方向に進むことになるとは思っていなかった。
/
「おじさーん!こっち終わったよー!」
「おー、ありがとなぁ」
明るい子どもの声がこの家に響くことがあるなんて、二度とないと思っていた。
希は始めこそ乗り気ではなかったが(何に乗り気だったかなんて言いたくもないが)、私の物置にはいっていたものが大量の工具と玩具の残骸だと知るや否や宝物を見つけたような輝いた瞳で玩具を漁り始めた。
希がやる気になったおかげで作業の進みも早く、時計の短針はまだ真下を指している。
「おじさん、玩具屋さんだったの?」
「玩具屋さん…とはちょっと違うかな」
私が勤めていた…というか起業したのは玩具の工場のほうであり、勤務先では販売ではなく作るほうに手をかけていた。
「私は、作るほうを手がけていたからね。倒産したと同時に工具やら部品やらを押し付けられてしまったよ。…おかげで、この有様だ」
その言葉には、この倉庫の実情だけでなく私の生活を示しての言葉でもあったが、まだ15かそこらの学校にも通ったことのないような幼い少年には分からないだろう。
「ふーん…そっか。恋人は?いないの?」
一人暮らしのくせにそれなりに広い家が気になったのだろう。誰かと同棲しているのかと匂わすようなそれに、そんなところだけ大人びているのかと笑ってしまいそうになる。しかし笑いを表に出すことはせず、真実を伝えてやる。
「いいや、妻には倒産と同時に逃げられたよ。…今は、独り身だ」
その言葉に、希はただでさえ大きな瞳をこれでもかというほどに見開いた。目がこぼれだしそうだな、とクスクスと笑えば、希は驚いた声を挙げた。
「お、おじさん結婚してたの!!?」
その言葉を答えもせず、けれど流しもせず、ただ口元の笑みだけで受け止めたのだった。
/
あの少年…希を拾ってから一週間が経過した。生活もそんなに豊かではないのに何故こんなまねをしているのか……私のほうが知りたい。
そう、今更、こんな────。
「希。そうそう、上手いじゃないか」
フライパンを器用に動かして卵焼きを作っている希の頭を撫でながら私は言った。
ひょんなことから希に料理を教えることとなったのだが、これがなかなか覚えが早く、勘もいい。ただ想像するに足りるような食生活をおくっていたらしく、味覚だけは良いとはいえなかったが。
そんな風に二人で時を過ごしていると、希は眉をひそめて私を睨み付けている。
「なんだい?」
「──おじさんて、やっぱストレートなのか?だから、なんもしないの?」
「…はい?」
何の話だと目を瞬かせれば、胸元に顔を押し付けるように希が甘えてくる。軽く背中を撫でる様なその動きに、ようやく私は希の言いたいことに気づいた。
「ああ、うん。私はストレートだねぇ」
ヘラっとした笑顔を向けてやれば、希の眉間の皺は更に深くなっていく。
「っ、だったら、なんで俺なんか拾ったんだよ…!!」
「理由が要るのかい?」
鋭い眼光で見つめるその瞳は、是だと語っている。けれど私は決して自分のペースを崩さず、言葉を重ねる。
「理由なんていらないよ。最初に名前を付けてといったのは君だし、断る理由もないから連れてきた。過ごしてみると希は有能だし、喋っていてもとても楽しい。タダで生活の面倒を一週間見るくらいにはね」
それじゃ駄目かい?と問えば、なぜだか希は悲しそうな顔をする。
「……訳、わかんねぇよ。あんた…」
今にも泣き出しそうなその言葉に、慌てて俯いた希の顔を覗き込むと、黒目がちな瞳には大粒の涙が溜まっていた。
そんな彼に、私は何も言うことが出来なかった。
/
「希、食べないのか?」
「……いらない」
ドア越しの会話。今日はほとんど一日希と顔を合わせていない。昨日の会話から一転、気まぐれなネコのような少年はすっかり心を閉ざして人の家の一室に引きこもったままだ。
「…飯、ここに置いておくぞ」
「何が欲しいの」
「何もいらないって言っているだろう?」
「嘘だっっ!」
見返りなどいらないと言い張る私と、そんなことはありえないと決め付ける希。このやり取りは昨日から何回も行われてきた。
…身体差し出すことでしか愛される方法を知らない、可哀相な少年。
そんな君にとっては無償の優しさこそが鋭い牙になることを知っていて、それでも愛さずにはいられなかった。
恩を返したいという君に、ただ受け取れという私。これは間違っているのだろうか?
つづく