表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

霧の中の遭遇

作者: 山内 順一

英国の航空短編小説に、大2次大戦中一人のパイロットが幻の飛行場に悪天候で着陸したものがある。しかし今回の小説は幻の飛行場は入り口となるが、そこから展開される人間物語が主題でSる。

     我霧の中に着陸す        

 霞が浦に沿った小さな飛行場を飛び立って、真西に向かって愛機のセスナ182型JA4007号は順調に飛行している。


 阿見の飛行場から真西の航路は土浦市の南端を通り、学園都市つくばの真ん中を通り抜け、水街道市の上空に至る、途中小貝川を横切り、鬼怒川を眼下に見て利根川に至る。利根川に沿って上流に向かえば、関東平野は無事にその果てまで、群馬県の妙義山まで、気楽に行ける。専門家の言う航法も要らない、

 しかし梅雨期の関東平野は見通しが悪いので気を抜いてはいけない、東京電力の送電線やその鉄塔には気を付けないと衝突しかねない。鉄塔の高さは90m程しかないので、地表面から1500フィート(F)以上の高度を保てば、悠々クリアできる。

 しかし雲が低くなり、霧が濃くなったり、雲底が500フィート(F)以下になると危ない、まあ利根川に沿って飛ぶ限り送電線や鉄塔に遭遇することもない。所所で送電線が利根川を横切っているが、場所は予め、航空図で確かめてある。

 今日の目的地は妻沼にある学生グライダーの滑空場である、車で3時間程の距離であるが、空から行くと所要時間が30分で、5月の新緑を味わいながら、楽しい飛行ができる。

 途中人工河川の江戸川の土手にも社会人のグライダーの滑空場やら、中央大学グライダーの滑空場やら、読売新聞社のグライダーの滑空場やらとにかく数多く散らばっている。

 お陰でエンジンの故障や、天候の急変があってもいつでも避難着陸が可能である。

水街道市上空を過ぎたころ鬼怒川が利根川に合流する当たりで、黒雲が下方に発生し、霧雨が風防の透明な窓に当たり始めた。

 小型機の通信用に割り当てられた126.2MHzの周波数に航空無線機を切り替えて無線通信を傍受し、他の小型航空空機が回りにいないか耳と目の見張りに注意を注いだ。

 突然“JA・362…”と無線が入った、近くのローカルの飛行場に着陸しようとしているらしい。視界はどんどん薄暗くなっていく、そのまま利根川に沿って飛び続けても目的地にはいけるが、急ぐ旅でもないし、安全第一である。やっぱり霧と雲が怪しくなってきたので、こっちも何処かに適当な滑空場を見つけて降りることにした。この辺りは送電線や鉄塔がなく、田植えの済んだ田は水が張っていて鏡のようであり、上空の小さな透き間の青空を水面に写した田んぼに近づくようにして地表面を見渡した。

 あった!左手下方に舗装された、短い滑走路が細い“割り箸”のように見えた、更に小さな赤い吹き流しがダラりと垂れ下がっている、風がないので滑走路はどの方向から進入してもよい。

 126.2MHzの周波数で、通報をおこなう、”こちらセスナ182型JA4007、霧と雲のため、そちらに着陸します、どうぞ”。

 ローカルの飛行場では無線を傍受はしても、誰も返事はしてくれない、暇な人がいてたまにはボランテアで、例えば”こちら、大西飛行場どうぞ、滑走路方向ゼロナイナー(09)”と答えてくれることもある。

 今日は珍しく”こちら、・・・行場どうぞ、滑走路方向はいずれでもOKです”と答えてが来た。

 天気では雨雲で運が付いてないが、人には付いているようだ、手短に西向きの”25(トゥーファイブ”、磁方位の250度(やや西)に向かった滑走路に降りることにした。

 最終進入路で次第に高度が低くなると、降下中でも飛行場の周りの様子がわかる、なかなか小綺麗な飛行場である。余り外見をすると着陸に失敗して、事故になるおそれがあるので、最後は前方滑走路に目を集中し、エンジンを絞りながら思い切って高度を下げた、数秒後に車輪がゴロゴロと地面を転がる音と、何時もながら響きが座席を介して腰に伝わり無事着地したことを噛み締めた。

 しばらく滑走してから滑走路上でUターンして格納庫と事務所のある駐機場に向かった、空いた所に機体を止め、手順に従ってエンジンを止めた。パソコンのウインドウズ95と同様に手順に従って、エンジンを止めないと飛行機のエンジンもおかしくなる、その間は外を見るよりは、機内の各種エンジンメーターを良く見ている。

 浜野は鍵を抜き、ドアを閉めて、機内から持ち出した車輪止め(チョーク)を片方の車輪に当てがって、霧雨のなかを歩いて事務所に向かった。しかし、辺りが暗く濡れているせいかその間事務所からは誰も出てこないし、窓から顔を出す者もなかった、少し寂しい。

事務所に入り“お世話になりますと”いうと、もの静かな若い男性がいて、“いらっしゃい”と答えた、奥のテーブルに23、4才の青年がゆったと座っている、こちらを向いて”浜野さん久しぶりだね”とはっきりした声で言う、びっくりして良く見ると、石井君、石井さん、いや石井である。


 石井は浜野に初めて小型飛行機の操縦を教えてくれた人いわゆる、飛行教官であり、調布空港のホンダ飛行クラブで、パイパー社製のチェロキー180型、低翼機に乗せてくれた。

 2人は上空に上がると夏には、よく入道雲の近くまで、飛んで行った、入道雲を翼端でかすめて飛んでははしゃいでいた、入道雲に入ってはいけないが、訓練空域でのたまの接近飛行はおもしろいものであり、浜野も雲を身近に触れることに何とも言えない幸せを感じた。

 “どうしたの石井さん”と答えて、“そちらも視界不良で降りたの”と聞いた、“まあそうだ”とどっちにでも取れる返事であった。

 浜野は着陸して間もなくまだ少し緊張し興奮しているので、詳しい会話は出来ない状態である、“奥に千秋氏もジョンさんもいるよ”と石井は言った。

 浜野は“あそう”と軽く答えて、そこらのいすに一先ず腰かけて、体と頭が着陸直後の緊張から地上の通常の神経に戻るのを待った。椅子に座ったまま窓から外を見ると、霧は益々深くなり雲の塊が滑走路上を濡らしながら、流れて行くのが見える。大したことのない霧と判断していたが、大事を取って着陸して良かったと思った。

 5月の最終日とはいえ梅雨季節前の北西から寒冷前線のせいで、肌寒くガラス窓は閉まっていて、室内は軽い暖房のせいか暖かくまた静かである。

いつの間にかどんよりとした霧は流れを止め、ほっとする間に外が暗くなり、先程まで気づかなかった外灯の弱い蛍光灯の明かりが光光と輝いて見えてきた。


 目を室内に戻すと、千秋氏が目の前に立っていた、千秋氏は大柄でがっちりした32才の立派な大男であり、本職はNHKのデイレクターである。いつか完成したばかりの、渋谷の放送センターの見学に招待されたことがある1967年頃である。

 戦後初の国産練習機、富士重工のエヤロスバルFA200を、千秋氏は最近飛んでいる、いやFA200を使って学生を教育している。”浜野君元気か”と言われた、”はい元気です、教官も元気そうですね”と挨拶した。

 この千秋氏からは尾輪式のセスナ170型の離陸と着陸を教わった、セスナ170型は大柄の白人向けに製作された機体なので、ペダルが深く、座席をいっぱい前方に寄せても比較的に小柄で下肢が短い浜野には、ラダーの踏み込みと爪先で行うブレーキ操作には少なからず苦労した。

 浜野は調布のNHKフライングクラブに対して、訓練飛行料金の支払いが残っていたので、千秋氏にここででっくわすのはバツが悪かった。

 しかし、千秋氏は未払い金のことはなにもなかったかのように、静かにほほえんでいる、”視界が悪いひどい天気だね、気を付けな”と何時になくやさしい。

 次に堀川氏と一緒にジョン・マイルズ氏が現れた、”ハマノサン ゲンキ?”ときた、“おうジョンさんじゃないか、いつもの堀川氏とそろって何ですか”と聞いた。

 堀川氏は新宿の小田急新館の後ろにあるとあるバーのバーテンで、ジョンさんは浜野の仕事の上司である、ジョンさんはイギリス人だが、いたく日本人と日本の生活が好きな痩せ型で背が高く少し、猫背気味のハンサムな30才の白人である。

 言い忘れたが浜野は27才の青年である、あれ!現実の浜野はセスナ182型JA4007を別の友人知人4人で購入して、資金計画が無謀だということで妻に離婚を宣言された57才のお父さんである。24才と20才の2人の息子と、昔昔ロスアンゼルスで激しい恋愛の末結婚した妻真由美とがいる50代後半の父親である。

 一瞬きざな哲学的妄想が襲ってきた、「滅び去った過去の人々と、現実と悪戦苦闘し生活する人々と、未来の今から生まれて来る子孫とからなる人類とは何だ、このような人類に仏やキリストは思いを馳せた、しかし小さな浜野のような人間は自分の利益と欲望のみを求めて現実を生きている」。

 仏やキリストは地球を越えて太陽系や宇宙にまで思いを馳せた、浜野のような人間とは全くその存在が異なる。浜野はエンジンに乗り掛かるようにした座席で空を飛ぶグータラ中年親父で、多少五月蝿いエンジン音を我慢して飛ぶ程度の自由に大満足している。それでいい、それ以上は望むにお及ばない、今が贅沢であると、自問自答した。

 石井は1969年11月に青森県五所乃川原上空で、吹雪の中を函館に向かって飛び立ち、みぞれ降る田圃に墜落死した、千秋氏は1970年5月に竜ケ崎の飛行場で曲芸飛行の失敗で田植えが済んで手入れされた田んぼにつっこんで事故死した、訓練生とともに去って行った。

 ジョンはニューヨーク市郊外のティータボロ空港近くのよりにもよって丘上の高級アパートの水道タワーに、衝突して友人の銀行マンと一緒に激突死した。日系人の若き成功者サイコロ焼き肉のレストラン王ロッキー青山氏が購入したばかりのピカピカのセスナ310Q双発機であった。

 石井も千秋もジョンもロッキー青山も、浜野の24才と20才の2人の息子が生まれる以前の、更には妻の真由美と廻り合う以前の仲間である。高度経済成長時代に技術系の職場に就職したばかりの浜野は石井とも千秋ともジョンとも、知己になってたった3年前後前後で深い付き合いとなり、互いをよく知るようになっていた。

 石井は当時四谷の2間のアパートに婚約者と同棲していた、死んだとき婚約者は妊娠していた、あの子は無事生まれ育ったのだろうか。

 千秋にはたしか2人の子があったようだ、きれいな奥さんとその一家は幡ケ谷の近くに当時としては浜野には手の届かない高価な一戸建ての庭付きの家に住んでいた。

 ジョンの方は毎週大阪出張で仕事に追われ、家を空けることが多く、奥さんが別居を希望したが、終には奥さんが日本的仕事中心主義に怒り出してイギリスに帰国してしまった、そのようにどこか可哀相な男である。

 

 緊張が弛むと浜野は何となく眠気がして、事務所内の椅子でうつらうつらし始めた、石井や千秋やジョンとそれ以上の話をするわけでもなく、彼らに聞くことが一杯あったのに、聞かずじまいだった。その時には少し休んでから後にゆっくり話をしようと思った。


 ふと軽い寒気を感じて軽い眠りから覚めると当たりが明るくなっている、先程までの濃い霧や霧雨はうそのように何処かに去っていた。事務所内にも活気が満ちている、事務の若い青年に着陸料を3千5百円払おうとすると、“お金入りません”という、“ところで皆さんは何処にいますか”聞くと、4人一緒にセスナの双発機310Qに乗って仙台空港に向かったという。

 浜野も妻沼の滑空場に急がないと、待っている石渡氏や中村氏が心配するからその場を去り、とり急ぎ離陸した。離陸すると上空にはまだ薄い雲が一面にたちこめている、薄い雲なので、一気にエンジンをフルパワーにして上昇突破した。3000フィートで水平飛行に移り、エンジン出力を巡航値に設定して、後方を振り返り今飛び立ったばかりの飛行場を探した、しかしそこだけが何故か先ほどまで薄かったはずの雲か濃くなり滑走路が雲に隠れて隠れて見えなくなっていた。

 西に2、3分飛ぶと眼下に何時もの利根川が見えた、利根堰が広がり、前方下方に羽生市が見える妻沼はもうちょい先である。

 ”こちらセスナ182型JA4007号、教官の石渡さん応答お願いします”と呼びかけると、お馴染みの石渡さんの元気な呼び声がすぐ返ってきた、”グライダーが3機1000フィート当たりに飛んでいるので、気をつけて、ランウェイ真ん中27(トゥーセブン)”と。

 グライダー用に細く長い長い3本の滑走路があり、浜野は指示に従いそのうち真ん中の西に向いた滑走路に機体を合わせる。周りのグライダーとの距離を見定めながら、進入中心線を必死に目で追い、着陸位置が合ように操縦して着陸態勢に入った。

                

 さて石井は調布飛行場で浜野が最初にであったパイロットである、浜野は学生時代に少々グライダーで飛んだことがあるので、一人前に給料を貰える身分になり、飛行機を飛ばそうと思った。調布飛行場には社会人の飛行クラブがあるので、訪ねてみた。

入会金や年会費や実際の飛行料金を聞いて廻ると意外と高く、ボーナス期でないと入会さえ無理であった。ところが最も安いクラブがNHK飛行クラブであった。そこで出会ったのが石井である。せっかく訪ねてきたので、“直ぐ飛びたいだろうと?”いう、“1万円なら1時間直ぐにでも飛びたい”と答えると、“じゃ行こう”と言う。“そんなに簡単なの”どうしたものかと聞くと、石井は本田フライングクラブの会員でもあり、低翼のパイパー機なら今空いているとのことであった。

 つまり石井が自分の属する飛行クラブのパイパーを借りるので、費用は浜野持ちで、彼も一緒に飛びたいとのことである。

 但し左の機長席に誰が座るかとなると、オーナーのクラブ側では、商売上正式のクラブ員でないと、機長席に座らせないことになっている。ところが石井はいいよと黙って機長席に“座れと”浜野を左座席に押し込めた、本田宗一郎に良く似た本田フライングクラブの社長が不満そうな表情で遠くから見ていたが、我々は知らん振りして、エンジンを始動してさっさとタクシーウエイに機体を動かした。

 とにかく石井は滑走路の中心線に機体を合わせて、離陸許可をコントロールタワーから貰うとあっと言う間に離陸した。浜野は始めてなので、何がなんだ分からぬままに滑走路が後方下方に飛び去り小さく見えていた。

 浜野は“浮いた、浮いた”とキャキャと喜んでいたのである、2000Fで水平飛行に移ると、石井は自分の操縦幹から手を離して浜野に“ほらやってみな”と言った、空中操作はグライダーと殆ど同じである、ただエンジンの音がうるさい、空冷式の160馬力が計器パネルの直ぐ前で唸っているのだから当然である。下方には荒川の流域が初夏の緑で一面に緑で心地よく広がっている。失速操作や蛇行飛行や360度旋回や上昇や降下を石井は一通りやってくれた。勿論エンジンの調整は浜野にできることではないので彼が時々スロットルレバーをこまめに操作している。エンジン出力が強すぎると限りなく上昇し続けて6000F、8000Fまでも上昇する。

 余り上空に行くと、そこには速度の早い自衛隊機や米軍機や時には旅客機が飛んでいるので、航空官制と連絡取らないと空中衝突の危険がある。だから高度3000F前後に止まっている必要がある。そのためにはエンジンの出力を適度に押さえる、暑い日には局地的に上昇気流が発生し、軽いパイパー機はグライダーのように黙っていてもどんどん上昇する。これを避けるにはこの場合更にエンジン出力を落とすことになる。だから水平飛行でも初心者には難しい操作なのである。

 さて、早くも小1時間たったので調布へ帰ることにした、石井から“飛行場がどこかわりますか”と言われてみると、浜野には今何処にいるかも分からない。しょうがないので“荒川と太陽を目安に下流に向かえば三鷹の上水道人工湖が見えるだろうからそうしましょう”と言うと、“その通り、航空路に対する基本思考が働いているなあ、きっと操縦免許が短期期間で取れますよ”と誉めてくれた(入会を誘っているのである)。

 滑走路が右方下方に見えてきた、中心線に正対面できるように航跡を逆計算して右旋回をしながらエンジンを絞って行く。空気力学上、車みたいに急には曲がれないの、空の3次元空間で緩い立体曲線を描きながら滑走路に向かい、高度を徐々に下げて行く。

 流石に石井の着陸前の操作は立派なもので、次第に滑走路が正面に近づいてくる、グライダーでは高度を高めにとって、空気ブレーキを開いて強引に高度を落として地面に接近する。

 飛行機ではエンジンの出力を微妙に調整して、滑走路に接近させている、なるほどうまくエンジン出力を調整することが着陸のミソだと気づいた。

 滑走路が遠ければエンジン出力を大きくし、近ければ小さくするそうするといい具合に機体が滑走路面に吸い込まれて行くことになる。

 クラブハウスに帰ると、千秋や米田がいた、米田はこのNHK飛行クラブからプロのパイロットとなり、当時としては若い我々から見て見事に日本航空の定期操縦士の道に進んでいる幸せな青年である。


 浜野は石井とその後親しくなり、彼の車で横浜にしばしば遊びに行くようになった、横浜の中華害街に食事に行き、バーで軽くウイスキーの水割りを飲んだ。若い石井は品川から京浜国道を自家用車で夕方思い切りぶっ飛ばして走った、こっちも血の気の多い25,6歳なので暴走車に乗っていても怖さなど微塵もなかった。狭い中華街でも大型の中古車で堂々と走行した、通行人の大勢いる通りでは勿論徐行はするが、こんなに狭い通りに車で乗り入れることが、迷惑なことで、今なら恥ずかしくてやれるものではない。

 狭い通りから広い通りに出るところで案の定こっちはそろりそろりとゆっくり出たが、速度が速すぎる車が急に前を横切るので、その車の左後方に軽く刷り傷を付けてしまった。

 相手の車が急に通過しようとしたので、相手が不注意である、助手席の浜野は少し酔っていたので、“オーイ駄目だよ”と相手に注意した。ところが殆ど素面の石井が相手に平謝りをして、車内正面パネルの物入れ箱からタオルを取り出して、相手のこすられた車体を必死に磨いている。浜野は“相手が不注意だよ、お互い様で、そんなことすることないよ”と大声でいわんととすると、石井は手で浜野を制して、相変わらずしきりに誤っている。はてはお金をいくらか渡しているではないか。ピンときたこれが横浜のちんぴらヤクザなのか、話には聞いていたが、世間知らずの浜野はヤクザに向かって大声で文句を言っていたわけである。

 こっちは善良な市民なので、大きい態度が取れたのだが、石井は横浜に詳しいらしく、ここは謝やまるのが得策だと心得ているようだ。いつも大きな中古車でこの界隈を乗り回すので、ひょっとして、ヤクザに疎まれていたのだろう。

 石井はブルーライト横浜の歌が好きでよく唄っていた。ガールフレンドが中華街の何処かのクラブでアルバイトをしていて、良く通っていたようだ。やせて背が高く、歌手の石田あゆみによく似ていた。その後石井はその女性と結婚して、四谷のアパートに同棲していた、後日彼らのアパートに遊びに行ったことがある。彼女は妊娠してお腹が少し膨らんでいた。


 浜野は神戸の学生時代も片思いやすれ違い恋愛で、思い切り女性を抱ける状態ではなかったので、羨ましかった。石井はまあまあの資産家の末っ子で、長兄が身元引き受け人であった。練馬の浜野の下宿から一駅先の大泉に直ぐの姉が嫁いで住んでいるとのことであった。当時石井はまだ航空機事業用操縦免許を取ったばかりで、どこかの会社に勤めていたわけでもないのに、生活費があり、結婚もしていた。


 NHK飛行クラブにはセスナ170式の尾輪式の単発機があった、浜野はこの170式で練習することになった、千秋が操縦教育証明を持っていたので、千秋から訓練を受けていた、石井は就職前で、良くこのクラブに遊びにきた。ある日浜野の仕事の上司のマイルズと、その友人と浜野と石井でこの170式をチャーターして荒川上空を散歩した、マイルズは二日酔いで着陸操作が下手で、石井に殆どやってもらって不満そうであった。

 費用はマイルズが持った、千秋はおまえ等勝手に170式で遊ぶんじゃないと言ったような顔をした。浜野はうるさい教官の千秋よりも気楽な少し無謀な石井がいいと思った。浜野の手元には今もこの時の170式の前に立つわれら4人の写真がある。同じ日別に千秋の写真も取ったこれも鮮やかに色褪せず明瞭な写真が残っている。


 ジョンはその後転勤で東京から米国のニューヨークに移住した、奥さんは日本からそのままイギリスに2人の子供とともに帰国した。この後怪しい運命により5,6カ月の間に石井、千秋、マイルズと立て続けに自らが操縦する飛行機で、個別に日本の青森及び関東平野と米国のニューヨークで事故死するとは誰も予想しなかった。


 まずその年の年末に石井が青森県五所乃川原上空で、吹雪の中で墜落死した、翌年5月に千秋氏は竜ケ崎飛行場で超低空で曲芸飛行で機体の引き起こしが出来ず田んぼにつっこんで事故死した、ジョンはその年7月にニューヨーク市郊外で雨模様の視界不良の日にティータボロ空港近く丘上の高級アパートの水道タワーに、衝突して激突死した。


 浜野は千秋の葬式の直ぐ後に6月にニュヨークに出発した。ジョンから仕事を手伝ってくれと、国際電話があり、渡米することにした。浜野は相次いで石井、千秋を失い、社内同僚女性であり好きな椎名さんには相手にされないし、社内恋愛なんてどうも浜野の趣味に合わない。新宿の沖縄返還運動で知り合ったベトナム反戦運動家の西田貞子には振られて失恋はするし、神戸学生時代の女性達にはもう会えないし、国内にいてもこのまま年を重ねるばかりで、何かしなければと思っていた矢先である。


 現在浜野の飛行時間は彼らより長生きしたおかげで、教官の千秋よりも多い600時間帯である、当時は飛行時間の少ない浜野は、こと飛行機に関しては彼ら3人の前ではおずおずとして控えめであった。

 

 今では夢の中でも彼らに、浜野は自分の安全飛行と沖縄の南西諸島を飛んだときの素晴らしさを自慢して話せる立場にある。真夏には酷熱の太陽が照る島々でも空からの眺めは素晴らしい、澄み切った空気、無限に続く空の青、海の青、白波の立つ小島の端にある真っ白なコーラルの滑走路。

 双発のスーパービーチH18は、2基のエンジンが心地良く共鳴し、低音のうなり音を座席に響かせている。胴体の両脇にある450馬力の星型エンジンは2基とも安定した回転音を鳴らし、機体は微少な振動はあるものの殆ど揺れない。何とも言えない頼り甲斐のある規則正しいエンジン音である。

 石垣島を夕方に社内便で離陸し、1時間後にネオン輝く那覇空港上空に到着したときの夜の空の感動は決して忘れることはできない。

 那覇空港の着陸では、スーパービーチH18機体前面の翼付け根と車輪付け根にある強力な着陸燈に照らされて果てしなく続くようなコンクリートの滑走路の量枠が、連続的に近づいて後方の暗闇に流れて消えて行く。那覇空港の官制塔が、夜空に黒く鮮やかにそそり立っている、ほのかに官制室内部の明かりが見える。

 

 浜野は故人となったこれら三人と代わる代わるまたは同時に沖縄の島々を飛びたかったのである、しかし、彼らのうち誰とも沖縄飛行の夢は果たせることができなかった、浜野が機長となって、ほれあれが浜野の生まれた村だあの岬の根っこが村だ、燈台を見よあれが神戸の大先輩が建てたものだと聞かせてやりたかった。


今浜野は妻沼の学生グライダー専用滑空場の真ん中の長い長い滑走路に着陸した、滑走中である、石井、千秋、ジョンに先ほど霧の中の小さな飛行場で再会したばかりである、話す時間はなかった、しかし彼らはきっと浜野の調布飛行場以来の人生の小話を読み取ってくれただろう、そう思えてならなかった。

           第1部 完    2002年4月


今回モデルに出た若いパイロットの世代は、最新のハイテク大型ジェットの出現を境に退職し、私の周りに少なからずいる。私は直接大型ジェットを操縦して高高度を飛行したことはない。しかし、彼らの話と高層気象の知識と偵察衛星前の米国超高度飛行に関する資料を調べているので、世界の大型ジェット旅客機の遭難事故を何らかの形で解明しながら小説に仕上げる予定である、

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ